2017年05月29日

「足るを知る」、「諸行無常」、自分を見つめ直すことって、持続可能な幸福感の始まりでは、、、。

 昨日、たまたま車の中で、ラジオを聞いていたら
登山家の野口健さんが面白いことを話していた。

野口さんに
「なぜ、山を登ろうとするんですか?」
という質問にたいして、

「山から帰ってきて、いつも思うことは、
あの風呂の感動。二カ月ほど、風呂には入れず、
じっくり使って楽しむ。それが一ヵ月ほど続くが、
それ以降は、その感動がなくなってしまう。
例えば、電気のありがたさ、シーツの上で寝るということの
あの柔らかさ、日本という国のありがたさ、その感動が
冷めたころ、また山に行きたくなる」
と、、、。

少し言葉は違うが、こんな内容のことを話されていた。

私も、野口さんほどではないが、同じような
経験がある。

ニュージーランドで四日間、山小屋を転々と泊まり歩きながら、
トレッキングをやったことがある。

もちろん、風呂にも入れないし、四日間分の水から、食糧から、
ガスとか、鍋とか、すべてのモノを背中に背負って、
山の中を歩き回った。

そこから、返ってきたときのあのシャワーの感動、、、、。

今でも忘れない。

そして、その山歩きの中で、あるアメリカ人が、
インスタントのコーヒーをくれた。

私は、毎日のようにコーヒーを飲むコーヒー党、、、。

しかし、なるべく荷物を軽くしなくてはならないので、
コーヒーはもっていかなかった。

私が飲んだコーヒーの中で、間違いなく、あの時の
インスタントコーヒーが最高のモノであった。

ある人の言葉であるが
「人間の快楽とは、落差である」
ということ。

毎日、毎日、まるで水を飲むかのように、
ビールを飲む人と、週に一回なり、
しっかりと汗をかいて仕事をした人が自分への
ご褒美として、飲むビールと、まったく価値が違ってくる。

以前は、たかだか一杯のビールを飲むために、
自転車で16kmほどの距離の温泉に行き、
その後プールで泳いで、温泉に入った後の
グラス一杯のビールを飲む。

なんか一気に飲むのがもったいなくて、チビチビ飲むのだが、
そのビールが体の中にしみ込んでいくようだった。

もしかしたら、ただ「もっと、もっと」でなく、
自制心があった方のが、快楽を上手く味わえるのでは
なかろうか、、、。

もし、あなたが船で遭難して、一ヵ月ほど無人島のようなところで
生活した後、帰還して、今、目の前にあるコーヒーって、とても
感動するのではなかろうか、、、。

そんな状況に遭遇したときに、いつもいがみ合っている人が
目の前に現れたときに、なんだかとても懐かしく、
いとおしくなるのでは、、、。

状況が変われば、自身の主観というモノも変わる、、、。

また、今、当たり前のことって、本当にあたりまえなのか、、、。

不平、不満で頭をパンパンにしているのでは、
もしかしたら、自分がいかに恵まれているかが
分からないのではなかろうか、、、。

いま日本では、ギャル曽根のようなタレントがもてはやされて
いるように、明らかに食べ物に満ち溢れた飽食の時代だ。

しかし、世界的に見て、飢餓で苦しんでる人が、どれだけいることか、、、。

時代的に見て、これほど豊かな時代が過去あっただろうか、、、、。

この時代、そしてこの日本に生まれたことが
とてつもなくラッキーであったことか、、、。

もっと、もっとでは、本当の幸せは手に入らないのでは、、、。

持続可能な幸福感っていうのは、味わえないのでは、、、、。

足るを知る心、当たり前など何一つない、諸行無常であること、
そのようなどこか冷静な心って大事なような気がする。

世の中、もっと豊かに、もっと便利にとはいうモノのの、
本当に幸せを味わっている人がどれほどいるのか、、、。

例えば、六本木ヒルズに住んで、一見豪華な生活をしているような人でも、
もしかしたら、不安や恐怖と隣合せなのでは、、、、。

ボクシング世界王者だった鬼塚選手の言葉だった。

少年の頃、世界チャンピオンはスーパーマンみたいな存在やと思ってきた。
俺にとっては神様に近い存在ですよね。凡人の俺が、そんな凄い場所に
辿りつくことができたら、いったいどんな凄い人間になれるんだろう。
そのことだけを励みにここまで頑張ってきました。
しかし、試合に勝ってはみたものの、あるはずのものが何もないんです。
「エッ、何なのこれ?なんで、何もないんや?」
「いや、次勝てばきっと何かが得られる」
そう信じて、次から次へと試合を積み重ねていきました。だけど何も残らない。
試合が終わった夜は、生き残れた実感と自分が探し求めたものが何もなかったと
いう寂しさで発狂しそうになりました。俺は常に素直に飛び跳ねる自分で
おりたいのに、充足感がないから、「何でや?」という思いばかりが
虚しく深まっていく。最後の試合までずっとその繰り返しでした。
  (『週刊文春』平成6年11月)


上へ行けば行くほど、競争が激しくなってくる。

やらなければ、やられてしまう。

そうなれば、常に不安や恐怖が心の中を占領してしまう。

これは、今では、上だけの話ではない。

ある長老の言葉であるが
「今では、競争、競争といって、人をだまくらかしたり、
利用したりが当たり前の時代になってしまった。
昔は、もっと信頼関係があり、助け合ったもんじゃよ〜」
と、、、。

激しすぎる競争というモノが、もしかしたら、
逆に社会を混乱させるのでは、、、。

今では、それが日本の企業だけではなく、中国や
東南アジアなどなど、世界的な競争社会に
なってしまった。

自由貿易、グローバル化、行き過ぎれば、
ほんの一握りの資本家以外、みんな疲れ切ってしまう。

その巨大な資本家たちも、果たして安住な暮らしを
楽しんでいるのだろうか、、、、。

上へ行けば上へ行くほど、競争が激しくなる。

いつ裏切られるか、いつ寝首をかかれるか、
不安や恐怖に飲み込まれる日々なのでは、、、。

江戸時代の鈴木正三は、「我が身を思う念(自己保身)」が分別(煩悩)の本質である」
と言ったとか、、、。

もし、自分が、六本木ヒルズの住人で、そこから破産し、
ホームレスにでもなったら、、、。

しかし、よくよく考えたら、自分もあと30年ほどで、
全てを捨てて、身一つであの世に旅立たねばならない。

やがて死んでいく我が身、、、。

これは決定的なことであり、誰もが避けて通れない。

そう思うなら、執着が薄まるのではなかろうか、、、

先ほどの「足るを知る」ということも
世の中「諸行無常」ということも、冷静にならなければ、
感じることができやしない。

執着が強ければ、冷静になれないし、本質が
見えやしない。

自分を見つめ直すことって、人生を楽しむ
唯一の方法のような気がする、、、。



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2017年05月06日

「己」を溶かす勇気、これって大事なのかもしれない、、、。

 なぜ、怒るのか、、、?

なぜ、悩むのか、、、?

なぜ、自分を大きく見せたがるのか、、、?

なぜ、妬むのか、、、、?

その根本を突き詰めれば、誰でも傷つきたくないと思う
我が身を思う念(自己保身)である。

では、その自己を忘れることは出来ないだろうか、、、。

人間社会の中で、自他を分別し、所有物をはっきりさせなくては
生きていけない。

しかし、その所有物って、本当にあなただけのものなのか、、、。

そして、その根本を問えば、あなたとは本当にあなたなのか、、、?

狼に生まれた人間の子どもが、狼のような風習を身に付けてしまうという。

中国人は、中国人らしく、、、。

日本人は、日本人らしく、周りに常に気を使おうとする。

最近ふと思う。

自分は無くなった祖父母の影響を受けているようだ、、、。

祖父母だけでなく、恩師、上司、先輩、友人などなど、
今まで人生の中で出会った人々の影響を何層にも何層にもうけて、
今自分という人格が形成されている。

今の時代の人だけではない。

その人たちも、親があり、先祖があり、周りの人々から、
いろんな影響を何層にも何層にも受けている。

人間には、文字と言葉が存在する。

何百年前に生きた道元さんや親鸞さんの影響を多くの人が受けて
いることになる。

「人間は著しく周りから影響を受けている」
と、ある精神科医が言っていたが、それだけ社会性のある動物であり、
けっして一人では生きて行けれない。

むしろ、「自分」というのは、昔から続く大きな大きな人間の集団意識により
作り出せれるものであり、そしてそれが次の世代にも引き継がれていく。

つまり、次の世代にも、私が生き続けることになるのでは、、、。

自分って自分であって自分でないのでは、、、。

そんなややこしいことを言っても誰も相手にされやしない。

しかし、もし日常生活の中で、少しでも自我を離れ、
煩悩が薄まれば、それはそれで人生が楽しくなる。

西洋的な「個」主張する文化では、自分は自分、他人は他人というような
心理学になってしまう。

しかし、「自分もみんな、みんなも自分」というような
村社会の中で生きてきた日本人的な考えの方が、もしかしたら
煩悩が薄まるような気がする。

朝の連ドラの「ひよっこ」、とても面白いと思うのだが、
どうだろうか?

主人公であるみね子が、蒸発してしまった父親の代わりに
高校を卒業して集団就職として、東京で働くことを決めた。

そんなみね子に、みねこの叔父が
「みね子、もっと自由に生きていいんだよ〜」
と、、、。

みね子が
「自由って、学校でも言うけど、いったい何?
私は目の前のことを精一杯やることが好きだし、
それを不自由とは思わない。自由ってよくわかんね〜」
と、、、。

私自身の経験であるが、もっと若い独身の頃、
お金も時間も今とは比べモノにならないくらい自由があった。

今では、結婚し、兼業農家である私は、
土日はほとんど野良仕事、、、。

タバコもやらない、競馬もしない、ゴルフも行かない、
飲みにもあまり行かない、しかし不自由かといわれれば、
むしろ昔より自由を感じる。

若いときは、もっと、いろんなことにとらわれていたような気がする。

つまり、自由とは心の開放ではなかろうか、、、。

その心を解放すのは、自分という意識を薄めること、、、。

人生生きていくうえで、いろんなことに遭遇する。

子どもを育てていく上で、お金の問題、人間関係などなど
いろんな試練が起こる。

しかし、それらは本当の自由を手にするためのプログラムなのかも
しれない。

だれもが、いづれあの世に旅立たなくてはならない。

その時に、怨みつらみ、悲しみ、心が占領されていれば、
本当に天国へ昇華していけるのだろうか、、、。

浮遊霊として、深い煩悩を抱えながら、永遠にこの世をさまようことに
なるのではなかろうか、、、。

江戸時代の鈴木正三は、「我が身を思う念(自己保身)」が分別の本質であると言った。

世の中は、すべてのモノがつながっている。

そして、本当の自分など何もない。

大きな大きな集団意識の中のほんの一部分であり、
そのような意識の芽生えこそ、煩悩が薄まるのでは
なかろうか、、、。

それには「己を溶かす勇気」が大事なのかもしれない。


posted by hide at 07:48| Comment(5) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする