2017年02月26日

日本とは、日本人とは、、、。この共同体は「先人」、「英霊」の方々とも強くつながっている、、、。

 今週も、香里奈が出ているドラマ「嫌われる勇気」が
やっていたので、録画を見た。

アドラーの心理学の中で、
「嫌われる勇気」と「共同体意識」って、実は人生において、大事なことだと思う。

しかし、パッと聞いて、この両者って、矛盾しないだろうか?

実際に、ドラマの中で香里奈が演じる女刑事は、
まったく協調性がなく、とげとげしいような人物であろう。

その女刑事に、「共同体意識」と言っても、だれもが
信じないであろう。

「嫌われる勇気」というモノに、重点をおくのなら、
ただ自分勝手にやっていれば、ただのわがままな人であり、
結局は誰も相手にされなくなる。

それよりも、「公共心」を持て、ということではなかろうか。

「共同体意識」とは、私なりに解釈すれば、イコール「公共心」
ということになると思う。

人間って、どんなときに自分の存在感、もしくは
自身の人生の意義を感じるだろうか?

例えば、ドラマの中で、学校を卒業してから、
42年間警察官として働いた男性が、警察署に立てこもり、
事件を起こした。

彼の主張は、42年間警察に奉仕してきたが、
退職してみたら、まったく感謝されることもなく、
久しぶりに行ってみても、自分がいなくて、さぞ困っていると
思いきや、自分の仕事場も、大きく変えられているし、
久しぶりに合った元同僚達も、忙しくてあまり相手にされなかった。

それに、現役時代は毎年300枚ほど、年賀状が来ていたのに、
やめたらたったの7枚だけ、、、。

自分は、警察官としてしか、存在価値がないんだ、
自分の存在するスペースは警察しかないんだ、というような
そんな感覚に陥り、なんだか無性に自身の存在理由が
分からなくなり、事件を起こしてしまったとのこと。

自分の存在理由、、、。

確かに、自分の存在理由が一番分かりやすく感じれるときというのは、
誰かのために役に立っているときではなかろうか。

実は、何か自分よりも大事に思えるもののために
一生懸命になっているときというのは、自身の煩悩も
かなり薄まるような気がする。

例えば、独身時代、あれだけ着飾っていた若いお母さん。

子どもが出来れば、子どものことで一生懸命になり、
自身のことなど忘れがち、、、。

悩み、怒り、恐怖など、煩悩に心が占領されたときとの
大きな特徴としては、まったく周りが見えなくなり、
極端な自意識過剰となる。

つまり、自意識が自分に集中してしまう。

その逆で、自分のことはそっちのけで、他のことに
意識が集中していると、視野が広くなり、
心が穏やかになる。

人に役に立つ、人にあてにされる、もしくは自分よりも
大事なモノ、その「他者」というモノを、何処におくのか?

それともう一つ大事なことは、例えば他者のために何かを
やっても、「なんか、なんも感謝されへんし、馬鹿馬鹿しい」
と、感じることも事実である。

ドラマの中では、見返りを求めないというが、
それも人間である以上、なかなか難しいのではなかろうか。

また、「共同体意識」、、、とは言うが、その共同体に
どれほどシンパシーを感じることができるのか?

それは、イコール何処まで「仲間意識」をもてるのか?
ということにつながってくる。

常に仲間が、各々自分のことしか考えずに、わがままな主張ばっかり
されていたのでは、「もう勝手にしろ」ということになる。

実際に自分から共同体意識を持とうと思って、
ひたすら頑張っても、ぶち当たるのは、
仲間の理不尽な態度、自分勝手な主張、何も見えてない理解力のなさ
などなど、いやになることばかりになる。



105-0514_IMG.JPG


これは、鹿児島の開聞岳山頂から、南の海を撮った写真である。

この開聞岳のふもとに、特攻隊の知覧基地があった。


104-0493_IMG.JPG


そして、その特攻隊の人たちが、南の沖縄方面に旅立つときに、
この開聞岳を富士山に見立てて、翼をふって、
日本に対して、別れの挨拶をしたとのこと。

その跡地には、「知覧特攻平和会館」があり、数多くの特攻で
なくれた方々の遺書がある。

その人たちは、たかだか二十歳前後で書かれた遺書の数々、、、。

それを読むと、正直な話、自分が恥ずかしくなる思いだ。

死が目の前にあり、自分の死、そして自身の限られた命、
何のために死ぬのかという自分の自我に対して、
トコトン向き合った人たちの文章のように思う。

確かに、「彼らは洗脳されていたから、
その洗脳をした軍部が悪い」
というような意見をよく耳にするが、
ただそれだけみるには、あまりにも了見が狭いように思う。

歴史とは、[his-story」であり、勝った方のものである。

日本の歴史、地形、風土、文化、思想、気候
あらゆる観点から見て、「強固な共同体」存在し、
そこから生まれる「仲間意識」というのは、かなり強いものが
あったはずだ。

「仲間を信じられるか」どうかで、自分よりも大事に
思える共同体が生まれると、私は思える。

山口県のあの人間魚雷回天の記念館に行ったとき、
戦争で生き残った人の話を聞く機会が合った。

そんな時、必ず私がする質問というのは
「死ぬのが怖くなかったんですか?」
と聞く。

その時、その記念館の老人は
「自分が生きる死ぬというようなことを言っている場合ではなかった。
多くの兵隊達は、若い自分の世代で何とかしなくては
という気持ちが強かった」
と、、、。

一昔前の、例えば地域の農業用水、土地改良、それに
成功した会社や組織の雰囲気をみれば、何が彼らの
心の支えになったのか?

ただ、自分のよくだけでは、もっと大きな格差を生み、
犯罪や衛生などなど、劣悪な社会になっていたはずだ。

海外に住んだ経験のある人が、真っ先に感じることは、
自分が日本人であるということ、、、。

そして、日本のすばらしさを実感するのではないだろうか、、、。

それは、きれいさ、礼儀正さ、勤勉さ、協調性、犯罪のなさ
などなど、明らかにすぐれているところが一杯ある。

日本に2年ほど滞在したことのあるニュージーランド人の友人が
言っていたが、「多くの日本人は自分の国のすばらしさ知らなさ過ぎる」
というようなことをいっていた。

私が知り合ったニュージーランド人、台湾人、マレーシア人、
シンガポール人、オーストラリア人、韓国人、中国人などなど、
日本人のよくよく知っていた。

日本って、とても特異ではあるがすばらしい国だ。

それには、外国ではまれば、
仲間意識を持てる日本という共同体が長いことかけて、
出来上がってきたからだと思う。

そして、そんな日本で培ってきた仲間意識、
それをささせる思想、宗教、自然との接し方、物をトコトン大事にする考え方
などなどこれから世界で非常に重要になってくる。

むしろ、あの戦争で負けたことさえ、
これもこれからの世界貢献にもつながる大きな意味を
持つような気がしてならない。

特攻隊の英霊をどのように見るのか?

ただの「洗脳された犬死」扱いでは、
あまりにももったいない。

見返りを期待せず、ただひたすら自身の考えを持って
共同体に貢献していくというのは、非常に難しいことだ。

どうしても、現代社会の中では、
理不尽な要求、わがまま、思慮の狭さ、などなど
人間のいやなことに接しなければ、ならなくなる。

そんな時に、「勝手にしろ」という気持ちを乗り越えて、
共同体意識を持ち続けるというのは、非常に難しい
ことであるが、しかし、この日本を造ってくれた人、
多くの先人、英霊の方々は、それは強い奉仕の心が
あったと、歴史を見れば分かる。

共同体意識、仲間意識の対象とは、ただ現在生きている人たちだけでは
ないように思う。

我々は、英霊、先人の方々から、この日本を引き継いだ。

そして、次の世代に引き継がれていく。

例えば、原発の問題でも、その原発の一番恩恵を受けているのは、
我々の世代であり、その後の核のゴミというのは、
次の世代、またその次の世代と、とてつもなく長い時間、
引き継がれていくことになる。

ある人が言っていたが、
「我々は未来の子供たちにこの土地を借りて生きている」
と、、、。

深い言葉だね〜。



posted by hide at 17:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月19日

世の中をどのように見るのか?自身のモノサシ(主観)が変われば、人生、大きく変わる、、、。

先日、ダウンタウンの浜ちゃんが司会をしている
俳句のテレビを見ていた。

その俳句の題材は、河原の土手につくしが生え、
そのバック雄大な富士山がそびえたつ。

そんな中で、うちの嫁が、即興でこんな俳句を作ったが、
なかなかいいできばえだ。。

寝ころべば 富士とつくしの 背くらべ

ちょっとびっくしたが、うちの嫁にそんな才能があるとは、、、。

私は、けっこう写真を撮るのが好きだ。


CIMG6963.JPG


この写真は、海側から名古屋の街を手前に、御岳山にピントを
合わして撮ると、御岳山が実際よりも大きく写せる。

名古屋のような巨大な都市も、このような御岳山のような山々に
水源を依存している。

そういう意味でも、このような山々はとても偉大であり、
それを表現するうえでも、いい写真が撮れたと思う。

つくしと富士山の写真でも、寝ころんで、視点を下げてみれば、
富士山とつくしの高さが同じくらいに見える。

何が言いたいのかというと、人間って、ピントを変えてみれば、
世の中がまったく違って見えてくる。

例えば、背が低いことにコンプレックスを感じている人がいるとする。

こんな感じに見れば、まったく違って見えるではなかろうか。

逆に、世の中を見るうえで、公平に客観的に見ることができず、
いつも自分に都合よく世の中を捻じ曲げてみる人もいる。

結局、人間というのは、自分のモノサシ(主観)により、
まったく違って見えてくるし、そのことにより、大きく人生が
変わってくる。

他の人と比べて、自分が劣っているとか、不幸だとか思っている人でも、
果たして本当にそうなのか?

体の不自由な人に比べれば、手が動く、足が動く、目が見える、耳が聞こえる、
ウンチが出る、シッコでる、これらのことって本当ならば、
ものすごくありがたいことではなかろうか。

今は、スーパーに行けば、食べ物にあふれている。

外食産業もかなり普及し、飽食の時代だ。

これって、昔からそうだったの?

世界的に、どこでもそうなの?

と思えば、これがどれほどありがたいことか。

幸せを感じることができるというのも、その人の人間力だと思う。

人間だれでも、コンプレックスがあり、煩悩に苦しめられている。

しかし、なるべくそれらを薄め、なるべく心をフリーにできる人と、
そうでない人では大きく出せる力が変わってくるように思う。

また、自分のことを中心にしすぎれば、周りが見えず、
自身の成長は鈍くなる。

自分の見方を変える、モノサシ(主観)を変える、
これにより大きく人生変わる。

簡単なようで、そんなことなかなかできるものでもない。

一番大事なことは、日々いろんな経験すること、
日々よく学ぶこと、それしか方法がないし、そのような気持ちで
10年もやれば、かなり変わってくるような気がする。

神様は、常に必要なモノをあなたに与え続けている。

「神」という概念も、上手に自分の中で使い切れば、
より考え方がすっきりするのでは、、、。


posted by hide at 19:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月08日

石油文明の終焉とその後の世界とは、、、。

福島第一原発2号機の格納容器内で530シーベルトの線量を
計測されたとのこと。ヒトは7シーベルトを浴びると即死とされているが、
果たしてこれをどのように取り出すのか。

費用の方も、今後どれほどかかるのか?

この現実からしても、地震、津波、噴火、台風、洪水などなど
天災大国日本で、原発が行えるのか。

地図をよくよく見ていただきたい。

40年を超える原発が立ち並ぶ日本一の「原発銀座」と呼ばれる若狭湾、、、。

その若狭湾から、若狭、琵琶湖、関ヶ原、この濃尾平野と[伊吹おろし]という
強風にさらされている。

日本列島は、その中央部に背骨のような高い山脈が連なっているが、
一カ所だけそれが途切れているところがある。

それがこのラインである。

そして、冷たい大陸からの寒気団が、暖かい太平洋側へ
と、強風となって、通り抜けていく。

若狭湾と琵琶湖間の距離をじっくりと見ていただきたい。

数十キロメートルである。

高い山もなく、強風が原発のある若狭より、琵琶湖に強く吹き付けている。

もし、その山の南斜面に雨が降れば、琵琶湖に流れる構図だ。


ということは、水源から見れば、数十キロメートルの原発銀座と琵琶湖の距離も、
そう考えると約半分となる。

盆地状の琵琶湖の水源とは、周りの山々であり、その周辺の山々に降り注いだ
放射性物質が琵琶湖に集まることになる。

そして、その琵琶湖とは、京阪神1450万人の大事な大事な水源である。

今後のエネルギーをどうするのか?

歴史を見れば、エネルギーが変われば、社会も思想も共同体も
文明そのものが、大きく変わる。

今の人類の繁栄というのは、石油文明と言える。

石油ももとをただせば、太陽光エネルギーであり、何億年とかけて、
藻類の光合成により溜め込んだ
太陽光エネルギーを、今、一気に使い切ろうとしている。

石油という缶詰をあけたことにより、莫大なエネルギーを得た。

しかし、それは近い将来、必ず使い切ってしまう。

今は、人類にとって、バブルだという。

莫大なエネルギーを得たことにより、ありとあらゆる資源を
掘り起こし、ほとんどの資源が枯渇が近づいている。

莫大なエネルギーのために、人間の活動がドンドンと活発になり、
「自由」という概念が強調される思想が強くなった。

アメリカの建国の理念
「人間は、神から幸福を追求する権利を与えられている」
とされ、そのアメリカで石油が見つかり、一気に石油文明が
広がっていく。

しかし、どう考えても、今、このような文明は保てない。

温暖化、異常気象、それに確実に化石燃料は枯渇する。

何億年前の太陽光ではなく、今の太陽エネルギーをどう集めるか使うのか?

地球上に降り注ぐ、莫大なエネルギーであるが、薄く広く分布する
太陽光エネルギーを、どのように集中させるか?

明治の頃、あの電話を発明したアメリカのグラハム・ベルが
「日本は豊かなエネルギーを保有している」
と、語ったらしい。

実は、彼は地質学者であり、一流の科学雑誌である「ナショナルジオグラフィック」の
編集責任者だった。この雑誌は、現在でも、地質学、地理学および
環境分野の第一級の専門誌である。当時、彼は地理学に関して
世界的にも有数な権威だった。

それは、雨が多いこと、そしてその雨が国土の70%の山岳地帯に降り注げば、
それは位置エネルギーを得たことになる。

水力というのも、元をただせば太陽エネルギーである。

太陽光により海水などが温められ、それが水蒸気となり雨が降る。

その水蒸気が雨となり、山々に降り注ぎ、湧き水となり、無数の渓流から谷に存在する川に
集められてくる。

その川の上流である谷にダムを造って、水を貯めればということは、
大量の位置エネルギーを得たことになる。

三十年ほど前、御岳山に登ったときに、その山頂付近に、
コカ・コーラの自動販売機があった。

そのコーラをどのように運ぶのかというと、男の人が背中に背負って、
運んでいたのを見たことがある。

重たい自動販売機の飲料水を山の頂上に運ぶというのは、大変な労力である。

もし、その仕事をヘリコプターなどで行っても、
大変なエネルギーを使うことになる。

水を下から上にあげるというのは、重力に逆らうことになり、
大変なエネルギーを使うが、逆に上から下に流れていくには、
エネルギーを得ることができる。

その大量の水を山の上にあげるということを、、日本を取り巻く水の自然環境が毎年、
毎年当たり前のようにやってくれている。

山に積もった雪もそうである。

まさに、ダムに溜められた水というのは、石油と同じである。

その水力が、まったく有効に使われてないという。


IMG_2181.JPG


元国土交通官僚、元国土交通省河川局長でダムの専門家である竹村公太郎氏の
著書、「水力発電が日本を救う・今あるダムで年間2兆円超の電力を増やせる」
という本であるが、一気に読み切った。

