2017年07月03日

Eテレ100分で名著「維摩経」の最終版!!お世話され上手の正体とは、、、。

 NHKのEテレ「100分de名著」で
やっていた「維摩経」、ゲストのあるお坊さんが
こんなことを言っていた。

「高齢者の介護にかかわっていると、ある世代から
急速にお世話されるのが苦手な世代があることに気が付いた。
だんだんと都市化するにつれて、人に迷惑をかけなければ、
「自由」である、という考え方が美徳とされるが、
ある意味、傲慢でもある」

なるほど、なるほど。

私が住む辺り、周りはかなり住宅地に
なっているが、その流れに取り残されたような集落だ。

昔ながらの風習がまだ残っているような場所だが、
たとえば、うちのオヤジが年老いて、認知症になったとき、
近所の60代のおばさんが
「順番だでね〜。しょうがないわ」
と、、、。

うちの70代半ばになる母も、そのようなことを言っていた。

この「順番」という感覚、、、。

解剖学者の養老孟司がこんなことを言っていた。

「日本全国、都市化が進むにつれて、死とか、
老いというモノを、家庭から排除するようになった」
と、、、。

確かに、そうだと思う。

ほとんどの人が、病院で死に、老後は施設で過ごすのが
あたり前になった。

18年ほど前に亡くなったうちのおばあさん、、、。

働き者であったが、寝たきりの状態が7年間も続いた後、
家で老衰で亡くなった。

そのことって、今思えば、我々家族にとって、
いい体験になったのではなかろうか。

あるお坊さんが
「身近な人の死というのは、いずれ自分も亡くなるというということを
教えるためにある」

というようなことを言っていた。

人間だれでも、「老いる」ということ、「死ぬ」ということ。

あの信仰深くて優しかったおばあさんが、鬼のような顔をして、
とてもきついことを何度も言っていた。

特に排便に関して、おむつの中でするのが、とてもいやみたいで、
はいつくばってでも、トイレに行こうとしていた。

そんなおばあさんを、うちの母は、ほんとよく介護してくれた。

我が母ながら、とても感心する。

今ではすっかりアウトソーイングになってしまったが、
むかしの人は、人が順番に老いて、病気になり、亡くなっていく姿を
他人任せでなく、すぐ近くで、寄り添いながら見ている。

そうなれば、永遠の命など存在しない、
自分もいずれ亡くなるということを、しっかりと認識できるような
気がする。

「露とおち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢」

これは、秀吉の辞世の句であるが、あれだけ栄華を極めた秀吉も、
最後はすべてを残しで、死んでいく。

誰でも、老いて病気になり、そして一人で死んでいく。

「順番」という感覚も、身近な人のそのような場面になるべく、
接することで、身についていくのではなかろうか、、、。

話は変わるが、私はけっこう好奇心が強く、
博物館などによく行く。

そこで、学芸員の人やボランティアの人に、良く質問をする。

そんな時、うちの嫁は、決まって
「恥ずかしいからやめなさい」とか、
「迷惑になるでしょ〜」とか、

そんなことを言って、私が質問しているのを遮る。

いつも、いいところなのに、不完全燃焼のような状態で、
引きずられるようにその場を立ち去らないけない時も、
何度もあった。

しかし、「迷惑って」ほんとなのだろうか?

仕事でもそうだが、自分が知らないのに、質問もせずにそのまま過ごして、
知らないままで本当にいいのだろうか?
と思ってしまう。

それに、質問された方にしても、その質問をされることによって、
いろんなことを学ぶことができるのでは、、、。

私は、若いころ、ホテルマンであったが、お客さんに
いろんなことを尋ねられた。

このワインは、どんな味とか?
この料理は、どんな味付け?

とか、おいしい居酒屋はどこにある?
から、どこかで、チケットてにはいらないかな?
とか、その都度、調べていたら、ゆくゆくは
かなり知識が付くことになる。

「必要は習得の母である」

質問する方だけでなく、質問される方も、確実に
成長するように思う。

ある人が言っていたが
「知識・知恵などというのは、人類共通の財産だ。
だから溜め込んじゃ〜いけないんだよ。教わったことは
ドンドンといろんな人に伝えることが自分の為にもなる」

と、、、。

大変深い言葉である。

例えば、エジソンがもし原始時代に生まれていたら、
あのような数々の発明は出来ただろうか。

鉛筆も、紙も、工具も服もおぼつかない、
そんな環境では発明など出来るわけがなく、
むしろ食うものを必死に探す
毎日ではないだろうか。

人生の中で得た知恵や知識、
そんなモン自分固有のモノでない以上、
いいことはドンドンと周りに伝える。

私は、おせっかいなくらい、いいと思ったことは、
ドンドンと人に薦めたり、教えたりする。

他人は自分の鏡である。

自分がいつもそのような姿勢であれば、
「周りの人もにいつも自分に何か教えたがっている」
と、思えるようになってくる。

もちろんそういう人もいれば、そうでない人もいるであろう。

例えば、どこかの工場に見学に行ったとする。

そこに自分の好奇心を刺激するような、
変わった形のした面白そうな機械があった。

しかし、その機械の前にしかめっ面した気むずかしそうな
年配のおじさんが、説明係としてたっている。

果たして、あなたなら興味を持ったその機械について
その不機嫌そうなおじさんに質問するであろうか?

うちの嫁なら、「迷惑だから質問するのはやめなさい」
というであろう。
ここが私たち夫婦の大きな見識の違いである。

私ならその気むずかしいそうなおじさんが、
質問したとたんに表情が変わり、ニコニコしながら
教えてくれるような気がしてならない。

人間というのは、所詮は自分が持つ主観で動くモノ。

自分が迷惑だと思えば、相手に対しても迷惑に思えるモノだ。

逆に言えば、「同じように思う人を捜している」とも言える。

私のように人に「教えたい、教えたい」と思うような人なら、
相手もそのように見えてくるし、そういう人と波長が合い、
会話を楽しむことができる。

逆に、迷惑と思う人とは、会話してても、それほど面白くなく、
自然とその場を立ち去るであろう。

どちらのモノの見方がいいのか分からないが、
どちらの方が自分にとってプラスになるのだろうか。

自然と自分と同じなモノの見方を捜している以上、
「迷惑」と思っている人は、そういう人を引きつけてしまう。

また、人の心というのは千差万別。
自分が、過剰に迷惑と思ってそのようなチャンネルを持っていれば、
相手からもそのような感情を引き寄せてしまう。

「人の役に立つ」ということに対して、
喜びを感じる人って、けっこういると思う。

そういう感覚で、瞬間、瞬間を生き続ければ、
人生どのように変わってくるだろうか。

今、この瞬間が、「因」となり、次の瞬間の「果」となる。

人生とは、その「因」と「果」のつながりの連続である。

自分がどのようなことを心がけて生きるかで、
10年経てば、大きく変わってくる。

鈴木正三さんが
「我が身を思う念(自己保身)」が分別(煩悩)の本質である」
と語っておられたとか、、、。

では、我が身への意識を外に外にもっていけば、
煩悩も薄まるはずだ。

それには、家族に、社会に、そして次の世代へと
自分自身を奉仕するような感覚で生きるということは、
もしかしたら、自身の意識を外へ持っていくことになるのでは、、、。

仏教でいう「慈悲」というモノだと思う。

人生を乗り切る智慧、そして煩悩を薄める慈悲

この智慧と慈悲こそが、「This is the 仏教」
と言われるほど、仏教の根本原理とのこと。

それを見につけるのも、ただ出家して現場を離れるより、
世俗の中で、苦悩にまみれながらの方が、真の悟りを得ることが
できるような気がする。

今回のEテレ、100分で名著の「維摩経」、とてもよかった。

「維摩経」に、こだわる必要もないが、
とにかく、学ぶという気持ちがあれば、どのような教えから、
どのような場面でも、学べると思う。


posted by hide at 21:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする