2016年09月12日

背中で教える生き方とは、、、。

 瀬戸で働き始めて、すでに20年がが経つ。

最近、ある地元のお客さんに、自分が瀬戸出身ではなく、
「母国語は三河弁です」と言ったら、驚かれた。

「あんた、瀬戸の人かと思った。瀬戸弁丸出しだし、
なんか昔から、この辺におる人のようだ」
と、言われた。

私にとっては、とてもうれしいほめ言葉だ。

たしかに、意識して瀬戸弁を話すようにしてきたが、
今ではこちらの言葉のが普通に出てくる。

やはり、地元の人たちとよりよいコミニケーションをとろうと
思うと、地元の方言ってとても大事なような気がする。

何か話をするにしても、全く対応がスムーズにいく。

「地元に入れば、地元に染まれ」
これは、私も元上司に体で教わったこと。

私が高校を卒業して最初に入った会社に、東京近郊出身の常務さんがいた。

その人は、実質、その会社のトップ。

その常務さんは、自分は中日ファンだという。

しかし、どう考えても、典型的な巨人ファンタイプだ。

バリバリの中日ファンの私に合うと、
多分、その日の中日新聞のドラゴンズの記事を読んだことを
話してくる。

中日ファンなのだか、実際は「中日ドラゴンズファンの勉強中」
というような感じだった。

その常務さんは、いろいろ物知りで、本来ならもっと
気難しいタイプ。

常務さんと私とでは、歳も違うし、育った環境もまったく違う。

どうにか、若いモンとコミニケーションを取ろうと、
努力されているようだ。

トップである以上、大変厳しいことも、私らに言わなくてはならない。

しかし、それも日ごろ、本来なら気難しいタイプなのに、
毎日、毎日、私のことを探してまで、ドラゴンズの話をしに来てくれる。

その常務さんには、よく逆らった。

私の同期が常務さんに怒られたことで、頭にきて、その常務さんが住んでいる
社宅にまで押しかけて、文句を言いに行ったこともある。

そんなごたごたもありながら、当時、まったく甘ちゃんだった若造に
一生懸命、コミニケーションを図ろうとする常務さん。

今思えば、本当に頭が下がる。

その姿勢って、私の人生の中で、幾度も生かされてきた。

常務さんが、もし巨人ファンだとして、
「わしは巨人ファンだ。わしの前で中日の話などするな」
というような態度では、みんなの心をつかむこともできないし、
せっかく違う土地にきているのだから、地元のことを
学ぶこともあまりできないのではなかろうか。

常務さんにとって、当時、最優先することとは何だったのか?

自身の巨人ファンというアイデンティティーを主張することなのか?

それより、任された会社を上手く運営し、多くの社員を取り込みながら、
共に成長していく、そんな姿勢だったような気がする。

その常務さんは、「少数精鋭」を掲げ、全社員に、通信教育をやらせ、
いろんな免許を取るようにさせていた。

私などは、当時そのような勉強が嫌いで
「何で、高校出てまで勉強しなくてはならないんだ。
勉強が嫌で、就職したんだぞ〜」
というようなことを言って、反抗したものだ。

まったく、廻りが見えない甘ちゃんであった。

今では、その頃仕込まれた勉強癖のおかげで、どれほど
助かったいることか。

その常務さんは、数年ほど前亡くなられた。

その前に、手紙を書いた。

その当時、常務さんは、かなりの重病で、
それでも、返事が返ってきた。

ありがたいことだ。

常務さんは亡くなられたが、私の中で、常務さんの教え、
生きる姿勢というモノが、生きている。

そのように、常務さんから、私に、私も同じような気持ちで
生きていれば、誰かに影響を与えるのかもしれない。

さらにさかのぼれば、その常務さんにも、親がおり、
お世話になった上司、先輩の方々がいる。

それに、読書好きの常務さんなら、本からいろんなことを学んで
いるはずだ。

人間社会にとって、文字というのは、時代を超えて、
大きな影響を与えることになる。

何百年も前に生きていた親鸞さんや道元さんから、
多くの人が現代も影響を受けている。

そんな中に、常務さんも、私も、生きている。

そして、その人間社会の大きな大きな集団意識に強い影響を
受けながら、私という人格が形成されている。

つながっている、明らかに大きなモノにすべての人が
つながっている。

そういう認識って、今後、とても大事になってくるように思う。
posted by hide at 07:49| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
関行男と神風特別攻撃隊 ”KAのために死ぬ”


プーチン大統領の広島・長崎訪問は可能か? c AFP 2016/ JIJI Press
オピニオン
2016年09月18日 20:39(アップデート 2016年09月19日 03:37)

 http://sptnkne.ws/ckTS


9月15日に明らかになったところでは、広島及び長崎の市当局は、プーチン大統領に対し、両市を訪れるよう要請した。

米国による原爆投下により大きな被害を受けた場所への大統領の訪問は、どのような場合でも、画期的な出来事となり、ロ日関係にとってのみならず、ロ米関係にとっても大きな政治的意味合いを持つものになるだろう。

プーチン大統領と安倍首相
c SPUTNIK/ MICHAEL KLIMENTYEV
長崎市長「プーチン大統領訪問、実現すれば歓迎」


ロシア科学アカデミー極東研究所日本調査センターのヴィクトル・パヴリャテンコ主任研究員は、情報通信社「エコノミカ・セヴォードニャ」の取材に応じ「今回の招待は、1945年に米国人達がどれだけ野蛮な行為をしたかを強調しようとする日本政府の試みだ」と指摘した。
パヴリャテンコ主任研究員は「このプランにより、プーチン大統領は、今年のG7伊勢志摩サミットの際、広島だけを訪れた米国のオバマ大統領を『凌ぐ』ことになるに違いない」と見ている。

主任研究員は、次のように述べた-「ロシアにとってプーチン大統領の広島・長崎訪問には、何らかの特別な意味がないことは明らかだ。なぜなら我が国は、これまで70年間ずっと、これら米国の原爆投下を非難してきたからだ。この問題に関するロシアの立場は、首尾一貫しており、皆が良く知っている。ここではロシアは常に、日本の側に立ってきた。ゆえに、プーチン大統領がそうした訪問をしても、何も新しいものはないだろう。」

パヴリャテンコ主任研究員によれば、この歴史の中に、裏に隠された一定の意味を見つけることができるというのは、また別の問題である。あの戦争で同盟国だった米国を、ロシアが非難し、当時戦っていた日本の側に立つことになるからだ。研究員は、次のように続けた-

核大国になるため憲法をどう解釈すべきか
c AFP 2016/ TOSHIFUMI KITAMURA
「核兵器は大分前から少なくとも沖縄に存在している」―日本学者


「これは、日本と政治的に接近しているというデモンストレーションだ。モスクワの側からではなく、むしろ日本側からの一歩である。ここで日本人達は、自分達の路線を続けている。それは、彼らがウラジオストクでの第2回東方経済フォーラムで示したもので、その時、日本政府は、ロシア政府との関係発展を目指す意向を示した。そもそも日本のロシア政策の中には、大変多くの様々なデモンストレーションがあったが、今のところ、それは、何らかの実際的成果をもたらしてはいない。」
それゆえ、パヴリャテンコ主任研究員によれば、今日、大変深刻な疑いが存在している。プーチン大統領は、議論の余地ある措置に踏み出すだろうか、まして訪問は、オバマ氏の行動に似ているとの類推をすぐに呼び起こすのではないのかというものだ。

最後に、ペスコフ大統領報道官の発言に注意を促したいと思う。彼は、日本側からプーチン大統領あてに送られた広島・長崎両市訪問の招待状は、現在、外交ルートで調整がなされていると述べている。

なお記事の中で述べられている見解は、必ずしも編集部の立場とは一致していません。

__________________________________


豊岳正彦
18:16 18.09.2016 | 編集する | カットする


我々日本人仏教徒庶民のご先祖様関行男(せきつらお)大尉敷島隊隊長が身を捨てて護ろうとした「母なる大地KA」が住む日本国本土防衛の最前線沖縄県、

平和を愛する多くの老若男女善男善女仏教徒沖縄県民の我々のご先祖様が戦争で命を落とした沖縄県へも、

プーチン大統領には是非訪れて頂きたい。




豊岳正彦
00:08 19.09.2016 | 編集する | カットする


「決定版 昭和史」第11巻(毎日新聞社1983年発行)p176,177に、関行男せきゆきお大尉(愛媛県生まれ)と同い年のシナリオライター須崎勝彌氏(鹿児島県生まれ)が綴った文章が掲載されている。全文タイプする。

関行男と神風特攻隊 ”KAのために死ぬ”

”軍神”にされた特攻第一号

 私が神風しんぷう特別攻撃隊の最初の指揮官であった海軍大尉関行男せきゆきおの名を知ったのは、大分県の宇佐海軍航空隊にいたときである。そのころ、私はいわゆる学徒出陣組の第一四期海軍飛行予備学生の一員として、艦上攻撃機の操縦訓練を受けていた。

 特攻第一号として軍神になった関行男の名は、そのつど戦意高揚の場に引き出された。軍神とは、初めからそのためにつくられるものである。彼にも人間くさい愛すべき欠陥があったであろうに、彼本来の人となりはすべて覆いかくされて、全身全霊これ闘魂、至誠至忠の武人の鑑とされてしまった。それに加えて、わが宇佐航空隊では飛行隊長のY大尉が私たちの前で言葉を荒立てた。

「関は兵学校で俺の後輩だ。特攻に出て行けるのは兵学校を出た士官だけである。先日士官室で貴様たちの先輩(宇佐にいた一〇期から一三期までの予備士官のこと)に特攻志願の有無を問うたところ一瞬躊躇した野郎がいる!」

 これで私たちが関大尉へ寄せていた敬愛の情もぷっつり切れてしまった。しかしこっちには生きているという弱みがある。関行男の名はその後も私たちに、のしかかるような重圧を加え続けた。

 明けて昭和二十年、桜の開花に時を合わせて宇佐航空隊が保有する艦攻艦爆の全機が特攻機となって沖縄海域へ投入されることになった。そのとき私たちの仲間の某少尉が士官室にどなり込んだ。

「とかなんとか言いやがって、みろ!出て行く者出て行く者、予備士官ばっかりじゃないか!」

 彼の、死地におもむく学徒出陣の仲間への痛惜の想いが、司令以下の全士官を沈黙させた。このときかぎり私たちにのしかかっていた関行男の重圧は消えた。



人間としての関行男

 戦後二〇年ほどしてから、学徒出陣の同期のT君が語ってくれたことがある。昭和一九年の九月に彼は要務士(情報将校)として単身フィリピンに赴任するので、追浜(おっぱま)の大日本航空の待合室で飛行艇の出発便を待っていた。

 そのときT君は海軍大尉の襟章をつけた士官と向かい合って座った。士官の隣には若く美しい婦人が慎ましげに座っていた。二人はまったく口をきかないし、二人の間の距離からしても、T君は彼等はお互いに他人であると判断した。

やがて拡声器から、天候不良のため出発を明日に延期するという情報が伝達されると、大尉が立ち上がった。一瞬遅れて婦人も立ち上がった。そして二人は抱擁せんばかりに手を取り合い、大尉のほうが先に声をかけた。

「よかったね」

「ええ」

 大尉を見上げる婦人の顔はたくまずして美しかった。二人は夫婦だったのだ。思いがけず拾った一日という時間をさも大事そうに、二人はゆっくりと待合室を出て行った。

 翌日飛行艇の中で、T君が台南航空隊に赴任するというその大尉と交換した名刺には、関行男の名が印刷されていた。


 T君が語ってくれた一場面を加えることで関行男のイメージはがらりと変わる。変わって私はほっとした。戦時中の軍神のまま凍り付いていた関行男に体温を感じたからである。

 神風特別攻撃隊とは、善くも悪くも日本が君主国から民主国へ脱皮するための痛みであった。これを抹消することは昭和史の落丁を意味する。だから特攻第一号の関行男の生と死の態様をおろそかにはできない。




最愛の者のために死ぬんだ

 神風特別攻撃隊の最初の指揮官は志願ではない。指名であったことは当時のすべての記録が一致している。指名する立場からすると技量の優れたパイロットを一回こっきりの特攻で殺すのはもったいない。そこには明確な用兵上の論理がある。

 では指名された関はどういうパイロットだったのか。彼はもともと戦闘機乗りではない。艦爆の操縦員である。それがなぜ特攻作戦が始まるわずか一ヶ月前に台南航空隊を経て、フィリピンに展開中の二〇一航空隊に転勤してきたのか。それも戦闘機隊の分隊長として。それまでに彼は零戦の操縦訓練を受けたことがあるのだろうか。戦闘機乗りとしてみるかぎり、関は殺すには惜しいベテランパイロットではない。


 深夜突然に指名を受けたとき、関は両肘を机の上について、オールバックにした長髪の頭を両手で抱えて沈黙した。それはだれが見ても激しい迷いの姿である。やがて関は答えたという。そのときの関の言葉は語る者によってまちまちだ。ある者は、

「ぜひ私にやらせてください」と言ったといい、ある者は、

「承知しました」と言ったという。


 すでに追浜の待合室の場面を知っている読者なら、どちらが関の真実の言葉であったか判断してくださると思う。

 関は新聞記者の報道班員に言い残している。

「僕には体当たりしなくても敵空母に五〇番(五〇〇キロ爆弾)を命中させる自信がある。日本もおしまいだよ。ぼくのような優秀なパイロットを殺すなんてね」

 特攻隊に先入観を持つ人は奇異に感じるかもしれないが、かつての日本海軍にはこの程度のことを言う言論の自由は最後まであったように思う。そしてこれらの言葉は関の迷いやぐちを述べたものではない。死の決意を固めるための逆噴射として聞くべきであろう。さらに関は言っている。

「僕は天皇陛下のためとか、日本帝国のためとかで行くんじゃない。

KA(海軍の隠語で女房のこと)を護るために行くんだ。

最愛の者のために死ぬ。

どうだ、すばらしいだろう」


 この言葉を宇佐航空隊のY大尉が聞いていたら、彼はわれわれ予備士官の前で、関は兵学校の俺の後輩だと力むこともしなかっただろう。逆にわれわれが聞いていたとしたら、関に海軍士官としてのマイナスイメージを抱くことは絶対になかっただろうし、かえって敬愛の情を深めたと思う。

 関は霞ヶ浦で練習機の教官をしていた頃、異様な激しさで飛行学生を修正(鉄拳制裁)したという。内向的な男が外向的であることを求められる軍隊という組織の中で自己改革を試みるとき、そういう態度に出る例を私もいくつか見てきた。関はあえて他人から嫌われることで自分を鍛えようとしたふしがある。戦時中の軍人には許されるとしても、それは人間としてまっとうな生き方ではない。

 そんな時期に関は熱烈な恋愛をした。関は夫人となった満里子さんによって救われたといっていい。だから関は満里子さんへの感謝をこめて言ったのだ。

「最愛の者のために死ぬ。

どうだ、すばらしいだろう」
Posted by ほうがくしょうげん拝 at 2016年09月19日 11:03

死に追いたてられた四度目の出撃

 神風特別攻撃隊の任務は、戦艦大和以下の艦隊がフィリピン群島を西から東に抜けてレイテへ突入するのを助けることだった。艦隊の突入は十月二十五日、関たちはそれまでに敵空母群を撃滅しなければならなかった。しかし関の率いる爆装零戦五機は出撃するたびに目標を発見できず、三度出て三度帰った。これでは艦隊との連携作戦がかみ合わない。

 司令部はいら立った。関への不信と疑惑が深まらないはずはない。最初の出撃の時は期せずして見送る隊員たちの間から”海征(ゆ)かば”の大合唱が起こったという。二度目はどうだったろう。そして三度目は。連携作戦ぎりぎりの十月二十五日、関は四度目の出撃にあたって言われた。

「もう帰ってくるな」

 たとえ攻撃目標を発見できなくても死んでこいということだ。体当たりと死は不可分のものと信じたからこそ関は恥をしのんで再起三起をはかった。しかし死は戦果とは無関係に独立して関を縛った。


 関は四度マバラカット基地を離陸した。そして護送空母セント・ローの甲板に二五〇キロ爆弾もろともその若い肉体を砕いた。文字どおり一機一艦を葬ったとなると、これにかぎるとばかりその後の日本海軍は特攻に明け暮れた。それはもはや関の関知するところではない。





 昭和三年四月一日にさかのぼる。関は愛媛県西条の小学校に入学した。同じ日に私も鹿児島の田舎の小学校に入学した。その年の日本の一年生の男の子たちは、後に戦争で大きな被害を受ける殉難の世代となった。神風特別攻撃隊の魁(さきがけ)となった関はその象徴といえよう。生き残った者は同世代の死者に対して鎮魂の言葉を持たなくてはなるまい。

「君たちの命が若くして失われたためにできたわが世代の陥没は、永久に埋まることはない。

わが世代が迫力を欠くとしたら、そのゆえである」

              (了)




遺書
検閲のため表向きに書いたと思われる箇所を()内に収めた。身内への遺書に教え子宛があるのは不自然ゆえ。



父上様、母上様  西条の母上には幼時より御苦労ばかりおかけし、不孝の段、お許し下さいませ。

(今回帝国勝敗の岐路に立ち、身を以て君恩に報ずる覚悟です。武人の本懐此れにすぐることはありません。)  

鎌倉の御両親に於かれましては、本当に心から可愛がっていただき、その御恩に報いる事も出来ず征く事を、御許し下さいませ。
 (本日、帝国の為、身を以て母艦に体当たりを行ひ、君恩に報ずる覚悟です。)
皆様御体大切に

満里子殿  何もしてやる事も出来ず散り行く事はお前に対して誠にすまぬと思って居る  何も言はずとも 武人の妻の覚悟は十分出来ている事と思ふ 

御両親様に孝養を専一と心掛け生活して行く様  色々と思出をたどりながら出発前に記す  

恵美ちゃん坊主も元気でやれ

(教へ子へ  教へ子よ散れ山桜此の如くに)

注釈
^ 戸籍と親族の証言によれば、名前の読みは「ゆきお」である。
一方、小沢孝公は関から「おれの名前のツラオというのは、おれの親爺さんが、楠正行(まさつら)の一字をとって、おれがりっぱに国に御奉公できるようにと考えてつけてくれたんだ」と聞いたという


__________________________
Posted by at 2016年09月19日 11:04
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