2016年09月20日

幸せを感じれる力、「幸福力」とは、、、。

こないだの土曜日早朝のラジオ放送、
「なぜ生きる2」が、とてもよかった。

「死」、「病」、「老」、「別れ」と、
誰もが訪れることになる人間の4大苦について、
語られていた。

その中で、
「病気になれば、誰もが煩悩が減る」
というようなことを言っていた。

確かにそうなのかもしれない。

もし、いっぱいお金を持っていても、
誰もがうらやむ地位にあっても、病気であれば、
なかなか幸福を感じることはできない。

歩くこと、食べること、手、足を動かすこと、
呼吸すること、会話することなどなど、
呼吸困難で、食べることが出来ず、そんな状態で
高級ホテルに泊まり、最高のフレンチを出されて、
美女と食事しても、果たして楽しいと思えるだろうか。

6年前に亡くなったうちの伯母。

すい臓がんと肝臓がんを併発し、そのことを申告されてから
ちょうど一年後に亡くなった。

伯母が闘病しているときに、ある日、私のところに電話があった。
「便が出た、便が出た、黄色いウンチが出た」
と、大喜びで電話があった。

傍から見れば、おかしな話である。

毎日、当たり前のようにするものであるが、
一般的には「汚いモノ」。

誰もが嫌がるモノであるし、便が出たからといって
大喜びするようなものではない。

しかし、その当たり前の行為でも、もし体を壊し、
でなくなれば、どうだろうか。

伯母はまったく便が出なかったが、その時、
薬の投与で出るようになった。

周りをよく見れば、脳こうそくになり、片方の足、手が
動かない人もいる。

うちのオヤジなどは、長年、喘息に苦しみ、
ある日、夜中、息が出来なくなり、仏壇の前で
死を覚悟したという。

そういう人たちにとって、我々があたり前に思っている
「健康」って、どれほど幸福なことか。

あたり前の幸せって、本当に「あたり前」なのか?

水道をひねれば、飲めるほどのきれいな水が溢れ出る。

スパーへ行けば、食糧があふれかえっている。

世界的に見れば、どれほどの人が水不足で苦しんでいるのか。
どれほどの人が、飢えで苦しんでいるのか。

時代軸で見ても、これほど飽食の時代があっただろうか。

うちのオヤジの昔の思い出話は、そのほとんどが
「あれ食べた、これ食べた」というような話、、、。

それだけ、食べるということに執着が強かった。
逆に言えば、ハンバーガーもない、レストランもない、
兄弟姉妹も多かったうちのオヤジは、なかなか思う存分、
食べられなかったのだろう。

ある人が言っていたが、しあわせを感じる力、「幸福力」って、
人それぞれ違うと思う。

劣等感やコンプレックスというのは、確かに自身を動かす
原動力になると思う。

しかし、それだけではいずれ息詰まる。

周りに感謝できる、
何もかもつながっていると感じることができる,
何かに守られていると感じれることができるなど、
本当の自由とは、自身の幸福力が、自分を解放する
ことになるのでは、、、。

どんなにお金持ちでも、どんなに偉い人でも、
逆にそのことが、その人を苦しめることにもなりかねない。

やがては、すべてを置いて、魂一つで旅立つこの身の上。

本当に、それがいるのか?
本当に、そうあるべきなのか?
本当に、認めてもらう必要があるのか?

何のために生きるのか、もっとシンプルによくよく考えれば、
かなりすっきりし、本当の幸福感が味わえるような気がして
ならない。

より客観的に自分を見つめることができるのであれば、
まったく、世の中を見るモノサシが変わってくるような気がする。

posted by hide at 18:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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