2016年01月29日

ある末期癌患者の女性の詩、、、。青木新門氏の「納棺夫日記」の中で。

映画「おくりびと」の原作本といわれる
青木新門さんの著書「納棺夫日記」の中に、
ある末期がん患者の女性の詩が書いてあったので紹介したい。

<生死>

死というモノを自覚したら、生というモノが
より強く浮上してきた。
相反するものが融合して、安らげる不思議さ、、、。

<仲間>

死という絶対平等の身にたてば、誰でも
許せるような気がします。
いとおしくいきかう人もなにか温かい思いが
あふれ出ます。


何も思い残すことはない、
もう充分

啓介も、、、大介も、、、慎介も、、、
マミも、、、あなたも
みんな南無阿弥陀仏の諸仏になって
あなた方を育てましょう
 私は
私は真弥の南無阿弥陀仏になります
私は啓介の南無阿弥陀仏になります
私は大介の南無阿弥陀仏になります
私は慎介の南無阿弥陀仏になります
私は真吾さんの南無阿弥陀仏になります
・・・・・・・・・・・・・・・
門徒の方 有縁の方々の
南無阿弥陀仏になります
思い出したら、南無阿弥陀仏と呼んでください
私はいつもあなた方に南無しています

  鈴木章子著
『癌告知のあとで-私の如是我聞』
    探求社刊より

この詩は、鈴木章子さんとという真宗のお坊さんが
乳癌を告知されてから書かれた作品である。
四年間も死と戦い、死を受け入れようとした瞬間の
ものであるとのこと。

なんか深いね〜。
posted by hide at 18:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月13日

斉藤一人さん「しあわせは、あなたの心の感度や感性によって決まってくる」!グッとくる一言だね〜。

最近、うちの嫁がはまっている斎藤一人さんの
本を読んでいる。

これが、すばらしくいい。

「大丈夫だよ、すべてうまくいっているからね。」
という本の中で、とてもいいことが書いて
あったので紹介したい。

しあわせとは探すもの”である

不幸な人って、幸せの探し方がヘタなんです。
「アジの開き」だってつくるのに大変な手間がかかっています。
そのことを思って食べると「しあわせだなぁ」と思えるんです。
 水道の蛇口をひねれば水が出るのだって「しあわせ」だよね。
昔はわざわざ川まで水を汲みに行っていたんですから。
 さらに言えば、世界には飢えに苦しんでいる人が約8億人、
慢性的な栄養失調の人が約20億人いると言われています。
 世界各地でいまだに紛争が起こっていて、いつ銃撃戦に
巻き込まれたり、爆弾を落とされたりするかもわかりません。
 それに比べれば、私たちは平和な日本に暮らせてしあわせ、
生きているだけでしあわせだと思えます。
 しあわせって、しあわせと思える感度が高いか、低いか
なんだよね。そして「しあわせ」とは、与えられるものではなく、
”探すもの”なの。
 些細なことがあるたびに「不幸だ、不幸だ」っていう人が
いるけれど、しあわせな人にも不幸な人にも起こることって、
そんなに変わりはありません。
 それでも、しあわせと思える人のところに、しあわせって
引き寄せられてきちゃうんです。完全無欠の幸せを探して
みたってどこにもないから。
 神様だってね、「しあわせ」というものをくれるわけでは
ないんだよね。「しあわせ」に変わるものをみんなに
くださるんだよ。
 性格だって、この世の中に完璧な人なんていません。
誰にでも欠点の一つやふたつはあるものなの。
 細かいことを言わなければ誰だって「いい男」だし、
「いい女」なんです。それを「こういうところが良くなって
くれたら」とか「ああいうところを直してくれたら」とかって
言っていると、いつまでたってもきりがありません。
 しあわせっていうのは、50点か60点でいいの。
完璧を求めすぎると、しあわせになんかなれないよ。
 サッカーが好きな人って、相手から邪魔されたりすることですら、
おもしろさを感じます。だから人生も邪魔する人が現れたら
「これでもっとおもしろくなるぞ」って思えると、あの人の人生は
ますますおもしろくなるんだよね。
 人って誰でも、ものすごく可能性を秘めています。それを
”ちっちゃく”まとめようとするからだめなんです。
「ここがダメ」とか、「あそこがダメ」とか言っていると、
どんどんちっちゃくなっちゃうんだよ。もっと大きく、
大らかに物事を捉えていこうね。


斉藤一人さんって、いいね〜。

幸せを感じるれるのも人間力なのかもしれないね〜。
posted by hide at 19:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月08日

ブッダは説く!「愛とは煩悩なり」、、、。

先日、テレビをつけると、女子アナが並んで座っていて、
「恋ばな」に、花を咲かしている。

「わたし、彼氏に上手く甘えれないんですよね〜」とか、
二人きりでいるとき、
「チューしよ〜、チューしよ〜と、迫ったら、敬遠された」
とか、司会者が面白おかしく、いじくり倒す。

見ている分には、とても面白いし、大笑いしながら、
そのひと時を楽しんだ。

最近の歌にしても、「愛」の歌がとても多い。

テレビをつけても、映画を見ても、音楽を聴いても
「愛」、「愛」、「愛」、、、。

そこまで、「愛」を大安売りのように連呼すると、
最近の「愛」と言葉自体が、軽くなった気がしてならない。

一人の人に対して、その「愛」という気持ちが継続でいるのか?
互いに一緒にいることで、支え合え続けることができるのか?

実際に、今、離婚率は、40%と聞く。

その「愛」を語る芸能人なら、さらにその比率は高くなる。

「愛」について、あまりにも妄想をひろげすぎていれば、
結婚など、まず失敗する。

こないだの年末、朝の連ドラ「マッサン」の
総集編をやっていた。

私にとっては、マッサンはとてもいい作品であったが、
私以上に、連ドラ歴の長い、うちの嫁には不評だった。

私が、そののマッサンの総集編を見ていると、横から
「そう、そう、こういうところが女には受けへんねん」
と、何度も何度も、口をとがらせて言ってくる。

女性が、自分のことを犠牲にしてまで、
相手の夢の為に尽くす。

また、特にエリーがマッサンのお母さん、姑さんに
いびられるシーンを見ながら、

「ほんと、マッサンってだらしな〜、もっとしっかりしなかんわ」

と、何度もつぶやく。

マッサンの嫁と認められず、女中ということなら、
マッサンの実家に泊まることを許される。

マッサンも、説得するのであるが、
なかなかそこのお母さんが頑として
「外人をうちの嫁と認めるわけにはいきません。
女中としてなら、うちの泊めることを許します」
の一点張り。

そんなこんなで、数日たち、あまりにもひどい仕打ちなので
マッサンが、エリーに対して
「エリー、もういい、大阪に帰ろ」
という。

エリーは、たどたどしい日本語で
「マッサン、大丈夫、大丈夫、私、女中頑張ります」
と、逆にマッサンを励ます。

そして、雑巾がけや料理など、必死に覚えようと
努力を続ける。

確かに、女性から見れば、こんなシーン
いたたまれないのかもしれない。

しかし、本当に人を愛するということは、
相手の大事にするものに対しても、できる限り
ことをすることで、真の夫婦の信頼関係ができるのでは
なかろうか。

エリー自身も、マッサンと結婚し、母国のスコットランドを
発つときに、母親の大反対を押し切って、日本に来た。

ある意味、親を捨てた身だ。

そのつらさは相当なものだ。

では、愛する人に、同じような思いをさせたいのだろうか。

それとも、
「私も親を捨ててまで、こっちに来たので、
おまんのおかん、なんとかせ〜」
と、迫るのか、

果たして、どっちが夫婦の信頼関係を強固なモノにできるのか。

継続できる愛とは、また人生のパートナーを作るために、
どのような努力をするべきなのか。

ただ、「甘えた〜い」とか、「チューした〜い」とかなら、
ペットで十分。

結婚ともなれば、現実の問題が波のように押し寄せてくる。

最近、爆笑問題の田中氏と結婚した山口もえさんがこんなことを
言っていた
「うちの主人は、とても心が広い人。
うちの主人が最初に付き合うことを申し込んでくれた時に、
はっきり言って恋愛の対象外でした。それに子育てに没頭する
毎日だったので、断りました。しかし、うちの主人は、
『そんな子供をも大事にするもえちゃんが好きだ』と、言って
くれました」

と、、、。

相手が大事にするものを大事にする、これって
夫婦の信頼関係を築くのに、とても大事なこと。

もちろん、受け入れられないこともある。

それでも、できる限りのことをするのとしないのでは、
かなり違ってくる。

そういう姿勢を長い時間をかけて、貫き通せれば、
初めて、互いのことを理解し合える関係が築ける
ような気がする。

例えば、相手の親を大事にする、家族を大事にする、
そうすれば、相手に対して自分の主張の方も
通しやすくなる。

逆に、「私よりも親が大事なの?」とか、
「おれより、子供が大事なのか?」
なんて主張するよりも、相手の家族を大事にした方のが、
爆笑問題の田中さんではないが、信頼を勝ち取ることが
できる。

「自分を捨てよ〜」、「自分の殻を脱ぎ捨てよ〜、そこから道が開ける」
と、神様は言っている。

最近、幼い子持ちの女性と付き合っている若い男性が、
その幼い子に覚せい剤を打ったというニュースを聞いた。

何というおぞましいことだ。

「愛とは覚悟だ」と誰かが言っていいた。

確かにそうなのかもしれない。

好きだ、はれたといっても、そう長いこと続かない。

それよりも、長いことかけて、いい関係を築き上げる、
その覚悟が必要のような気がする。

結婚ともなれば、相手の嫌なところを
付き合っていかなくてはならない。

そんな時に、辛抱できるのかどうか、
そのためにも「覚悟」というモノが、
必要だ。

ブッダは「愛」というのは、煩悩であると説く。

「ブッダ、真理のことば」(花園大学教授 佐々木閑著書)

この本は、NHKの「100分de名著」のテキストブックによると
こんなことが書いてあった。

意外にも思われるかもしれませんが、「愛」も無明の子分です。
我々は愛というと美しいものをイメージしますが、仏教では
必ずしも良い意味ではなく、色欲や所有欲などに結びつく
煩悩としての側面の方が大きいのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
慈愛や仁愛という意味で、他者の幸せを願うぶんにはいいのですが、
相手をこちらに振り向かせたいとか、相手の気持ちを他へ向かわぬ
ようにしたいなどと思ったら、それはもう煩悩です。
それがかなわぬと、もっと苦しい嫉妬という感情が起こり、
「がんじがらめ」なるのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・

なるほど、なるほど、、、。

しかし、若いうちのその煩悩に、惑わされて結婚したとする。

私は、これも「縁」なのではないかと感じる。

問題は、そこからどのように信頼関係を築き、尊重し合える
継続できる「愛」にもっていくのか、それには、多大な
労力と時間が必要であろうが、腹をくくってやってみる価値が
あるのかもしれない。

posted by hide at 07:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月03日

「空」の原理!「自分など何もない」とトコトン自己否定するブッダの教えが、心を解き放す!

年末、家の大掃除をしていると、むかし、読んだ本に出くわす。

「ブッダ、真理のことば」(花園大学教授 佐々木閑著書)

この本は、NHKの「100分de名著」のテキストブックであるが、
再度読み返すことにした。

最近、つくづく仏教に引かれる。

平均年齢から言えば、残りの人生あと30年ほど、、、。

最近、時間など、ものすごいスピードで過ぎていく。

残りの人生、残された時間、どう使い切るか?

つくづく、考えさせられる。

焦ってもしょうがないが、一つ言えることは、
残りの人生を使い切るためにも、心をしっかりと整える
事が大事だと思う。

自分の「モノサシ」一つで、世の中の見方など、
全く変わってくる。

人に出会うにも、何かを経験するにも、苦難に遭遇しても、
心あり様で、大きく変わってくる。

仏教の教えとは、長〜い、長〜い、年月をかけて
先人たちが、積み上げてきた心の整理の方法であり、
現代社会にも十分役に立つ。

ただ「宗教だから〜」と、毛嫌いするには
いささかもったいないような気がする。

キリスト教であろうと、イスラム教であろうと、
科学であろうと、なんであろうと、「自分が使える」と思えば、
何でも吸収すればいい。

心の垢を一つ取り除く、自身を縛り付ける糸を一つ一つ、
取り除いていく、そうすることにより、真の自由というものが、
階段を上がっていくように、開放されていく。

その「ブッダ 真理のことば」のテキストブックの中で、
今日は「諸法無我」という言葉を紹介したい。

「この世に『私』という絶対的存在など、どこにもない」
というのが、その言葉の意味らしい。

われわれはふつう、自分の利益のため、自分の功名のため、
自分の楽しさのため、自分の幸せのため、、、と、
なにごとも自分を中心に置き、自分に都合のよい方向でものを
考えます。ところがブッダは、そもそも自分などないのであり、
ありもしない自分を中心に世界をとらえるのは愚かのきわみだと
説きました。 
 われわれはまず、自我というものを世界の中心に想定し、
そのまわりに自分の所有する縄張りのようなものを同心円上に
形作っていきます。そしてそのいちばん外側に、世間と
呼ばれる一般社会を配置します。自分はこの世界像の
主(あるじ)ですから、手に入っていないものがあったら
手に入れ、意のままになる縄張りの部分を増やして
いこうとします。これが執着です。
 すなわち、執着とは、この「自分中心」の世界観から
発生するのです。自分中心の考え方に立つ限り、欲望は
消えませんし、きりがありません。
 しかし、ここでその中心人物たる自分を、
「それは実在しない仮想の存在である」として、その
絶対存在性を否定してしまうと、まわりにある所有世界も
自然に消えます。自分というのは、本質のない仮想存在
なのですから、当然、それを取り巻く世界も仮想だという
ことになり、執着もおのずと消えるわけです。

なるほど、なるほど、、、。

よくよく考えてみれば、不安、怒り、嫉妬など
煩悩に心が占領されればされるほど、自分という意識が
非常に強くなり、周りが見えなくなる。

それらの煩悩は、違う言葉いえば、「執着」だ。

例えば明日の仕事が上手くいくか「不安」になる、
後輩が生意気な言葉を口にすると「怒り」を感じる、
彼氏のところにただ知り合いの女の人から電話が
かかってくると「嫉妬」で頭が一杯になる。

不安も仕事が上手くいかなければ、かなりショックで自分が傷つく。

後輩が生意気な言葉を発すれば、自分が馬鹿にされているようで
怒れてくる。

彼氏が自分だけを見てくれていない、自分以外の人に取られてしまっ
たら、気が狂いそうになるであろう。

不安も、怒りも、嫉妬も、結局は自分が惨めになることに対する
恐怖であり、自己防衛本能とも言える。

自分を外敵から守る、それが煩悩の正体であり、
ではその自分という存在、自分という意識を薄めてしまったら、
どうなるだろうか。

では、その「自分」っていったいなんなの?

人間とは、「人格」なのか?、「身体」なのか?

「身体」と言ってもそのほとんどが、その大元は、どこにでもある
「二酸化炭素」「水」であった。

そして、死ねばまた二酸化炭素と水に戻るだけ、、、。

もしかしたら、私の体に取り込まれた二酸化炭素は、
そこのねずみの中に入っていたのかもしれない。

私の中に入り込んでいる水は、元はその川の水で
あったのかもしれない。

回り回って、今、私の中に取り込まれているだけである。

さらに、人間の体の中の細胞というのは、数年も経てば、
そのほとんどが新しいモノに、総入れ替えされているという。

では、数年前の私と、今の私って、本当に同一人物と
言えるのだろうか?

体の細胞は、総入れ替えされているのに、記憶というのは、
人間の心の中に残る。不思議だよね〜。

人格というのも、徐々に積み上げられていくものだ。

ある精神科医が
「人間とは、著しく周りから影響を受けている」
と、言っていた。

確かに、その通りだと思う。

よく、鹿などが、産み落とされた瞬間に立ち上がり
歩き出す。そして、すぐに自分で餌を食べるようになる。

人間はどうか?

歩き始めるまで、2年ほどかかる。

それで終わりかというと、周りから言葉を覚え、
字を覚え、数字を覚え、計算を覚え、
自転車の乗り方、箸の使い方、食事の作り方、
掃除の仕方、風呂の沸かせ方とありとあらゆることを
覚えながら、一人前になるまでに20年ほどかかる。

つまり、周りから著しく影響を受けていることになる。

ふと最近思う、おじいさん子である私は、
齢を重ねれば重ねるほど、おじいさんの考え方が
しみ出てくるようだ。

おじいさんの影響を明らかに受けている。

おじいさんだけではない。

祖母、両親、叔父叔母、兄弟姉妹に友人、同僚、上司、先輩、先生
などなど、今まで生きてくる中で、どれほど多くの人から
影響を受けてきたことか。

さらに、本などの文字を通じて、はるか昔の
親鸞さん、道元さんなどなど、多くの昔の人の
思想も私の中に入っている。

先ほど、私はおじいさん子であり、おじいさんの影響を
多く受けているといったが、そのおじいさんでも、
その両親である私から見たら曽祖父、曾祖母の影響を受けて
いるであろうし、おじいさんを取り巻く多くの人から、
多大な影響を受けていることになる。

また、曽祖父もまた、同じように、その時代の多くの人から、
影響を受けている。

日本人なら、日本人らしく、
中国人なら、中国人らしく、
その社会にふさわしく、いわば代々続く、
社会の中で、私も、父も、祖父も、曽祖父も
大きな影響を受けてきて、今、私という人格が
形成されている。

その私でさえ、祖父だけではなく、多くの人から
何重にも重なりながら影響を受け、その人たちも、その人を
取り巻く多くの人から、いろんな影響うけて、
その人の人格というモノが形成される。

そう思うと、「私」って、いったい何なの?

「私」というモノが存在するようで、存在しない、
そのつながりというのは、現在、そして過去も通じて、
とてつもなく多くの人が、今の私という「人格」を
形成するのに携わっていることになる。

そういうことであれば、ブッダが言うように、
「私などない」ということに
なるのでは、、、、。

では、先ほどのテキストブックに戻るが
「諸法無我」について、こんなことが補足されている。

「諸法無我」とは、この世のどこにも絶対的な自己存在など
ない、というのですから、ある意味、究極の自己否定とも
いえます。たとえば西洋世界には「我思う、ゆえに我あり」
などという言葉があり、人々は、当たり前のように自我の
探求をしてきました。ブッダの考え方は、こういった
姿勢とは正反対のものです。
 しかし、そういう極端な自己否定を土台とすることで、
人ははじめて世の現象を本当に客観的に見つめることが
できるとブッダの思想は、説得力があります。自己中心的
なものの見方を捨てた時、世のありさまの真の姿が
見えてくる。そうすれば、自分が為すべき正しい行動も
分かってくるということです。


もしかしたら、私を捨てることにより、
心が軽くなるのでは、、、。


posted by hide at 21:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする