2016年05月31日

「知恵と忍耐」を学ぶことこそ、人生の目的!斉藤一人さんの言葉、いいね〜。

 斎藤一人さんの著書の中にこんなことが書いてあったので、
是非とも、紹介したい。

人間は何度も生まれ変わります。
何のために何度も生まれ変わるのか、わかりますか?
それは『魂を向上させるため』です。
 
では、どうすれば魂を向上させることができると
思いますか?
それは「知恵と忍耐」を学ぶことです。

 人が生まれると、そこには誰でも「試練と困難」が
用意されています。そして、その人の人生にとって、
ちょうどいい時期に「試練と困難」が現れるような
仕組みになっているのです。

「試練と困難」がでてくると、それを解決するために、
人間は「知恵と忍耐」が必要になります。つまり、
そこでどうやって解決すればいいのかという「知恵と忍耐」
を学びながら、魂を向上させるわけです。
だから、どんな人にも「試練と困難」は現れます。
これは決まりなんですね。

私も、まったく同感だ。

この試練と困難と聞くと、私は真っ先にある先輩のことを
思い出す。

その先輩から教わった尊い教え
「人間、土壇場でにげちゃ〜だめ」
という言葉、今でも、私の中で生き続けている。

その先輩は、Nさんといい、Nさんと私は、
当時、大きなホテルの宴会部で働いていた。

ホテルの宴会部となると、いろんな部署と関係し、
多くの派遣の人やアルバイトを使いながら、
大きな宴会を切り盛りしなければならない。

例えば、ある会社のセミナーがあり、その後立食パーティーなど
よくある。

その時は、数百人いるお客さんを一度、ロビーに出てもらい、
たったの10分ほどで、宴会場を作り変えなくてはならない。

その時など、まるで戦争のようだ。

その時は、みんな怒鳴り合い。

いろんな部署の協力を得ながらやらなくてはならないので、
他の部署の人にへそを曲げられたら、大変なことになってしまう。

そんな時、Nさんは、いつもいない。

Nさんは、どちらかというと気弱な人で、
若いときから、そのようなこんなことには逃げて
来られたようだ。

そのため、Nさんは当時40歳ほどであったが、
一人ではなかなか仕事がこなせないし、
気弱なせいもあって、みんなのストレス解消の
はけ口のようになっていた。

よく支配人なんか、Nさんを仕事中に呼びつけ、
みんなの前で、延々、一時間ほど怒鳴り散らしている。

他の同僚もなにかあると、
それは「Nさんがやった」と、何でもNさんのせいにする
傾向がある。

そんなNさんと、私はちょくちょく飲みに行っていた。

Nさんは、酒が回ってくるといつも
「Hideちゃん、土壇場で逃げちゃダメ。
逃げ続けると、俺みたいになる」
と、よく語っていた。


三年ほど前、今の会社に入社したMくん。

彼は、非常にどんくさく、すぐにおどおどしてしまう、
典型的ないじめられっ子体質だ。

しかし、彼のすごいところは、逃げない、
全力で仕事に取り組もうとする。
毎日、毎日、怒鳴られまくり、落ち込むことを
しょっちゅうあるあが、やり続けようとする。

それにとても素直だ。

まだまだ、空回りしているところが多々あるが、
愚直に何事も取り組もうつする。

もし、彼がこの20代を肝心なところから、逃げてばかり
いたらどうなるのだろうか?

うちの会社は、セラミック関係の会社だが、
セラミックスの知識にしろ、今なら聞けることって
いっぱいある。

しかし、その後彼が10年、20年とうちの会社で勤め続け、
その時にすでに彼は、30代か、40代。

もうすでに中堅で、逆に若い人に教えなくてはならない立場であるだろうが、
その彼がそうなったときに、何も知らないでは済まされない。

また、彼は計算が苦手だ。

「3sの調合で、Aという原料を30%仕込む。
何キロになる」
といっても、なかなか答えが出てこない。

はっきり言って、中学生か、小学生レベルの計算だ。

それが苦手だ。

でも、このまま放っておいてよいのだろうか。

やるな今しかない。

今たとえ大恥かいてでも、今やるしかない。

今、遅れを取り戻しておかなくては、
一生、やれないままだ。

30代、40代になって、そんなことができないようでは
すまされないし、Nさんのように、苦手なことから、逃げ続けな
ければならない。

幸運なことに、彼は「素直」さをもっている。

素直に、分からないことは、「教えて下さい」
と、言ってくる。

けっこう、知ったかぶりや、自分を大きく見せようと
する人が多い中、とても素直といえる。

たしかに、たかだか算数も出来ない人なんでしょ〜
と思うかもしれないが、いざというときに、自分を
さらけ出せる人間とそうでない人間違いって、
大きいような気がする。

自分の欠点に素直に向き合える愚直さ。

それも、まだまだ若い20代前半である。

まだまだ若い彼が、苦しくとも20代のうちに
そのような習慣を見につけたら、今後
どれほど成長するか、楽しみなような気がする。

時間という大きな財産があり、それを有意義に使えるだけの
素直さと忍耐力がある。

そのように、若いころから自分自身と向き合ってきた人と、
ただ見栄と張ったりだけで生きてきた人間とでは、
あとあと大きな差が出ることは明らかだ。

彼は今、明らかに「試練と困難」に直面している。

多くの人が、社会人になるときというのは、そんなもんであるし、
その時期に覚えたことというのは、あとあと自身の
肉となり骨となり、大変貴重なことである。

人間というのは、完全ではない。

誰でも必ず欠点がある。

欠点があるゆえ、つまずき、困難と試練に遭遇する。

その自身の欠点を乗り越えないと、もしくは知り尽くさないと、
その欠点による試練が形を変えて、目の前に何度も
現れることになる。

解決できないまでも、しっかりとその自身の欠点を
知ること。

それだけでもだいぶ変わってくる。

自身の評価をただ噂話の中だけで、映し出そうとすれば、
必ず大きな「ツケ」を払うことになり、
ただ世渡りが上手なだけでも、自身の成長というモノは、
かなり鈍くなる。

恥をかく、傷つき、怒りがこみあげ、不安に心が占領される。

誰でも与えられる「試練と困難」には、必ず
そのような強い感情が自分自身を支配する。

それに耐える、そしてそれを乗り越えていく知恵をが生み出されてくる。
耐えて耐えて、考えて考えて、そこから生まれだされる
小さな悟りというモノが、あなたの心の中で結晶化されていく。

そのようなモノというのは、決して忘れることはない。
また、そのようなモノの積みかねこそ、あなたの本当に
財産になりうる。

忍耐力とは、「小さな悟り(知恵)」母である。

勇気というモノは、「小さな悟り(知恵)」の父である。

そして、うまく説明できないが、「神」という概念が、
勇気と忍耐を支えることになる。

「神」といっても、月謝の高い新興宗教でなくてもいい。

亡くなられた、あなたをかわいがってくれたおじいさん、おばあさん、
近くの氏神さん、その道端にあるお地蔵さん、
そんな身近な方々にあなたの「神」になっていただいたら、
いつまでもあなたの行動を根底から支える一部になるはずだ。
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2016年05月23日

「幸福は、不幸の始まり」、、、。何かが足らないのが常、、、。それを自覚してこそ、真の幸せが味わえるのでは、、、。

「幸福とは、不幸の始まり」、、、。

毎週、聴いていいる土曜日早朝のラジオ番組、
「なぜ生きる2」で、こんなことを言っていた。

確かにそうだと思う。

例えば、ボクシングで世界チャンピオンになった鬼塚選手、、、。


 少年の頃、世界チャンピオンはスーパーマンみたいな存在やと思ってきた。
俺にとっては神様に近い存在ですよね。凡人の俺が、そんな凄い場所に
辿りつくことができたら、いったいどんな凄い人間になれるんだろう。
そのことだけを励みにここまで頑張ってきました。
しかし、試合に勝ってはみたものの、あるはずのものが何もないんです。
「エッ、何なのこれ?なんで、何もないんや?」
「いや、次勝てばきっと何かが得られる」
そう信じて、次から次へと試合を積み重ねていきました。だけど何も残らない。
試合が終わった夜は、生き残れた実感と自分が探し求めたものが何もなかったと
いう寂しさで発狂しそうになりました。俺は常に素直に飛び跳ねる自分で
おりたいのに、充足感がないから、「何でや?」という思いばかりが
虚しく深まっていく。最後の試合までずっとその繰り返しでした。
  (『週刊文春』平成6年11月)



世界の頂点を極めても「充足感」がない。

人間とは、いつになったら「満たされる」というような
感覚になるのであろうか。

到達した時点で一時の達成感、、、。
そして、そのあとの猛烈な恐怖と不安、、、。

「世界チャンピオンは、スーパーマン」、、、、。
「世界チャンピオンは、神さまに近い状態」、、、、。

そのような自分が抱いてたイメージとはかけはなれ、
充実感などなく、次なる恐怖と不安を抱えなくてはならい。

むしろ、世界チャンピオンになるまでの過程が、
一番充実感に満ちていたのかもしれない。

何かに、がむしゃらに打ち込める。

そのことって、もしかしたら、煩悩から少し離れることが
できるのかもしれない。

むしろ、「少し足らない状態、、、」そのあたりが、
一番いいのかもしれない。

「腹八分」、、。

出来すぎるのも、返って、新たな不安を抱え、
時には、傲慢になってしまう。

人間とは、もっと、もっとの動物、、、。

その「もっと」には、限りがない。

むしろ、足らないというのが、常であるということを
しっかりと自覚するべきなのかもしれない。

来てみれば さほどでもない 富士の山、、、。

遠くから眺めていると、壮大で美しい富士山、、、。

しかし、山頂に登ってみると、岩だらけで、
そこら中にゴミが落ちている、、、。

あそこに行けば、あの地位につけば、あの人と結婚すれば、
全てがかなえられ幸せになれる、、、。

そんな錯覚に陥っている人って、けっこういるように思う。

ただ、何かを得ても、また何かを求める。

それが人間の宿命、、、。

それなら、常に何かが足らないということを
よくよく認識しよう。

そうなれば、もしかしたら、もっと周りが見え、
今が、一番幸せ出ることを実感できるのでは、、、。




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2016年05月20日

亀井静香氏「謝罪なしで広島来ないで」、、、。

 本日の中日新聞に、亀井静香元金融担当大臣が
このような発言をしているという。

「反省も謝罪もないのであれば、おいでいただかない
でほしい」
と述べた。

亀井氏は広島県出身。
「私の姉が原爆で殺されたということだけで
いっているわけではない。凶悪で残虐な行為を
した国の現在の代表だ」
などと語った。

私は、ニュージーランドに一年間いた経験がある。

その時に、ある英会話スクールでの話、、、。

ニュージーランド人の先生が三人ほどいて、
私はその一人にニュージーランドの100ドル札を見せて、
「この人は何をした人なんですか?」
と、質問した。

そしたら、先生の一人が
「原爆を造った人だ」
と、答えた。

多くの日本人なら、
「原爆を造った人が一番高い紙幣である100ドル札の
図柄に、、、」
と、胸ぐらをつかみたく思いになるのでは、、、。

私もその時、少し顔色が変わったようで、
先生たちが
「hide、違うんだ、違うんだ、多くの日本人が
誤解しているんだ。原爆のおかげで、戦争を終わらせ、
多くの将兵が助かったのであり、日本がやっと軍国主義から
開放されたんだ」
と、熱心に説き伏せられた。

多くの相手側の一般人は、このような認識であるり、
一般のアメリカやニュージーランドの教育とは、そのようなモノだ。

そのあたりを我々日本人は、しっかりと認識するべきでなかろうか。

また、アメリカとは、建国以来、その二百数十年の歴史の中で、
戦争をしなかった年というのが、ほんの十数年に過ぎない。

世界の各国に基地を置き、毎年莫大な軍事予算を使い、
経済の中心には、軍事産業がはびこっている。

そろそろ、アメリカの「正義」について、真剣に考え直す時期では、、、。

ある人が
「米兵のいるところ、秩序が崩壊し、カオスと化す」
と、、、。
 
アフガン・イラク戦争に参加した多くの米兵が
「我々こそ、真のテロリストだ」
と、語る、、、。

そして、今、多くのアメリカの帰還兵が精神的に病んでいるという。

果たして、日本の行く末は、、、。

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2016年05月09日

「命とは、時間である。与えられた80年という時間をどのように使い切るのか」なぜ生きる2を聞いて、、、。

毎週土曜日の早朝、ラジオで放送されている
「なぜ、生きる2」。

今回もなかなかよかった。

「命とは、時間である。80年という時間を生まれたときに
与えられるのである。」
と、、、。

では、その与えれらた命をどのように使うのか?

生きる目的とは、何ぞや〜?

いつものごとく、そのような内容であった。

誰しも認める宇多田ヒカルも村上春樹も
あれだけ名声を得ても、「満足感はない」という。

どれだけ、成功しても、新たなる煩悩に苦しめられることになる。

むしろ、左の肩に背負っていた荷物を、
右の肩で背負うだけのこと。

地位、名声、お金、学歴などなど、たくさんの勲章で自分を
着飾っても、果たして本当の満足感は訪れるのだろうか。

上手くは、言えないが、いつまでも他人のうわさ話の中で、
生きていたのでは、本当の幸せなど訪れないのでは、、、。

「露とおち 露と消えにし わが身かな 
難波のことも 夢のまた夢」

これは、日本で最大の成功者、たくさんの家臣に囲まれ、
多くの財を一代で築いた、天下人、豊臣秀吉の辞世である。

あれだけ名声を得ても、死ぬときは、何もかも残し、
身一つであの世に旅立たなくてはならない。

そして、秀吉にも「時間」という命、最大の財産がつきてしまう。

いつまでも、「今」が続くわけではない。

その限られた時間に何をするのか?、どのように使うのか?

とくに、たいしたことができるわけでもないが、
もしかしたら、自分の世の中を見るモノサシを変えれば、
まったく違った人生になるような気がする。

どんなに地位や名声を得ても、煩悩とは消えないもの。

次なる欲望、次なる恐怖に、次なる不安に悩まされることになる。

人間は、一生、煩悩に付きまとわれる。

あの親鸞さんでも、人間の光と闇の中で、
悩み続けてきた。

では、その煩悩を薄めることはできないのか。
上手く付き合っていくことはできないのか。

それは、自分を忘れること、、、。自我を薄めること、、、。

自分という意識が強ければ強いほど、煩悩に振り回されることになる。

それならば、相手を活かせ、周りを活かせ、社会を活かせ、
「自分」という意識を外に移す努力をし続ける。

誰かが言っていたが、「自分」なんて何もない。

体は、いずれ水と二酸化炭素に戻るだけ。

心だって、何層にも、何層に、周りの人から、
影響を受けて、自分という人格が成り立っている。

そう思えば、自分なんてものは、
何か大きな大きなモノのほんの一部なんだ。

それよりも、何かその大きなモノに身を熔かすこと、
そうすることにより、煩悩が薄らぐ。

次の時代の共生社会のキーワードは、自我を薄めること、
周りに尽くすこと、そういうことがとても重要になってくる。

そのような時代に向けて、思想も宗教も収斂されて
行くのではなかろうか、、、。


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2016年05月06日

歎異抄は、面白い!!「阿弥陀仏は、なぜ存在するのか、それは、この俺を救うためなんだ。どうしても、煩悩を捨てることができない、この 俺を救うために、阿弥陀仏はいるんだ」

NHK Eテレ100分de名著 「歎異抄」 
第4回 「人間にとって宗教とは何か」
なかなか、非常に強烈な一言があった。

「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
ひとへに、親鸞一人がためなり」
との確信だった。
あまりにも有名な親鸞の言葉だが、常識的に考えれば、
傲慢ともとれる言葉だが、もう少し分かりやすく言えば

「『弥陀の五劫思惟の願』とは、すべての人を救いたいという
阿弥陀仏の願いなのだが、よくよく考えれば、
この親鸞一人を救う為の願いなんだ。阿弥陀仏は、なぜ存在するのか、
それは、この俺を救うためなんだ。どうしても、煩悩を捨てることが
できない、この俺を救うために、阿弥陀仏はいるんだ」
と、、、。

聞き方によっては、あまりにも傲慢極まりないようにも
聞こえる。

しかし、ある意味、それほど、そのような生き方、そのような
信仰というモノを我が身一身で引き受け、その切実さを生き
切ろうという親鸞の実存的な決断でもあるという。

生きている限り、煩悩は捨てきれない。

親鸞ですら、人間の「光り」と「影」の部分をさまよい、
苦悩し続けた。

よくよく考えれば、つまらないことで腹を立てる。
つまらないことに意地になる。
なるようにしかならないのに、不安で心を占領される。

そうなれば、不安や怒りで心が占領され、
身動きが取れなくなる。

その煩悩をよくよく観察すると、例えば「不安」に陥っている人の
大きな特徴は、まったく周りが見えていない。

逆に言えば、自意識過剰なくらい、自分というものに対して、
意識が集中し、被害妄想になりがちになるか、
自分を責めまくる。

そして、暗い壁に囲まれた狭い部屋で、震えながら
強い孤独感を感じている。

煩悩から少しでも、離れるというのは、
自分という意識から離れること、自分を忘れること、
そのようなことのような気がする。

そのために、
「もう、悩みも不安も、阿弥陀様にませてしまいなよ〜」

「阿弥陀仏も、俺に任せろ!」
て、言ってるじゃないか。

小さなことに怒る自分、
些細なことにこだわりを捨てきれない自分、
不安なんて、ある意味、次から次へと自分自身が作り出している
ようなもの。

さあ〜、もう悩むのは疲れたんじゃない。

もうそろそろ、自分を解放しちゃいなよ〜。

それには、心の中に、自分を圧倒的に救ってくれる
何かの存在が必要なのではないか、、、。

ホイットニー・フューストンの歌に
「イエース ジーザス ラブ ミ〜
オ〜オ〜 イエース ジーザス ラブ ミ〜」
というような歌のフレーズがある。

キリストがさ〜、私のこと好きで好きで、
たまらないみたなんだ。いつも、守ってくれているよ〜。
っていうようなのが、一神教のキリスト教などの
根本的な考え方。

もし、そのように思えば、安心を得ることができるのでは、、、。

不安だから、心の中に大きな壁を作り、
自分を閉じ込めてしまう。

でも、心の中に、あんたのことをいつも見守って、
救おう、救おうとしている人がいるよ〜。

安心しなさい、不安から解放しなさい、
自分という意識、自我から自分を解放しなさい。

そうすれば、周りがよりよく見えるようになる。

そうすれば、人の心が見えるようになる。

あなたを苦しめているのは、あなた自身、、、。

もう、それ以上、あなた自身を傷つけるのはやめたら、、、。
それ以上、自分のことを責め続けるのをやめにしたら、、、。

情けない自分、みじめな自分、そのような弱い自分を受け入れる
のって、もしかしたら大事なことなのかもしれない。

さみしさを身に染みたような経験をした方のが、
人間として強いといえるのではないだろうか。

自身の限界を知るというのも、とても大事なこと。

「回心(えしん)」と「自然(じねん)」
という言葉が、仏教用語であるが、自分の限界を知ったところに、
「回心(えしん)」があるのではなかろうか、、、。

そうなれば、ありのままの自分、自然の状態を受け入れる
ことができる、自分を許せることができる。

自分自身が作り出す「劣等感」により、
猛烈に頑張るのも必要なこと、、、。

しかし、その向こうには、それに疲れ切って
「回心(えしん)」というモノが、現れるのでは、、、。

世の中、思い通りにならないことだらけ、、、。

そして、この体さえ、目が見えなくなり、
足腰が悪くなり、衰え、病になって死んでいく。

そんな中で、残るものというのは、心のあり方ではなかろうか。

世の中など、自分のモノサシ一つで、大きく見方が変わるもの。

本当の自由とは、心の解放のようだ。

疲れ切りなさい、そして、疲れてよれよれになった
弱々しい、あなた自身を受け入れなさい。
そこから、初めて自分が解放される。

親鸞の悟りとは、そんな感じなのかな、なんて未熟な私が、
親鸞さんの悟りについて語るなど、お叱りを受けそうだが、、、。

真宗は「他力」、禅宗は「自力」というが、
その根本は、ほとんど違いはないと私は思う。

禅宗の教えの中にも、
「あるがままを受け入れろ」
というモノがあり、
それは阿弥陀様に言わせれば、
「私にすべてを任せんかい」
という表現になる。

自我から離れ、ありのままを自分を許し、受け入れる。

これが本当の幸せにつながり、周りを幸福にするような
気がしてならない。
posted by hide at 07:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする