2017年07月10日

過去も未来もない、ただ存在するのは、この瞬間だけ、、、。この瞬間が「因」となり、次の瞬間の「果」となる。その連続が人生そのもの、、、。

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うちの愛犬パンチくん。

我が家では、大活躍だ。

認知症がかなり進んでいるオヤジが話すことというと、
まず、このパンチのこと。

また、犬嫌いのうちの母が、
「パンチが死んだら、私も死ぬ」
というぐらい、犬が好きになってしまった。

このパンチの魅力とは、いったい何なんだろうか。

とにかく、人懐っこい。

誰でもじゃなくて、特に家族にものすごく甘えてて来る。

誰もいなくて一人で留守番しているときなんか、
私が帰ってくると、体中でその喜びを表し、すり寄ってくる。

そうかと思えば、うちの嫁が帰ってくれば、
もう嫁にべったり。

トイレに行こうが、今に居間に行こうがべったりとくっつき、
まるで家庭内ストーカーのようだ。

さっきまで、私にべったりだったのに、
もうそのことも忘れて、嫁にすり寄るパンチ。

また、その何にも考えずに、気の向くまま、本能で
生きている愛犬パンチくん。

散歩に連れてってほしいときは、私の目の前に現れ、
玄関に連れて行こうとする。

腹が減れば、わんわん吠えるし、眠くなれば、眠たそうな顔をして
いびきをかきながら寝ている。

そんなパンチを見ていると、ふと思ったことがある。

それは、パンチは、今を生きているということ。

例えば、明日病院で注射を打たなければならなくても、
本人は分からない。

過去のことをくよくよ悩むわけでもない。

今、あるこの瞬間が、パンチにとってすべてなんだ。

その瞬間を受け入れ、全力で生きている。

さみしいから、一人にしないでと思えば、
懸命に吠える。

散歩に連れていけば、思いっきり遊ぶ。

過去も未来もない、ただこの瞬間、それがパンチのすべてだ。

人間だってそうだ。

過去のことって、もうすでに終わってしまったこと。

未来のことって、
あれこれ考えてもしょうがない。

例えば、明日、お客さん所に謝り行かなくてはならないとしても、
それは明日のことであって、今日のことでもなく、
そのことで「いやだ、いやだ」と思っていても、
心に負担をかけるだけ。

それより、パンチのように、例えば謝る時も、
その場で全力で謝ればいいし、やれることを
めいいっぱいやるだけのこと。

シンプルるに、今日、この習慣をベストを尽くすのみ。

そして、この瞬間が、「因」となり、次の瞬間の「果」となる
ということを仏教で言っていた。

確かにその通りだと思う。

人生とは、その「因」と「果」の連続。

すべてつながっている。

例えば、今日、車の中が汚い。

毎日、車に乗るとき、あ〜、汚いな〜と
少し不快感を感じる。

では、それに気が付いたときやっていれば、
その後の不快感は、存在しない。

今日も、見過ごしてしまった自分が「因」となり、
その後の不快感が「果」となる。

例えば、うちの会社のM君を見ていると、
とにかく不器用で、呑み込みが悪く、世渡り下手だ。

しかし、いいところもある。

それは、素直であり、愚直であること。

分からないことを、しっかりと飲み込めないと、
動けない。

そして、分からないと素直に聞いてくし、
常に学ぼうという姿勢が、体からあふれている。

もし、どちらかというと、見栄っ張りな人がいるとする。

そういう人って、十年経ってみると、かなり損をしている。

「時は金なり」というように、
ただ頭がいいキャラで、そのキャラに縛られてしまえば、
素直に聞くことなどできやしない。
また、周りの目が気になって、チャレンジすることなど
出来なくなってしまう。

分からないことを素直に聞くということはできないし、
そのことから逃げようとするであろう。

毎日がチャンスである。

そのチャンスに、素直に向き合ってきた人と、
そうでない人の十年とかなり違ってきてしまう。

最近、仏教の維摩経にはまっているが
維摩がある人に、
「維摩さんは、今日はどこに行かれていたのですか?」

「道場に行っていて、道場に帰ります」
と、、、。

維摩の道場とは、出家ではなく、日常の生活の中に、
いろんな悟りがあるという立場だ。

泥の中でしか、蓮が咲かないように、いろんな人間の醜い部分を
見ながらでないと、けっして悟りなど得られなりという立場だ。

文殊菩薩は、

「煩悩も、仏教以外の教えも、仏陀となる素質です。すでに悟りを
得た人は、それ以上悟りを求めることはしません。その人は、煩悩の
泥の中へとまみれることが仏道の実践になるのです。空中に種があっても
芽は出ませんが、泥土の中にあれば芽をふくのと同じです。大海の底に
潜らなければ海の底の宝が手に入らないように、煩悩の中を生きぬかなければ
智慧を獲得して実践することはできません」

と、、、。

その世俗の中で、瞬間、瞬間を大事に生きていく。

過去のことを悔いても、その過去は、すでに存在しない。
あなたの心にあるだけ、、、。

未来のことを不安に思っても、それは今ではない。

すべて、自分の心が作り出すモノ、、、。

あるのは、今、この瞬間のみ、、、。

その瞬間、瞬間をべストを尽くしている、
そうすることにより、未来が開けていくのではなかろうか。

どんな未来になるかわからないが、自分のやれることというのは、
ただその瞬間、瞬間、ベストを尽くすだけしかやれない。

後は、もうお天道さんでも、仏さんでも、ご先祖さんにでも
任せておけばいい。

維摩経というのは、どちらかというと禅宗的。

そして、念仏系の
「阿弥陀様は、すべてを私に任せろ」
と言っているというスタイルを取り入れる。

維摩経であろうと、禅宗だろうが、真宗だろうが、
キリスト教だろうが、イスラム教だろうが、
自分にしっくりくるものは、どんどん取り入れていけばいい。

「仏教とは、科学だ」と言っていた人がいるが、
生きていくためのいろんな智慧が内在されている。



posted by hide at 07:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする