2018年09月12日

石田秀輝さんのブログを見て。「集合的無意識」と「自己」の考え方について、深く共鳴を受けた。

最近、ある人のブログを見て、とても感銘を受けたので
紹介したい。

そのある人というのは、石田秀輝さん。

石田さんは、セラミックス業界では、スーパースターだった人で、
当時、昔のINAXに勤めていて、私も何度も石田さんの講演を
聞きに行ったことがある。

石田さんは、もう十数年前に、INAXを退社され、
その後、東北大の教授をやられていた。

そして、4年ほどまえだったか、奄美群島沖永良部島に移住し、
そこで自然と温かい島民と共に暮らしている。

とにかく、ものすごく頭が切れ、モノを読み解く感性が鋭い。

そんな石田さんが、今、何を思い、何を感じているのか、
私も興味があり、ちょくちょくネット上で、拝見させてもらっている。

その石田さんの2018年4月のブログで、素晴らしい記事があったので紹介したい。


https://ameblo.jp/emileishida/entry-12368839407.html

「ご先祖様!!」 Emileのコラム 169

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小学校での子供たちの授業でも強く感じるし、送って頂いた沢山の手紙を
読んでいても感じるが、子供たちの自然に対する思いやそれにかかわる
情報の吸収力には驚かされる。教科書にも載っている「自然と暮らす」と
いう、たった1−2時間ほどの授業なのに、乾いた砂が水をいくらでも吸収
するように、前のめりに、きらきらと目を輝かせ、こちらが圧倒されるほど
のことも多い。恐らく自然というものを理解する受容体のようなものがあって、
ゼロベースではなく、それにスイッチが入るのではという気がしている。
ユングの精神分析学では、「すべての人間には自分で自覚している精神があるが、
それは人間の精神の表層部分でしかなく、その下に膨大な無意識の精神を持っている」
と考えている。無意識は太古からの生物の意識の積み重ね(集合的無意識)で、
普段は気づいていないけれど、何かの拍子でスイッチが入り出てくるものだそうだ。
子供たちの自然に対する意識は、きっと集合的無意識に埋もれていたものなのでは
ないのかと思っている。
この感覚は、世界共通で日本だけでなく海外で子供たちに話をしていても同じなのだが、
聊かの違和感も感じる。日本の子供たちの方が熱いのだ。上手くその感覚を表現でき
ないが、単に知識ということではなく、自然というものをより深く感じているのでは
ないかと思う。何故だろうか、恐らく社会構造の違いが集合的無意識の中に織り込まれ
ているのではないかと最近思っている。欧米の社会が生きた人間で構成されてるのに
対して、日本の社会は自然と人間で構成され、さらに人間が生者と死者で構成され
ている。柳田国男は『死者の魂の行き場は人々が生まれて生きて死を迎えた場所』だ
と言ったが、まさに人は生まれてから死を迎えるまで魂が穢れて行く、何故なら自己を
持つからであり、自己があると自己主張し、自己目的を持ってしまうからである。
死によって魂は森に戻り、自然の力を借りて穢れを取り払い、徐々にきれいになる。
自己の無くなった魂は自然と一体化し、自然そのものとなり、それが子孫を守り神や
仏になるという。それに必要な時間が例えば33年(三十三回忌、弔い上げ)であった
りするのだ。日本人にとっての自然はご先祖様の宿る場でもあるのだ。そんなことが、
集合的無意識の中に織り込まれているのだろう。
一方では、自己の経験によってつくられた自覚された意識と深層にある集合的無意識の
バランスをとることが現実に生きる上では求められる。とりわけ都会に住めば、集合的
無意識に蓋をしなければならないことも多いだろう。ただ、あまりにしっかり蓋をして
しまえば、集合的無意識の圧力が高くなり、そのうちその圧力に耐えられなくなり爆発
して「精神的な病」になる。ワーク・ライフバランス(仕事と暮らしの質と量のバランス)
という概念もここから生まれたのだろう。島暮らしはどうか、ワークとライフが
オーバーラップしており集合的無意識に蓋をする必要はほとんどない。お年寄りに
笑顔が絶えないのはそのせいではないのか、100年先の子供たちを思える御老人がいらっ
しゃるのもそのせいではないのだろうか。
島暮らしを始めてもうすぐ4年が終わる、島に居ると集合的無意識のスイッチを押されっぱ
なしである、有難いことである(笑)。
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私が、この文章の中で、特に気になったのが、
「集合的無意識」と「自己を持つ」という二つの言葉だ。

むかしに比べ、はるかに便利になった。

しかし、本当にみんな幸福感というモノを
味わっているのだろうか???

何か、激しい競争と生活に追われ、疲れ切っているようにも思う。

それよりも、もっと違う道があるんじゃないか?

違う生き方があるんじゃないか?

そんな風に思う人が、けっこう多くなってきているのでは、、、。

石田さんがいう「スイッチ」がオンになった人、そして
多くの人がスイッチ・オンのすぐ手前のような気がする。

それが今、人間の集合的無意識の中で、大きく噴き出そうとしている
のではなかろうか、、、。

それと、自己について。

確かに、生きていれば、自己というモノに縛られることになる。

しかし、一昔前までは、どうだったのか?

もっと、自己というモノが薄らいでいて、家族であったり、
村などの共同体であったり、国であったり、自己よりも
そちらの方に重点が高かったようにもおもう。

果たして、人間の幸福感という面で、
自己の願望なり、自己防衛なりを追求しすぎて、
本当に幸せになれるのだろうか、、、。

江戸時代の禅僧鈴木正三さんが、

「我が身を思う念(自己保身)」が分別(煩悩)の本質である」

と言った。

もしかしたら、自己を溶かすということの方が、
幸福感を味わえるのではなかろうか、、、。

ある仏教の教えを紹介したい。


地獄でも極楽でも、大きな釜でうどんをゆでている。

そのうどんを1メートルほどの箸を使って、食べなくてはならない。

地獄では、誰もが競ってうどんを食べようとするので、
誰も食べることができず、みんな飢え死にしてしまった。

極楽では、各々の口にうどんを運び、助け合いながら
みんなが食べることができ、みんな満腹になった。




ここで一番大事なのは、互いの「信頼関係」だ。

各々が自己を追求し続ければ、信頼関係は、
崩壊するであろう。

それが証拠に、今では、地縁、社縁、血縁などが薄れ、
無縁社会へと突き進んでいる。

もしかしたら、信頼関係を構築することを第一とした
社会構造の方が、多くの人が幸せを感じることができるのでは、、、。

そんなことできるのか?

というような声も聞こえてきそうだが、
一昔前までの日本というのは、そういう社会だったように思う。

むしろ、人々の集合的無意識の中で、そのことが
今、強く思い起こさせられようとしているように思う。

石田さんのブログを見て、そんなことをふと思った。



posted by hide at 07:53| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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