竹村氏は、ダムの専門家であり、水力発電のスペシャリスト、自身もダムを
3つもつくってきた人が、いったい何を語るのか、非常に興味深く読んでいるが、
今あるダムというのは、法律に縛られ、まだまだその能力からして、
半分も使われていないという。

さらに少し手をくわえるだけで、さらに多くの電力が得ることができるという。

竹村氏自身も、もう新しいダムができる時代ではないという。

財政的にも、もし新しいダムをつくろうとすれば、莫大なお金がかかる。

しかし、そのかかるお金の大部分が、立ち退く人たちの保証や
周辺の道路などであり、実際の建設費用というのは、全体のほんの一部だという。

例えば、武村氏は、現在あるダムの嵩上げを提案している。

その嵩上げの方法も本の中にかかれてあるが、たかが10%嵩上げしただけで、
水力発電により、倍の電力を得ることができるという。

水力発電の原理として、その溜められている水の量、落差がとても関係してくる。

ダムというのは、山と山の谷間をせき止めて造られたもの。

ということは、底へいけばいくほど、狭くなり、溜めてある水量が少なくなる。

上部の嵩上げというのは、はるかに効率的に水量を増やすことができる。

落差も稼げるし、水量が増えれば発電効率が向上する。

それを、新たなダムを作ると莫大なお金がいるが、
今あるダムを嵩上げすれば、ダムをもう一つ造ったくらいの効果があるという。

そう考えると、今のダムは高度経済成長期に、急増する水需要にともない
次々に建設された。

いわば、既存のダムというのは、高度成長期の「遺産」とも言える。

その先人たちが残してくれた大事な大事な遺産を、もっともっと有効に使える方法が
あると水力発電の専門家が語っている。

また、大部分の国というのは、大きな川によってつながり、そのような
ダムを建設したり、水力発電をよろうと思うと、国境を越えて、
国と国との抗争になりかねないし、現在も水利権等の問題で
いくつも国が終わることがない争いの最中だ。

戦後、水力中心だったのが、60年代より中東より、
安い石油が入り始めた。その後、原子力へとつながっていくが、
その大きな流れの中で、水力発電が埋没していったように思う。

水力は、まだまだ掘り起こせる余地が十分ありそうだ。

「人類のバブル」ともいえる石油文明の中で、人間の活動がどんどんと活発になる
膨張社会の中で、自由、人権というような価値観が強調されてきた。

しかし、これからは明らかに限られた資源の中で、
生き方を見いだしていかなくてはならない。

そんな中で、どのような生きがい見つけていくのか?
どのような、価値観を見出していくか?

限りない我欲を追求していっても、満足感が得られないのは、
なんとなく多くの人にわかってきているのではなかろうか?

それよりも、自分を忘れること、自我を薄めること、
その方が、自身の煩悩を薄めることにつながるような気がする。

その自分を忘れるには、どうしたらよいのか?

それは、周りのために生きること。

自分より大事なモノがあれば、自分を忘れることができる。

ほんの一昔前の日本人は、とても公共心が強かったように思う。

もしかしたら、自分自分という生き方よりも、
社会のためとか、家族のために生きた方のが、心がすっきりするのでは
なかろうか。

石油文明は、必ず終わる。

そして、自然エネルギーを中心にした共生社会に変わるしかないほど、
人類は追い込まれている。

その共生社会にどうしても必要なのは、信用の構築である。

ある仏教の教え、
地獄でも極楽での、大きな釜でうどんをゆでている。

そのうどんを1メートル箸で食べなければならない。

極楽では、互いに助け合い、互いの口にうどんを運んで、
みんな満腹になれる。

しかし、地獄では、先にと競って食べようとするので、
結局、だれもうどんを食べることができず、みんな餓死してしまう。

この違いは何なのか、その共同体に、互いに信用があるのか、ないのかでは
なかろうか。

信用がなければ、各々が猜疑心のかたまりとなり、
地獄のうどんのようになってしまう。

一歩、周りのためにアクションを起こしてみては、、、。

それが一人一人ができる小さな一歩であるが、
必ずそういう時代が来る。

なぜそのようになったのか?

ある人の言葉であるが
「我々は、未来の子どもたちに土地を借りて生きている」
と、、、。
posted by hide at 17:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする