2017年01月15日

森林・石炭・石油へ、、、。エネルギー史がもたらす社会の大変換から大東亜戦争へ。

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我が街の市の図書館に、この本のリクエストを出し、
先週、やっと取り寄せてくれた。

しかし、自分でこの本を買うことにした。

それだけ、非常に価値のある本だ。

「水力発電が日本を救う 今あるダムで年間2兆円超の
  電力を増やせる」
  著者は、 元国土交通省河川局長 竹村公太郎であるが、


水力、ダムのプロ中のプロが何を語るのか、
どうか多くの人に読んでいただきたい。

エネルギー史から見た文明論、歴史論、まったく違った視点からの切り口、、、。

確かに、信長がどうの、、、龍馬がどうの、、、と、人物中心の歴史観という
のは、無理がある。

それよりも、地形、気候、そしてその社会を根本から支える
エネルギー源とは何なのか、、、?

それらにより、大きく道徳、宗教、哲学、生活習慣から
社会全体まで、大きく変化する力を持っている。

政権を握るにも、多くの人の支持が得られなくては、成立するものではない。

それに大きく左右するのが、社会のインフラであり、その土地の
気候、風土、地形などが深く関係してくる。

この辺りのことをこの本から、よくよく読み取っていただけたらと思い、
ちょっと長くなってしまったが、この本のP.103〜119まで、
書き起こさせてもらった。

エネルギー史が与えた社会に対する大きな影響、、、。

そして、原発、化石燃料、そして地球温暖化、資源の枯渇などなど、
この先どう考えても、我々の生活が崩壊する現実に直面して、
新しい大きな変革が我々にとって、必要なのが、明らかになってきた。

日本社会だけを考えれば、著者である武村氏は、専門家の視点からして、
今、現実のダムや水路などの施設が十分に使いきられておらず、
新しい大型ダムなどを建設しなくても、水力だけで2兆円規模の
電力が掘り起こせると指摘している。

著者である水力、土木などのプロ中のプロである竹村公太郎氏の言葉であるが
「日本のだむは、ちょっと手をくわえるだけで、現在の水力発電の何倍もの
潜在力を簡単に引き出せる。この事実を、今、数少なくなった
「水力のプロ」としての私の義務であると考えています」
と、、、。

そして、その具体的な方法、技術がとてもシンプルに
簡単に分かりやすく、書き綴られている。

とても読みやすい本である。

新年始まったばかりであるが、この本が今年の私のベストブックに
なることは、間違いないと思う。

それでは、すべて書き起こしたいほどであるが、
今日はこれぐらいにしときましたので、どうかお読み下さい。


奈良盆地から京都への遷都はエネルギー不足が原因

かつて、日本の中心は奈良盆地におかれていた。飛鳥京、藤原京、
平城京と、六世紀から八世紀までの約二百年間、日本の都は奈良盆地にあった。
 ところが八世紀末、突然のように桓武天皇によって、奈良から京都へと
都が移される。
 まず、長岡京が作られ、それから10年の西暦794年に、平安京へと
遷都された。奈良から京都(平安京)への遷都について、歴史家は様々な
理由を挙げている。
 例えば、天智天皇家と天武天皇家の争い、藤原氏との確執、仏教と道教の
対立など、政治や宗教に選との理由を求めている。
 だが、私は歴史の専門家ではないので、複雑な人間模様に基く原因を文献から
探ることは出来ない。
 ただ、土木技術者の目で当時の都のインフラを見ると、確実に分かることがある。
「奈良にはもう、エネルギーが残っていなかった」という事実である。
 当時の人々のエネルギー源は薪、つまり木材だった。ほかにも木材は
建築材に使われており、当時の社会では、人一人当たり年間10本ほどの立木が
必要だったと推定できる。
 都がおかれていた頃の奈良盆地には、ピーク時で、約20万人の人口があったと
言われているが、平均で10万人だったとしてみよう。年間に一人当たり10本の
立木を必要としたとすると、奈良盆地全体では年間100万本の木を伐ることになる。
 100万本もの立木が伐採するとは、毎年、100万坪の森林を消失させる
イメージである。奈良の都は200年も続いている。単純に考えて、年に
100万本ずつ200年も立木を伐採し続ければ、奈良盆地の周囲の山に木は
残らなくなるのが当然だ。
 つまり、森が消失してしまい、生活に必要なエネルギーを調達できなくなったため、
奈良にはもう大勢の人が住めなくなったということだ。
 これは、単なる想像だけでなく、証拠として文献記録が残っている。
 コンラッド・タットマンという歴史学者が、日本全国の神社仏閣に使用された
木材の出所(伐採地)を、古文書の記録によって調べた。
 すると、奈良時代の後半には、伐採のエリアが奈良盆地の周辺をはるか超えて、
紀伊半島から琵琶湖の北にまで広がっていたのである。
 これは、奈良時代後半、琵琶湖や紀伊半島の先まで行かなければ、木材が手に
入らなかったということを意味している。
 つまり、京都に都が移されたのは、奈良周辺の山々は禿山になってしまっていて、
もう木材エネルギーを手に入れることができなくなっていたから、と結論できる。
 このように、エネルギーに注目すると、歴史的事件の思わぬ真相が
浮かび上がってくることがある。

家康が江戸に幕府を開いた理由は豊富なエネルギーだった

 世界の中心の文明の歴史を見ると、人口が集中する都は、
エネルギー問題を常に抱えている。
奈良から京都への遷都して以降も、この原則は変わらない。地形と
エネルギーに注目すると、意外な真実が見えてくる。
 豊臣秀吉の命で家康が入部した1590年当時の江戸には、農家が数百戸しか
なかったと言われている。
 1600年の関が原の戦いで勝った家康は、征夷大将軍になった後、その辺鄙な
江戸に自分の幕府を開いたのだが、これは不思議な話しだ。
 というのも、関が原の後も豊臣家は大阪城に健在だったし、敵対していた毛利に
せよ島津にせよ西日本に構えていて、そこから家康に対していつ反旗を翻すか
分からない状況だった。
 そうした反徳川勢力に備えるのなら、箱根を越えた遠い関東に本拠をおくよりも、
京都か、名古屋、岐阜などのほうが、はるかに理にかなっていた。
 軍事的にも不利で、しかも未開の地だった江戸に、なぜ、家康は幕府を
開いたのか?
 歴史の専門家からは、この謎について明確な説が出されていない。
 だが私は、やはりエネルギーに注目することで、謎が解けると思っている。
 実は、この当時、関西にはもう木材がなかった。これが家康の決断を
理解する重要なカギになる。
 先ほども触れたタットマンの研究によると、戦国時代には、森林の伐採圏が
近畿地方にとどまらず、西は山口、高知、北は能登半島、南は紀伊半島、
そして東は伊豆半島にまで拡大している。
 奈良時代には、年間に一人当たり10本の立木が必要だった。ところが、
戦国時代には20本が必要になっていたと推定できる。
 当時の関西の兵庫、大坂、京都、滋賀、奈良地域の人口を100万人だった
とすると、年間に2000万本の立木が必要ということになる。
 これは奈良時代の森林破壊と比較して、20倍もハイペースである。
 さらに、奈良時代から平安時代、そして戦国時代まで約1000年が
経過している。この間の森林破壊は、奈良の山を破壊させたときとは、
けた違いだったはずである。
 つまり、戦国が終わったとき、京都や大坂などの人口集中地の近くには、
もう、森林が残っていなかったと推定されるのだ。
 そんな1590年、家康は秀吉に追いやられるようにして関東の
領地を得た。
 そこで彼が見たのは、利根川や渡良瀬川、荒川などの流域に広がる、
手つかずの広大な森林だった。莫大な木材は家康の心を動かした。
今日で言えば、軍事国家の独裁者が大油田を発見したようなものだ。
 エネルギー資源が戦略物資であることは、戦国の昔も今と変わらない。
家康という戦国武将が、エネルギー獲得に有利な江戸に魅力を感じたのは、
当然だった。 
 このように、家康が江戸に幕府を開いた理由も、エネルギー問題から
考えるとストンと胸に落ちていく。

幕末は文明の限界だった

家康は手つかずの森林に魅力を感じて、江戸に幕府を開いた。江戸は
豊富な木材というエネルギー資源を得て繁栄していく。
 ところが、江戸時代の繁栄にも限界が訪れる。またしても、木材が
不足する事態になってしまったからだ。
 もう一度、タットマンの研究を使わせてもらおう。彼のデータを基に、
天竜川流域の木材伐採量の推移をグラフにしてみた(P.108グラフ)。
すると、1700年頃にピークが訪れ、その後、急に下がっていることが
分かる。
 天竜川流域には幕府の天領が置かれ、重要な木材供給地の一つだった
のだが、その森林に置いても伐採できる木材が消えていったのだ。
 そのほかにも証拠がある。
 幕末に活躍した歌川広重の有名な浮世絵「東海道五十三次」シリーズ
がある。その一枚「二川」を見てみると、背景の山には木がポツン、
ポツンとしか描かれていない。
 広重ほどの絵描きがあからさまな手抜きをしたと考えるより、当時の
山には本当に木がなかったと解釈するほうが自然だ。二川だけではない。
広重の東海道五十三次の山の絵は、みな貧しい植生に描かれて、
21世紀の今の緑豊かな姿はまったくない。
 つまり、江戸時代の終わりには、木を伐りつくし、日本は森林と
いうエネルギー資源の限界を迎えていたのだ。
 もっと直接的な証拠を挙げてみよう。
 幕末に神戸を訪れた外国人が
「神戸の山には木がなくて丸裸だ」
と驚いている。
 幕末の日本は、森林というエネルギー資源が枯渇寸前で、文明の
限界を迎えていたのである。
 現代は、環境破壊が世界的な問題になっている。
 環境破壊により森林が減り、地球規模で二酸化炭素濃度が高まって、
地球の気温が上昇るると危惧されている。
 日本でも環境問題は深刻である。戦後になって高度経済成長から
バブル経済の頃へと急速な経済発展に伴い、次々と森林が宅地や
商業地、工業用地になっていった。
私たち日本人は、戦後の経済成長が、こうした自然破壊を代償にして
成し遂げられたことを知っている。
 そして、多くの人は、こう思っている。
「ああ、昔の日本は、きっと今とは違って、緑の豊かな美しい国だったろうに」
ところが、これは勘違いである。昔の日本の山のほうが、今よりも
ずっと破壊されていた。
 なぜなら、人々が山という山の木を伐り倒して使いつくしたからだ。
山の木を伐採して燃料にし、家の材料にし、農具にし、舟にしていた。
 人間が生まれて文明を生むにはエネルギーが必要であり、そのためには
山の森林を破壊せざるを得なかったのである。
 平城京の時代、奈良の山はすべて伐採の対象だった。
 平安京、すなわち今の京都に首都が移ったのは、奈良の山に木がなく
なったためだ。
 戦国次代の森林化かも激しかった。関西の周辺の山は丸裸となり、
西は山口、東は伊豆まで森林は伐採されていった。
 そして、江戸時代に入っても、日本の森林の破壊は止まらなかったのである。

明治日本の足元に眠っていた石炭

ペリーが黒船で来航し鎖国が終わり、明治維新が起きる。これより、
日本の近代化が始まった。
 実は、ペリーの来航は、日本の外交政策を転換させただけでなく、
エネルギー政策を一変させる事件でもあった。
 それは、日本人と、黒船を動かしている蒸気機関との遭遇である。
 ペリーの乗ってきた巨大な船が、木材で動くのではなく、石炭で
動くと知って、日本人は驚愕した。
「この真っ黒い石で、あんなデカい船が動くのか」
 日本人は、石炭という黒い石がエネルギー源であることを知って、
驚き、かつ、喜んだのだ。
 長い江戸時代が続き、日本の山は丸裸の状態にあった(P.113写真参照)。
燃料としての木材が枯渇寸前で、文明社会の限界にさしかかっていた。
 その日本人にとって、石油というエネルギー源の出現は、まさに光明だった。
 石炭ならば、九州から北海道の地面の下に埋まっていた。しかも、
木材よりも石炭のほうがエネルギー量が大きい。当時の感覚で言えば、
日本に埋蔵されている石炭のエネルギー量は、無限に思えただろう。
 ペリー来航の翌年に日米和親条約を結んで以降、日本の歴史は急展開する。
尊王攘夷運動が活発になり薩長が幕府と対立、ついに幕府の大政奉還から
王政復古に至り、時代は明治となる。
 そして、明治5年(1872年)には新橋-横浜間に、日本発の鉄道が
開業して、石炭を燃料とする蒸気機関車が走った。明治22年(1889年)
にはという東海道線全通が開通した。
 北海道、九州などの炭鉱が開発され、日本は、木材エネルギーから
石炭エネルギーへと一気に転換したのであった。 
 黒船によって日本人は、石炭の可能性を知った。
 木材エネルギーの文明の限界に立っていた日本が、石炭という
新しいエネルギー源の存在で救われたのだった。

石油は日本を戦争へと駆り立てた

国内に大量に埋蔵されていた石炭という化石エネルギーによって、
日本は一気に近代化を進めた。
 食品加工業から、繊維工業、そして重化学工業を発展させていった。
 時代は下り、第一次世界大戦で世界的なエネルギー政策の転換が起こった。
 化石エネルギーの主役が石炭から石油へと移り変わったのだ。
 このエネルギー転換が、日本を窮地へと追い込むこととなった。
日本には石炭はあっても、石油はほとんどなかったからだ。
 第二次世界大戦直前の頃の石油産出量を見ると、アメリカが突出して
多かった。(P.115グラフ)。
 日本には、石油の需要はあるのに国産の石油資源がほとんどなく、
アメリカからの輸入に頼るしかなかった。
 つまり、石油により、アメリカに首根っこを押さえられていたのだ。
 あの太平洋戦争が起こった一因は、ここにあった。
『昭和天皇独自禄』(文春文庫)には、こんな天皇の言葉がある。

「先の戦争は、石油で始まり、石油で終わった」

「窮鼠猫を噛む」という言葉そのままに、日本はアメリカという
ネコに苦し紛れに噛みつくネズミのようなものだった。
 アメリカに石油を止められて苦しむあまり、アメリカとの戦争へと
突入した日本が狙ったのは、オランダ領インドネシアの石油だった。
第二次世界大戦を始めたヒトラーもまた、エネルギーを求めていた。
彼はソ連のバクー油田を狙っていたのだ。
太平洋戦争に突入した日本は、石油を止められたために、幕末の
ように大量の木材が伐採されている。
 戦中の写真を見ると、当時の山はすっかり木がなくなり、どれも禿山の
状態だったことが分かる。山の木材さえも使い切ってしまった日本には、
もちろん石油の備蓄などほとんど残っていない。
 エネルギーがなくなった軍隊には、もはや勝ち目はなかった。
 石油を求めて始めた戦争は、石油が切れたことで、終わったのである。
 まさに日本は、昭和天皇のお言葉通り、石油という化石燃料を求めて
戦争を起こし、石油がないことで敗けたのである。
 多くの評論家、歴史家、作家が、戦争に突入していった原因や、
日本帝国軍部の戦争責任について解説してくれている。
 しかし、そのような社会状況と人間模様がおりなす歴史はむつかしい。
それよりも、昭和天皇の一言のほうが、分かりやすい。
「あの戦争は、エネルギー問題で起こった」と、理解できるのだ。
 ところで、昭和天皇は昭和25年(1950)に山梨県甲府市で
植樹を行った。これは天皇自らのご発案だったという。
 以降、天皇は全国の山に植林をなさっている。それほどにも、
終戦直後の日本は丸裸だった。

文明のあるところ環境破壊あり

 文明というのは、山が丸裸になるほど燃料の木が必要であった。
それは日本に限った話しではない。
 世界中の人類文明に共通した現象なのだ。
 メソポタミア文明が分かりやすい。中東は、今でこそ砂漠地域であるが、
昔からそうだったわけではない。メソポタミア文明が栄えた頃には
緑があり、レバノン杉の森林がいっぱいに広がっていた。
 ところが、文明が繁栄するにしたがって人口が増え、森林が伐採されていき、
とうとう伐りつくしてしまったのだ。 
 つまり、メソポタミア文明が、この土地を砂漠にしてしまったわけだ。
同じことは中国でも起こっている。
 例えば、春先になると、大陸から日本まで黄砂がやって来るが、これは
黄河流域の黄色い砂が季節風に乗って運ばれるからだ。
 現在の黄河流域には森林が5%しかなく、そのほかは荒涼とした砂漠が
拡がる不毛な土地なのだが、昔からそうだったわけではない。
 今から3000年前、黄河流域には古代文明が栄えていた。その頃には、
この大河の流域の80%が森林地帯だったといわれている。
ところが1500年前には森林率が15%に激変し、現在はたった5%に
なってしまった。
 かつては豊かな森林が広がっていた黄河流域が、今では砂漠になっている。
 これは、気象変動が原因なのではない。人間のせいである。
 黄河文明が栄えると当然のように人口が増える。すると、燃料として
木が伐採されていき、森林は激変していったのだ。
 秦の始皇帝は万里の長城を築いたのだが、あの長城は莫大な数の
レンガでできている。レンガを焼くために、黄河流域の森林が大量に伐採された。
 こうして、かつては森林地帯が80%もあった緑豊かな土地が、20世紀に
入った頃にはわずか5%という土漠地帯となってしまった。
このような歴史を見れば、「人類文明の誕生と発展は環境破壊」であった
ことが分かる。


このように、今まで培ってきた文明を維持するには、
どうしても持続可能なエネルギー社会に変換しなくてはならない。

それと、昭和天皇の言葉であるが当時日本では採掘さらなかった石油について
「先の戦争は、石油に始まり、石油で終わった」
と、語られたように、もしあの時、自前のエネルギー資源が存在すれば、
まったく違った選択脈があったはずだ。

水力のプロ中のプロである著者の武村氏は、純国産エネルギー資源として、
さらに持続可能なエネルギー資源として、水力発電の莫大な可能性を
強く語っている。

雨が多い日本、急勾配な地形、そして高度経済成長時代に
膨張社会のニーズで建て続けられた数々のダムが、今、この時代の
遺産として、非常に有効に活用できることを強く訴えられている。

どうか、多くの人が、この本を読んでいただけることを望みます。


posted by hide at 18:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 水資源 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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