2017年07月02日

「維摩経」は、面白い!!NHK Eテレを見て。先人の教えを現代の社会で活かそう〜!!

先週終わってしまったが、NHKのEテレ「100分de名著」で放映中の
「維摩経」、これが素晴らしくいい。

4回放映のシリーズだが、思わず、本屋へ行って、
そのテキストブックを買ってしまった。

「維摩経」の説明については、詳しいことは、ネットで調べて
いただくとして、簡単に言えば、仏教において、出家者ではなく、
在家者としての道を選んだ人物らしい。この人の教えが、
日本の仏教界に大きな影響を与えた。

ではテキストブックの中から、いくつかの
教えを書き起こしたい。

「ここに一つの食器があったとしましょう。有名なブランドの
高価な食器だと聞けば、なんとなくそれを美しいモノのように
感じる人は多いでしょう。しかし、もしそれが大嫌いな人が
使った食器だとわかると、触れるのさえ疎ましい不浄なモノに
思えてきます。同じ食器でありながらもそんなふうに状況に
よって感じ方が変わるのは、浄・不浄という感覚が、自分という
フィルターによって生じたものだからです。
 自分というフィルターをものごとを見ていては、本質は
見えてきません。自分というフィルターを外すこと、つまり
「とらわれを捨てる」ことが、まずは大切なのです。このように、
何事にもとらわれずにものごとを見ることが、仏教でいう
「智慧」です。


これって、日常的にあることだと思う。

まったく、同じことを体験しても、同じことを見ても
その捉え方が人によって全く違う。

各々自身のフィルターがあり、その主観により、
いくら同じ環境に生きていても、まったくその世界観というのか、
なんというのか、違ってきてしまう。

他人からの善意を上手く受け取れる人というのは、
自身も善意をもって、人に接している人なのかもしれない。

いつも他人の噂話ばかり気にしている人は、
その世界観から離れられない。

つまり、幸福も不幸も、自分が作り出しているようなもの。

何かあるたびに、自分は不幸だ、不幸だと呟く人、、、。

同じことが起こっても、自分は運がついている、誰かが導いてくれている
と思う人と、その幸福感が違うし、周りの人はどちらの人に
寄っていくだろうか。

体全体から不幸なオーラを出している人に、
近寄りたいだろうか。

それに、まったく視野も違ってくる。

何か自分に降りかかってくることが、宿命だとすると、
その捉え方によって、まったくその後の人生が変わってくると思う。

さらに、先に進みたい。

智慧と慈悲の実践

文殊菩薩
「菩薩はどのようにして仏陀の悟りへと到達するのですか?」

維摩居士
「もし菩薩が自ら苦悩と罪に満ちた迷いの世界(非道)へと行き、
そこを生き抜くならば、これこそ悟りへの到達です」

維摩居士
「仏陀となる素質は何だとおみますか?」

文殊菩薩
「煩悩も、仏教以外の教えも、仏陀となる素質です。すでに悟りを
得た人は、それ以上悟りを求めることはしません。その人は、煩悩の
泥の中へとまみれることが仏道の実践になるのです。空中に種があっても
芽は出ませんが、泥土の中にあれば芽をふくのと同じです。大会の底に
潜らなければ海の底の宝が手に入らないように、煩悩の中を生きぬかなければ
智慧を獲得して実践することはできません」


毎日、毎日いろんなことが起こる。

さらに、何かを得ても、それでは満足できずに
次のモノを求めたがるのが人間の性、、、。

生きていくうえで、どうしても、悩み不安はなかなか解消されない。
それが人生であり、その中で、毎日、毎日、積み上げるように
学んでいくことこそ、人生そのものだと思う。

その学ぶというのも、自分がどのようなフィルターを持つかによって、
かなり変わってくし、素直さと勇気、そして忍耐力が必要になってくるであろう。

逆に智慧がだんだんとついてくれば、忍耐に対するその対象が変わってくるで
あろうし、智慧と忍耐というのは、常に相関関係にある。

「現場100回」、ある人のことばであるが、
何度も現場に足を運んで、よく観察して、実践しないと
その本質など、見えやしない。

それと同じ、、。
智慧だって活かしてなんぼである。

次に行きたい。

病気になった維摩は、見舞いに訪れた人に向かって
こう語ったという。

「みなさん、この私を見てどう感じますか。この身体は無常で、
無力で、確かなものではありません。刻々と衰えていき、頼りに
なりません。しかし、仏教の教えによって智慧を得た者は、
このような身体を頼りにすることはありません。
 私は、”自分というもの”を頼りにしてしまうと、貪りの心や
迷いを生み出してしまいます。そもそも私たちの体は四つの元素
(地・水・火・風)の集合体として成り立っていて、さまざまな
因縁によって、たまたま成立しているだけなのです。やがては
構成要素は朽ちていき、バラバラに分離してしまいます。
”単独で成立し、決して変化せず、何者にも関係しない存在”など、
この世にはないのです。っそいて、この集合したものの本質を
『空』と表現します。しかし仏となれば、もはや永遠の存在となるの
ですから、私たちはそれを願い求めなければなりません」
と、、、。

「仏教が説くように、自分という枠組みが強ければ強いほど、
我々の苦悩の強度は増すことになります。自分というものの濃度が
濃ければ濃いほど、苦悩の溝は深くなるのです」
と、、、。

よくよく周りを見てみると、例えば人間関係に苦悩している人、、、。

いくらアドバイスをしても、まったく受け付けない。

心が苦悩に占領されて、周りが見えない。

自意識過剰なくらい、自分というモノに意識が集中している。

江戸時代の鈴木正三は、
「我が身を思う念(自己保身)」が分別(煩悩)の本質である」
と言ったとか、、、。

では、その自分という実態があるのだろうか?

「そもそも私たちの体は四つの元素
(地・水・火・風)の集合体として成り立っていて、さまざまな
因縁によって、たまたま成立しているだけなのです。」
維摩経もしくは、仏教ではこのように説明している。

もう少し現在風に説明するならば、
大部分の人間の体というのは、そのほとんどは、
水であり空気中の二酸化炭素であり、
焼かれればその水と二酸化炭素に戻っていく。

生きているうちも、人間を構成している70%が水であり、その水が
汗や尿として、絶えず出たり、入ったりを繰り返す。

そして、人間の細胞とは、絶えず新陳代謝を繰り返し、
2年もすれば、すべての細胞が入れ替わっているという。

私の今、体の中にある水のほとんどが、もとは海の水であり、
絶えず、海と私の体を行ったり来たりしていることになる。

私の体の細胞を構成する炭素も、絶えず死んだり再生したりしているので、
空気中と私の体を行ったり来たりしている。

さらに、体の中にある60兆モノ細胞に対し、影響し合っているが
自立した生命体である100兆ほどの微生物が住み着いているという。

これらが、たまたま何かの縁で集まって、私の体というモノを
今、現在構成している。

体ではなく、その個人の人格にしてもそうだ。

ある精神科医が言っていたが
「人間とは、とても社会性がある動物で
著しく周りから影響を受けている」
と、、、。

確かに、オオカミに育てられた少年が、オオカミのような
習性を身に着けてしまう。

中国人は、中国人らしく、日本人は日本人らしく
育っていく。

私は、二十歳ぐらいまで、祖父母と寝起きを共にしていた
おじいさんおばあさん子だ。

歳を重ねるにつれ、その祖父母の影響を受けているような
気がする。

祖父母だけではない、父母、上司、恩師、友人、
さらにすでに亡くなっている文字を通じて、道元さん、親鸞さんなどの
影響も受けている。

もし、それらの人らに巡り合わせずにオオカミに育てられれば、
オオカミのようになっていたのであろう。

また、私に影響を受けた人も、そのまた両親がおられるし、
その人たちにも、両親がおられる。

つまり、長年続いてきた人間の意識の集合体により、
私という人格が作られていることになる。

これって、本当に「私」、、、?

ただ、有史以来、存続する人間の意識の集合体のほんの
一現象に過ぎない。

体も、本当に「私」なの、、、?

ただ、大きな水と二酸化炭素の循環の中に、体が存在するだけ
なのでは、、、。

そう思えば、「私」なんて何もないのでは、、、。

逆に言えば、海も、空気も私自身、、、。

つまり、自分というモノがあってないようなものだ。

自分なんて、すべて空っぽ、、、。

自分という意識(自我)を薄めれば、もしかすると煩悩も
薄まるのではなかろうか、、、。

放送の中で
「智慧と慈悲、これこそが『This is the 仏教』である」
というようなことを語っていた。

その智慧をつけるにも、ただ出家して、
世俗の世界を離れて追究するよりも、泥の中でしか
ハスの花は咲かない、つまり世俗の世界を生き抜くことこそ、
仏の教えを追及する真の道であると、維摩経は説いている。

放送の中で
「何処にも逃げ道などない。苦難の今を引き受け、
苦難の世俗を生き抜く覚悟がいる」

というようなことを言っていた。

そして、自分を忘れる為に、自分よりも大事なモノって
ないのだろうか。

それは、周りに尽くすこと。

家族であり、仲間であり、例えば次の世代であり、
公共心と社会性についても、維摩経が主張する大事なことである。

それが「慈悲」につながっているように思う。

自分を忘れる為に、周りに目を向ける。

そのために、周りに尽くすこと。

周りに意識を移すことが自我を忘れることであり、
煩悩を薄めることにつながる。

すべてがつながっているのであり、
ある人が言っていたが
「みんなは自分、自分はみんな」
ということ。

せっせと家族に奉仕する、社会に奉仕する、次の世代に奉仕する、
それが自分を忘れる一番の近道、「慈悲」の心であるのだろう。

放送の中でも、ある菩薩が、世の中汚いものだらけ、、、。

そんな中で、どのように仏の教えを実践するのか、、、。

というようなことを語られていたが、その世俗の中で、
生きてこそ真理が追究できるということ。

そのことを維摩経では強く主張している。

おもしろいね〜。

まだまだ、次に続く、、、。



posted by hide at 08:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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