2017年08月30日

米国はシリア北部で軍事基地を建設って???いったい何のために、、、。

この下の記事によると、米軍がシリア北部で
シリア政府に了解もなく、勝手に軍事基地を
建設しているとのこと。

いったい、何のために???


https://jp.sputniknews.com/middle_east/201708043955548/

「何のために米国はシリア北部で軍事基地を建設? 専門家の見解」


トルコ公式通信社のアナドル通信社が、シリア領にある米軍基地の
位置データを公開。同通信社によると、基地は全てシリア北部にある。
専門家らは、シリアにある基地はトルコにあるインジルリク空軍基地の
代わりに地域での米国のプレゼンスの軍事的本拠地となるに違いないと見る。

シリア議会のナビリ・ターマ議員はスプートニクに対して、こうして米国は
シリアにおけるロシアのプレゼンスと釣り合いを取るための重りを作り、
クルド人の独立国家樹立を助けようとしているとの見解を示した。

「これは、シリア主権に対する攻撃だ。米国はシリアの地で攻撃的な
政策を行い続けている。」

ターマ議員は、米国がシリアで足がかりを得て、そこでロシアを追いつき
追い越そうとしていると見ている。しかしロシアはシリア政府の締結した
合意に則って行動している。

一方、シリア軍の戦略専門家であるムハメド・イサ准将は、
「シリアにおける米国の存在は全く違法で、根拠が一切ない」
と指摘した。米国はダーイシュ(イスラム国、IS)や、
いわゆるシリア反体制派というテロ組織の行動を
管理しているとイサ准将は述べる。
これは、ロシアの行動と全く異なる点だ。

先ほど、米国が資金援助していたシリアの反体制派武装勢力
「マハヴィル・アッサウラ(Mahavir as-Saura)」の
メンバー数十人が、武器を置いてシリア政府軍に降伏した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



米国は、いったい裏で何をしてきたのか、、、。

世界で信じられてきたアメリカの正義とは、
いったいなんだったのか、、、。


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2017年08月27日

信長が「天下不武」とは、室町幕府を立て直すスローガンって???ホンマでっか???

信長について、NHKのある歴史番組で、
次のようなことが語られていた。

「信長自身、戦後にもてはやされるんですよね〜。
戦後のイケイケドンドンの時代に、地方の小大名から
天下人に上りつめる。その過程で、規制の体制を打ち破って、
新しい時代を作っていく。そうして時代背景が、
信長のイメージを押し上げたんだ」

と、、、。

では、どのような方向で見直されつつあるのかというと、
次のようなことが語られていた。

「当時、室町幕府が動揺しているので、信長としては
幕府を立て直すという発想があって、『天下不武』とは
そのスローガンであった」
と、、、。

「上杉、武田などの大大名との外交関係の中で、
信長は当時の社会秩序の中に身を置いていた。
大名としては、セオリー通りの行動」
と、、、。

う〜ん、う〜ん、正直なところ、
いったいどう見れば、このような発想になるのだろうか?

この番組で語っていたように、確かに私も戦後生まれであり、
イケイケドンドンの信長像に染まりきっているのか???

それとも、『信長公記』などを超える一級資料が見つかったのか?

もし、見つかっていないのなら、今まである既存の資料の中で、
どのように解釈するか、解釈変更ということになる。

「天下不武というのが、信長が室町幕府を
て立て直すためのスローガン、、、」
となるのなら、その室町幕府を最終的に葬り去ったのは、
いったい誰なのか、、、。

足利義昭を奉じて、上洛後、副将軍という義昭の要請を
断ったのはいったい誰なのか、、、。

さらにその時期に、義昭の行動を規制するための
「殿中御掟」九か条と「追加」突きつけた信長、、、。

こうなれば、明らかに将軍義昭のロボット化である。

謙信や信玄に贈り物をし、こまめに気を使いながら、
ご機嫌うかがいをしていたから、当時の社会秩序の
中に身を置いたセオリー通りの行動だというような
ことを言っていた。

しかしそれが、果たしてそれがその社会秩序を
大事に思っての行動だったのかどうか、、、。

大改革であればあるほど、多くの敵を作ることになる。

組織として、急成長すれば、これまた多くの摩擦が起こる。

身近な敵と戦いながら、遠くの信玄や謙信となるべく
良好な関係を築く。

これって当たり前のことにように思えるのだが、、、。

ではその後、信長が武田氏や上杉氏をどうしたか?

信長は、最大の敵である石山本願寺を下した後、武田氏を滅ぼしている。

その後、上杉も信長に攻められ、風前の灯、、、。

もし本能寺の変がなければ、確実に滅ぼされていた。

私も歴史が好きであるが、歴史を見る上で、一番大事なことは、
当時のその人の立場にたって、歴史を見ることだと思う。

周りを敵に囲まれているときに、遠くの上杉や武田を敵として、
対立したいのか?

尾張の小大名が、なんの権威もないのに、いきなり京へ出て
「俺に従え」といっても、誰も従うはずがない。

例えば、サラリーマンでも、生きていくためには、
嫌いな上司にも、おべっかを使う場面もあるだろうし、
派閥もあれば、時としては大嫌いな相手に
頭を下げなくてはならない。

むしろ、そういうことに、どれだけ耐えれるか、
忍耐力の強さというものが、信念の強さ、
もしくはその人の器の大きさを感じる。

信長のように、強い自己主張を持てば持つほど、
周りに多くの敵を作ることになる。

例えば、本願寺と妥協すれば、どれだけ楽なことか?

領土を持っても、本願寺などが存在すれば、
虫食い状態、、、。

室町幕府がどうして、あのように乱れていたのか?

守護大名などが巨大化しすぎ、宗教勢力に対する
制御が利かなかったからでは、、、。。

逆に言えば、強力な統治体制が存在せず、
各々が自らの利益に走った結果、あの混乱が続いたのでは、、、。

中国などでは、その混乱の時代がどれほど続いたことか、、、。

そこから、強力な統治体制をつくることが
どれほど大変か、、、。

私には、「天下不武」というスローガンは、
そのような巨大化した戦国大名、宗教勢力を
武力を持って押さえ、統一国家を造るという
大きな目標を明確に示したもののように
感じる。

信玄や謙信のように、豊かな金山を持つわけでもなく、
信長の資金源とは、流通を活発にすること、貿易により利益、
工業製品など、どれもこれも、既得権益を持つ勢力が
邪魔をすれば、成り立たない。

あっちにいけば、信長と対立関係にある
浅井・朝倉がいる、こっちには本願寺がいる、
そんな中で、作ったものを流通させることは、
無理であるし、領土内でそのような活動を保障する
強力な政権が必要となる。

そのためにも、常に戦える軍隊が必要であり、
今まで守り中心の城も、便利な商業地に
立てる必要が出てきた。

一つ一つ検証すれば、明らかに信玄や謙信とは、
違う組織体制であり、その向かう方向もまったく
違って見える。

そうなれば、室町幕府という古い体制の中で、
信長という新しい勢力が生きていけるのだろうか、、、。

その性質というモノが、根本から違う。

今、私が述べてきたことも、戦後の信長イケイケドンドン史観と
言われれば、それまでであるが、今回、番組で戦国史の
専門家として登場された駿河台大学の黒田基樹教授の本を
じっくり読んでみようと思う。


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2017年08月20日

信長による日本の大変革、、、。その城造りから見た斬新さが大きく時代を変えた!!

「信長は意外と新しくない」として、
信長を見直す動きがあるという。

NHKのテレビ番組を見て、

信長の城造りに対して、
天守閣を造るのは、信長が初めてではなく、
コーディネートしただけ。
多聞山四階ヤグラ、安土城より15年前に、
松永久秀の城に存在したとのこと。

天守の前例があり、信長が最初ではない。

しかし、
「その後、秀吉なり、家康など信長の関係者が
天守閣のある城を造っていくので、信長の安土城が
最初のように思われがちだが、それは違う」
というようなことを語っておられた。

う〜ん、どうもしっくりこない。

というのも、信長の城政策をみて、何が斬新であったかを
見た場合、天守閣というのは、それほど重要性がないように思う。

その後、例えば江戸時代、江戸が大火に襲われ、
城下の復旧を優先され、江戸城の天守閣が再現されなかった。

つまり、お城としての天守閣というのは、それほど重要ではなく、
物置のように使われていた大名もいたとのこと。

それよりも、当時戦国時代の城というのは、「守り重視」であった。

山の上であったり、川に囲まれた場所であったり、
便利ではあるが、それだけ攻められやすい平野に作ることは、
まずなかった。

なぜそのようなことが出来たのか?

その一つの理由は、「鉄砲」である。

堀をほり、城壁を造って、攻めてきた敵を
鉄砲で狙い撃ちする。

日本一便利のいい大阪に存在した大坂城、、、。

家康による大阪冬の陣で、20万もの大軍で大坂城を攻めたが、
攻めあぐんだ。

巨大な城壁、深い堀、そして鉄砲が守りにを鉄壁にした。

鉄砲の出現ともう一つは、
それは信長の兵農分離政策である。

つまり、家臣団を城下に住まわせたことである。

当時の大名の家臣団とは、各々の領地と密接につながっており、
常にその領地に住んで、領地内を治めていた。

むしろ、各々が独立経営者のような存在で、その組合長のような
地位に戦国大名であった。

それが、家臣の家を焼いてまで、信長は強引にも、家臣も、その家族も城下に住まわせ、
いわば武士のサラリーマン化と言うのか、自身の領地との関係性を
薄めた。

当時の豪族とは、密接なその土地との関係が強く、
農業生産を基盤に、その組織が成り立っていた。

そうなれば、その領地の都合により、時には離反することもよくあること。

例えば今の大河ドラマでやっている
井伊直虎だが、今川に服従していたが、井伊谷という領地全体が、
むしろ運命共同体のような存在であり、その共同体に不都合なら
今川から徳川に寝返ろうとしている。

今川ファーストではなく、徳川ファーストでもなく、その共同体ある
「井伊谷ファースト」である。

そうなれば、状況次第では、家臣の反乱も絶えない。

それでは、その家臣と領地を離してしまおう、
もしくは関係性を薄めてしまおう、
つまり、武士のサラリーマン化である。

信長以降、お城にばかりいて、代官をおいて
ほとんど顔を見せないという領主が多く出現する。

また、命令一つで、領地替えも頻繁に行われる。

まさに、信長による家臣団の兵農分離であり、
それにより、家臣の反乱が少なくなり、命令一つで領地替え
可能となり、戦争にも敏速に行きやすくなる。

信長軍団の性質上、それは仕方がないことだ。

ドンドンと急成長していく。

「今度、越前を手に入れたので、
今、おまんの領地がある中村から、もっと領地を
たんとやるで越前へ移ってくれ」

なんていう命令は、しょっちゅうあるであろう。

そんな中で、俺は先祖代々、この土地にすんでいたんだ。

この土地から離れるのは、いやだ、
というような武士が信長についていくことは
不可能だ。
(たしか、前田利家の兄さんがそういう人だったんじゃ
なかったかな〜)

城下に家臣団を住まわせるということは、守りに対しても
効果があるということだ。

さらに、内乱を防ぐ為に、家臣を管理しやすい。

そして、出陣にも、それほど手間がかからない。

これらの兵農分離、武士のサラリーマン化というのが、
まったく斬新なことで、農業を基盤とする他の戦国大名とは、
大きく違うこと。

信長の強みというのは、いつまでも戦えるということ。

つまり、戦争の長期化が可能だということ。

農業中心の集団なら、
田植えのときに帰らなくてはならない。
稲刈りのときに帰らなくてはならない。

信長は、信玄や謙信より、戦闘では弱かったのかもかもしれない。

しかし、軍団の傭兵化、家臣団の兵農分離、サラリーマン化、
商業、工業重視などなど、トータルで見れば、その信長の
城のあり方が浮き彫りになってくる。

ヤグラの城が、安土城より、15年前にあったとというより藻、
信長の城の本質とは、当時の常識の根底から覆されるような組織の
性質から見たみれば、まったく斬新なものであったと思うが
いかがだろうか〜。

posted by hide at 17:15| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「信長」、、、。長篠の戦の真相に迫る、、、。

信長について、どう思うか?

最近、「不器用な信長」というような本が出たとのこと。

私にとって、信長とは、そういう人だと思う。

あまりにも、感性がするどく、そして行動力もある。

そんな人が、まともに型にはまって、組織の中で
生きていけなかったのではなかろうか、、、。

例えば、10倍もの軍勢を率いて、今川義元が攻めてきた。

果たして、信長が今川の家臣として、
今川の一つの駒となることが出来ただろうか?

どう考えても、無理である。

するどすぎる感性、、、。

あまりにも率直で、あまりにも合理的で、
あまりにも本質が見抜けてしまう。

矛盾だらけの中で生きていくには、
自身の「我」というモノが許さない。

そのような観点から見れば、信長はただ
愚直に自分の道を突き進むしかない。

その生き方が、多くの敵をつくり、
大変な苦難の道を行かなくてはならない。

まさに「不器用」な人である。

しかし、その信長が日本に与えた影響というのは、
計り知れないと思う。

信長以前と以後ではどれほど違うか?

よくよく検証してみる必要がある。

本題に入るが、先日、NHKの歴史番組を見ていて驚いた。

信長のことが取り上げられていてのだが、
あの有名な鉄砲を大量に使って、武田氏に大勝利した
長篠の戦について、語られていた。

歴史の専門家の人が出ていて、
信長は、本当は同盟者の家康の要請で、
「信長は決戦する気はなかった。しぶしぶ出て行った」
と、、、。

「信長にとって、大坂の本願寺との戦いの方が、はるかに
優先度が高かったので、鉄砲と柵を用意して対陣し、
武田軍に引いてもらう作戦だった」

と、、、。

「ところが、武田勝頼何を勘違いしたのか、『攻めよう』と
いうことになっちゃたんですね〜」
と、、、。

「決戦するつもりがなかったのに、向うが
勝手に突っ込んできて、バババ−ンと打ったら、
勝っちゃって、大勝利を収めた。
だから、非常にラッキー、運のいい男、それが
現在の研究状況です」
と、、、。

「戦後70年の信長に対するイケイケドンドン史観を見直して、
地に足がついた視線で、戦国時代を見直そうという動きが
出てきている」
と、、、。

う〜ん、とうなりたくなる。

まずは、長篠の戦から、改めて検証してみようと思う。

戦いって、とても重要なのは、まずは
「何処」でやるのか?、「いつ」やるのか?
ということが非常に重要になってくる。

まずは、「いつ」という視点で見れば、武田氏に攻められた
家康からの信長に対する要請は、大きく分けて四回あった。

一つ目は、1573年の信玄自身が家康を攻め、さらに信長の領地をも
うかがおうとした三方が原の戦いのときだ。

その時は、信長は大軍を率いて、決戦に挑んだのか?

お涙ほどの家臣を派遣した程度に終わり、ご存知のように、
家康は大敗、、、。

その時の状況を考えてみれば、まさに信玄を盟主に、本願寺、浅井、朝倉、
足利義満などなど、まさに信長大包囲網が形成された。

近畿を離れ、遠州まで、家康を助けに行けるのかと言えば、
はっきりいって「NO」である。

それこそ、信玄の西上に対して、勢いづく、近畿内の
反信長勢力が大暴れするであろう。

この時、三方が原後、信玄がモタモタしている時間を利用して、
近畿内の敵である浅井、朝倉攻めをかなり強行して、滅ぼしている。

兵をあげてから、数日程度で、打ち滅亡に追い込んだそのスピードは、
まさに神速である。

信長というのは、時間という感覚をとても大事にしていた。

信玄が西上してきたのとしても、農民兵主体の武田軍は、
田植えの時期には帰らなくてはならない。

では、その期間だけ何とか、持ちこたえれば、しのげる。

では、しのぐ為に、少しでも近畿内の敵である浅井、朝倉を
信玄西上前に、打ち滅ぼしておく。

結果から言えば、家康の要請にこたえることなく、
全体から見て、自分のやるべきことを全力でやっていた。

同盟者の家康には、申し訳ないが、全体から見れば、
信長の勢力圏から見れば、優先順位からすれば、落ちてしまう。

まだ、この時は、武田氏との決戦には、機が熟していない。

そして、信玄が亡くなる。

信玄の後を継いだ勝頼は、血気盛んに家康に侵食する。

そして、遠州の高天神の戦いだ。

家康は、三方が原の戦いでも大敗もあり、
どう考えても単独では戦えない。

信長に援軍を要請する。

しかし、信長には、自分の領内、それも尾張と目と鼻の先の
長島で一向宗にかなりてこずっていた。

自分の弟や家臣を数名戦死させ、長島の一向宗に背後を突かれれば、
どの戦場でも、すぐに引き返してこなくてはならない。

このときも、家康の要請にこたえるフリをして、出陣はするが、
その速度はノラリクラリ、、、。

そして、高天神城が落城したと聞くと、神速とも思えるスピードで、
長島を徹底的に叩き潰した。

信長の最大の敵である本願寺は、大阪、越前、この長島と
大きく分けて三大拠点を有していた。

その長島が、完膚なきまで叩かれ、2万人もの
宗徒が焼き殺された。

これが長篠の戦の一年前の1574年の話しであり、
それにより、近年のピンチ続きの信長にとって、
比較的余裕が出来た時期というのが、長篠の戦が
行われた1575年である。

もう一つ、家康からの要請で言えば、1580年、
武田氏滅亡のときであり、このときは完膚なきまでに
武田氏を滅ぼした。

こう見れば、信長が「時」を自ら選んび、
たとえ日本最強の武田軍団と言っても、
決戦するときは、徹底的にやったことがうかがえる。

戦国大名にとって、負け戦というのは、すなわち滅亡に
つながる。

負けるけんかは、けっしてしてはならない。

そうなるためにも、時と場所を選ぶということは、
非常に重要なこと。

では、なぜ、武田の騎馬隊にとって、とても不利と思われる
長篠、もしくは設楽が原で戦で決戦をすることになったのか。

番組みでの歴史の専門家が、
「何を勘違いしたのか、勝頼が突っ込んできたから、
勝っちゃった」
と、、、。

突っ込むには、突っ込むだけの理由があるのではなかろうか?

前日の軍議のときに、酒井忠次が別働隊による
鳶ヶ巣山砦での夜襲を提案したが、信長によって
けんもほろほろ退けられたとのこと。

まるで、毛利元就ばりの長篠へ武田軍を引きずりだすための
内通に対する策略であり、その後しっかりと酒井忠次は、
夜襲を行っている。

結果、この砦が落ち、武田軍は背路をたたれる結果となった。

武田軍にとっては、もう突っ込むしかない。

もしくは、正面軍にある程度打撃を与え、引く。

これは、まさに武田軍と戦った川中島の戦いでの
上杉軍である。

この時、武田軍に退路をたたれ、正面の信玄に対して、
猛攻を繰り広げた上杉謙信、、、。

確かに、川中島という占領地を武田側の支配下であり続けた
以上、武田の勝利といえるが、多くの重臣を亡くした。

引き分けとの見方もあるし、その戦いの後、上杉の名声が落ち、
勢力が衰退したということもない。

むしろ、鳶ヶ巣山砦を落とされ、背後を断たれた勝頼は、
この引き分けを目指したのではなかろうか、、、。

しかし、突っ込んでいった信長・家康連合軍の本隊には、
大量の鉄砲と柵がまっていた。

そして、番組の中で地元の人が
「この辺りは、下田の田といわれるほど、田んぼが深かった。
腰まで浸かるほどだった。そのため、武田軍は、細いあぜ道を
突き進むしかない。そのあぜ道の先に、大量の信長軍の鉄砲部隊が
待ち構えていた」
と、、、。

武田軍にとっては、これがとても不利な場所であり、
不利な戦の展開だ。

これが果たして運なのか?

私は、運というのは、けっして否定しない。

どんなことでも、運というモノが、
勝敗に大きく関わってくる。

でも、運をつかめる人とつかめない人って
いるのでは、、、。

どんなに恵まれていても、そのチャンスをつかめる人、
そうでない人って大きく分かれると思う。

なぜ、武田の騎馬隊を大量虐殺できたのか?

鉄砲があったからではなかろうか、、、?

柵があったからではなかろうか、、、?

大変な沼地である長篠・設楽が原という「場所」を選んだからでは
なかろうか、、、?

大量の兵力を動員できる「時」を選んだからではなかろうか、、、?

確かに、信長が出陣したとき、この戦がどうなるのかということを
想像した場合、いろんなパターンがあると思う。

どんなパターンになろうとも、大軍であり、大量の鉄砲、大量の柵、できる限りの
準備をしていったということは事実だ。

さらに、武田軍の性質、自軍の長所、短所を考えた場合、
運がよければ、大勝利ということも、けっして不可能では
なかったように思う。

それだけ、今回は時を選び、場所を選び、最高の準備をしていった。

爆音に慣れていない日本馬は、鉄砲の音に立ちつくんでしまい、
そうなれば、鉄砲の餌食だ。

鉄砲を知り尽くしている信長なら、そのことも深く理解していただろう。

それらのことをすべて考えれば、状況(運)次第だが、
けっして大勝利の可能性もあり、歴史専門家の言うように、
対陣して武田軍に引いてもらうということも、状況によっては、
起こりうる。

しかし、信長は自分ができるだけの準備をしていたということ。

我慢に我慢を重ね、時を選び、さらに、三方が原ではく、高天神城ではなく、
長篠という場所を選んだ。

これが、ただ「しぶしぶ出て行った、、、。」とか、
ただ「運がよかった」だけという見方では、
どうもしっくりこない。

幾度の経験のもと、運の流れさえ、
ある程度読めるようになるのでは、、、。

ある人が言っていたが、プロになるというのは、
「ある程度、第六感が働くようになり、先が読めること」
と言っていた。

本能寺のときのように、傲慢になっていなければ、
自分の状況、相手の状況、そのことを考慮して、
この戦いが何処までいけるのか、いやというほど
戦をしてきた信長にとっては、直感的に
ある程度見抜けたのではなかろうか。

信玄を盟主とする信長包囲網は、その二年ほど前のことである。

信長にとって、武田氏というのは、いずれは、決戦をしてまで
戦わなければならない相手であり、その武田氏の勢いにより、
近畿の反信長勢力が勢いづくのも、2年ほど前に見ている。

しぶしぶ放置するほど、武田氏を避けては通れないし、
ある程度余力のあった1575年という時期に、決戦を
挑んだという見方ができるのではなかろうか。

番組の歴史家がおっしゃられるように、
私の信長の最大の敵は、大阪の石山本願寺だと思う。

では、その難攻不落の石山に立てこもる一向宗を孤立化させるには、
武田氏をたたくこと、越前の一向宗をたたくこと、そして
どちらを優先するかというと、動きの活発な武田氏であったと思う。

武田氏をたたかなければ、石山の本願寺の降伏には、たどり着けない。

武田氏を長篠で破った後、次にやったことは、越前の一向宗との
戦いであった。

石山本願寺を本気で降伏させるには、どうしても武田氏と
戦わなければならなかったのが、現実ではなかろうか。

「信長自身、戦後にもてはやされるんですよね〜。
戦後のイケイケドンドンの時代に、地方の小大名から
天下人に上りつめる。その過程で、規制の体制を打ち破って、
新しい時代を作っていく。そうして時代背景が、
信長のイメージを押し上げたんだ」

と、、、。

そんな中でも信長像が、突き進んできたので、
今、歴史学会で、信長を見直そうという動きが
出てきているとのこと。

私も、戦後生まれの戦後育ちであり、その環境の中で、
信長を学んできたので、その影響下にあると言える。

しかし、どうもこの歴史の専門家の言うことが、
間違いだらけのような気がしてならない。

そう思うから、このようにブログを書いているのだが、
もし、新しい新事実が出てきたのなら、
必ず今まで言ってきたことに対して、間違いを認め、
従ってみせる覚悟はある。


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2017年08月19日

信長の「天下布武」とは、、、。その「天下」というのは「近畿一円」という話を聞いたのだが、、、。

 先日、NHKの歴史番組で、織田信長のことがやっていた。

大学教授のような歴史の専門家がおみえになられて、、

「信長の「天下布武」について、それは全国を指していることではなく、
近畿一円のこと」

だといっていた。

う〜ん、、、?????

