2017年07月10日

過去も未来もない、ただ存在するのは、この瞬間だけ、、、。この瞬間が「因」となり、次の瞬間の「果」となる。その連続が人生そのもの、、、。

CIMG8060.JPG

うちの愛犬パンチくん。

我が家では、大活躍だ。

認知症がかなり進んでいるオヤジが話すことというと、
まず、このパンチのこと。

また、犬嫌いのうちの母が、
「パンチが死んだら、私も死ぬ」
というぐらい、犬が好きになってしまった。

このパンチの魅力とは、いったい何なんだろうか。

とにかく、人懐っこい。

誰でもじゃなくて、特に家族にものすごく甘えてて来る。

誰もいなくて一人で留守番しているときなんか、
私が帰ってくると、体中でその喜びを表し、すり寄ってくる。

そうかと思えば、うちの嫁が帰ってくれば、
もう嫁にべったり。

トイレに行こうが、今に居間に行こうがべったりとくっつき、
まるで家庭内ストーカーのようだ。

さっきまで、私にべったりだったのに、
もうそのことも忘れて、嫁にすり寄るパンチ。

また、その何にも考えずに、気の向くまま、本能で
生きている愛犬パンチくん。

散歩に連れてってほしいときは、私の目の前に現れ、
玄関に連れて行こうとする。

腹が減れば、わんわん吠えるし、眠くなれば、眠たそうな顔をして
いびきをかきながら寝ている。

そんなパンチを見ていると、ふと思ったことがある。

それは、パンチは、今を生きているということ。

例えば、明日病院で注射を打たなければならなくても、
本人は分からない。

過去のことをくよくよ悩むわけでもない。

今、あるこの瞬間が、パンチにとってすべてなんだ。

その瞬間を受け入れ、全力で生きている。

さみしいから、一人にしないでと思えば、
懸命に吠える。

散歩に連れていけば、思いっきり遊ぶ。

過去も未来もない、ただこの瞬間、それがパンチのすべてだ。

人間だってそうだ。

過去のことって、もうすでに終わってしまったこと。

未来のことって、
あれこれ考えてもしょうがない。

例えば、明日、お客さん所に謝り行かなくてはならないとしても、
それは明日のことであって、今日のことでもなく、
そのことで「いやだ、いやだ」と思っていても、
心に負担をかけるだけ。

それより、パンチのように、例えば謝る時も、
その場で全力で謝ればいいし、やれることを
めいいっぱいやるだけのこと。

シンプルるに、今日、この習慣をベストを尽くすのみ。

そして、この瞬間が、「因」となり、次の瞬間の「果」となる
ということを仏教で言っていた。

確かにその通りだと思う。

人生とは、その「因」と「果」の連続。

すべてつながっている。

例えば、今日、車の中が汚い。

毎日、車に乗るとき、あ〜、汚いな〜と
少し不快感を感じる。

では、それに気が付いたときやっていれば、
その後の不快感は、存在しない。

今日も、見過ごしてしまった自分が「因」となり、
その後の不快感が「果」となる。

例えば、うちの会社のM君を見ていると、
とにかく不器用で、呑み込みが悪く、世渡り下手だ。

しかし、いいところもある。

それは、素直であり、愚直であること。

分からないことを、しっかりと飲み込めないと、
動けない。

そして、分からないと素直に聞いてくし、
常に学ぼうという姿勢が、体からあふれている。

もし、どちらかというと、見栄っ張りな人がいるとする。

そういう人って、十年経ってみると、かなり損をしている。

「時は金なり」というように、
ただ頭がいいキャラで、そのキャラに縛られてしまえば、
素直に聞くことなどできやしない。
また、周りの目が気になって、チャレンジすることなど
出来なくなってしまう。

分からないことを素直に聞くということはできないし、
そのことから逃げようとするであろう。

毎日がチャンスである。

そのチャンスに、素直に向き合ってきた人と、
そうでない人の十年とかなり違ってきてしまう。

最近、仏教の維摩経にはまっているが
維摩がある人に、
「維摩さんは、今日はどこに行かれていたのですか?」

「道場に行っていて、道場に帰ります」
と、、、。

維摩の道場とは、出家ではなく、日常の生活の中に、
いろんな悟りがあるという立場だ。

泥の中でしか、蓮が咲かないように、いろんな人間の醜い部分を
見ながらでないと、けっして悟りなど得られなりという立場だ。

文殊菩薩は、

「煩悩も、仏教以外の教えも、仏陀となる素質です。すでに悟りを
得た人は、それ以上悟りを求めることはしません。その人は、煩悩の
泥の中へとまみれることが仏道の実践になるのです。空中に種があっても
芽は出ませんが、泥土の中にあれば芽をふくのと同じです。大海の底に
潜らなければ海の底の宝が手に入らないように、煩悩の中を生きぬかなければ
智慧を獲得して実践することはできません」

と、、、。

その世俗の中で、瞬間、瞬間を大事に生きていく。

過去のことを悔いても、その過去は、すでに存在しない。
あなたの心にあるだけ、、、。

未来のことを不安に思っても、それは今ではない。

すべて、自分の心が作り出すモノ、、、。

あるのは、今、この瞬間のみ、、、。

その瞬間、瞬間をべストを尽くしている、
そうすることにより、未来が開けていくのではなかろうか。

どんな未来になるかわからないが、自分のやれることというのは、
ただその瞬間、瞬間、ベストを尽くすだけしかやれない。

後は、もうお天道さんでも、仏さんでも、ご先祖さんにでも
任せておけばいい。

維摩経というのは、どちらかというと禅宗的。

そして、念仏系の
「阿弥陀様は、すべてを私に任せろ」
と言っているというスタイルを取り入れる。

維摩経であろうと、禅宗だろうが、真宗だろうが、
キリスト教だろうが、イスラム教だろうが、
自分にしっくりくるものは、どんどん取り入れていけばいい。

「仏教とは、科学だ」と言っていた人がいるが、
生きていくためのいろんな智慧が内在されている。



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2017年07月08日

日欧EPA大枠合意の裏にある、ISDS条項は、協議継続とのこと。

 昨日の中日新聞一面、
「日欧EPA大枠合意」というような見出しが、
飾られていた。

そして、だんだんとページを進めて読んでいくと、
小さくこんな記事があった。

「日欧EPA大枠合意の要旨」
と書いてあるところの、一番下に小さく
【ルール分野】
<投資>
企業や投資家が進出石の現地政府を訴えることができる
紛争解決手続き(ISDS)は、協議を継続。


書いてある。

気になって、
このようなTPPなEPAなどのスペシャリストの
アジア太平洋資料センター(PARC)事務局長、
内田聖子さんのついったをのぞいてみると、
こんなことが書いてあった。

7月6日  

なぜ日本政府は、TPP型(EU側の言葉を借りれば「旧式」)のISDSに
固執するのだろうか。ISDSを「改良」したEUの投資裁判制度(ICS)は
決して欧州市民から評価されていない。まだまだ投資家にとって有利な
メカニズムだ。変な話、これを受け容れたところで大勢に影響はないだろうに。

7月6日 

「EUは日本との交渉で、改革された投資裁判制度(ICS)を提案してきた。
EUは旧式のISDSに戻ることはできないことを主張し続けている。いかなる
条件の下でも、合意の中に旧式のISDSを含めることはできない。この点に
ついての結論に達するためには、今後数か月間でさらなる議論が必要だ」


なぜ、あの悪名高きISDSに、日本政府がこだわるのか?

まったく、わけが分からない。

引き続き、しっかりと監視が必要!!







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2017年07月05日

「手放す」勇気、、、。

江戸時代の禅僧、鈴木正三さんがこんなことを言っていた。

「我が身を思う念(自己保身)」が分別(煩悩)の本質である」

と、、、。

我が身を思う念(自己保身)である以上、
自分というモノに意識が集中する。

周りをよく見てください。

何かに悩み苦しんでいる人の大きな特徴は、
周りがまったく見えてみない。

怒り狂っている人の大きな特徴は、
その怒りで周りがまったく見えていない。

自分のことを大きく見せよう、大きく見せようとする人の
大きな特徴は、人の話を聞かない。

つまり、人にあまり関心がないということ。

煩悩に取りつかれれば、自分という意識(自我)が強くなる。

でも、逆から言えば、人間というのは、もしかしたら、煩悩を手放すことができない。

煩悩にしがみついて生きているのでは、、、。

たとえば、以前の上司であるが、
あっち向いてガオ〜、こっちむいてガオ〜というような
パワハラ上司、、、。

内面は、震えてにもかかわらず、強く見せよう、
大きく見せようと、いきり立っているようだ。

見方によっては、かなり無駄なエネルギーを使っているようにも見える。

そうしていると、心がさびてくるというのか、
もう少し、肩の力を落とせば、等身大で生きれば、
もっと幸せになれるし、周りにもいい影響を与えられる。

勇気をもって、自身を手放す、、、。

そんなにヨロイで身を固めすぎていれば、動きが鈍くなる。
視野が狭くなる。

自分というモノに意識が集中している以上、
周りなど見えやしない。

そのプライド、本当に必要なのか。

ただ、その強面の表情、心の中では、
いったい何があるのか、、。

そんなの思い切って、捨てちまえば、、、。

それには、トレーニングも必要であろうし、
生きる智慧も必要なのかもしれない。

仏教では、煩悩とは心の「過剰さ」とも説く。

その「過剰さ」とは、自分を守ろうとする意識が
強くなりすぎている。

でも、自分の実態とは、何もない。

ただの水と二酸化炭素の集まりであり、
それも常に出たり入ったりしている。

それに、60兆の細胞というのは、常に新陳代謝を繰り返し、
二年で総入れ替えされるという。

二年後には、実は全く別人ということになる。

さらに、60兆の細胞に対して、影響し合ったいるが
自立した生命体である100兆もの微生物が人間の体には
住みつき、その微生物がいないと、生きていけない。

それらのモノをたまたま、何かの縁で、かき集められ、
私というモノが、今、存在する。

そう思うと、自分なんてなんもない、まさに空っぽでは、、、。

私は、20数年、日記を書いているが、むかしの日記を読み返して
見ると、まあ〜、なんと小さなことで悩んでいことか、、、

と、思うようなモノだらけだ。

その悩んでいたことさえ、今ではすっかり忘れている。

そう、悩みというモノのほとんどは、時が経てば解決して
くれる。

その悩みに、冷静に向き合ってみれば、もしかしたら、
かなり楽になるのでは、、、、。

現実にあるのは、「今」しかない。

過去のことを悔やんでいてもしょうがない。

未来のことで、恐れおののいていても、心に負担になるため。

その瞬間を全力で生きる。

その瞬間が「因」となり、次の瞬間の「果」となる。

そのように、因と果の連続が、人生であり、すべて
つながっているということ。

なるべく良い「因」を作るために、自分がどのようなことを
心がけて生きるかで、10年も経てば、大きく変わってくる。

トレーニングとして、自身を守ろうとする過剰さが、煩悩であり、
その過剰する自分に対する意識を外に、外に、持っていくようにする。

家族のために、社会のために、次の世代のためにと、
煩悩まみれの中でも、なるべくそのようなことを口にし、
行動すれば、だんだんと意識が、外に向いてくるのは、、、。

自分という意識から離れ、他社に奉仕するということを
それが仏教でいう「慈悲」ということになり、
生きる智慧と共に、この二つが仏教では、
「This is the 仏教」とのこと。

生きていくうえでの「智慧」。

煩悩を薄める「慈悲」、

これらをなるべく身に着ければ、かなり自分の主観が
変わってくるのでは、、、。

宿命というモノがあるのら、その宿命をどうとらえ、
どのように付き合っていくかで、自分の主観次第で、
人生大きく違ってくるような気がする。





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2017年07月04日

「煩悩なくして悟りもない」、Eテレ100分で名著「維摩経」の中で。

NHKのEテレ100分で名著「維摩経」のテキストブックの
中で、金子みすゞの「蓮と鶏」という詩が載ってたので、
紹介したい。

泥の中から 蓮が咲く。

それをするのは蓮じゃない。

卵の中から鶏がでる。

それをするのは鶏じゃない。

それに私は気がついた。

それも私のせいじゃない。


熱心な仏教徒の家に生まれた金子みすゞは、仏教的な
感性溢れる詩をたくさん残しているとのこと。

続いて文殊菩薩の言葉

「すでに悟りを得た人は、それ以上悟りを求めることはしません。
その人は、煩悩の泥の中へとまみれることが仏道の実践になるのです。
空中に種があっても芽は出ませんが、泥土の中にあれば芽をふくのと
同じです。大海の底に潜らなければ海の底の宝が手に入らないように、
煩悩の中を生き抜かなければ知恵を確保して実践することはできません」

「煩悩即菩提」
(煩悩と悟りは別々のものではない)


二項対立を解体していくと、いわば煩悩こそが悟りの
だと説くとのこと。

維摩は、
「仏道を本気で求める者は、何があっても、どんな環境におかれても、
心身は常に清浄で穏やかなはずだから、世俗の中で生きても煩悩に
支配されることはない」

と語る。

常日頃生活していると、毎日毎日、いろんなことが起こる。

そんな中で、怒り、悩み苦しみ、心が奪われがちである。

しかし、それがあるから、悟りが得られるのではなかろうか、、、。

私は、二十数年、日記を書き続けているが、むかしの日記を
読み返してみると、こんな小さなことで悩んでいたのか!?と
あらためて、自分の未熟さを痛感する。

それって、自分が成長しているということ。

そう思えば、悩み苦しむことも大事、、、。

泥まみれの世俗の中で生きていれば、
周りからいろんなストレスを受けることも
しょっちゅうある。

怒りに取りつかれている人、
見栄やハッタリの世界観で生きている人、
勇気が持てず、常にぐるぐると同じところをまわっている人、
すべて、その人なりの修行をしているのかもしれない。

いつ気付くのか、と、こちらから焦ってもしょうがない。

ただ、じっくり待つことも大事、、、。

それに自分にも、そういうところがあるということ。

だからそれがストレスに感じる。

瞬間、瞬間を大事に生きていれば、その延長線上に、
心の成長があるように思う。

どこにも逃げ道などない。世俗の世を生き抜いく覚悟こそ、
新しい道を開くのかもしれない。


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2017年07月03日

Eテレ100分で名著「維摩経」の最終版!!お世話され上手の正体とは、、、。

 NHKのEテレ「100分de名著」で
やっていた「維摩経」、ゲストのあるお坊さんが
こんなことを言っていた。

「高齢者の介護にかかわっていると、ある世代から
急速にお世話されるのが苦手な世代があることに気が付いた。
だんだんと都市化するにつれて、人に迷惑をかけなければ、
「自由」である、という考え方が美徳とされるが、
ある意味、傲慢でもある」

なるほど、なるほど。

私が住む辺り、周りはかなり住宅地に
なっているが、その流れに取り残されたような集落だ。

昔ながらの風習がまだ残っているような場所だが、
たとえば、うちのオヤジが年老いて、認知症になったとき、
近所の60代のおばさんが
「順番だでね〜。しょうがないわ」
と、、、。

うちの70代半ばになる母も、そのようなことを言っていた。

この「順番」という感覚、、、。

解剖学者の養老孟司がこんなことを言っていた。

「日本全国、都市化が進むにつれて、死とか、
老いというモノを、家庭から排除するようになった」
と、、、。

確かに、そうだと思う。

ほとんどの人が、病院で死に、老後は施設で過ごすのが
あたり前になった。

18年ほど前に亡くなったうちのおばあさん、、、。

働き者であったが、寝たきりの状態が7年間も続いた後、
家で老衰で亡くなった。

そのことって、今思えば、我々家族にとって、
いい体験になったのではなかろうか。

あるお坊さんが
「身近な人の死というのは、いずれ自分も亡くなるというということを
教えるためにある」

というようなことを言っていた。

人間だれでも、「老いる」ということ、「死ぬ」ということ。

あの信仰深くて優しかったおばあさんが、鬼のような顔をして、
とてもきついことを何度も言っていた。

特に排便に関して、おむつの中でするのが、とてもいやみたいで、
はいつくばってでも、トイレに行こうとしていた。

そんなおばあさんを、うちの母は、ほんとよく介護してくれた。

我が母ながら、とても感心する。

今ではすっかりアウトソーイングになってしまったが、
むかしの人は、人が順番に老いて、病気になり、亡くなっていく姿を
他人任せでなく、すぐ近くで、寄り添いながら見ている。

そうなれば、永遠の命など存在しない、
自分もいずれ亡くなるということを、しっかりと認識できるような
気がする。

「露とおち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢」

これは、秀吉の辞世の句であるが、あれだけ栄華を極めた秀吉も、
最後はすべてを残しで、死んでいく。

誰でも、老いて病気になり、そして一人で死んでいく。

「順番」という感覚も、身近な人のそのような場面になるべく、
接することで、身についていくのではなかろうか、、、。

話は変わるが、私はけっこう好奇心が強く、
博物館などによく行く。

そこで、学芸員の人やボランティアの人に、良く質問をする。

そんな時、うちの嫁は、決まって
「恥ずかしいからやめなさい」とか、
「迷惑になるでしょ〜」とか、

そんなことを言って、私が質問しているのを遮る。

いつも、いいところなのに、不完全燃焼のような状態で、
引きずられるようにその場を立ち去らないけない時も、
何度もあった。

しかし、「迷惑って」ほんとなのだろうか?

仕事でもそうだが、自分が知らないのに、質問もせずにそのまま過ごして、
知らないままで本当にいいのだろうか?
と思ってしまう。

それに、質問された方にしても、その質問をされることによって、
いろんなことを学ぶことができるのでは、、、。

私は、若いころ、ホテルマンであったが、お客さんに
いろんなことを尋ねられた。

このワインは、どんな味とか?
この料理は、どんな味付け?

とか、おいしい居酒屋はどこにある?
から、どこかで、チケットてにはいらないかな?
とか、その都度、調べていたら、ゆくゆくは
かなり知識が付くことになる。

「必要は習得の母である」

質問する方だけでなく、質問される方も、確実に
成長するように思う。

ある人が言っていたが
「知識・知恵などというのは、人類共通の財産だ。
だから溜め込んじゃ〜いけないんだよ。教わったことは
ドンドンといろんな人に伝えることが自分の為にもなる」

と、、、。

大変深い言葉である。

例えば、エジソンがもし原始時代に生まれていたら、
あのような数々の発明は出来ただろうか。

鉛筆も、紙も、工具も服もおぼつかない、
そんな環境では発明など出来るわけがなく、
むしろ食うものを必死に探す
毎日ではないだろうか。

人生の中で得た知恵や知識、
そんなモン自分固有のモノでない以上、
いいことはドンドンと周りに伝える。

私は、おせっかいなくらい、いいと思ったことは、
ドンドンと人に薦めたり、教えたりする。

他人は自分の鏡である。

自分がいつもそのような姿勢であれば、
「周りの人もにいつも自分に何か教えたがっている」
と、思えるようになってくる。

もちろんそういう人もいれば、そうでない人もいるであろう。

例えば、どこかの工場に見学に行ったとする。

そこに自分の好奇心を刺激するような、
変わった形のした面白そうな機械があった。

しかし、その機械の前にしかめっ面した気むずかしそうな
年配のおじさんが、説明係としてたっている。

果たして、あなたなら興味を持ったその機械について
その不機嫌そうなおじさんに質問するであろうか?

うちの嫁なら、「迷惑だから質問するのはやめなさい」
というであろう。
ここが私たち夫婦の大きな見識の違いである。

私ならその気むずかしいそうなおじさんが、
質問したとたんに表情が変わり、ニコニコしながら
教えてくれるような気がしてならない。

人間というのは、所詮は自分が持つ主観で動くモノ。

自分が迷惑だと思えば、相手に対しても迷惑に思えるモノだ。

逆に言えば、「同じように思う人を捜している」とも言える。

私のように人に「教えたい、教えたい」と思うような人なら、
相手もそのように見えてくるし、そういう人と波長が合い、
会話を楽しむことができる。

逆に、迷惑と思う人とは、会話してても、それほど面白くなく、
自然とその場を立ち去るであろう。

どちらのモノの見方がいいのか分からないが、
どちらの方が自分にとってプラスになるのだろうか。

自然と自分と同じなモノの見方を捜している以上、
「迷惑」と思っている人は、そういう人を引きつけてしまう。

また、人の心というのは千差万別。
自分が、過剰に迷惑と思ってそのようなチャンネルを持っていれば、
相手からもそのような感情を引き寄せてしまう。

「人の役に立つ」ということに対して、
喜びを感じる人って、けっこういると思う。

そういう感覚で、瞬間、瞬間を生き続ければ、
人生どのように変わってくるだろうか。

今、この瞬間が、「因」となり、次の瞬間の「果」となる。

人生とは、その「因」と「果」のつながりの連続である。

自分がどのようなことを心がけて生きるかで、
10年経てば、大きく変わってくる。

鈴木正三さんが
「我が身を思う念(自己保身)」が分別(煩悩)の本質である」
と語っておられたとか、、、。

では、我が身への意識を外に外にもっていけば、
煩悩も薄まるはずだ。

それには、家族に、社会に、そして次の世代へと
自分自身を奉仕するような感覚で生きるということは、
もしかしたら、自身の意識を外へ持っていくことになるのでは、、、。

仏教でいう「慈悲」というモノだと思う。

人生を乗り切る智慧、そして煩悩を薄める慈悲

この智慧と慈悲こそが、「This is the 仏教」
と言われるほど、仏教の根本原理とのこと。

それを見につけるのも、ただ出家して現場を離れるより、
世俗の中で、苦悩にまみれながらの方が、真の悟りを得ることが
できるような気がする。

今回のEテレ、100分で名著の「維摩経」、とてもよかった。

「維摩経」に、こだわる必要もないが、
とにかく、学ぶという気持ちがあれば、どのような教えから、
どのような場面でも、学べると思う。


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2017年07月02日

「維摩経」から見た日本思想、、、。

今週まで、NHKのEテレ「100分de名著」で
やっていた「維摩経」、これが非常によかった。

通常、仏教のお経の多くは
「あるとき私は、こんなふうにお釈迦様から聞きました、、」
と、言ったスタイルで仏教の教えを語るのが定番だ。

しかし、維摩経では、維摩自身が、仏教徒ではあるが、
出家者ではなく、在家者であり、その教えをお釈迦様の高弟との
やり取りの中で、伝えら得ているようだ。

それは、かなり相手をやり込めたやり方であるが、
とくに在家者の立場として、この世俗の世で、仏の教えを活かして生きる
ことこそ、真の道であるという立場だ。

その高弟とのやり取りをいくつか紹介したい。

釈迦の高弟ナンバーワンといわれる舎利弗が
林の中で静かに瞑想していると維摩が現れ、

「舎利弗さま。必ずしも坐ることだけが座禅ではありません。
座禅というものは俗世間の中にあって、身と意(こころ)を
現さないことなのです。何もせず、心の動きを止め、しかも
諸々の俗世間の行いをするのです。修行を捨てず、俗事を
する。これが座禅です。心は自らに向くものでも、外に
向くものでもありません。これが座禅です。世間の種々の
見方、考え方を知りながら仏道を修行する。これが座禅です。
煩悩は起こるにまかせ、しかも心が平静である。これが座禅です。
もしこのような座禅ができたならば、仏も喜びになるはずです」
と、、、。

例えば、英語を勉強するのであれば、
やはり実際に英語圏で生活するのが一番いい。

もちろん、英語を勉強するの大事だが、いくら英単語や
文法を覚えても、実際に使えなくては何にもならない。

英語圏の生活の中で、一人っきりになり、
例えば自身のバイクが壊れたとしたら
「このバイクの部品を交換できないだろうか、
出来れば、どこか中古のバイクがあれば、それを
取り外して使えないだろうか?」
とか、そのような生きた生活の中で、得た英語の
フレーズというのは、いつまでも心の中で
結晶化して、忘れないものだ。

日本人にとって、それはかなりのストレスを伴うことだ。

しかし、「必要は習得の母である」と、、、。

生きるための智慧にしろ、現場で実体験の中で、
それも苦悩の中で思いついた小さな悟りの積み重ねにより、
その人を大きくしていくような気がする。

放送の中で

「何処にも逃げ道などない。苦難の今を引き受け、
苦難の世俗を生き抜く覚悟がいる」

とも語られていた。

次に行きたいと思う。

清貧生活にトコトンこだわる大迦葉(だいかしょう)が
すべての執着を捨て去るために行うの乞食行だと説いている。
その大迦葉に対して維摩は、

「あなたはもしかしてら自分が立派な聖者になるために
乞食行を行っているのではないでしょうか。それは本当の
乞食行ではありません。すべては関係性の中で成立している
のだから、乞食行というのは施す側のものでもあるのです。
そのことに気づかなければ、すべては無駄になってしまいます」
と、、、。

「これは自分のものだ」という思いが強くなれば強いほど、
人の苦悩は大きくなる。
しかし、「施す」という行為を通じて
「握った手を離すトレーニング」を積んでいけば、執着が低減したり
調えたりできるという。
なるほどね〜。

さらに、人は専門分野などを学んで、専門家になったときに
見えなくなるものがあるという。

自分が秀でていると感じている領域にこそ落とし穴があり、
それを高く評価されると、人はどうしても
「自分の考え方、やり方こそ正しいのだ」と思い込み、
自分の作った枠組みを堅固にしてしまう。
維摩は、釈迦の高弟達を揺さぶり、自らの仏道を
再構築するように導いていると、、、。

なるほどね〜。

これって、あると思う。

例えば、どこかの大学教授や、何かの地位についてしまうと、
そのイメージにはまってしまうことってよくあると思う。

先生、先生と持ち上げれば、分からないことを
分からないといえなくなり、
物知りを装ってしまう。

たとえ専門分野でも、もし学ぶということを忘れてしまい、
自ら作り上げた虚像に自分の心が占領されてしまったら、
その後5年、10年でどうなるか。

いつしか、その人にもかげりが見えてくる。

かげりが見えてくれば、本人も焦りが出てきて、
その自ら作り上げた虚像に執着し、心の葛藤がうまれるであろう。

そうなれば、本来の自分を失ってしまうことに
つながり、身を滅ぼす源となる。

例えば、頭いいキャラに縛られて、学ぶ力を失ってしまった人。

学歴や地位に縛られ、チャレンジ精神を忘れてしまった人と
常にこの世を修行の場ととらえ、学ぶことを中心に
コツコツ生き抜いてきた人と、10年でかなり差がついてしまう。

常に自分を見つめ直し、他者を観察し続ける、
そして世間の噂話の世界だけで生きていくことの
もどかしさをしっかりと認識する。

次に戒律を守ることの大切さを説いている優波離に対して維摩は、

「優波離さま。ただ戒律を守れと人に説くだけでは意味がありません。
”自分というもの”を必死に守ろうとするから、人は誤った
考えや行動に走ってしまうのです。もともと守るべき
"自分というもの”など存在しないということがわかれば、
それほど必死にならなくてすむはずなのです。水面や鏡に
月が写っているのを見ると、あたかも水や鏡の中に
月が存在しているかのように感じるでしょう。しかし、実際には
水の中に月があるわけではなく、鏡の中に何かがあるわけでも
ないのです。この理を知る人こそ、仏法を会通した人なのです」
と、、、。

悩みの原因は、心の中の「過剰さ(煩悩)」という。

そして、過剰になればなるほど、自分という意識が強くなる。

それより、自分の存在というモノをトコトン突き詰めれば、
なんもない、空っぽだということを自覚すれば、
その過剰さというものが、和らぐのでは、、、。

釈迦が亡くなって56億7千万年後、
次のブッタとしてこの世に現れることを約束されている
弥勒菩薩に対して
「弥勒さま。あなたはお釈迦さまから、完全なる悟りを
開いてやがては仏になると約束されているそうですが、
それはおかしくありませんか。なぜなら、仏教では、
すべてのものはこの瞬間にしか実存しないと説いて
いるからです。すべてのモノが瞬間、瞬間で消え去って
いくとすれば、過去は何処にも存在しないことに
なるし、未来はいつまでも未来であって、現在には
ならないことになります。すべては瞬間、瞬間、
変化し続けていて、この一瞬の連鎖によって次の
一瞬が成立します。だから仏教では有(存在)と
時(時間)は不離であって、別々に成立することは
成り立たないのです。それを考えると、あなたが
お釈迦様と交わした約束は成り立たないということ
になってしまいますよね」

と、、、。

過去のことを悔やんでも、それはもう過去のことであり、
この世に存在しない。

未来のことに対して不安になっていても、それは
瞬間という「今」しかない現実において、
何の意味もない。

その瞬間をどう生きるか、それにより次の瞬間が決まる。

その連続が人生そのモノだ。

そしてその連続には、「因」があり、「果」がある。

すべてが、この瞬間をどう生きるかにかかっており、
その瞬間が次の瞬間に大きく関わってくる。

例えば、私の会社の入社5年目になるM君など、
入社当時、例えば「Aという原料を30%入れて、
Bを70%入れる。計算してみろ」と言っても、
なかなか出来なかった。

そして、私も仕事のあとに、彼と居残り、
何度も何度も説明したが、なかなか出来なかった。

頭から煙が出るほど、考え抜いた答えを見せられたが、
明らかに理解できていない。

しかし、幸い、彼には、「素直さ」と「愚直さ」を持ちあわしている。

まじめにコツコツ取り組み、今ではすっかりできるようになった。

もし彼があの時、逃げていたら、一生、簡単な計算も出来ない。

そうなれば、仕事にもかなり制限されることになる。

計算が出来ないということを素直にさらけ出し、
一生懸命取り組もうとするM君、そしてみんなに馬鹿にされ
責められても愚直に取り組もうとする姿には、
なかなか感動するところがある。

見た目のすごさというよりも、私は人間のすごさというのは、
学ぶ力のある人、、、。

それには、素直さがいるし、勇気と忍耐力がいる。

そして、その瞬間、瞬間を大事にし、コツコツやれる人。

そういう人というのは、「化ける」と思う。

毎日、毎日、なるべく前向きな言葉を発し、
それに沿って行動する。

その瞬間の積み重ねにより、どれほど自身が変われることか。

次に、心の共振現象についてだ。

例えば、あの本を読んで感動したとか、
あの演説には、心を打たれたとか、
何か感動ができるというものやはり人間力では
なかろうか。

何をいっても、上っ面だけで、心に響かない人っていると思う。

そういう人ってどういう人かというと、
維摩経のテキストブックにこんなことが、
書いてあった。

「このような共振現象は、心に「自分の都合」という
バリアを張っていると起こりません。もちろん、私たちは
普段「自分というモノ」を守るため、バリアを張って
暮らしています。でも、ずっとバリアを貼りっぱなしに
していると、次第に心身は錆びついてしまい、なかなか
共振現象が起こりにくくなるのではないでしょうか。
このバリアを解除する次空間こそが道場なんですね。
 維摩は慈悲とは言わずに、ここでは大悲という言葉を
使っています。慈悲も、身近な人々や関係者に向けて
起こす小慈悲や中慈悲もあれば、すべての衆生に向けて
起こす大慈悲があります。維摩が感じた痛みは。まことに
大きな慈悲に基いたものですね」
と、、、。

こういうことがいえると思う。

バリアばかり張っていれば、視野が狭まるし、自分という意識が
強くなりすぎる。勇気がもてずに守ってばかりでは、
狭い視野でただ同じところをグルグルまわっているだけ。

それより、勇気を持って、バリアを外してみたら、、、。

それはとてつもなく、その人にとっては勇気がいることである。

しかし、自ら自分をぐるぐる巻きにしていた何かを
解きほぐせば、案外、すがすがしい気持ちになり、周りに視界が
拡がる。

それには、怖れながらも、なるべく自分より、相手を、
周りを、共同体を、そして次の世代をとか、自分よりも
なるべく周りを優先して考えるように訓練する。

慈悲の心とは、実は自意識過剰な意識を他者に移す、
訓練でもあるのでは、なかろうか、、、。

私は、日本の思想体系とは、まさにそのことが
中心あると思う。

いろんな歴史を調べれば、この日本という国の
先人たちは、どれだけ身をささげて、社会に
貢献してきたことか。

その辺りを色々調べていると、自分の心のなかに、
とても共振現象が起こるというか、熱いものを感じる。

今年94歳になるうちの会社の会長さん。

終戦を22歳で迎え、会長の同級生の半分が、戦死した世代だ。

会長は、あくまでも、どんなことがあっても戦争反対の立場だが、
その会長が「日本人なら、一度、知覧に行って来い」
と言っていた。

特攻隊をどう見るか、人それぞれだが、その遺書、手紙を見ると、
胸が熱くなる。

あいつらは、洗脳されたとか、犬死だったという人もいるが、
そのようなとらえ方というのは、あまりにも熟慮にかける。

日本の歴史、民族性、社会のあり方、気候、風土、地理的条件などなど、
あらゆる角度から見て、自分より大事なモノがあるというの考えは、
自然にわいてくるだろうし、その先輩達もそうしてきた。

次の世代に何を残すか、この思想的なことも
非常に大事なように思う。

さらに維摩経について、もう少し続く、、、。



posted by hide at 19:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「維摩経」は、面白い!!NHK Eテレを見て。先人の教えを現代の社会で活かそう〜!!

先週終わってしまったが、NHKのEテレ「100分de名著」で放映中の
「維摩経」、これが素晴らしくいい。

4回放映のシリーズだが、思わず、本屋へ行って、
そのテキストブックを買ってしまった。

「維摩経」の説明については、詳しいことは、ネットで調べて
いただくとして、簡単に言えば、仏教において、出家者ではなく、
在家者としての道を選んだ人物らしい。この人の教えが、
日本の仏教界に大きな影響を与えた。

ではテキストブックの中から、いくつかの
教えを書き起こしたい。

「ここに一つの食器があったとしましょう。有名なブランドの
高価な食器だと聞けば、なんとなくそれを美しいモノのように
感じる人は多いでしょう。しかし、もしそれが大嫌いな人が
使った食器だとわかると、触れるのさえ疎ましい不浄なモノに
思えてきます。同じ食器でありながらもそんなふうに状況に
よって感じ方が変わるのは、浄・不浄という感覚が、自分という
フィルターによって生じたものだからです。
 自分というフィルターをものごとを見ていては、本質は
見えてきません。自分というフィルターを外すこと、つまり
「とらわれを捨てる」ことが、まずは大切なのです。このように、
何事にもとらわれずにものごとを見ることが、仏教でいう
「智慧」です。


これって、日常的にあることだと思う。

まったく、同じことを体験しても、同じことを見ても
その捉え方が人によって全く違う。

各々自身のフィルターがあり、その主観により、
いくら同じ環境に生きていても、まったくその世界観というのか、
なんというのか、違ってきてしまう。

他人からの善意を上手く受け取れる人というのは、
自身も善意をもって、人に接している人なのかもしれない。

いつも他人の噂話ばかり気にしている人は、
その世界観から離れられない。

つまり、幸福も不幸も、自分が作り出しているようなもの。

何かあるたびに、自分は不幸だ、不幸だと呟く人、、、。

同じことが起こっても、自分は運がついている、誰かが導いてくれている
と思う人と、その幸福感が違うし、周りの人はどちらの人に
寄っていくだろうか。

体全体から不幸なオーラを出している人に、
近寄りたいだろうか。

それに、まったく視野も違ってくる。

何か自分に降りかかってくることが、宿命だとすると、
その捉え方によって、まったくその後の人生が変わってくると思う。

さらに、先に進みたい。

智慧と慈悲の実践

文殊菩薩
「菩薩はどのようにして仏陀の悟りへと到達するのですか?」

維摩居士
「もし菩薩が自ら苦悩と罪に満ちた迷いの世界(非道)へと行き、
そこを生き抜くならば、これこそ悟りへの到達です」

維摩居士
「仏陀となる素質は何だとおみますか?」

文殊菩薩
「煩悩も、仏教以外の教えも、仏陀となる素質です。すでに悟りを
得た人は、それ以上悟りを求めることはしません。その人は、煩悩の
泥の中へとまみれることが仏道の実践になるのです。空中に種があっても
芽は出ませんが、泥土の中にあれば芽をふくのと同じです。大会の底に
潜らなければ海の底の宝が手に入らないように、煩悩の中を生きぬかなければ
智慧を獲得して実践することはできません」


毎日、毎日いろんなことが起こる。

さらに、何かを得ても、それでは満足できずに
次のモノを求めたがるのが人間の性、、、。

生きていくうえで、どうしても、悩み不安はなかなか解消されない。
それが人生であり、その中で、毎日、毎日、積み上げるように
学んでいくことこそ、人生そのものだと思う。

その学ぶというのも、自分がどのようなフィルターを持つかによって、
かなり変わってくし、素直さと勇気、そして忍耐力が必要になってくるであろう。

逆に智慧がだんだんとついてくれば、忍耐に対するその対象が変わってくるで
あろうし、智慧と忍耐というのは、常に相関関係にある。

「現場100回」、ある人のことばであるが、
何度も現場に足を運んで、よく観察して、実践しないと
その本質など、見えやしない。

それと同じ、、。
智慧だって活かしてなんぼである。

次に行きたい。

病気になった維摩は、見舞いに訪れた人に向かって
こう語ったという。

「みなさん、この私を見てどう感じますか。この身体は無常で、
無力で、確かなものではありません。刻々と衰えていき、頼りに
なりません。しかし、仏教の教えによって智慧を得た者は、
このような身体を頼りにすることはありません。
 私は、”自分というもの”を頼りにしてしまうと、貪りの心や
迷いを生み出してしまいます。そもそも私たちの体は四つの元素
(地・水・火・風)の集合体として成り立っていて、さまざまな
因縁によって、たまたま成立しているだけなのです。やがては
構成要素は朽ちていき、バラバラに分離してしまいます。
”単独で成立し、決して変化せず、何者にも関係しない存在”など、
この世にはないのです。っそいて、この集合したものの本質を
『空』と表現します。しかし仏となれば、もはや永遠の存在となるの
ですから、私たちはそれを願い求めなければなりません」
と、、、。

「仏教が説くように、自分という枠組みが強ければ強いほど、
我々の苦悩の強度は増すことになります。自分というものの濃度が
濃ければ濃いほど、苦悩の溝は深くなるのです」
と、、、。

よくよく周りを見てみると、例えば人間関係に苦悩している人、、、。

いくらアドバイスをしても、まったく受け付けない。

心が苦悩に占領されて、周りが見えない。

自意識過剰なくらい、自分というモノに意識が集中している。

江戸時代の鈴木正三は、
「我が身を思う念(自己保身)」が分別(煩悩)の本質である」
と言ったとか、、、。

では、その自分という実態があるのだろうか?

「そもそも私たちの体は四つの元素
(地・水・火・風)の集合体として成り立っていて、さまざまな
因縁によって、たまたま成立しているだけなのです。」
維摩経もしくは、仏教ではこのように説明している。

もう少し現在風に説明するならば、
大部分の人間の体というのは、そのほとんどは、
水であり空気中の二酸化炭素であり、
焼かれればその水と二酸化炭素に戻っていく。

生きているうちも、人間を構成している70%が水であり、その水が
汗や尿として、絶えず出たり、入ったりを繰り返す。

そして、人間の細胞とは、絶えず新陳代謝を繰り返し、
2年もすれば、すべての細胞が入れ替わっているという。

私の今、体の中にある水のほとんどが、もとは海の水であり、
絶えず、海と私の体を行ったり来たりしていることになる。

私の体の細胞を構成する炭素も、絶えず死んだり再生したりしているので、
空気中と私の体を行ったり来たりしている。

さらに、体の中にある60兆モノ細胞に対し、影響し合っているが
自立した生命体である100兆ほどの微生物が住み着いているという。

これらが、たまたま何かの縁で集まって、私の体というモノを
今、現在構成している。

体ではなく、その個人の人格にしてもそうだ。

ある精神科医が言っていたが
「人間とは、とても社会性がある動物で
著しく周りから影響を受けている」
と、、、。

確かに、オオカミに育てられた少年が、オオカミのような
習性を身に着けてしまう。

中国人は、中国人らしく、日本人は日本人らしく
育っていく。

私は、二十歳ぐらいまで、祖父母と寝起きを共にしていた
おじいさんおばあさん子だ。

歳を重ねるにつれ、その祖父母の影響を受けているような
気がする。

祖父母だけではない、父母、上司、恩師、友人、
さらにすでに亡くなっている文字を通じて、道元さん、親鸞さんなどの
影響も受けている。

もし、それらの人らに巡り合わせずにオオカミに育てられれば、
オオカミのようになっていたのであろう。

また、私に影響を受けた人も、そのまた両親がおられるし、
その人たちにも、両親がおられる。

つまり、長年続いてきた人間の意識の集合体により、
私という人格が作られていることになる。

これって、本当に「私」、、、?

ただ、有史以来、存続する人間の意識の集合体のほんの
一現象に過ぎない。

体も、本当に「私」なの、、、?

ただ、大きな水と二酸化炭素の循環の中に、体が存在するだけ
なのでは、、、。

そう思えば、「私」なんて何もないのでは、、、。

逆に言えば、海も、空気も私自身、、、。

つまり、自分というモノがあってないようなものだ。

自分なんて、すべて空っぽ、、、。

自分という意識(自我)を薄めれば、もしかすると煩悩も
薄まるのではなかろうか、、、。

放送の中で
「智慧と慈悲、これこそが『This is the 仏教』である」
というようなことを語っていた。

その智慧をつけるにも、ただ出家して、
世俗の世界を離れて追究するよりも、泥の中でしか
ハスの花は咲かない、つまり世俗の世界を生き抜くことこそ、
仏の教えを追及する真の道であると、維摩経は説いている。

放送の中で
「何処にも逃げ道などない。苦難の今を引き受け、
苦難の世俗を生き抜く覚悟がいる」

というようなことを言っていた。

そして、自分を忘れる為に、自分よりも大事なモノって
ないのだろうか。

それは、周りに尽くすこと。

家族であり、仲間であり、例えば次の世代であり、
公共心と社会性についても、維摩経が主張する大事なことである。

それが「慈悲」につながっているように思う。

自分を忘れる為に、周りに目を向ける。

そのために、周りに尽くすこと。

周りに意識を移すことが自我を忘れることであり、
煩悩を薄めることにつながる。

すべてがつながっているのであり、
ある人が言っていたが
「みんなは自分、自分はみんな」
ということ。

せっせと家族に奉仕する、社会に奉仕する、次の世代に奉仕する、
それが自分を忘れる一番の近道、「慈悲」の心であるのだろう。

放送の中でも、ある菩薩が、世の中汚いものだらけ、、、。

そんな中で、どのように仏の教えを実践するのか、、、。

というようなことを語られていたが、その世俗の中で、
生きてこそ真理が追究できるということ。

そのことを維摩経では強く主張している。

おもしろいね〜。

まだまだ、次に続く、、、。



posted by hide at 08:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする