2019年11月18日

「無我」の話。

禅宗のお坊さんで エッセイスト 禅僧、佐藤隆定さんの
エッセイがとてもいい。

次のエッセイを紹介したい。


https://www.zen-essay.com/entry/muga?fbclid=IwAR0WZGI7ZdOxsrCCvmlYeDhwH7wlRDZ6vJ2OJieBMwULDWbfXSfXWyE70fY

『「無我」の話』

この上は、エッセイストで禅宗のお坊さん、
佐藤隆定さんの記事だ。

無我についてだが、無我の反対は「自我」ということになる。

怒り狂っている人、

不安で落ち込んでいる人、

妬みで頭がいっぱいな人、

などなど、これらの煩悩というのは、
突き詰めれば、自分を守ろうとする心の作用。

つまり、自分が傷つきたくない、自分が馬鹿にされたくない
というような自己防衛本能。

そのような時に、共通していることが、
周りが見えずに、自意識過剰なくらい、自分という意識「自我」
が強くなっている。

しかし、守る自分って本当に存在するのだろうか、、、、。

体の70%は、水である。

その水とは、絶えず自分の体の中を出入りしている。

体を構成する細胞でも、だいたい2年ほどですべて入れ替わって
しまうという。

体の中にその細胞は、約60兆あるという。

それを上回る100兆もの微生物が、人間の体に寄生して
体の機能を助けているという。

この身体というモノも、絶えず変化している。

たまたま、今日この日、この時間に集まった物質の
集合体が自分ということになる。

意識にしろ、過去のことは、すでに終わったことで、
ただ自分の意識の中に存在するだけのこと。

未来のことも、ただ意識の中で、ただ思い描いているだけ、、、。

そして、過去の記憶も、未来の空想も、そして今置かれている状況も、
大きく影響するのは、自身の主観というモノ。

人間は、自分の色眼鏡で世の中を見ている。

その色眼鏡が曇れば、当然、拡大解釈したり、
間違って解釈することも多々ある。

過去、未来、現在のこの時、すべてのものが、
間違った解釈のもと、意識の中にこびりついているだけなのかもしれない。

体も、決して「自分」とは、言い切れない。

意識についても、ただ頭の中のモノであり、
主観によって大きくずれてしまっている。

日常的に、自分を守ろうという意識が働き、
怒り、不安、妬みなど、煩悩に振り回されている。

しかし、その「自分」というものが本当に、
存在するのか、、、。

自分というモノがないのであれば、意識を外に外に
向ければいいのでは、、、。

江戸時代の禅僧、鈴木正三さんは、

「我が身を思う念(自己保身)」が分別(煩悩)の本質である」

というようなことを言われた。

自分というモノが、あやふやな異常、それほど自分を守る必要もない。

それに、何人たりとも、いずれは消えてなくなる身の上、、、。

力まず、力の抜けば、いろんなことが見えてくるのでは、、、。


posted by hide at 07:29| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月12日

マザーテレサのいい話、、、。

 昨日の週始め、会社ではいつものように朝礼があり、
そこで「職場の教養」という雑誌の中に書いてあることを、
社長の奥さんが紹介してくれた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 マザー・テレサの名言といわれる一つに、「思考に気を付けなさい。
それはいつか言葉になるから」というものがあります。
「言葉が行動に、行動が習慣に、習慣が性格に、性格が運命になる」
と、言葉は続きます。
 いついつかなる時も、自身の思考が大切なのです。例えば、人の
成功をねたんだり、人の不幸を喜んだりする気持ちが湧いてくる
ことがあるかもしれなせん。
 そのような心はすぐに捨て去るように努めなければ、やがて
それが自分の運命になると、私たちに道を示してくれているのです。
 より良い運命を切り開ていくには、自分の思考がネガティブに
なっていないか、マイナスの言葉が口癖になっていないか、
何事も明るく前向きに取り組んでいるかなど、日々チェックして
みるとよいでしょう。
 それが習慣化していけば、性格や運命も変わってきます。自分らの
思考や言葉の行き先にも意識を向けたいものです。
そういう境地をお互い目指しましょう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


この言葉を聞いて、ふと思い出したのが、テレビでやっていた
ある仏教の言葉、、、、。

「その一瞬が次の一瞬につながる。そして、一瞬、一瞬の連続が人生その
ものである」


と、、、。

人それぞれ、思い癖というモノがある。

過剰なまでに、人と競いたがる人。

過剰なまでに、不安に陥ってしまう人。

過剰なまでに、妬みが強い人。

それらを直すことができるのか、というと
思い癖であり、習慣である以上、なかなかむつかしい。

しかし、なかなか治せれないのであれば、
上手く付き合っていくしかない。

それは、相手のことをよく知ること。

自分の思考パターンというモノをよくよく知ることが、
大きな一歩につながるのではないだろうか、、、。

放っておけば、やがては自分の人生にまで、
大きく作用してくる。

ただその一瞬の出来事だけではない。

その積み重ねが、大きく運命にも左右されてくる。

そうと思えば、本格的に、自分の内側を掘るということに
取り組む出来ではなかろうか、、、。

マザーテレサの話を紹介してくれた社長の奥さん、、、。

今年の六月に旦那さんである社長を亡くされた。

その悲しみや不安を何とか乗り越えようと、
自分自身のことでもあると言っておられた。

どのように自分自身の心の中を整理し、前向きに生きられるのか、、、、。

このような名言も、とても参考になるのでは、、、。


 
posted by hide at 07:36| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月11日

「人間って、神様から30000日という時間を与えられているんですよね。」と、あるラジオのパーソナリティの言葉。

一昨日、FMラジオを聴いていたら、

「人間って、神様から30000日という時間を
与えられているんですよね。「日」に直すと、
とてもリアルに感じます。一日なんてあっという間。
私も、もうすでに半分ほど使ってしまいました。
このように限られた時間と感じると、やはり時間を
大切に使おうと思います。ただネガティブな人を
なるべく避けて、ポジティブな人から、いい影響を受けたい。
また、そのことを他の人に発信したい」


こんな内容だった。

半分ということは、40歳ぐらいの人だと思う。

誰だろうと、いずれはあの世に行かなくてはならない。

そのようなことを意識すれば、この人のように
時間を大事に、有意義に生きようと思うのでは
なかろうか、、、。

解剖学者の養老孟司が

「現代社会では、死や老を施設や病院に追いやってみる。
身近にそれらを感じることができなくなった」


と、言うようなこと語っておられた。

70代後半のうちの母は、元は8人兄弟であった。

しかし、そのうち4人は、幼い時に亡くなっている。

うちのおじいさんも、7人兄弟だったが、そのうち
4人は幼い時に亡くなっている。

20年ほど前亡くなったうちのおばあさん、、、。

家で、七年間寝たきりのあと、家で息を引き取った。

本来、とても働きモノだったうちのおばあさんが、
歩くこともできず、思うようにトイレも行くことができない。

それが、おばあさんにとっていやでいやで、
あれだけやさしかったおばあさんが、鬼のような顔して、
うちの母につらくあたっていた。

母もそんなおばあさんを本当によく面倒見たと思う。

今では、なかなかそのようなことはできないが、
その様子を見ていて、老いてく死んでいくっていうことが、
身近でみれたということは、後々考えると
とてもよかったと思う。

自分もけっして、避けて通れない。

なんだか、暗い気持ちにさせてしまうのかもしれないが、
それより、限りある時間と悟れば、時間を大事にし、
有意義な人生が送れるような気がする。

たとえば、ある姑さんの話。

その姑さんのお嫁さんの悪口を、もう30年も言い続けている。

実際に、お嫁さんにあってみると、とても感じのいい人。

正直、その姑さんは、かなり妄想チックで、
ものごとのとらえ方が、少しひねくれてしまっているように感じる。

人の悪口を言い続ければ、それだけ自分自身を縛ることになる。

30年という期間がとても、もったいないように感じる。

それよりも、限りがある人生、限りがある時間、、、。

一日一日大事にし、小さな挑戦を繰り返し、学び続ければ、
はるかに心が軽やかになると思う。





posted by hide at 07:28| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月06日

ある仏教の教え。自由とは「自らに由る」とのこと。

昨日の中日新聞にとても、いいことが
書いてあったので紹介したい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

知恵の仏教

梨の話

佐藤 隆定

梨っておいしいですね。
しかし、この「美味しい」という感覚が実は厄介でもあるのです。
なぜなら、何かを美味しいと感じると、またそれを食べたいという
欲が生じ、食べることができないと、不満という「苦」の感情が
沸き起こるから。どちらにしても心が不自由になるのです。
 これは味覚に限らず、五感のすべてにあてはまります。
視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、そのいずれもが好む対象を
もっており、好まない対象をもっています。
 たとえばフカフカの布団で寝ている人が、いきなりぺらぺらの
布団で寝ることになったとしたら、きっと不満を抱くことでしょう。
もっと分厚い布団で寝たいのにと。これは触感によって好む対象と
好まない対象が認識されているがゆえに起きる現象といえます。
 好む味が何なのかは人によって違っても、好むものを
好むというのは万人に共通する心理。その意味で、人は誰もが
自分にとっての幸せを求めているということができるでしょう。
幸せの意味するところが人によって違ったとしても。
 しかしながら、幸せを求めても、何が幸せか分からないので
あれば、結局は幸せを求めることなんてできません。ゴールを
知らないのにマラソンを走りはじめることなんてできませんよね。
闇雲に求めれば、本当は不幸せなのに、それを幸せだと思い込んで、
不幸せに向かってまっしぐら。そんなことにもなりかねません。
 たとえば快楽と苦痛があったとして、どちらが幸せだと思いますか?
誰でも快楽のほうが幸せだと思うことでしょう。でも仏教は
違う考え方をします。
 美味しいものを食べることができた。嬉しい。快楽。それは
一般的には幸せなことと認識されます。しかし仏教では、俯瞰(ふかん)
すれば快楽もまた不自由という枠のなかにあると、まず考えます。
 仏教にとっての不自由とは、欲の心から離れること。欲の
趣くままに行動することを自由と考える人もいますが、それは
むしろ心が欲に縛られているだけ。まったくもって不自由極まりない。
欲の言いなりである限り、精神はちっとも自由ではないのです。
自由とは「自らに由る」と書くでしょう。「自ら」というのは
自分の精神のことです。
 だから欲から自由になった心こそが、本当の幸せ。ブッタはそう
考えました。欲を満たすことで快楽を得ることはできても、平穏は
得られません。ブッタが快楽を捨てたどり着いたのは、平穏な心
だったのです。
 ブッタはこのことを、「第一の矢と第二の矢」という話で
弟子たちに説明したことがありました。
 たとえば美味しいものを食べたとき、人は「美味しい」と
いう味わいを感じます。この最初に受ける感覚が第一の矢。
これはだれの身にも刺されます。感覚器官がある限り、この矢を
さけることはできません。
 しかし「美味しい」という味わいを感じて、もっと食べたいと
いう思いを生じさせるかどうかは、自分の心によります。第一の矢を
受けた後に重んじる二次的な意思、これを第二の矢と呼んだのです。
 この第二の矢が心に刺さるかどうか。これが自由と不自由を分かつ
境界であるとぶったは考えました。だからこそ、身に刺さる
第一の矢は仕方がないが、心に刺さる第二の矢は避けよ、心に
欲を生じさせることのないようにと、弟子たちに教えたのでした。
 欲を満たすことを幸せと考えた世俗と、欲から離れることを
幸せと考えたブッタ。あなたはどちらの道に興味がありますか。
 もし前者であるなら、それはそれでいいのです。ぜひ一度
その道をしっかりと歩んでみてください。そして、その道の
どこかで欲を満たす生き方にむなしさを覚えたなら、その時
ブッタの言葉を思い出してみてください。
 欲の空虚を感じることなしに、ブッタが説いた言葉の意味を
真に理解することはできないのです。欲しても欲しても
得られない。あるいは得られても、あいかわらず虚しいまま。
何をどれだけ得ようとも、老いて死ぬ人生を免れることはできない。
こうした事実に真正面からぶつかって苦悩することで、はじめて
仏教は意味をもつ教えとなります。
 だから昔の禅僧はこんなことを行ったりもしました。
「テメェは一度欲情の海に飛び込めっ!」てね。
 口が悪いように聞こえますが、意外と親切なんです。自分の欲を知る
ことになしに、欲からか離れるなんてできるはずもありませんから。
(さとう・りゅうじょう=禅僧、エッセイスト)
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
posted by hide at 05:51| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月12日

マッカーサーと昭和天皇、、、。

https://www.youtube.com/watch?v=yKbdeiogYk4



この上の動画、とても感動したので、書き起こしてみようと思う。

もし、どこかでコピペして使われる方がおられるなど、
どんどんお願いします。



1945年8月15日、昭和天皇による玉音放送をもってポツダム宣言受諾を
表明し、日本は敗北を受け入れ、大東亜戦争は終結した。

「耐えがたきに耐え,忍びがたきを忍び,以って万世のために太平を
開かんと欲す。」

この頃天皇が愁いていたのは、占領軍の方針だった。

天皇は、自分の臣下だったものが、戦争犯罪人として
裁かれることを心配していた。

木戸内大臣は天皇はこう漏らした。

「自分が一人引き受けて、退位でもして収めるわけには
いかないだろうか。」

8月30日、連合国最高司令官総司令部(GHQ)のダグラス・
マッカーサーが日本に進駐した。

マッカーサーは第一生命ビルにGHQ総司令部を設け、 皇居を
見下ろす6階の執務室で、日本の占領政策に着手した。

9月27日、敗戦国の国王となった昭和天皇は、敵将マッカーサーに
会うために、アメリカ大使館公邸を訪れた。

 大使公邸の玄関で昭和天皇を出迎えたのは、マッカーサーではなく、
わずか二人の副官だけだった。

昭和天皇の訪問の知らせを聞いたマッカーサーは第一次大戦直後、
占領軍としてドイツへ進駐した父に伴っていた時に

敗戦国ドイツのカイゼル皇帝が占領軍の元に訪れていたことを
思い出していた。

カイゼル皇帝は
「戦争は国民が勝手にやったこと、自分には責任がない。
従って自分の命だけは竹は助けてほしい」
と、命乞いを申し出たのだ。

同じような命乞いを予想していたマッカーサーはパイプを口にくわえ、
ソファーから立とうともしなかった。

椅子に座って背もたれに体を預け、足を組み、マドロスパイプを咥えて
た姿は、あからさまに昭和天皇を見下していた。

そんなマッカーサーに対して昭和天皇は直立不動のままで、国際礼儀としての
挨拶をした後に自身の進退について述べた。

「日本国天皇はこの私であります。戦争に関する一切の責任はこの私にあります。

私の命においてすべてが行われました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません。

絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑にも処されても、いつでも応ずるだけの
覚悟があります。

しかしながら、罪なき8000万の国民が住む家なく着るには衣なく、食べるには
食なき姿において、まさに深憂に耐えんものがあります。

温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民たちの衣食住の点のみに
ご高配を賜りますように」

この言葉にマッカーサーは驚いた。

自らの命と引き換えに,自国民を救おうとした国王が、世界の歴史上に
あっただろうか。

マッカーサーは驚いて、スクッと立ち上がり、今度は陛下を抱くようにして
座らせました。

そして部下に、「陛下は興奮しておいでのようだから、おコーヒーを
さしあげるように」と。

マッカーサーは今度は一臣下のごとく、直立不動で陛下の前に立ち、

「天皇はこのようなものでありましたか!天皇とはこのようなもので
ありましたか!

私も、日本人に生まれたかったです。
陛下、ご不自由でございましょう。私に出来ますことがあれば、
何なりとお申し付け下さい」と。

陛下は、再びスクッと立たれ、涙をぼろぼろ流し、

「命を懸けて、閣下のお袖にすがっておりまする。
この私に何の望みがありましょうか。

重ねて国民の衣食住の点のみにご高配を賜りますように」と。

マッカーサーはこの時の感動を『回想記』にこう記している。

「私は大きな感動にゆすぶられた。

死を伴うほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実に照らして、
明らかに、天皇に帰すべきではない責任まで引き受けようとされた。

この勇気に満ちた態度に、私の骨の髄までもゆり動かされた。

私はその瞬間、私の眼前にいる天皇が、個人の資格においても
日本における最高の紳士である、と思った」

この時マッカーサーは、次のように返答したという。

「かつて、戦いに敗れた国の元首で、このような言葉を述べられたことは、
世界の歴史にも前例のないことと思う。

私は陛下に感謝申したい。

占領軍の進駐が事なく終わったのも、日本軍の復員が順調に進行しているのも、
これすべて陛下のお力添えである。

これからの占領政策の遂行にも陛下のお力添えを乞わねばならぬことは多い。

どうか、よろしくお願いいたしたい」

(藤田侍従長による『侍従長の回想』)

マッカーサーは、立ち上がって昭和天皇の前へ進み、抱きつかんばかりに
天皇の手を握りしめて、

「私は初めて神の如き帝王を見た」と述べた。

わずか37分間の会見で、マッカーサーの昭和天皇に対する態度は、
まったく変わっていた。

会見前は傲然とふん反り帰っているような態度をとっていたマッカーサーが、

会見後には昭和天皇のやや斜め後ろを歩くような敬慮で柔和な態度で、
会場から出てきたという。

会見後、マッカーサーは予定を変更して、自ら昭和天皇を玄関まで見送った。

当時、1000万人の餓死者を出すように、天皇を処刑するように、

と本国からいわれていたマッカーサーは、それらをすべきでないと考えた。

むしろ天皇の願いに応じるように食料調達などに尽力し、日本国民の衣食住を
極力守り、天皇の助命を訴えた。

マッカーサーは、

『陛下は磁石だ。私の心を吸いつけた』と言った。

1951年4月、アメリカ本国のトルーマン大統領と対立するようになった
マッカーサーは、大統領から更迭を指示され、日本を離れた。

1955年、重光外相(当時)は安保条約改定に向け、ダレス国務長官と
会談するためにアメリカへ渡った。

重光外相は訪米前に、昭和天皇に拝謁した。

昭和天皇は
「もし、マッカーサー元帥と会合の機会もあれば、自分は米国人の
友情を忘れたことはない。

米国との友好関係は終始重んずるところである。

特に元帥の友情を常に感謝して、その健康を祈っている、と伝えてもらいたい」
と、外相に伝えた。

重光外相は訪米すると、ニューヨークにいたマッカーサーを訪ね、
昭和天皇のお言葉を伝えた。

マッカーサーは、

「私は陛下にお出会いして以来、戦後の日本の幸福にとても貢献した人は
天皇陛下なりと断言するに憚らないのである」

と語った。

さらに、マッカーサーは、昭和天皇と初めて会見した日を改装し、昭和天皇が

「自分はどうなっても構わない。自分は全責任を負う」

と述べられたことに触れて、重光外相に、こう語った。

「私は、これを聞いて、興奮の余り、陛下にキスをしようとしたくらいです。

もし国の罪を償うことができれば進んで絞首台に上がることを申し出るという、


この日本の元首に対する占領軍の司令官としての私の尊敬の念は、その後
益々高まるばかりでした。

陛下は御自身に対して、いまだかつての恩恵を私に要請したことはありませんでした。

とともに決して、その尊厳を傷つけた行為に出たこともありませんでした。

どうか日本にお帰りの上は、自分の温かいご挨拶と親しみの情を陛下にお伝え下さい。

その際、自分の心からなる尊敬の念をも同時に捧げて下さい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
























posted by hide at 20:36| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

日本人が日本を愛することができるのか、、、。世界の要人たちが語った真の日本の姿、、、。

今から14年ほど前、愛知万博のトルコパビリオンでのこと。

とても気さくで、日本に精通し流暢な日本語を話す、若いトルコ人女性に

「日本のことをどう思いますか?」


と、質問してみた。

親日国であり、日本に対する好意的な言葉を期待して、
聞いてみたのだが、その答えは意外なものだった。

「何でそこまで、卑屈になるの?経済だって一流、
民族性だって素晴らしいのに、たかだか一回くらい
戦争に負けたくらいで、そこまで卑屈になることもないでしょ」


と、、、。

広島の原爆ドーム石碑の碑文

「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」

と書いてあるとのこと。

私たち日本人の感覚なら、それは無謀な戦争に突入してしまった
戒めの言葉のように受け止めるだろうが、

もし、何も知らない外国人が見たら、

「『過ち』、、、。原爆を落としたアメリカの言葉でしょう〜」

と、思うのでは、、、。


どの時代、もしくは世界のどの国においても、
その国の歴史とは、「his-story」であり、勝者の物語である。

確かに、自省というものは必要だ。

しかし反省ばかりしていては本当の真実は
見えてこないのでは、、、。

重箱の隅をつついてばかりでは、
本当に未来へ大きな一歩が踏み出せるのだろうか、、、。



https://www.youtube.com/watch?v=apPZLLGbQIM

【日本人はすごかった】感動!外国人が語る大東亜戦の真実!
「日本は謝罪を必要とすることなどしていない」世界各国の要人の
証言に衝撃!海外から賞賛される日本!



この動画によると、世界の要人たちが
次のように語っていたことを紹介したい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

GHQ 参謀部長 C.ウィルロビー

東京裁判は史上最悪の偽善だ。
もし、米国が同じ立場だったら
日本と同じように戦っただろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・

GHQ総司令官 D.マッカーサー元帥

(日本には)石油がない、
錫がない、綿がない、ゴムもない。
その供給を全て絶たれたら、どんな小国でも
戦争を決断する。

日本人は、もし原材料の供給が断たれたら、
(経済封鎖されたら)
一千万から一千二百万が失業するのではないかと
恐れていた。

それ故に、日本が第二次世界大戦に赴いた目的は、
そのほとんどが、安全保障のためであった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・

SF作家 H・G・ウェルズ

この大戦は、植民地主義に終止符を打ち、白人と
有色人種jとの平等をもたらし、世界連邦の礎石をおいた。

あの戦争の敗者は日本ではない。

真の敗者は植民地をほとんど失った欧米列強だ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・

中華民国顧問 オーエン・ラティモア

日本が立派にやり遂げたことは、欧米の
植民地帝国を完全に破壊したことである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・

社会学者 ヘレン・ミアーズ

東京裁判は正義ではなく、明らかなリンチだ。
私たちアメリカがどうして日本を罰することが
できるのか?

私は理解できない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・

初代インド首相 ジャワハルラール・ネルー

彼ら(日本)は謝罪を必要とすることなど
我々にはしていない。

それ故、インドはサンフランシスコ講和会議には
参加しない。

講和条約にも調印しない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・

ビルマ(現ミャンマー)首相 バ・モウ

我々を白人支配から救い出してくれたのは
日本だった。

我々は大戦終盤に日本を見限ったが、その恩は
忘れない。

日本ほど、アジアに貢献した国はいない。

日本ほど誤解を受けている国はいない。

真の独立記念日は、1948年1月4日ではない。

1943年8月3日だ。

独立の真の理解者は、東條大将と大日本帝国だった。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

タイ首相 ククリット・プラモード

日本のおかげでアジアは独立できました。

日本というお母さんは、母体を壊してまでも
アジア諸国という子供を産んでくれました。

今日、アジア諸国が欧米と対等に話ができるのは
誰のおかげか。

それは自らを殺してまで産んでくれた、日本という
お母さんがあったからだ。

我々は、お母さんがお産を決意した12月8日を
すべての力を出し尽くし私たちの国を産み、
力尽きた8月15日を忘れてはならない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・

フランス第五共和制初代大統領 シャルル・ド・ゴール

シンガポール陥落は、白人植民地主義の歴史に
終焉をもたらした。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ASEAN提唱者・マレーシア上院議員
 ラジャ・ダド・ド・ノンチック

我々は日本軍を歓呼で迎えた。

日本は将来の我々の独立のために多くの
モノをもたらしてくれた。

我々が日本から学んだ最大のものは、
「国を守る術」だった。
 
かつて日本は清らかで美しかった。

かつて日本人は親切で心豊かだった。

アジアの国の誰にでも、自分のことのように
一生懸命尽くしてくれた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・

シンガポール首相 ゴー・チョクトン

日本の統治は過酷なモノだった。

しかし日本軍により欧米のアジア支配は粉砕された。

これはアジアに自信を与えた。

大戦後15年以内にアジアの植民地はすべて解放された。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ビルマ独立の父 アウン・サン

日本の軍事訓練は厳しすぎた。

何度か自殺を考えるほどだった。

しかしラングーンが落ちた時は、我々が
間違っていないことを確信した。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(スカルノに並ぶインドネシア独立の父)
初代副大統領ハッタ

日本の戦いは8月15日に終わった。

我々の戦いは8月17日に始まった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・

第二代エジプト大統領 ナーセル

(第三次中東戦争惨敗後)
アジアには日本がいた。

アラブには日本がいない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・

インドネシア元情報相 ブン・トモ

あの戦争は我々の戦争であり、我々が
やらなければならなかった。

それなのにすべて日本に背負わせ、日本を
滅亡寸前まで追い込んでしまった。

申し訳ない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ビルマ外相 ウ・ヌー

高い理想と目標の高潔さに動かされたある国が、
アジアの独立と民衆の解放に生命と財産の
すべてを犠牲にした。

その国の名は「日本」という極東の島国だ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ローガン弁護士

私はこの裁判を引き受けた当初は正直後悔した。

勝ち目がない裁判だからだ。

しかし、研究、調査を重ねるごとに被告の
無罪が証明されていった。

最初から日本に20年間一貫した世界侵略の
野心など全くなかった。

私は断言できる。

もし彼らを裁けるものがいるとすれば、
それは日本人だけのはずだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・

歴史家 A・トレンビー

第二次世界単線において、日本人は日本のため
よりも、むしろ戦争によって利益を得た国々の
貯めに偉大な歴史を残した。

それらの国々と日本の掲げた短命の理想、
大東亜共栄圏に含まれた国々である。

日本人が歴史上、残した最大の業績は、世界を
支配していた西洋人が「不敗の神」ではないことを
示した点である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

インドの独立運動家 チャンドラ・ボーズ

インド国民軍はインド完全開放のために、日本の友情と
共に戦い抜く。

デリーへ!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

英印軍総司令 マウントバッテン卿

かつて精強を誇った日本軍も、最後は精神力のみと
なり敗れていった。

が、何かが残った。

「西洋人をアジアから追い落とした」という結果だ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

インド法律学者 ラダ・ビノード・パール

(原爆慰霊碑の碑文を見て)
過ちとは誰の過ちか?

原爆を落としたのは日本ではなく、アメリカだ!

まだ、アメリカの手は清められていない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

スリランカ大統領 ジャヤワルデネ

(サンフランシスコ講和条約において)
なぜアジアが日本が自由であることを望むのか。

それは日本が唯一信頼できる国であったからだ。

日本の理想に独立を望むアジアの人々が共感を覚えた
ことを忘れないでほしい。

憎しみは憎しむことで消えない。

愛することで消えるのだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

台湾 李登輝元総統

私は22歳まで岩里政男という日本人だった。

なんら恥じることはない。

死んた兄が眠る靖国に行く。身内なら当然の
ことじゃないか?

現在の日本人たちは、日本を愛することができない
と言うかもしれません。

日本はそれほどに戦争中にアジアの国々に悪いことを
したのだと。

しかし、それも私から言わせると歪曲された歴史観です。

日本が戦後から行ってきた教育は、あまりにも
自虐的過ぎました。

そうした考えに正義感を覚える輩は、ただ、無知なだけです。

日本の皆さん、日本を愛しなさい、胸を張りなさい!

日本はあなた方現代の日本人のものだけじゃありません。

私たち「元日本人」のものでもあることを忘れないで下さい。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

米国戦略爆撃調査団

日本の指導部が、国家の存亡に関わる利益のためにと固く信じて、
(今次の)戦争を始めた事は明らかである。

これに対して、アメリカ合衆国は、単に自分たちの経済的優位と
主義主張を押し付けようとしたのであって、国家の存亡に関わる
安全保障のために戦ったのではないとアメリカ合衆国人は信じていた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


F・リール弁護人

祖国を愛するいかなるアメリカ人も、こんな裁判記録では
羞恥心にまみれるだろう。

裁判官に法律家が一人もいない裁判などあってたまるか!


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


インド法曹界の長老 パラバイ・デサイ博士

インドは間もなく独立する。

この独立の機会を与えてくれたのは、日本である。

インドの独立は日本のおかげで、30年も早まった。

インドだけではない。

ビルマも、インドネシアも、ベトナムも、
東亜民族は皆さん同じである。

インド国民はこれを深く心に刻み、日本の復興には
惜しみない協力をしよう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
マレーシア外相 G.シャフエー

なぜ日本が謝るのでしょうか?

あの大戦でマレーシア人と同じ小さな体の日本人が
大きな体のイギリス人を追い払ってくれたではないですか?

日本なくしては東南アジアの独立はありませんでした。

この日本の払った尊い犠牲を否定することはバックミラーばかり
見ているようなものです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

インドネシア大統領特使 アラムシャ

日本にはあと五年頑張ってほしかった。

そうすれば中東もアフリカもこんなに苦しまずに済んだはずだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

タイ副首相 T.クーマン

日本の勇戦で、新しい独立国が不死鳥のように現れました。

誰に感謝を捧げるべきか、余りにも明白です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

インドネシアの教科書

日本の占領は大きな利益をもたらした。

第一に、基礎教育。

第二に、軍事組織。

第三に、政府機構。

これは、インドネシア独立の基礎となった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

インパール作戦慰霊碑のある村の村長

日本兵は飢餓の中、勇敢に戦い死んでいった。

この絶望的な、しかし勇敢な行動は、インド独立の
糧となった。

この慰霊碑は日本兵の供養であり、独立インドの象徴
なのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

歴史家 クリストファ・ソーン

日本にはファシストもヒトラーもナチスもムッソリーニも
存亡にしなかった。

ファシストの名にふさわしい東洋人を挙げるならば、
それは蒋介石だ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ポーランド系ユダヤ人指導者 ローゼンシュトック

マイジンガーがスパイリストを作り、日本に逮捕を要求した。

誇り高き日本はそんな迷信には耳を貸さなかった。

ユダヤ人にとって日本は安全地帯だった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

評論家 金満哲

韓国の近代化は日本の莫大な資本と人材の投与によって
成し遂げられたものである。

誰もが日本からの独立など望んでいなかったのに、
アメリカに強制的に独立させられたというのが事実だ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

元韓国参謀総長 雀慶禄囲を突破

私は韓国人でしたが、少佐として日本人を率いていました。

私が的中で瀕死の重傷を負った時、私の部下は自分も被爆して
いながら私を背負い,重囲を突破し、私を救い出してくれました。

私を救った彼はその傷が元で亡くなりました。

旧日本軍の厳正なる軍規は感嘆を禁じえません。

私は旧日本軍として戦えたことに誇りを感じている。

私は韓国を愛するが͡故に親日である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

マレーシア外相 G.シェフエー

日本以外の方は、特攻隊員が洗脳されたり、狂信的な
ものと想像することでしょう。

彼らの遺書をを読めば狂信者とは程遠い存在であることが
解ります。

彼らが守りたかったのは
母であり、
妻であり、
愛する家族だったのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



posted by hide at 14:22| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月28日

人生の転機。アトピーから開放されたある女性の話。

 先日、うちの嫁とドライブしながら、
とてもうれしい話を聞いた。

「わたしさ〜、アトピー治ったみたいだ。
これって私にとっては、奇跡のようなことだよ」


と、、、、。

そう、嫁は、子供の頃から、アトピーで悩まされてきた。

短大を出て、就職した会社でが、
丁度バブルの頃で、かなりハードに仕事を
していたときなんかは、顔中にアトピーが出てしまい、
そのおかげで、治療に専念することになり、
退社するほどだった。

「ず〜っと、ステロイド使っていたけど、
今では、全然、ステロイドに頼らなくてもいいし、
奇跡が起こったとしか思えない」


と、興奮気味に話していた。

確かに、二年ほど前まで、夜中でも、
寝ながら無意識に手をボリボリかいていた。

私が、それを止めさせ、やさしくさすってやっても、
しばらくすると、私の手をはねのけ、また
ボリボリと音がするほど、自分の手をかいている。

結婚して、20年以上たつが、そんなことの
繰り返しだった。

さらに、自身の行動にも、アトピーのおかげで
制限がかかっていたように思う。

やはり、アトピーによくないモノは、避けなければ
ならなないし、それと精神的なストレスだ。

何かあると、アトピーが出やすくなってしまう。

それから、解放されたということは、嫁にとっては
とても大きなことのように思う。

もしかしたら、心のどこかに変化があったのか、、、。

例えば、愛犬パンチを飼うようになったとか、、、。

とにかく、心底笑うようになったように思う。

奇跡が起こったと大喜びしているが、近くで見続けてきて、
やはり、それほどうれしいことだと思う。

「開放「」と言えば、私にも最近、大きなことが起こりそうだ。

それは、あと二カ月ほどで、リフォームのローンが終わる予定だ。

祖父母との思い出が詰まった我が家の離れのリフォームのローンが
終わろうとしている。

ほんと、ボロボロで、ネズミの孔、隙間風、耐震不足、
屋根裏には、大量の鳥の巣、極めつけは、道路側に
11pほど、傾いていた。

しかし、天然の土壁であり、地元の材木を使った梁や柱、
手の込んだ、大工さんの技術などなど、
残すべき価値があると判断して、嫁を説得して、
この離れをリフォームして移り住んだ。

とてもよかったと思うし、ほんとローンも無事に
終わりそうで、感無量という言葉がピッタリだ。

借金の嫌いな私にとって、これは大きな
「解放」である。

それも、やり遂げたと思いが強いもあり、
一つの自信にもつながる。

私ら夫婦も50代になり、その50代の前半に、
このような「解放」を味わうことができて、
大きな何かの転機のような気がする。

重圧から解放される。

そして、今後、どのように生きるのか、、、。

そのことについても、しんみりいい話ができた。

嫁が言うには、

「すっきりする生き方をしよう」

「とにかく、よどんだ世の中ではあるが、
そんな世の中でも、一滴、一滴でもいいから、
地道に、いい波動を出していこう」


と、、、。

解説すると、いじめだとか、あおり運転だとか、
よどんだ空気が全体を覆っているようにも見えるが、
そんな中でも、世間に向けて、いい波動、
つまり前向きな考えを発信していこうという
ことのようだ。

その方が、心がすっきりするし、自分の魂の向上にもつながる。

このようなSNSでも、ネガティブなことは、書かずに
ポジティブこと、もしくはそのような人と共鳴できる
ようなことを発信し続けた。

また、俗世間に染まったようなことではなく、
どうせあと30年ほどで、あの世に行くことになるのだから、
より自由に、それほど周りに気にすることなく、
正しいと思ったことを地道にやり続ける、
そんな夫婦でありたい。

我々には、子供がいない。

確かに、不安もあるが、それだけ自由でもある。

なんだか、この二つの「解放」が、
今後、より良い人生に繋がっていくような
気がしてならなし、いろんなことを話し合える
パートナーと長年向き合ってきて、よかったと
つくづく思う。
posted by hide at 19:29| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月25日

若い頃の馬鹿丸出しだった自分と、真にありがたかった亡くなられた上司の思い出。

 昨日、うちの嫁と話していて、
私も知っている、ある嫁の先輩の話になった。

嫁にとって、学校を出て、最初に入った会社の
先輩で、厳しかったけど、とてもお世話に
なったらしい。

うちの嫁が、

「やっぱり、社会人になって、最初に入った会社が
どんな風なのかって、大事だよね〜」

と、嫁が私の顔を覗き込むように、
ニタニタしながら話してきた。

まったくそのとおりであるし、若い頃の私のことを
よく知っている嫁は、また笑い話にでも
するつもりだったようだ。

今でこそ、自分で言うのもなんだか、
勉強好き、読書好き、また、人生の格言なども好きで、
昔の私とは、180度たがうような人生を送っている
自分が、嫁にとってはとてもおかしいのであろう。

そう、私が高校を卒業して、初めて入った会社だが
40人程度の中小企業だが、とにかく教育という面では、
とてもしっかりしていた。

「少数精鋭」というのを看板に、いろんな免許を社員に
とらせ、常に何かの通信教育をさせるような会社だった。

また、社員から、本を集め、図書館を作ったり、
新入社員には、二年くらい日報を書かせ、
毎日、班長、係長、課長、工場長、常務が目を通す。

正直、当時の私としては、かなりしんどい。

あまりにも勉強、勉強ってうるさいので、
入社二年目にして、当時、会社の実質的なトップである
常務の部屋に怒鳴り込んでいき

「なんで、勉強、勉強って、ばっかりいうんだ。
勉強がイヤで、イヤで、だから大学行かずに就職
したんじゃないか」

と、今では顔から火がでるほど、恥ずかしい
お子ちゃまの私であった。

当時、私の同期がみんな危険物の免許なんか
簡単にとってしまうのに、なかなかうからないで
いた自分、、、。

やはりコンプレックスのようなモノも、強かったんだろうし、
それになんといっても、車の免許をとって、
もう有頂天で遊びまくっていた。

そんな時に
「勉強、、、」

アホか、という気持ちが強かった。

そして、アホな私は、5年間勤め、その会社を
辞めてしまう。

その後、いろんなことを経験する中で、
いかに当時の教育というものが、大事であったかが
しみじみ分かる。

その当時の真に優しかった大人たちのおかげで、
その後、どれだけ救われたことか、、、。

ほんとに、今思うと、私は、顔から火が出るくらい
大馬鹿だった。

それから、20年ほどして、勇気を振りしぼって、
その常務に電話した。

「丸々会社でお世話になったHide です。
会社ややめてしまいましたが、当時、常務に教わったことが
どれほど大事だったことか、この歳になって
つくづく、分かりるよになりました。
ほんと、ご迷惑をかけてすいません。」

そして、常務は、電話の向うで

「そうか、そうか、やっと分かるようになったか。
よかった、よかった。ご両親は大事にしているん
だろうな」


と、語っていた。

そして、私が一度、

「もちろんです、それと一度、ご挨拶に伺いたいのですが、、、」

というと、

「今な、実は、身体障害者になって、寝たきりなんだよ」

と、言っていた。

私は、なんだか、つらい身体で、電話口まで
出させてしまったことを後悔し、

「すいません、そんな大変なときに、すいませんでした。
また、お手紙書きます」

と、言い放ち、電話を切ってしまった。

そして、手紙を書いた。

その内容とは、まずは
あれからいろんな本を読み続けたということ。

それにより、田舎のヤンキーで、かなり狭かった
自分の視野が拡がったということ。

日報により、日記を書く週間がつき、
そのことにより、日々の反省と、自身と向き合うこと
ができたこと。

勉強癖についても、30代で放送大学を5年間
やり続け、学位もとったこと。

それもこれも、高校を出て、本当に馬鹿丸出しだった
私を常務を中心に、親身にあってくれた
周りの大人たちのおかげであること。

重ね重ね、お礼の手紙を書かせてもらった。

その後、常務からハガキがきた。

あの達筆だった常務の字が、子どもが書いたように
曲がりくねっている。

あ〜、かなり大変なんだということが、
しみじみ分かった。

その後、二年後、常務の奥さんから、ハガキが来て
亡くなられたことが分かった。

本当に、私にとってはありがたい人だった。

あの人がいなかったら、今の私などない。

自我が強く、コンプレックスの塊のような私は、
あのままいけば、あのあおり運転の男のように
なっていたかもしれない。

そんな話しを、うちの嫁としていた。

「ほんと、はずかしいね〜。でも、これも何かの
縁なんじゃない。その縁をほかの人につないで
いかなかんよ〜」

と、、、。

本当に、その通りだと思う。

今、私は、当時の常務の年齢になる。

当時、遥かに大人で、強い人のように
思えた常務で、もしかしたら、いろんな
葛藤があったでは、、、。

そんなことをふと思ったりする。

また、勉強癖、読書癖、日記癖、なくなってしまったが、
常務に教わったことが、私の中にも生きている。

常務は、亡くなってしまったが、それを実行し続ける
ことによって、常務と共に生きていることになるのでは、、、。

その勉強癖、読書癖、日記癖、もう一つ言うなら、
人一倍活発に生きてきた経験、高校を卒業してから、
30年以上経つが、その積み上げてきたモノが、
私にとっては、一番の財産になった。

田舎の視野の狭い、数々の問題を起こしてきた
元ヤンキーにとって、その積み上げたものが、
どれほど大事か、振り返ってみるとありがたいことだ。

posted by hide at 19:58| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月21日

何者かに守られている、導かれているという感覚、、、。

昨日の夜、ソファーに座りながら、くつろいでいたら、
うちの嫁が

「あんた、米がなくなったで、母屋に行ってもらってきて」

というので、重い腰を上げて、母屋に向かった。

母屋へ行くと、すでに灯りが消え、
両親とも寝ているようだ。

廊下を進み、台所を向かう途中、ふと
横を見ると、仏間でオヤジが寝ている。

一時間ほど前に雨が降ったのか、網戸から涼しい
風がふんわりと入り、クーラーの部屋よりもよっぽどよく、
米を嫁に渡した後、一時間ほどそこで寝ることにした。

右側にうちのオヤジ、左側には仏壇、
そのような位置に寝転がり、涼しいそよ風に
あたりながら、緩やかな時間を過ごすことにした。

隣のオヤジは、軽いいびきをかきながら、寝ている。

そして、横には、仏壇があり、ご先祖さんが
並んでおられる。

足元の頭上には、すでに亡くなられた祖父母の写真が
飾ってある。

なんとなく、時間を超えて、この家の人たちと
いるような気がする。

私は、自他ともに認めるおじいさん、おばあさん子で
二十歳くらいまで、祖父母と寝起きを共にしていた。

祖父母が、いつも言うことは、だいたい宗教チックな話、、、。

「ご先祖さんが、守っていてくれる。氏神さんが守ていてくれる」

毎晩、毎晩、そのような話をしてくれた。

その影響なのか、このように仏間に来ると、ふと
なんとなくそのオーラみたいのを感じる。

霊的なご先祖様が、本当に存在するのか?

というよりも、これも何年もかけた祖父母の
宗教教育だったと私は思う。

二年ほど前、うちの集落で、昔行われた
村芝居について、みんなの前で、94歳の
近所のおじいさんが、話をしてくれた。

その時に、最後にそのおじいさんが語ったことは、

「神仏をおろそかにしてはならない」

ということを、力を振り絞りながら語っていた。

有史以来、人間社会において、何らかの神は存在し続けた。

それだけ、神が必要だったように思う。

人間は、どのように心を冷静に保つか、、、。

生きている以上、不安や孤独感を味わることなど、
よくあること。

「神様が守っていてくれている、ご先祖様がいつも導いてくださる」

昔ながらのそのような宗教チックな言葉って、
もしかしたら、人間の心に理性を取り戻すには、
必要なことなのかもしれない。

また、人生、生きていくうえで、いろんなことが起きる。

それは、決していいことばかりではない。

むしろ、思いもよらないような悪いことの方が多い。

その時に、どのように心を整えるのか、、、。

よくよく、自分の人生を振り返ってみれば、
もし、あの時、あのような失敗がなければ、自分の
人生どうなっていたか、、、。

一つ一つの挫折や失敗から、新しい気付きがあり、
自分を成長させてきた。

そのようなときこそ、

「ご先祖さんが、導いてくれている」

というような夢ものがありにつかれことができれば、
心の負担が軽くなり、前向きになれるのでは、、、。

それも、伝統的な考え方であるし、その方が、
人間強くなれるような気がする。

特に、月謝の高い、新興宗教に頼る必要もない。

お世話になった身内や、近くの氏神さん、お地蔵さん、
そのような方々で十分だし、身近であるほど

「守っていてくれる、いつも導いてくださる」

と、思えるのでは、、、。

ふと、仏間で寝転がって、そんなことを感じた。










posted by hide at 20:02| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月14日

長篠・設楽原の戦いの謎、、、。古戦場を見学して、思ったことは、、、。

 うちの嫁は、義両親が住む山口県へ帰省中、、、。

百姓と老犬パンチのお世話でおいてけぼりを
喰らった私は、昨日の早朝より、さっさと田んぼ仕事を
終わらせ、一人、愛知県新城市、設楽原歴史資料館へと
向かった。

嫁からくラインは、
 
「今から萩の海水浴に行ってくる」

とか、

「秋吉台で、天体望遠鏡で流星群をみる」

とか、

「今から、みんなで寿司食べにいってくる」

とか、

楽しそうなことばかり、、、、。

なんか、腹立つな〜。

そんなこんなで、昨日は一日、フリーダム。

そして、思い切って新城まで、でかけた。

資料館につくなり、

「だれか、ボランティアの方か、学芸員の方か、
案内してくれる人、いませんか?」


と、うかがうと

「今、丁度三人のお客さんが、スタートしたばかりです。
合流されたら?」


と、いうことになり、さっそく参加させてもらった。


IMG_7539.JPG


いきなり、この設楽原の戦いの絵図の前で、説明が
行われていたので参加した。

その中で、とても興味深い話がいくつかあったので
紹介したい。

まず一つ目は、この古戦場は、交通の面でも
非常に重要な地点であったということ。

そのボランティアの人が

「ここは、昔、三州街道が通っており、岡崎方面から、
信州の方へ抜ける道があった」


とのこと。

当時、家康にとって、岡崎と浜松を行ったりきたり。

ボランティアの方もおっしゃられていたが
もし、長篠城が押さえられ、この地が武田に渡れば、
三河と遠州が分断されることになる。

奥三河はすでに、武田方に降っている豪族もいるし、
その一年前では、遠州の重要地点、高天神城が
武田方に奪われている。

家康は、三度ほど信長に援軍の要請をしたが
最後には

「もし、来てくれないのであれば、
甲州勢と共に、尾張に攻め入ることになりまする」


というような、脅しのようなことも言ったらしい。

たしかに、それだけ、家康も切羽詰っていた。

それと、長篠城というのは、水運にとっても、
非常に重要な場所だ。

昔、舟がここまで上がってきたらしい。

地図をよく見ていただきたい。

日本の歴史上、代々の政権が、この伊勢湾・三河湾
エリアの豪族を手なずけることが、いかに重要か。

伊勢湾・三河湾は、穏やかな内海で、
物資の行き来が楽にできる。

西から、揖斐川、長良川、木曽川、境川、矢作川、
そして豊川と、これだけの河川が利用でき、
西のその先には、琵琶湖から京都へもうかがえる。

東の豊川の水運の重要地点である長篠城というのは、
そういう意味でも、落としたくない城だ。

ある人が言っていたが、信長とは、「環伊勢湾政権」である
と言っていたが、その水運の重要性を知り尽くし、
その財力によって、のし上がったといっても
過言ではない。

それから、連吾川についてだ。


IMG_7558.JPG


連吾川を挟んで激突織田・徳川連合軍と武田勢が死闘を繰り広げたが、
この連吾川は、かなり直線的な川で、とても溢れやすく、
この辺りの田んぼは、舟を使って田植えをしたぐらいだといい、
大雨の時には、川が氾濫し、よくフナを捕まえたとのこと。


IMG_7560.JPG


そのぬかるんだ連吾川周辺の田んぼに、足をとられた武田軍が
鉄砲の餌食になったようだ。

それから、

「地元の人は、武田と織田・徳川、どちらに親近感が
あるんですか?」


と、聞いてみた。

「やはり、武田だろうな。武田方の子孫が今でも、
お参りに来るし、この地に残っていった人もけっこういる。
『望月』とか『滝川』という名字が多いのは、
武田方だからだ」


と、、、。

このお盆にも、「火おんどり」という火を使った
祭りがあるらしいが、やはり武田方の被害が多かったので、
その弔いの意味が強いとのこと。

やはり、勝った方の織田・徳川はそれほど、
この地に執着はなく、その後、全国にその勢力を
展開していく。


IMG_7544.JPG


それと、これは当時使われていた火縄銃だ。

これ、今のお金に換算すると、一丁5000万円ほど
するとのこと。

それを、3000丁は、拡張があるにしろ、
1000丁でも500億円だ。

もし、敗れれば、その500億円もの鉄砲が
奪われる可能性すらある。

信長が、高価な鉄砲を掻き集めて、
さらに信長親子に織田軍のオールスターズを
引き連れてまで、この地に援軍に来た。

ある歴史の専門家は、

「信長は決戦する気はなかった。しぶしぶ出て行った」
と、、、。

「信長にとって、大坂の本願寺との戦いの方が、はるかに
優先度が高かったので、鉄砲と柵を用意して対陣し、
武田軍に引いてもらう作戦だった」

と、、、。

「ところが、武田勝頼何を勘違いしたのか、『攻めよう』と
いうことになっちゃたんですね〜」

と、、、。

「決戦するつもりがなかったのに、向うが
勝手に突っ込んできて、バババ−ンと打ったら、
勝っちゃって、大勝利を収めた。
だから、非常にラッキー、運のいい男、それが
現在の研究状況です」

と、、、。

「戦後70年の信長に対するイケイケドンドン史観を見直して、
地に足がついた視線で、戦国時代を見直そうという動きが
出てきている」

と、、、。

う〜ん、とうなりたくなる。

まずは、長篠の戦から、改めて検証してみようと思う。

戦いって、とても重要なのは、まずは
「何処」でやるのか?、「いつ」やるのか?
ということが非常に重要になってくる。

まずは、「いつ」という視点で見れば、武田氏に攻められた
家康からの信長に対する要請は、大きく分けて四回あった。

一つ目は、1573年の信玄自身が家康を攻め、さらに信長の領地をも
うかがおうとした三方が原の戦いのときだ。

その時は、信長は大軍を率いて、決戦に挑んだのか?