つまり、信長が目指していたのは、全国的な統一ではなく、
古い体制を打破し、武力により近畿一円を治めるということだ
と、、、。

「近畿」、、、「全国」って、当時にとっては、
ほぼ同義語じゃ〜ないのかな〜。

例えば、家康がなぜ、関ヶ原の時、対峙していた東北の上杉の戦いをさけ、
関ヶ原まで戻ってまで、中央にいる石田三成らを優先的に
たたいたのか、、、。

その後を見れば、分かるのでは、、、。

関ヶ原で勝ち、大阪、京都を支配下に治めた家康に対して、
上杉は、大阪まで来て、降伏した。

豊かで発展していて、さらに地形を見ればわかるが、
水運が発達している近畿をとることが、すなわち全国支配につながる
ということ。

信長のその後を見ればわかるのではないか、、、。

中央の大勢力である本願寺を降伏させ、近畿を抑えた信長が次にやったことは、
上杉攻めであり、毛利攻めだ。

その後、本能寺があり、毛利攻めをしていた秀吉が
まず行ったことは、中国大返しであり、近畿を抑えに行った。

そして、明智光秀、柴田勝家に打ち勝ち、近畿を手中に収めた秀吉が、
その後、九州攻め、小田原攻め、四国攻めなどの地方への軍事行動であり、
最後には、まだ攻められてもおらずに、恭順を渋っていた、
東北の伊達政宗も、小田原攻めの最中に秀吉の軍門に下った。

代々の政権がなぜ、近畿地方にあったのか?

確かに鎌倉幕府は、地方であるが、しかし、その中央の勢力であった
平氏を倒し、さらに承久の乱では、朝廷側と闘い、
その後六波羅探題を置いて、中央をしっかりと管理しながら、
鎌倉政権を維持してきた。

このように見ると、「近畿」と「全国」というのは、
ほぼ同義語であり、信長の「天下布武」が、よりこじんまりした
近畿地方の制圧であり、より規模の大きな全国では
なかったというのは、いささかまと外れではなかろうか、、、。




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2017年08月17日

「健康」か?「生き甲斐」か?人生の最終盤、何を思うべきか?

お盆前のある夜中、四時ごろ、
突然携帯が鳴った。

何かと思い電話に出ると母である。

「トイレに行こうと思って、立ち上がったら
あるけんくなったで、すぐに来てくれ」


ということであった。

私の住む離れから、母屋におとずれると
うずくまっている母を見つけた。

「三時ごろに、トイレに行こうと思ったけど、
あるけんくなっちゃった。這っていこうおもったけど、
うまくいかんわ」
と、、、。

今年75才になるうちの母は、むかしからよく働いてきたせいか、
膝の軟骨がすり減り、膝に激痛が走る。

膝だけでなく、腰も、肩も傷む。

五月にも、同じように歩けなくなった。

その三年ほど前も、同じようなことがあった。

しかし、少し良くなると、すぐに畑に行こうとする。

「そんな足で、何では畑なんか行くんだ!!
え〜かげんにしとけ💢」

と、私が怒ると、逆切れして

「ほんなもん、生き甲斐かだもんでしょうがないだろうが💢」
と、、、。

「健康」か?「生き甲斐」か?

むつかしいね〜。

母にとっては、畑は楽しみ。

しかし、畑の農作物とは、生き物であり、
必要な時に、必要な世話をやらなくてはならないので、
母の体のことなど、お構いなしにその時期が来る。

たとえ、歩けんほど膝が痛くても、トマトを
今、収穫しないと、すべてダメになってしまう。

私もなるべく手伝うようにしているのだが、
私も仕事に田んぼにと、飛び回っているので、
なかなかその時期に体があかない。

そうなると、私が会社に行っている間、
こそっと畑に行っているようだ。

ほとんど、お金になるわけでもないし、
そこまでして、畑に行きたいのか?

ある意味、母が言う「生き甲斐」のすごさを感じる。

確かに、もし私が母の立場だったらどうだろうか?

もしかしたら、この老いた体をトコトン使い切りたい
と思うのかもしれない。

さらに、あれやってはいかん、これやってはいかんと
言われるのもなにか不自由を感じるのかもしれない。

しかし、私は母に、いずれ体が老いて、病気になり、
死んでいくということをよくよく認識してもらいたい。

あるお坊さんが
「身近な人の死というのは、いずれ自分も死んでいくということを
分からせるためにあるんだ」
と、、、。

畑も何もかも、老いて一人きりで旅立たなければ
ならない日がそう遠くない時期に来る。

いずれ死ぬわが身ということを、母にも認識してもらいたい。

そうなれば、いろんな執着が薄まる。

また、充実した余生が送れるような気がする。

母には四つ上の姉がいた。

その姉は、いわば母の母代わりのような存在であったが、
七年前なくなった。

その時は、母も大泣きであった。

その姉、私から言えば伯母だが、
伯母の四十九日に、毎週母と二人で、お参りに行った。

その後、毎回、二人で喫茶店によって帰った。

その時、
「おばさんが、おまんもいずれ死ぬということを
悟らせるために、先に行ったんだぞ」
というようなことを母に言ったが、
そん時は、
「そうだな〜、そうだな〜」
と、言っていたが、その後あまり効果がないようだ。

自分がいずれ死ぬということを認識知れば、
周りが客観的に見れる。

あらゆる煩悩が、だんだんと薄まってくる。

ただ、カラオケだ、体操だ、旅行だ、畑だと飛び回っているだけでは、
一時的な解放感を得るだけで、果たして本当の満足感が
得られるのだろうか、、、。

それらも、いずれ飽きてくるし、仲間もだんだんと
出られなくなるであろう。

誰でもそうであるが、人生の最終盤で、大変なことが待っている。

得体のしれない「死」だけでも恐怖なのに、年老いていく悲しさ、
病気になる苦しみ、そして身近な人との「別れ」、、、。

それら一つだけでも、大変なことなのに、四つも
津波のように襲ってくることになる。

そんな中で、いかに冷静でいることができるか、
それによってその苦しみを緩和できると思う。

人生の最終版、どのように過ごすか、よくよく考える必要があるの
ではなかろうか。


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2017年08月16日

あらゆる枠組みを超えよ!仏教の教えは、深いね〜。

世の中生きていくうえで、どうしても
いろんな摩擦に出くわす。

とても傲慢な人、、、。

自慢話ばかりする人、、、。

悲劇の主人公から抜け出すことができない人、、。

いろいろだ。

はっきり言ってそんな人たちは、なるべく避けたい。

しかし、どこかの無人島でも行くのか、、、。
それとも、世間と壁を作って、生き続けるのか、、、。

金子みすゞは

「泥があるからこそ、蓮が咲く」

と、唱えていた。

 NHKのEテレで、先日、放送された100分で名著の「維摩経」が
とてもよかった。

その放送の中で、

「何処にも逃げ道などない。苦難の今を引き受け、
苦難の世俗を生き抜く覚悟がいる」

というようなことを言っていた。

その通りだと思う。

では、どうするか?

相手など、なかなか変えれるものではない。

むしろ、受ける側の自分のとらえ方を変えること。

また、自分の態度次第で、相手の悪いところを
引き出してしまうことってよくあると思う。

維摩経の放送の中で、こんなことが紹介されていた。

愛する人が髪をとかしている姿を見ると「なんて美しい
髪なんだろう」と思うのに、その人の髪の毛が抜け落ちて
お風呂の排水溝にたまっているのを見ると「汚いな」と感じる。
髪の毛事態の物質性はまったく同じなのですが、意味づけが
大きく異なる。同じものを見ても、自分のとらえ方次第で
まったく別のモノに見えてくるのです。
 私たちは普段の生活の中で「きれい」「汚い」を当たり前の
ように対立的にとらえていますが、よくよく考えると、それは
自分の都合が作り出したものに過ぎないのではないでしょうか。
自分というフィルターを通してものごとを見ているからこそ、
そこに差異が生まれるのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 

「自分というフィルター」、、、。

これにより、大きく世の中が違って見えてくる。

特に、怒りや不安など、煩悩に心が占領されてしまえば、
その「自分というフィルター」も、かなり偏ったモノになってしまう。

いかに、冷静に、心を落ち着かせて、周りを見るか、
そのことによって、世の中など、まったく違って見えてくる。

あっちを向いてガオー、こっちを向いてガオーと、
心が戦国時代の人ってどこにでもいる。

その人なりのこだわりを主張して、
攻撃してくるが、その主張にもかなり矛盾が多い。

できる限り、そういう人からは避けたい。

しかし、どうしても避けれないことなど、
ちょくちょくある。

そんなとき、どうするか?

どのように、自分を変化させるか?


「正しい道と間違った道があると人は考えがちですが、
間違った道に足を踏み込んだことのない者は、何が正道で
何が邪道なのかはわかりません。正道と邪道を分けて
考えることをやめれば、その先には不二の法門が待っているのです」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

と、、、。

ほかにも、「対象と主観」「善と不善」「徳と悪」
「聖と世俗」「悟りの世界と迷いの世界」「智慧と愚痴」
「色と空」「刺激と感覚器官」「身体と精神」「自分と他者」
「光と闇」「真実と虚像」などなど、人間ってすべて自分という
フィルターを通じて、区別する。

しかし、煩悩が無くして、悟りがあるのだろうか?

先ほどの心が戦国時代の人も、心の中では、
何かにおびえているということ。

だから、自分を大きく見せようとする。

だから、強面でい続けようとする。

しかし、もう少し、肩の力を抜けば、
まったく違った世界が見えてくるように思うのだが、、、。

でも、このような心の恐怖を持ち続けるからこそ、
何かのきっかけで悟りが開けるようにも思う。

ということは、その人の心が戦国期の時期というのは、
必要なのかもしれない。

もしかすると、自分は人間のいいところだけと
付き合っていこうという気持ちがあるのかもしれない。

例えば、心のあり方を学ぶ上で、
そのような人からも、いろいろ学ぶことができる。

きれいなモノだけに接していて、本当に心の学びがあるんだろうか。

むしろ、泥の中にこそ、本当の真理があるのでは、、、。

煩悩と悟りとは、一心同体。

心が穏やかな人も、そうでない人も、すべてつながっており、
すべてが必要だから、私の前に現れる。

というよりも、自分が引き寄せている。

ストレスを感じる人がいるとする。

そのストレスを、10人いれば、10人とも
感じるのかというとそうではない。

何年か前、こんなテレビ番組をやっていた。

20代の少しぽっちゃり気味の大学生女子が、
自分のぽっちゃり体形で、いかに人生苦しんできたかを
泣きながら語り、整形の必要性を訴えている。

しかし、けっこう見た目もかわいいし、
大学生という一番、自由にやれる時期を
そのようなことで、悩み苦しんでいるのは、
非常にもったいない。

もう一人の出演者がいて、その人は、その大学生よりも
はるかに太っていて、三十代。

まるで太っていることを気にしていなく、彼氏もいるという。

この違いは、いったい何なのか?

例えば、何気なく友人が言った「デブ」という言葉に
敏感に反応してしまう。

そうなれば、その友人も、面白がって、
「デブ」を連発する。

そういう人って、10人いれば、何人かは
いると思う。

そのような人を避けて生きていれば、
自分がより狭い世界で生きていかなくてはならない。

むしろ、動じない自分、、、。

そういう自分が、意地悪な相手の部分を引き出させないのでは
なかろうか、、、。

そのようなより成長した心を作るのも、
決して清らかな心の人ばかりの世界では、
できるものではない。

いろんな人がおり、いろんな人を受け入れてこそ、
心の成長があるのではなかろうか。

とらえ方を変える、心のフィルターを変える、
自分が作り上げたすべての枠組みを変える、
世の中諸行無常であり、常に集合と、離散を繰り返している。

柔軟な心を持つにも、いろんな体験をし、
いろんな人と接してこそ、はじめてえられるもの。

自分を解放するにも、あらゆる枠組みを超えて、
ものごとを見る訓練ができているか、いないかで
えらい違ってくるような気がする。



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2017年07月10日

過去も未来もない、ただ存在するのは、この瞬間だけ、、、。この瞬間が「因」となり、次の瞬間の「果」となる。その連続が人生そのもの、、、。

CIMG8060.JPG

うちの愛犬パンチくん。

我が家では、大活躍だ。

認知症がかなり進んでいるオヤジが話すことというと、
まず、このパンチのこと。

また、犬嫌いのうちの母が、
「パンチが死んだら、私も死ぬ」
というぐらい、犬が好きになってしまった。

このパンチの魅力とは、いったい何なんだろうか。

とにかく、人懐っこい。

誰でもじゃなくて、特に家族にものすごく甘えてて来る。

誰もいなくて一人で留守番しているときなんか、
私が帰ってくると、体中でその喜びを表し、すり寄ってくる。

そうかと思えば、うちの嫁が帰ってくれば、
もう嫁にべったり。

トイレに行こうが、今に居間に行こうがべったりとくっつき、
まるで家庭内ストーカーのようだ。

さっきまで、私にべったりだったのに、
もうそのことも忘れて、嫁にすり寄るパンチ。

また、その何にも考えずに、気の向くまま、本能で
生きている愛犬パンチくん。

散歩に連れてってほしいときは、私の目の前に現れ、
玄関に連れて行こうとする。

腹が減れば、わんわん吠えるし、眠くなれば、眠たそうな顔をして
いびきをかきながら寝ている。

そんなパンチを見ていると、ふと思ったことがある。

それは、パンチは、今を生きているということ。

例えば、明日病院で注射を打たなければならなくても、
本人は分からない。

過去のことをくよくよ悩むわけでもない。

今、あるこの瞬間が、パンチにとってすべてなんだ。

その瞬間を受け入れ、全力で生きている。

さみしいから、一人にしないでと思えば、
懸命に吠える。

散歩に連れていけば、思いっきり遊ぶ。

過去も未来もない、ただこの瞬間、それがパンチのすべてだ。

人間だってそうだ。

過去のことって、もうすでに終わってしまったこと。

未来のことって、
あれこれ考えてもしょうがない。

例えば、明日、お客さん所に謝り行かなくてはならないとしても、
それは明日のことであって、今日のことでもなく、
そのことで「いやだ、いやだ」と思っていても、
心に負担をかけるだけ。

それより、パンチのように、例えば謝る時も、
その場で全力で謝ればいいし、やれることを
めいいっぱいやるだけのこと。

シンプルるに、今日、この習慣をベストを尽くすのみ。

そして、この瞬間が、「因」となり、次の瞬間の「果」となる
ということを仏教で言っていた。

確かにその通りだと思う。

人生とは、その「因」と「果」の連続。

すべてつながっている。

例えば、今日、車の中が汚い。

毎日、車に乗るとき、あ〜、汚いな〜と
少し不快感を感じる。

では、それに気が付いたときやっていれば、
その後の不快感は、存在しない。

今日も、見過ごしてしまった自分が「因」となり、
その後の不快感が「果」となる。

例えば、うちの会社のM君を見ていると、
とにかく不器用で、呑み込みが悪く、世渡り下手だ。

しかし、いいところもある。

それは、素直であり、愚直であること。

分からないことを、しっかりと飲み込めないと、
動けない。

そして、分からないと素直に聞いてくし、
常に学ぼうという姿勢が、体からあふれている。

もし、どちらかというと、見栄っ張りな人がいるとする。

そういう人って、十年経ってみると、かなり損をしている。

「時は金なり」というように、
ただ頭がいいキャラで、そのキャラに縛られてしまえば、
素直に聞くことなどできやしない。
また、周りの目が気になって、チャレンジすることなど
出来なくなってしまう。

分からないことを素直に聞くということはできないし、
そのことから逃げようとするであろう。

毎日がチャンスである。

そのチャンスに、素直に向き合ってきた人と、
そうでない人の十年とかなり違ってきてしまう。

最近、仏教の維摩経にはまっているが
維摩がある人に、
「維摩さんは、今日はどこに行かれていたのですか?」

「道場に行っていて、道場に帰ります」
と、、、。

維摩の道場とは、出家ではなく、日常の生活の中に、
いろんな悟りがあるという立場だ。

泥の中でしか、蓮が咲かないように、いろんな人間の醜い部分を
見ながらでないと、けっして悟りなど得られなりという立場だ。

文殊菩薩は、

「煩悩も、仏教以外の教えも、仏陀となる素質です。すでに悟りを
得た人は、それ以上悟りを求めることはしません。その人は、煩悩の
泥の中へとまみれることが仏道の実践になるのです。空中に種があっても
芽は出ませんが、泥土の中にあれば芽をふくのと同じです。大海の底に
潜らなければ海の底の宝が手に入らないように、煩悩の中を生きぬかなければ
智慧を獲得して実践することはできません」

と、、、。

その世俗の中で、瞬間、瞬間を大事に生きていく。

過去のことを悔いても、その過去は、すでに存在しない。
あなたの心にあるだけ、、、。

未来のことを不安に思っても、それは今ではない。

すべて、自分の心が作り出すモノ、、、。

あるのは、今、この瞬間のみ、、、。

その瞬間、瞬間をべストを尽くしている、
そうすることにより、未来が開けていくのではなかろうか。

どんな未来になるかわからないが、自分のやれることというのは、
ただその瞬間、瞬間、ベストを尽くすだけしかやれない。

後は、もうお天道さんでも、仏さんでも、ご先祖さんにでも
任せておけばいい。

維摩経というのは、どちらかというと禅宗的。

そして、念仏系の
「阿弥陀様は、すべてを私に任せろ」
と言っているというスタイルを取り入れる。

維摩経であろうと、禅宗だろうが、真宗だろうが、
キリスト教だろうが、イスラム教だろうが、
自分にしっくりくるものは、どんどん取り入れていけばいい。

「仏教とは、科学だ」と言っていた人がいるが、
生きていくためのいろんな智慧が内在されている。



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2017年07月08日

日欧EPA大枠合意の裏にある、ISDS条項は、協議継続とのこと。

 昨日の中日新聞一面、
「日欧EPA大枠合意」というような見出しが、
飾られていた。

そして、だんだんとページを進めて読んでいくと、
小さくこんな記事があった。

「日欧EPA大枠合意の要旨」
と書いてあるところの、一番下に小さく
【ルール分野】
<投資>
企業や投資家が進出石の現地政府を訴えることができる
紛争解決手続き(ISDS)は、協議を継続。


書いてある。

気になって、
このようなTPPなEPAなどのスペシャリストの
アジア太平洋資料センター(PARC)事務局長、
内田聖子さんのついったをのぞいてみると、
こんなことが書いてあった。

7月6日  

なぜ日本政府は、TPP型(EU側の言葉を借りれば「旧式」)のISDSに
固執するのだろうか。ISDSを「改良」したEUの投資裁判制度(ICS)は
決して欧州市民から評価されていない。まだまだ投資家にとって有利な
メカニズムだ。変な話、これを受け容れたところで大勢に影響はないだろうに。

7月6日 

「EUは日本との交渉で、改革された投資裁判制度(ICS)を提案してきた。
EUは旧式のISDSに戻ることはできないことを主張し続けている。いかなる
条件の下でも、合意の中に旧式のISDSを含めることはできない。この点に
ついての結論に達するためには、今後数か月間でさらなる議論が必要だ」


なぜ、あの悪名高きISDSに、日本政府がこだわるのか?

まったく、わけが分からない。

引き続き、しっかりと監視が必要!!







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2017年07月05日

「手放す」勇気、、、。

江戸時代の禅僧、鈴木正三さんがこんなことを言っていた。

「我が身を思う念(自己保身)」が分別(煩悩)の本質である」

と、、、。

我が身を思う念(自己保身)である以上、
自分というモノに意識が集中する。

周りをよく見てください。

何かに悩み苦しんでいる人の大きな特徴は、
周りがまったく見えてみない。

怒り狂っている人の大きな特徴は、
その怒りで周りがまったく見えていない。

自分のことを大きく見せよう、大きく見せようとする人の
大きな特徴は、人の話を聞かない。

つまり、人にあまり関心がないということ。

煩悩に取りつかれれば、自分という意識(自我)が強くなる。

でも、逆から言えば、人間というのは、もしかしたら、煩悩を手放すことができない。

煩悩にしがみついて生きているのでは、、、。

たとえば、以前の上司であるが、
あっち向いてガオ〜、こっちむいてガオ〜というような
パワハラ上司、、、。

内面は、震えてにもかかわらず、強く見せよう、
大きく見せようと、いきり立っているようだ。

見方によっては、かなり無駄なエネルギーを使っているようにも見える。

そうしていると、心がさびてくるというのか、
もう少し、肩の力を落とせば、等身大で生きれば、
もっと幸せになれるし、周りにもいい影響を与えられる。

勇気をもって、自身を手放す、、、。

そんなにヨロイで身を固めすぎていれば、動きが鈍くなる。
視野が狭くなる。

自分というモノに意識が集中している以上、
周りなど見えやしない。

そのプライド、本当に必要なのか。

ただ、その強面の表情、心の中では、
いったい何があるのか、、。

そんなの思い切って、捨てちまえば、、、。

それには、トレーニングも必要であろうし、
生きる智慧も必要なのかもしれない。

仏教では、煩悩とは心の「過剰さ」とも説く。

その「過剰さ」とは、自分を守ろうとする意識が
強くなりすぎている。

でも、自分の実態とは、何もない。

ただの水と二酸化炭素の集まりであり、
それも常に出たり入ったりしている。

それに、60兆の細胞というのは、常に新陳代謝を繰り返し、
二年で総入れ替えされるという。

二年後には、実は全く別人ということになる。

さらに、60兆の細胞に対して、影響し合ったいるが
自立した生命体である100兆もの微生物が人間の体には
住みつき、その微生物がいないと、生きていけない。

それらのモノをたまたま、何かの縁で、かき集められ、
私というモノが、今、存在する。

そう思うと、自分なんてなんもない、まさに空っぽでは、、、。

私は、20数年、日記を書いているが、むかしの日記を読み返して
見ると、まあ〜、なんと小さなことで悩んでいことか、、、

と、思うようなモノだらけだ。

その悩んでいたことさえ、今ではすっかり忘れている。

そう、悩みというモノのほとんどは、時が経てば解決して
くれる。

その悩みに、冷静に向き合ってみれば、もしかしたら、
かなり楽になるのでは、、、、。

現実にあるのは、「今」しかない。

過去のことを悔やんでいてもしょうがない。

未来のことで、恐れおののいていても、心に負担になるため。

その瞬間を全力で生きる。

その瞬間が「因」となり、次の瞬間の「果」となる。

そのように、因と果の連続が、人生であり、すべて
つながっているということ。

なるべく良い「因」を作るために、自分がどのようなことを
心がけて生きるかで、10年も経てば、大きく変わってくる。

トレーニングとして、自身を守ろうとする過剰さが、煩悩であり、
その過剰する自分に対する意識を外に、外に、持っていくようにする。

家族のために、社会のために、次の世代のためにと、
煩悩まみれの中でも、なるべくそのようなことを口にし、
行動すれば、だんだんと意識が、外に向いてくるのは、、、。

自分という意識から離れ、他社に奉仕するということを
それが仏教でいう「慈悲」ということになり、
生きる智慧と共に、この二つが仏教では、
「This is the 仏教」とのこと。

生きていくうえでの「智慧」。

煩悩を薄める「慈悲」、

これらをなるべく身に着ければ、かなり自分の主観が
変わってくるのでは、、、。

宿命というモノがあるのら、その宿命をどうとらえ、
どのように付き合っていくかで、自分の主観次第で、
人生大きく違ってくるような気がする。





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