お涙ほどの家臣を派遣した程度に終わり、ご存知のように、
家康は大敗、、、。

その時の状況を考えてみれば、まさに信玄を盟主に、本願寺、浅井、朝倉、
足利義昭などなど、まさに信長大包囲網が形成された。

近畿を離れ、遠州まで、家康を助けに行けるのかと言えば、
はっきりいって「NO」である。

それこそ、信玄の西上に対して、勢いづく、近畿内の
反信長勢力が大暴れするであろう。

この時、三方が原後、信玄がモタモタしている時間を利用して、
近畿内の敵である浅井、朝倉攻めをかなり強行して、滅ぼしている。

兵をあげてから、数日程度で、打ち滅亡に追い込んだそのスピードは、
まさに神速である。

信長というのは、時間という感覚をとても大事にしていた。

そして、義昭も追放している。

結果から言えば、家康の要請にこたえることなく、
全体から見て、自分のやるべきことを全力でやっていた。

同盟者の家康には、申し訳ないが、全体から見れば、
優先順位からすれば、落ちてしまう。

まだ、この時は、武田氏との決戦には、機が熟していない。

そして、信玄が亡くなる。

信玄の後を継いだ勝頼は、血気盛んに信長や家康の領地を
侵食する。

そして、1574年の遠州の高天神の戦いだ。

家康は、信長に援軍を要請する。

しかし、信長には、自分の領内、それも尾張と目と鼻の先の
長島で一向宗にかなりてこずっていた。

自分の弟や家臣を数名戦死させ、長島の一向宗に背後を突かれれば、
どの戦場でも、すぐに引き返してこなくてはならない。

そんな状態では、大敵である武田と決戦など
出来やしない。

このときも、家康の要請にこたえるフリをして、出陣はするが、
その速度はノラリクラリ、、、。

そして、高天神城が落城したと聞くと、神速とも思えるスピードで、
長島を徹底的に叩き潰した。

信長の最大の敵である本願寺は、大阪、北陸、この長島と
大きく分けて三大拠点を有していた。

その長島が、完膚なきまで叩かれ、2万人もの
宗徒が焼き殺された。

これが長篠の戦の一年前の1574年の話しであり、
それにより、近年のピンチ続きの信長にとって、
比較的余裕が出来た時期というのが、長篠の戦が
行われた1575年である。

信長としては、先に越前へ行くか、
それとも武田との決戦か、というところである。

越前、加賀の一向宗というのは、上杉と織田の
対立を避ける存在でもあった。

もし、先に北陸の一向宗を攻め滅ぼせば、
上杉と対峙することになり、武田・上杉の
同盟の可能性も出てきる。

長篠の戦いの前、全体から見れば、武田との決戦が
最優先事項だと私は思う。

また、大坂で立てこもっている一向宗というのは、
何によって、士気が支えられているかということ。

それは、武田などの援軍の存在だ。

その二年ほど前、信玄が西上してきた。

その時、立てこもっている大坂の一向宗は、
かなり活気付いたはずだ。

それに、東美濃など、信長の領地も、勝頼は、
攻め込んでいる。

大坂の一向宗が、信長にとって、最大の敵なのは、
私もその通りだと思う。

しかし、大坂が落ちない以上、その一向宗の
力をそぐのは、その時点で、最大の援護者である
武田を叩き潰すこと。

それが、1575年段階で、信長が行う最優先事項
だと、私は思う。

もう一つ、家康からの要請で言えば、1580年、
武田氏滅亡のときであり、このときは完膚なきまでに
武田氏を滅ぼした。

こう見れば、信長が「時」を自ら選んび、場所を選び、
たとえ日本最強の武田軍団と言っても、
決戦するときは、徹底的にやったことがうかがえる。

戦国大名にとって、負け戦というのは、すなわち滅亡に
つながる。

負けるけんかは、けっしてしてはならない。

そうなるためにも、時と場所を選ぶということは、
非常に重要なこと。

では、なぜ、武田の騎馬隊にとって、とても不利と思われる
長篠、もしくは設楽が原で戦で決戦をすることになったのか。

番組みでの歴史の専門家が、
「何を勘違いしたのか、勝頼が突っ込んできたから、
勝っちゃった」
と、、、。

突っ込むには、突っ込むだけの理由があるのではなかろうか?

勝頼を戒めたとする重臣たちは、本当に負け戦になると
思っていたのだろうか、、、。

先日、あの悲劇の大敗をしたガナルカナル島の戦いのことを
テレビでやっていた。

その戦いにあたったのが、中国で連戦連勝をしていた
部隊だという。

生き残りの人は、
「戦えば、必ず勝てると思っていた」

と、、、。

さらに、日清戦争で、簡単に旅順を落とした乃木大将は、
日露戦争でも、そのように思っていたと聞いたことがある。

織田・徳川に勝ち続けていた当時の武田の重臣たちが
果たして、「敗れる」と思っていたのだろうか、、、。

これは、資料館のボランティアの人も行っていたが、

「武田軍にとって、信長が出てきて、すぐそこにいる。
これは、チャンスだと思ったはずだ」


と、、、。

それまで、武田との決戦を避け続けてきた信長、、、。

武田側から見れば、ビビッて、馬止め柵し、
攻めようとしない。

人間の真理として、集団の真理として、
その時、多くの武田の将兵たちは、
どのように思ったのだろうか、、、。

戦えば、勝てる、という思いが強く、
それが1万人の死者を出す、大敗につながったのでは、、、。

両軍あわせて、20万人が戦った、あの関が原でさえ、
死者は、8000人だという。

織田・徳川連合軍が38000人、武田が15000人。

関が原に比べれば、四分の一程度の人数で、
両方の死者が、6000人と10000人だ。

これがどれほど、激戦で、両方とも負けるなどと
思ってなく、激しい戦いだったことを
物語っているのでは、、、。

あの時に、いわゆる重臣たちの進言である
「撤退」ということが、当時の武田方に
出来たのだろうか、、、。

奥三河から信州への道は、かなり狭く、
水害等もあったであろう。

そんな中、織田・徳川の猛攻を背にうけながら、
おめおめと甲府へ帰り着く姿を、武田方は
選択したのだろうか、、、。
posted by hide at 09:37| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする