2017年07月10日

過去も未来もない、ただ存在するのは、この瞬間だけ、、、。この瞬間が「因」となり、次の瞬間の「果」となる。その連続が人生そのもの、、、。

CIMG8060.JPG

うちの愛犬パンチくん。

我が家では、大活躍だ。

認知症がかなり進んでいるオヤジが話すことというと、
まず、このパンチのこと。

また、犬嫌いのうちの母が、
「パンチが死んだら、私も死ぬ」
というぐらい、犬が好きになってしまった。

このパンチの魅力とは、いったい何なんだろうか。

とにかく、人懐っこい。

誰でもじゃなくて、特に家族にものすごく甘えてて来る。

誰もいなくて一人で留守番しているときなんか、
私が帰ってくると、体中でその喜びを表し、すり寄ってくる。

そうかと思えば、うちの嫁が帰ってくれば、
もう嫁にべったり。

トイレに行こうが、今に居間に行こうがべったりとくっつき、
まるで家庭内ストーカーのようだ。

さっきまで、私にべったりだったのに、
もうそのことも忘れて、嫁にすり寄るパンチ。

また、その何にも考えずに、気の向くまま、本能で
生きている愛犬パンチくん。

散歩に連れてってほしいときは、私の目の前に現れ、
玄関に連れて行こうとする。

腹が減れば、わんわん吠えるし、眠くなれば、眠たそうな顔をして
いびきをかきながら寝ている。

そんなパンチを見ていると、ふと思ったことがある。

それは、パンチは、今を生きているということ。

例えば、明日病院で注射を打たなければならなくても、
本人は分からない。

過去のことをくよくよ悩むわけでもない。

今、あるこの瞬間が、パンチにとってすべてなんだ。

その瞬間を受け入れ、全力で生きている。

さみしいから、一人にしないでと思えば、
懸命に吠える。

散歩に連れていけば、思いっきり遊ぶ。

過去も未来もない、ただこの瞬間、それがパンチのすべてだ。

人間だってそうだ。

過去のことって、もうすでに終わってしまったこと。

未来のことって、
あれこれ考えてもしょうがない。

例えば、明日、お客さん所に謝り行かなくてはならないとしても、
それは明日のことであって、今日のことでもなく、
そのことで「いやだ、いやだ」と思っていても、
心に負担をかけるだけ。

それより、パンチのように、例えば謝る時も、
その場で全力で謝ればいいし、やれることを
めいいっぱいやるだけのこと。

シンプルるに、今日、この習慣をベストを尽くすのみ。

そして、この瞬間が、「因」となり、次の瞬間の「果」となる
ということを仏教で言っていた。

確かにその通りだと思う。

人生とは、その「因」と「果」の連続。

すべてつながっている。

例えば、今日、車の中が汚い。

毎日、車に乗るとき、あ〜、汚いな〜と
少し不快感を感じる。

では、それに気が付いたときやっていれば、
その後の不快感は、存在しない。

今日も、見過ごしてしまった自分が「因」となり、
その後の不快感が「果」となる。

例えば、うちの会社のM君を見ていると、
とにかく不器用で、呑み込みが悪く、世渡り下手だ。

しかし、いいところもある。

それは、素直であり、愚直であること。

分からないことを、しっかりと飲み込めないと、
動けない。

そして、分からないと素直に聞いてくし、
常に学ぼうという姿勢が、体からあふれている。

もし、どちらかというと、見栄っ張りな人がいるとする。

そういう人って、十年経ってみると、かなり損をしている。

「時は金なり」というように、
ただ頭がいいキャラで、そのキャラに縛られてしまえば、
素直に聞くことなどできやしない。
また、周りの目が気になって、チャレンジすることなど
出来なくなってしまう。

分からないことを素直に聞くということはできないし、
そのことから逃げようとするであろう。

毎日がチャンスである。

そのチャンスに、素直に向き合ってきた人と、
そうでない人の十年とかなり違ってきてしまう。

最近、仏教の維摩経にはまっているが
維摩がある人に、
「維摩さんは、今日はどこに行かれていたのですか?」

「道場に行っていて、道場に帰ります」
と、、、。

維摩の道場とは、出家ではなく、日常の生活の中に、
いろんな悟りがあるという立場だ。

泥の中でしか、蓮が咲かないように、いろんな人間の醜い部分を
見ながらでないと、けっして悟りなど得られなりという立場だ。

文殊菩薩は、

「煩悩も、仏教以外の教えも、仏陀となる素質です。すでに悟りを
得た人は、それ以上悟りを求めることはしません。その人は、煩悩の
泥の中へとまみれることが仏道の実践になるのです。空中に種があっても
芽は出ませんが、泥土の中にあれば芽をふくのと同じです。大会の底に
潜らなければ海の底の宝が手に入らないように、煩悩の中を生きぬかなければ
智慧を獲得して実践することはできません」

と、、、。

その世俗の中で、瞬間、瞬間を大事に生きていく。

過去のことを悔いても、その過去は、すでに存在しない。
あなたの心にあるだけ、、、。

未来のことを不安に思っても、それは今ではない。

すべて、自分の心が作り出すモノ、、、。

あるのは、今、この瞬間のみ、、、。

その瞬間、瞬間をペストを尽くしている、
そうすることにより、未来が開けていくのではなかろうか。

どんな未来になるかわからないが、自分のやれることというのは、
ただその瞬間、瞬間、ベストを尽くすだけしかやれない。

後は、もうお天道さんでも、仏さんでも、ご先祖さんにでも
任せておけばいい。

維摩経というのは、どちらかというと禅宗的。

そして、念仏系の
「阿弥陀様は、すべてを私に任せろ」
と言っているというスタイルを取り入れる。

維摩経であろうと、禅宗だろうが、真宗だろうが、
キリスト教だろうが、イスラム教だろうが、
自分にしっくりくるものは、どんどん取り入れていけばいい。

「仏教とは、科学だ」と言っていた人がいるが、
生きていくためのいろんな智慧が内在されている。



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2017年07月08日

日欧EPA大枠合意の裏にある、ISDS条項は、協議継続とのこと。

 昨日の中日新聞一面、
「日欧EPA大枠合意」というような見出しが、
飾られていた。

そして、だんだんとページを進めて読んでいくと、
小さくこんな記事があった。

「日欧EPA大枠合意の要旨」
と書いてあるところの、一番下に小さく
【ルール分野】
<投資>
企業や投資家が進出石の現地政府を訴えることができる
紛争解決手続き(ISDS)は、協議を継続。


書いてある。

気になって、
このようなTPPなEPAなどのスペシャリストの
アジア太平洋資料センター(PARC)事務局長、
内田聖子さんのついったをのぞいてみると、
こんなことが書いてあった。

7月6日  

なぜ日本政府は、TPP型(EU側の言葉を借りれば「旧式」)のISDSに
固執するのだろうか。ISDSを「改良」したEUの投資裁判制度(ICS)は
決して欧州市民から評価されていない。まだまだ投資家にとって有利な
メカニズムだ。変な話、これを受け容れたところで大勢に影響はないだろうに。

7月6日 

「EUは日本との交渉で、改革された投資裁判制度(ICS)を提案してきた。
EUは旧式のISDSに戻ることはできないことを主張し続けている。いかなる
条件の下でも、合意の中に旧式のISDSを含めることはできない。この点に
ついての結論に達するためには、今後数か月間でさらなる議論が必要だ」


なぜ、あの悪名高きISDSに、日本政府がこだわるのか?

まったく、わけが分からない。

引き続き、しっかりと監視が必要!!







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2017年07月05日

「手放す」勇気、、、。

江戸時代の禅僧、鈴木正三さんがこんなことを言っていた。

「我が身を思う念(自己保身)」が分別(煩悩)の本質である」

と、、、。

我が身を思う念(自己保身)である以上、
自分というモノに意識が集中する。

周りをよく見てください。

何かに悩み苦しんでいる人の大きな特徴は、
周りがまったく見えてみない。

怒り狂っている人の大きな特徴は、
その怒りで周りがまったく見えていない。

自分のことを大きく見せよう、大きく見せようとする人の
大きな特徴は、人の話を聞かない。

つまり、人にあまり関心がないということ。

煩悩に取りつかれれば、自分という意識(自我)が強くなる。

でも、逆から言えば、人間というのは、もしかしたら、煩悩を手放すことができない。

煩悩にしがみついて生きているのでは、、、。

たとえば、以前の上司であるが、
あっち向いてガオ〜、こっちむいてガオ〜というような
パワハラ上司、、、。

内面は、震えてにもかかわらず、強く見せよう、
大きく見せようと、いきり立っているようだ。

見方によっては、かなり無駄なエネルギーを使っているようにも見える。

そうしていると、心がさびてくるというのか、
もう少し、肩の力を落とせば、等身大で生きれば、
もっと幸せになれるし、周りにもいい影響を与えられる。

勇気をもって、自身を手放す、、、。

そんなにヨロイで身を固めすぎていれば、動きが鈍くなる。
視野が狭くなる。

自分というモノに意識が集中している以上、
周りなど見えやしない。

そのプライド、本当に必要なのか。

ただ、その強面の表情、心の中では、
いったい何があるのか、、。

そんなの思い切って、捨てちまえば、、、。

それには、トレーニングも必要であろうし、
生きる智慧も必要なのかもしれない。

仏教では、煩悩とは心の「過剰さ」とも説く。

その「過剰さ」とは、自分を守ろうとする意識が
強くなりすぎている。

でも、自分の実態とは、何もない。

ただの水と二酸化炭素の集まりであり、
それも常に出たり入ったりしている。

それに、60兆の細胞というのは、常に新陳代謝を繰り返し、
二年で総入れ替えされるという。

二年後には、実は全く別人ということになる。

さらに、60兆の細胞に対して、影響し合ったいるが
自立した生命体である100兆もの微生物が人間の体には
住みつき、その微生物がいないと、生きていけない。

それらのモノをたまたま、何かの縁で、かき集められ、
私というモノが、今、存在する。

そう思うと、自分なんてなんもない、まさに空っぽでは、、、。

私は、20数年、日記を書いているが、むかしの日記を読み返して
見ると、まあ〜、なんと小さなことで悩んでいことか、、、

と、思うようなモノだらけだ。

その悩んでいたことさえ、今ではすっかり忘れている。

そう、悩みというモノのほとんどは、時が経てば解決して
くれる。

その悩みに、冷静に向き合ってみれば、もしかしたら、
かなり楽になるのでは、、、、。

現実にあるのは、「今」しかない。

過去のことを悔やんでいてもしょうがない。

未来のことで、恐れおののいていても、心に負担になるため。

その瞬間を全力で生きる。

その瞬間が「因」となり、次の瞬間の「果」となる。

そのように、因と果の連続が、人生であり、すべて
つながっているということ。

なるべく良い「因」を作るために、自分がどのようなことを
心がけて生きるかで、10年も経てば、大きく変わってくる。

トレーニングとして、自身を守ろうとする過剰さが、煩悩であり、
その過剰する自分に対する意識を外に、外に、持っていくようにする。

家族のために、社会のために、次の世代のためにと、
煩悩まみれの中でも、なるべくそのようなことを口にし、
行動すれば、だんだんと意識が、外に向いてくるのは、、、。

自分という意識から離れ、他社に奉仕するということを
それが仏教でいう「慈悲」ということになり、
生きる智慧と共に、この二つが仏教では、
「This is the 仏教」とのこと。

生きていくうえでの「智慧」。

煩悩を薄める「慈悲」、

これらをなるべく身に着ければ、かなり自分の主観が
変わってくるのでは、、、。

宿命というモノがあるのら、その宿命をどうとらえ、
どのように付き合っていくかで、自分の主観次第で、
人生大きく違ってくるような気がする。





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2017年07月04日

「煩悩なくして悟りもない」、Eテレ100分で名著「維摩経」の中で。

NHKのEテレ100分で名著「維摩経」のテキストブックの
中で、金子みすゞの「蓮と鶏」という詩が載ってたので、
紹介したい。

泥の中から 蓮が咲く。

それをするのは蓮じゃない。

卵の中から鶏がでる。

それをするのは鶏じゃない。

それに私は気がついた。

それも私のせいじゃない。


熱心な仏教徒の家に生まれた金子みすゞは、仏教的な
感性溢れる詩をたくさん残しているとのこと。

続いて文殊菩薩の言葉

「すでに悟りを得た人は、それ以上悟りを求めることはしません。
その人は、煩悩の泥の中へとまみれることが仏道の実践になるのです。
空中に種があっても芽は出ませんが、泥土の中にあれば芽をふくのと
同じです。大海の底に潜らなければ海の底の宝が手に入らないように、
煩悩の中を生き抜かなければ知恵を確保して実践することはできません」

「煩悩即菩提」
(煩悩と悟りは別々のものではない)


二項対立を解体していくと、いわば煩悩こそが悟りの
だと説くとのこと。

維摩は、
「仏道を本気で求める者は、何があっても、どんな環境におかれても、
心身は常に清浄で穏やかなはずだから、世俗の中で生きても煩悩に
支配されることはない」

と語る。

常日頃生活していると、毎日毎日、いろんなことが起こる。

そんな中で、怒り、悩み苦しみ、心が奪われがちである。

しかし、それがあるから、悟りが得られるのではなかろうか、、、。

私は、二十数年、日記を書き続けているが、むかしの日記を
読み返してみると、こんな小さなことで悩んでいたのか!?と
あらためて、自分の未熟さを痛感する。

それって、自分が成長しているということ。

そう思えば、悩み苦しむことも大事、、、。

泥まみれの世俗の中で生きていれば、
周りからいろんなストレスを受けることも
しょっちゅうある。

怒りに取りつかれている人、
見栄やハッタリの世界観で生きている人、
勇気が持てず、常にぐるぐると同じところをまわっている人、
すべて、その人なりの修行をしているのかもしれない。

いつ気付くのか、と、こちらから焦ってもしょうがない。

ただ、じっくり待つことも大事、、、。

それに自分にも、そういうところがあるということ。

だからそれがストレスに感じる。

瞬間、瞬間を大事に生きていれば、その延長線上に、
心の成長があるように思う。

どこにも逃げ道などない。世俗の世を生き抜いく覚悟こそ、
新しい道を開くのかもしれない。


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2017年07月03日

Eテレ100分で名著「維摩経」の最終版!!お世話され上手の正体とは、、、。

 NHKのEテレ「100分de名著」で
やっていた「維摩経」、ゲストのあるお坊さんが
こんなことを言っていた。

「高齢者の介護にかかわっていると、ある世代から
急速にお世話されるのが苦手な世代があることに気が付いた。
だんだんと都市化するにつれて、人に迷惑をかけなければ、
「自由」である、という考え方が美徳とされるが、
ある意味、傲慢でもある」

なるほど、なるほど。

私が住む辺り、周りはかなり住宅地に
なっているが、その流れに取り残されたような集落だ。

昔ながらの風習がまだ残っているような場所だが、
たとえば、うちのオヤジが年老いて、認知症になったとき、
近所の60代のおばさんが
「順番だでね〜。しょうがないわ」
と、、、。

うちの70代半ばになる母も、そのようなことを言っていた。

この「順番」という感覚、、、。

解剖学者の養老孟司がこんなことを言っていた。

「日本全国、都市化が進むにつれて、死とか、
老いというモノを、家庭から排除するようになった」
と、、、。

確かに、そうだと思う。

ほとんどの人が、病院で死に、老後は施設で過ごすのが
あたり前になった。

18年ほど前に亡くなったうちのおばあさん、、、。

働き者であったが、寝たきりの状態が7年間も続いた後、
家で老衰で亡くなった。

そのことって、今思えば、我々家族にとって、
いい体験になったのではなかろうか。

あるお坊さんが
「身近な人の死というのは、いずれ自分も亡くなるというということを
教えるためにある」

というようなことを言っていた。

人間だれでも、「老いる」ということ、「死ぬ」ということ。

あの信仰深くて優しかったおばあさんが、鬼のような顔をして、
とてもきついことを何度も言っていた。

特に排便に関して、おむつの中でするのが、とてもいやみたいで、
はいつくばってでも、トイレに行こうとしていた。

そんなおばあさんを、うちの母は、ほんとよく介護してくれた。

我が母ながら、とても感心する。

今ではすっかりアウトソーイングになってしまったが、
むかしの人は、人が順番に老いて、病気になり、亡くなっていく姿を
他人任せでなく、すぐ近くで、寄り添いながら見ている。

そうなれば、永遠の命など存在しない、
自分もいずれ亡くなるということを、しっかりと認識できるような
気がする。

「露とおち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢」

これは、秀吉の辞世の句であるが、あれだけ栄華を極めた秀吉も、
最後はすべてを残しで、死んでいく。

誰でも、老いて病気になり、そして一人で死んでいく。

「順番」という感覚も、身近な人のそのような場面になるべく、
接することで、身についていくのではなかろうか、、、。

話は変わるが、私はけっこう好奇心が強く、
博物館などによく行く。

そこで、学芸員の人やボランティアの人に、良く質問をする。

そんな時、うちの嫁は、決まって
「恥ずかしいからやめなさい」とか、
「迷惑になるでしょ〜」とか、

そんなことを言って、私が質問しているのを遮る。

いつも、いいところなのに、不完全燃焼のような状態で、
引きずられるようにその場を立ち去らないけない時も、
何度もあった。

しかし、「迷惑って」ほんとなのだろうか?

仕事でもそうだが、自分が知らないのに、質問もせずにそのまま過ごして、
知らないままで本当にいいのだろうか?
と思ってしまう。

それに、質問された方にしても、その質問をされることによって、
いろんなことを学ぶことができるのでは、、、。

私は、若いころ、ホテルマンであったが、お客さんに
いろんなことを尋ねられた。

このワインは、どんな味とか?
この料理は、どんな味付け?

とか、おいしい居酒屋はどこにある?
から、どこかで、チケットてにはいらないかな?
とか、その都度、調べていたら、ゆくゆくは
かなり知識が付くことになる。

「必要は習得の母である」

質問する方だけでなく、質問される方も、確実に
成長するように思う。

ある人が言っていたが
「知識・知恵などというのは、人類共通の財産だ。
だから溜め込んじゃ〜いけないんだよ。教わったことは
ドンドンといろんな人に伝えることが自分の為にもなる」

と、、、。

大変深い言葉である。

例えば、エジソンがもし原始時代に生まれていたら、
あのような数々の発明は出来ただろうか。

鉛筆も、紙も、工具も服もおぼつかない、
そんな環境では発明など出来るわけがなく、
むしろ食うものを必死に探す
毎日ではないだろうか。

人生の中で得た知恵や知識、
そんなモン自分固有のモノでない以上、
いいことはドンドンと周りに伝える。

私は、おせっかいなくらい、いいと思ったことは、
ドンドンと人に薦めたり、教えたりする。

他人は自分の鏡である。

自分がいつもそのような姿勢であれば、
「周りの人もにいつも自分に何か教えたがっている」
と、思えるようになってくる。

もちろんそういう人もいれば、そうでない人もいるであろう。

例えば、どこかの工場に見学に行ったとする。

そこに自分の好奇心を刺激するような、
変わった形のした面白そうな機械があった。

しかし、その機械の前にしかめっ面した気むずかしそうな
年配のおじさんが、説明係としてたっている。

果たして、あなたなら興味を持ったその機械について
その不機嫌そうなおじさんに質問するであろうか?

うちの嫁なら、「迷惑だから質問するのはやめなさい」
というであろう。
ここが私たち夫婦の大きな見識の違いである。

私ならその気むずかしいそうなおじさんが、
質問したとたんに表情が変わり、ニコニコしながら
教えてくれるような気がしてならない。

人間というのは、所詮は自分が持つ主観で動くモノ。

自分が迷惑だと思えば、相手に対しても迷惑に思えるモノだ。

逆に言えば、「同じように思う人を捜している」とも言える。

私のように人に「教えたい、教えたい」と思うような人なら、
相手もそのように見えてくるし、そういう人と波長が合い、
会話を楽しむことができる。

逆に、迷惑と思う人とは、会話してても、それほど面白くなく、
自然とその場を立ち去るであろう。

どちらのモノの見方がいいのか分からないが、
どちらの方が自分にとってプラスになるのだろうか。

自然と自分と同じなモノの見方を捜している以上、
「迷惑」と思っている人は、そういう人を引きつけてしまう。

また、人の心というのは千差万別。
自分が、過剰に迷惑と思ってそのようなチャンネルを持っていれば、
相手からもそのような感情を引き寄せてしまう。

「人の役に立つ」ということに対して、
喜びを感じる人って、けっこういると思う。

そういう感覚で、瞬間、瞬間を生き続ければ、
人生どのように変わってくるだろうか。

今、この瞬間が、「因」となり、次の瞬間の「果」となる。

人生とは、その「因」と「果」のつながりの連続である。

自分がどのようなことを心がけて生きるかで、
10年経てば、大きく変わってくる。

鈴木正三さんが
「我が身を思う念(自己保身)」が分別(煩悩)の本質である」
と語っておられたとか、、、。

では、我が身への意識を外に外にもっていけば、
煩悩も薄まるはずだ。

それには、家族に、社会に、そして次の世代へと
自分自身を奉仕するような感覚で生きるということは、
もしかしたら、自身の意識を外へ持っていくことになるのでは、、、。

仏教でいう「慈悲」というモノだと思う。

人生を乗り切る智慧、そして煩悩を薄める慈悲

この智慧と慈悲こそが、「This is the 仏教」
と言われるほど、仏教の根本原理とのこと。

それを見につけるのも、ただ出家して現場を離れるより、
世俗の中で、苦悩にまみれながらの方が、真の悟りを得ることが
できるような気がする。

今回のEテレ、100分で名著の「維摩経」、とてもよかった。

「維摩経」に、こだわる必要もないが、
とにかく、学ぶという気持ちがあれば、どのような教えから、
どのような場面でも、学べると思う。


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2017年07月02日

「維摩経」から見た日本思想、、、。

今週まで、NHKのEテレ「100分de名著」で
やっていた「維摩経」、これが非常によかった。

通常、仏教のお経の多くは
「あるとき私は、こんなふうにお釈迦様から聞きました、、」
と、言ったスタイルで仏教の教えを語るのが定番だ。

しかし、維摩経では、維摩自身が、仏教徒ではあるが、
出家者ではなく、在家者であり、その教えをお釈迦様の高弟との
やり取りの中で、伝えら得ているようだ。

それは、かなり相手をやり込めたやり方であるが、
とくに在家者の立場として、この世俗の世で、仏の教えを活かして生きる
ことこそ、真の道であるという立場だ。

その高弟とのやり取りをいくつか紹介したい。

釈迦の高弟ナンバーワンといわれる舎利弗が
林の中で静かに瞑想していると維摩が現れ、

「舎利弗さま。必ずしも坐ることだけが座禅ではありません。
座禅というものは俗世間の中にあって、身と意(こころ)を
現さないことなのです。何もせず、心の動きを止め、しかも
諸々の俗世間の行いをするのです。修行を捨てず、俗事を
する。これが座禅です。心は自らに向くものでも、外に
向くものでもありません。これが座禅です。世間の種々の
見方、考え方を知りながら仏道を修行する。これが座禅です。
煩悩は起こるにまかせ、しかも心が平静である。これが座禅です。
もしこのような座禅ができたならば、仏も喜びになるはずです」
と、、、。

例えば、英語を勉強するのであれば、
やはり実際に英語圏で生活するのが一番いい。

もちろん、英語を勉強するの大事だが、いくら英単語や
文法を覚えても、実際に使えなくては何にもならない。

英語圏の生活の中で、一人っきりになり、
例えば自身のバイクが壊れたとしたら
「このバイクの部品を交換できないだろうか、
出来れば、どこか中古のバイクがあれば、それを
取り外して使えないだろうか?」
とか、そのような生きた生活の中で、得た英語の
フレーズというのは、いつまでも心の中で
結晶化して、忘れないものだ。

日本人にとって、それはかなりのストレスを伴うことだ。

しかし、「必要は習得の母である」と、、、。

生きるための智慧にしろ、現場で実体験の中で、
それも苦悩の中で思いついた小さな悟りの積み重ねにより、
その人を大きくしていくような気がする。

放送の中で

「何処にも逃げ道などない。苦難の今を引き受け、
苦難の世俗を生き抜く覚悟がいる」

とも語られていた。

次に行きたいと思う。

清貧生活にトコトンこだわる大迦葉(だいかしょう)が
すべての執着を捨て去るために行うの乞食行だと説いている。
その大迦葉に対して維摩は、

「あなたはもしかしてら自分が立派な聖者になるために
乞食行を行っているのではないでしょうか。それは本当の
乞食行ではありません。すべては関係性の中で成立している
のだから、乞食行というのは施す側のものでもあるのです。
そのことに気づかなければ、すべては無駄になってしまいます」
と、、、。

「これは自分のものだ」という思いが強くなれば強いほど、
人の苦悩は大きくなる。
しかし、「施す」という行為を通じて
「握った手を離すトレーニング」を積んでいけば、執着が低減したり
調えたりできるという。
なるほどね〜。

さらに、人は専門分野などを学んで、専門家になったときに
見えなくなるものがあるという。

自分が秀でていると感じている領域にこそ落とし穴があり、
それを高く評価されると、人はどうしても
「自分の考え方、やり方こそ正しいのだ」と思い込み、
自分の作った枠組みを堅固にしてしまう。
維摩は、釈迦の高弟達を揺さぶり、自らの仏道を
再構築するように導いていると、、、。

なるほどね〜。

これって、あると思う。

例えば、どこかの大学教授や、何かの地位についてしまうと、
そのイメージにはまってしまうことってよくあると思う。

先生、先生と持ち上げれば、分からないことを
分からないといえなくなり、
物知りを装ってしまう。

たとえ専門分野でも、もし学ぶということを忘れてしまい、
自ら作り上げた虚像に自分の心が占領されてしまったら、
その後5年、10年でどうなるか。

いつしか、その人にもかげりが見えてくる。

かげりが見えてくれば、本人も焦りが出てきて、
その自ら作り上げた虚像に執着し、心の葛藤がうまれるであろう。

そうなれば、本来の自分を失ってしまうことに
つながり、身を滅ぼす源となる。

例えば、頭いいキャラに縛られて、学ぶ力を失ってしまった人。

学歴や地位に縛られ、チャレンジ精神を忘れてしまった人と
常にこの世を修行の場ととらえ、学ぶことを中心に
コツコツ生き抜いてきた人と、10年でかなり差がついてしまう。

常に自分を見つめ直し、他者を観察し続ける、
そして世間の噂話の世界だけで生きていくことの
もどかしさをしっかりと認識する。

次に戒律を守ることの大切さを説いている優波離に対して維摩は、

「優波離さま。ただ戒律を守れと人に説くだけでは意味がありません。
”自分というもの”を必死に守ろうとするから、人は誤った
考えや行動に走ってしまうのです。もともと守るべき
"自分というもの”など存在しないということがわかれば、
それほど必死にならなくてすむはずなのです。水面や鏡に
月が写っているのを見ると、あたかも水や鏡の中に
月が存在しているかのように感じるでしょう。しかし、実際には
水の中に月があるわけではなく、鏡の中に何かがあるわけでも
ないのです。この理を知る人こそ、仏法を会通した人なのです」
と、、、。

悩みの原因は、心の中の「過剰さ(煩悩)」という。

そして、過剰になればなるほど、自分という意識が強くなる。

それより、自分の存在というモノをトコトン突き詰めれば、
なんもない、空っぽだということを自覚すれば、
その過剰さというものが、和らぐのでは、、、。

釈迦が亡くなって56億7千万年後、
次のブッタとしてこの世に現れることを約束されている
弥勒菩薩に対して
「弥勒さま。あなたはお釈迦さまから、完全なる悟りを
開いてやがては仏になると約束されているそうですが、
それはおかしくありませんか。なぜなら、仏教では、
すべてのものはこの瞬間にしか実存しないと説いて
いるからです。すべてのモノが瞬間、瞬間で消え去って
いくとすれば、過去は何処にも存在しないことに
なるし、未来はいつまでも未来であって、現在には
ならないことになります。すべては瞬間、瞬間、
変化し続けていて、この一瞬の連鎖によって次の
一瞬が成立します。だから仏教では有(存在)と
時(時間)は不離であって、別々に成立することは
成り立たないのです。それを考えると、あなたが
お釈迦様と交わした約束は成り立たないということ
になってしまいますよね」

と、、、。

過去のことを悔やんでも、それはもう過去のことであり、
この世に存在しない。

未来のことに対して不安になっていても、それは
瞬間という「今」しかない現実において、
何の意味もない。

その瞬間をどう生きるか、それにより次の瞬間が決まる。

その連続が人生そのモノだ。

そしてその連続には、「因」があり、「果」がある。

すべてが、この瞬間をどう生きるかにかかっており、
その瞬間が次の瞬間に大きく関わってくる。

例えば、私の会社の入社5年目になるM君など、
入社当時、例えば「Aという原料を30%入れて、
Bを70%入れる。計算してみろ」と言っても、
なかなか出来なかった。

そして、私も仕事のあとに、彼と居残り、
何度も何度も説明したが、なかなか出来なかった。

頭から煙が出るほど、考え抜いた答えを見せられたが、
明らかに理解できていない。

しかし、幸い、彼には、「素直さ」と「愚直さ」を持ちあわしている。

まじめにコツコツ取り組み、今ではすっかりできるようになった。

もし彼があの時、逃げていたら、一生、簡単な計算も出来ない。

そうなれば、仕事にもかなり制限されることになる。

計算が出来ないということを素直にさらけ出し、
一生懸命取り組もうとするM君、そしてみんなに馬鹿にされ
責められても愚直に取り組もうとする姿には、
なかなか感動するところがある。

見た目のすごさというよりも、私は人間のすごさというのは、
学ぶ力のある人、、、。

それには、素直さがいるし、勇気と忍耐力がいる。

そして、その瞬間、瞬間を大事にし、コツコツやれる人。

そういう人というのは、「化ける」と思う。

毎日、毎日、なるべく前向きな言葉を発し、
それに沿って行動する。

その瞬間の積み重ねにより、どれほど自身が変われることか。

次に、心の共振現象についてだ。

例えば、あの本を読んで感動したとか、
あの演説には、心を打たれたとか、
何か感動ができるというものやはり人間力では
なかろうか。

何をいっても、上っ面だけで、心に響かない人っていると思う。

そういう人ってどういう人かというと、
維摩経のテキストブックにこんなことが、
書いてあった。

「このような共振現象は、心に「自分の都合」という
バリアを張っていると起こりません。もちろん、私たちは
普段「自分というモノ」を守るため、バリアを張って
暮らしています。でも、ずっとバリアを貼りっぱなしに
していると、次第に心身は錆びついてしまい、なかなか
共振現象が起こりにくくなるのではないでしょうか。
このバリアを解除する次空間こそが道場なんですね。
 維摩は慈悲とは言わずに、ここでは大悲という言葉を
使っています。慈悲も、身近な人々や関係者に向けて
起こす小慈悲や中慈悲もあれば、すべての衆生に向けて
起こす大慈悲があります。維摩が感じた痛みは。まことに
大きな慈悲に基いたものですね」
と、、、。

こういうことがいえると思う。

バリアばかり張っていれば、視野が狭まるし、自分という意識が
強くなりすぎる。勇気がもてずに守ってばかりでは、
狭い視野でただ同じところをグルグルまわっているだけ。

それより、勇気を持って、バリアを外してみたら、、、。

それはとてつもなく、その人にとっては勇気がいることである。

しかし、自ら自分をぐるぐる巻きにしていた何かを
解きほぐせば、案外、すがすがしい気持ちになり、周りに視界が
拡がる。

それには、怖れながらも、なるべく自分より、相手を、
周りを、共同体を、そして次の世代をとか、自分よりも
なるべく周りを優先して考えるように訓練する。

慈悲の心とは、実は自意識過剰な意識を他者に移す、
訓練でもあるのでは、なかろうか、、、。

私は、日本の思想体系とは、まさにそのことが
中心あると思う。

いろんな歴史を調べれば、この日本という国の
先人たちは、どれだけ身をささげて、社会に
貢献してきたことか。

その辺りを色々調べていると、自分の心のなかに、
とても共振現象が起こるというか、熱いものを感じる。

今年94歳になるうちの会社の会長さん。

終戦を22歳で迎え、会長の同級生の半分が、戦死した世代だ。

会長は、あくまでも、どんなことがあっても戦争反対の立場だが、
その会長が「日本人なら、一度、知覧に行って来い」
と言っていた。

特攻隊をどう見るか、人それぞれだが、その遺書、手紙を見ると、
胸が熱くなる。

あいつらは、洗脳されたとか、犬死だったという人もいるが、
そのようなとらえ方というのは、あまりにも熟慮にかける。

日本の歴史、民族性、社会のあり方、気候、風土、地理的条件などなど、
あらゆる角度から見て、自分より大事なモノがあるというの考えは、
自然にわいてくるだろうし、その先輩達もそうしてきた。

次の世代に何を残すか、この思想的なことも
非常に大事なように思う。

さらに維摩経について、もう少し続く、、、。



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「維摩経」は、面白い!!NHK Eテレを見て。先人の教えを現代の社会で活かそう〜!!

先週終わってしまったが、NHKのEテレ「100分de名著」で放映中の
「維摩経」、これが素晴らしくいい。

4回放映のシリーズだが、思わず、本屋へ行って、
そのテキストブックを買ってしまった。

「維摩経」の説明については、詳しいことは、ネットで調べて
いただくとして、簡単に言えば、仏教において、出家者ではなく、
在家者としての道を選んだ人物らしい。この人の教えが、
日本の仏教界に大きな影響を与えた。

ではテキストブックの中から、いくつかの
教えを書き起こしたい。

「ここに一つの食器があったとしましょう。有名なブランドの
高価な食器だと聞けば、なんとなくそれを美しいモノのように
感じる人は多いでしょう。しかし、もしそれが大嫌いな人が
使った食器だとわかると、触れるのさえ疎ましい不浄なモノに
思えてきます。同じ食器でありながらもそんなふうに状況に
よって感じ方が変わるのは、浄・不浄という感覚が、自分という
フィルターによって生じたものだからです。
 自分というフィルターをものごとを見ていては、本質は
見えてきません。自分というフィルターを外すこと、つまり
「とらわれを捨てる」ことが、まずは大切なのです。このように、
何事にもとらわれずにものごとを見ることが、仏教でいう
「智慧」です。


これって、日常的にあることだと思う。

まったく、同じことを体験しても、同じことを見ても
その捉え方が人によって全く違う。

各々自身のフィルターがあり、その主観により、
いくら同じ環境に生きていても、まったくその世界観というのか、
なんというのか、違ってきてしまう。

他人からの善意を上手く受け取れる人というのは、
自身も善意をもって、人に接している人なのかもしれない。

いつも他人の噂話ばかり気にしている人は、
その世界観から離れられない。

つまり、幸福も不幸も、自分が作り出しているようなもの。

何かあるたびに、自分は不幸だ、不幸だと呟く人、、、。

同じことが起こっても、自分は運がついている、誰かが導いてくれている
と思う人と、その幸福感が違うし、周りの人はどちらの人に
寄っていくだろうか。

体全体から不幸なオーラを出している人に、
近寄りたいだろうか。

それに、まったく視野も違ってくる。

何か自分に降りかかってくることが、宿命だとすると、
その捉え方によって、まったくその後の人生が変わってくると思う。

さらに、先に進みたい。

智慧と慈悲の実践

文殊菩薩
「菩薩はどのようにして仏陀の悟りへと到達するのですか?」

維摩居士
「もし菩薩が自ら苦悩と罪に満ちた迷いの世界(非道)へと行き、
そこを生き抜くならば、これこそ悟りへの到達です」

維摩居士
「仏陀となる素質は何だとおみますか?」

文殊菩薩
「煩悩も、仏教以外の教えも、仏陀となる素質です。すでに悟りを
得た人は、それ以上悟りを求めることはしません。その人は、煩悩の
泥の中へとまみれることが仏道の実践になるのです。空中に種があっても
芽は出ませんが、泥土の中にあれば芽をふくのと同じです。大会の底に
潜らなければ海の底の宝が手に入らないように、煩悩の中を生きぬかなければ
智慧を獲得して実践することはできません」


毎日、毎日いろんなことが起こる。

さらに、何かを得ても、それでは満足できずに
次のモノを求めたがるのが人間の性、、、。

生きていくうえで、どうしても、悩み不安はなかなか解消されない。
それが人生であり、その中で、毎日、毎日、積み上げるように
学んでいくことこそ、人生そのものだと思う。

その学ぶというのも、自分がどのようなフィルターを持つかによって、
かなり変わってくし、素直さと勇気、そして忍耐力が必要になってくるであろう。

逆に智慧がだんだんとついてくれば、忍耐に対するその対象が変わってくるで
あろうし、智慧と忍耐というのは、常に相関関係にある。

「現場100回」、ある人のことばであるが、
何度も現場に足を運んで、よく観察して、実践しないと
その本質など、見えやしない。

それと同じ、、。
智慧だって活かしてなんぼである。

次に行きたい。

病気になった維摩は、見舞いに訪れた人に向かって
こう語ったという。

「みなさん、この私を見てどう感じますか。この身体は無常で、
無力で、確かなものではありません。刻々と衰えていき、頼りに
なりません。しかし、仏教の教えによって智慧を得た者は、
このような身体を頼りにすることはありません。
 私は、”自分というもの”を頼りにしてしまうと、貪りの心や
迷いを生み出してしまいます。そもそも私たちの体は四つの元素
(地・水・火・風)の集合体として成り立っていて、さまざまな
因縁によって、たまたま成立しているだけなのです。やがては
構成要素は朽ちていき、バラバラに分離してしまいます。
”単独で成立し、決して変化せず、何者にも関係しない存在”など、
この世にはないのです。っそいて、この集合したものの本質を
『空』と表現します。しかし仏となれば、もはや永遠の存在となるの
ですから、私たちはそれを願い求めなければなりません」
と、、、。

「仏教が説くように、自分という枠組みが強ければ強いほど、
我々の苦悩の強度は増すことになります。自分というものの濃度が
濃ければ濃いほど、苦悩の溝は深くなるのです」
と、、、。

よくよく周りを見てみると、例えば人間関係に苦悩している人、、、。

いくらアドバイスをしても、まったく受け付けない。

心が苦悩に占領されて、周りが見えない。

自意識過剰なくらい、自分というモノに意識が集中している。

江戸時代の鈴木正三は、
「我が身を思う念(自己保身)」が分別(煩悩)の本質である」
と言ったとか、、、。

では、その自分という実態があるのだろうか?

「そもそも私たちの体は四つの元素
(地・水・火・風)の集合体として成り立っていて、さまざまな
因縁によって、たまたま成立しているだけなのです。」
維摩経もしくは、仏教ではこのように説明している。

もう少し現在風に説明するならば、
大部分の人間の体というのは、そのほとんどは、
水であり空気中の二酸化炭素であり、
焼かれればその水と二酸化炭素に戻っていく。

生きているうちも、人間を構成している70%が水であり、その水が
汗や尿として、絶えず出たり、入ったりを繰り返す。

そして、人間の細胞とは、絶えず新陳代謝を繰り返し、
2年もすれば、すべての細胞が入れ替わっているという。

私の今、体の中にある水のほとんどが、もとは海の水であり、
絶えず、海と私の体を行ったり来たりしていることになる。

私の体の細胞を構成する炭素も、絶えず死んだり再生したりしているので、
空気中と私の体を行ったり来たりしている。

さらに、体の中にある60兆モノ細胞に対し、影響し合っているが
自立した生命体である100兆ほどの微生物が住み着いているという。

これらが、たまたま何かの縁で集まって、私の体というモノを
今、現在構成している。

体ではなく、その個人の人格にしてもそうだ。

ある精神科医が言っていたが
「人間とは、とても社会性がある動物で
著しく周りから影響を受けている」
と、、、。

確かに、オオカミに育てられた少年が、オオカミのような
習性を身に着けてしまう。

中国人は、中国人らしく、日本人は日本人らしく
育っていく。

私は、二十歳ぐらいまで、祖父母と寝起きを共にしていた
おじいさんおばあさん子だ。

歳を重ねるにつれ、その祖父母の影響を受けているような
気がする。

祖父母だけではない、父母、上司、恩師、友人、
さらにすでに亡くなっている文字を通じて、道元さん、親鸞さんなどの
影響も受けている。

もし、それらの人らに巡り合わせずにオオカミに育てられれば、
オオカミのようになっていたのであろう。

また、私に影響を受けた人も、そのまた両親がおられるし、
その人たちにも、両親がおられる。

つまり、長年続いてきた人間の意識の集合体により、
私という人格が作られていることになる。

これって、本当に「私」、、、?

ただ、有史以来、存続する人間の意識の集合体のほんの
一現象に過ぎない。

体も、本当に「私」なの、、、?

ただ、大きな水と二酸化炭素の循環の中に、体が存在するだけ
なのでは、、、。

そう思えば、「私」なんて何もないのでは、、、。

逆に言えば、海も、空気も私自身、、、。

つまり、自分というモノがあってないようなものだ。

自分なんて、すべて空っぽ、、、。

自分という意識(自我)を薄めれば、もしかすると煩悩も
薄まるのではなかろうか、、、。

放送の中で
「智慧と慈悲、これこそが『This is the 仏教』である」
というようなことを語っていた。

その智慧をつけるにも、ただ出家して、
世俗の世界を離れて追究するよりも、泥の中でしか
ハスの花は咲かない、つまり世俗の世界を生き抜くことこそ、
仏の教えを追及する真の道であると、維摩経は説いている。

放送の中で
「何処にも逃げ道などない。苦難の今を引き受け、
苦難の世俗を生き抜く覚悟がいる」

というようなことを言っていた。

そして、自分を忘れる為に、自分よりも大事なモノって
ないのだろうか。

それは、周りに尽くすこと。

家族であり、仲間であり、例えば次の世代であり、
公共心と社会性についても、維摩経が主張する大事なことである。

それが「慈悲」につながっているように思う。

自分を忘れる為に、周りに目を向ける。

そのために、周りに尽くすこと。

周りに意識を移すことが自我を忘れることであり、
煩悩を薄めることにつながる。

すべてがつながっているのであり、
ある人が言っていたが
「みんなは自分、自分はみんな」
ということ。

せっせと家族に奉仕する、社会に奉仕する、次の世代に奉仕する、
それが自分を忘れる一番の近道、「慈悲」の心であるのだろう。

放送の中でも、ある菩薩が、世の中汚いものだらけ、、、。

そんな中で、どのように仏の教えを実践するのか、、、。

というようなことを語られていたが、その世俗の中で、
生きてこそ真理が追究できるということ。

そのことを維摩経では強く主張している。

おもしろいね〜。

まだまだ、次に続く、、、。



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2017年06月09日

「空」の思想とは、、、。よくよく考えれば、何もない空っぽの自分の本質、、、。

先月は、自分の誕生月。

私も、とうとう50代。

実感があるのか、ないのかと言われれば、
あるような、ないような、、、。

一つ言えることは、残りの人生、あと30年ほど、、、。

これがどれほど短く感じることか、、、。

ある人が言っていたが、
「30代より、40代、
40代より、50代、時間というモノが
ものすごいスピードで過ぎ去っていく」
と、、、。

確かにその通りだと思う。

自分の40代を振り返ると、あっという間であった。

たとえば、小学校の時の一ヵ月と、50代の一ヵ月というのは、
その体感時間というモノが、明らかに違う。

人生80年として、今50なら6割の人生が終わったということになるが、
実際、体感時間で言えば、どう考えてもそれ以上であろう。

ついこないだ、一ヵ月程度前ぐらいの感覚の正月から、
もう半年以上過ぎているという。

2017年というのが、もう半分終わったということ。

明らかに歳を重ねれば、重ねるほど、時間が過ぎる速度というモノが、
加速度がついて速くなる。

これが現実である。

そう思うと、今のところ時間からして、約6割の人生が終わったことになるが、
すでに8割以上終わったことになるのでは、、、。

そして、待ち受けているのは、「死」である。

これは何人たりとも避けることはできない。

では、現在50才ではあるが、残り少ない人生、
「終活」に入ってもいいんじゃないかな〜、とすら思う。

終活といっても、葬儀や墓のことを決めておくとか、
そういうのではなくて、人生の総仕上げだ。

ある人が言っていたが、
「人生って知恵と忍耐力をつけるためにある」
と、、、。

私は、人一倍いろんな体験もしたし、苦悩もした。

その中で、いろんな知恵もついてきたし、
昔にくらべれば、はるかに忍耐力もついてきた。

別に、特別地位やお金があるわけでもないが、
自分で言うのも何だが、なかなかいい感じに、
50代を迎えることができた。

その培った知恵や忍耐力をどのように使うのか?

あの栄華を極めた太閤殿下豊臣秀吉のの辞世
 
「「露とおち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢」

と、、、。

どんなに勲章をつけても、どんなに金銀財宝を貯め込んでも、
どんなに幸せな家族でも、最後には自分一人で死んでいかなくては
ならない。

50にもなると、いろんな人の葬儀に立ち会うことになる。

そして、最後に火葬場で焼かれ、骨だけの姿になってしまう。

大部分の人間の体というのは、そのほとんどは、
水であり空気中の二酸化炭素であり、
焼かれればその水と二酸化炭素に戻っていく。

生きているうちも、人間を構成している70%が水であり、その水が
汗や尿として、絶えず出たり、入ったりを繰り返す。

そして、人間の細胞とは、絶えず新陳代謝を繰り返し、
2年もすれば、すべての細胞が入れ替わっているという。

私の今、体の中にある水のほとんどが、もとは海の水であり、
絶えず、海と私の体を行ったり来たりしていることになる。

私の体の細胞を構成する炭素も、絶えず死んだり再生したりしているので、
空気中と私の体を行ったり来たりしている。

体ではなく、その個人の人格にしてもそうだ。

ある精神科医が言っていたが
「人間とは、とても社会性がある動物で
著しく周りから影響を受けている」
と、、、。

確かに、オオカミに育てられた少年が、オオカミのような
習性を身に着けてしまう。

中国人は、中国人らしく、日本人は日本人らしく
育っていく。

私は、二十歳ぐらいまで、祖父母と寝起きを共にしていた
おじいさんおばあさん子だ。

歳を重ねるにつれ、その祖父母の影響を受けているような
気がする。

祖父母だけではない、父母、上司、恩師、友人、
さらにすでに亡くなっている道元さん、親鸞さんなどの
影響も受けている。

もし、それらの人らに巡り合わせずにオオカミに育てられれば、
オオカミのようになっていたのであろう。

また、私に影響を受けた人も、そのまた両親がおられるし、
その人たちにも、両親がおられる。

つまり、長年続いてきた人間の意識の集合体により、
私という人格が作られていることになる。

これって、本当に「私」、、、?

ただ、有史以来、存続する人間の意識の集合体のほんの
一現象に過ぎない。

体も、本当に「私」なの、、、?

ただ、大きな水と二酸化炭素の循環の中に、体が存在するだけ
なのでは、、、。

そう思えば、「私」なんて何もないのでは、、、。

逆に言えば、海も、空気も私自身、、、。

つまり、自分というモノがあってないようなものだ。

自分なんて、すべて空っぽ、、、。

江戸時代の鈴木正三は、
「我が身を思う念(自己保身)」が分別(煩悩)の本質である」
と言ったとか、、、。

残りの人生、自身にこだわり続けるのか、
そうすればそうするほど、煩悩に縛られることになる。

あやふやな自身の評価を、他人の噂話にゆだねていては、
いつまでたっても、本当の幸福感というモノを得ることは
できやしない。

自分など何もない、空っぽ、そして世の中すべてが
つながっているということ、、、。

上手く言えないが、そのように思えた方のが、
幸せに生きれるような気がする。


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2017年05月29日

「足るを知る」、「諸行無常」、自分を見つめ直すことって、持続可能な幸福感の始まりでは、、、。

 昨日、たまたま車の中で、ラジオを聞いていたら
登山家の野口健さんが面白いことを話していた。

野口さんに
「なぜ、山を登ろうとするんですか?」
という質問にたいして、

「山から帰ってきて、いつも思うことは、
あの風呂の感動。二カ月ほど、風呂には入れず、
じっくり使って楽しむ。それが一ヵ月ほど続くが、
それ以降は、その感動がなくなってしまう。
例えば、電気のありがたさ、シーツの上で寝るということの
あの柔らかさ、日本という国のありがたさ、その感動が
冷めたころ、また山に行きたくなる」
と、、、。

少し言葉は違うが、こんな内容のことを話されていた。

私も、野口さんほどではないが、同じような
経験がある。

ニュージーランドで四日間、山小屋を転々と泊まり歩きながら、
トレッキングをやったことがある。

もちろん、風呂にも入れないし、四日間分の水から、食糧から、
ガスとか、鍋とか、すべてのモノを背中に背負って、
山の中を歩き回った。

そこから、返ってきたときのあのシャワーの感動、、、、。

今でも忘れない。

そして、その山歩きの中で、あるアメリカ人が、
インスタントのコーヒーをくれた。

私は、毎日のようにコーヒーを飲むコーヒー党、、、。

しかし、なるべく荷物を軽くしなくてはならないので、
コーヒーはもっていかなかった。

私が飲んだコーヒーの中で、間違いなく、あの時の
インスタントコーヒーが最高のモノであった。

ある人の言葉であるが
「人間の快楽とは、落差である」
ということ。

毎日、毎日、まるで水を飲むかのように、
ビールを飲む人と、週に一回なり、
しっかりと汗をかいて仕事をした人が自分への
ご褒美として、飲むビールと、まったく価値が違ってくる。

以前は、たかだか一杯のビールを飲むために、
自転車で16kmほどの距離の温泉に行き、
その後プールで泳いで、温泉に入った後の
グラス一杯のビールを飲む。

なんか一気に飲むのがもったいなくて、チビチビ飲むのだが、
そのビールが体の中にしみ込んでいくようだった。

もしかしたら、ただ「もっと、もっと」でなく、
自制心があった方のが、快楽を上手く味わえるのでは
なかろうか、、、。

もし、あなたが船で遭難して、一ヵ月ほど無人島のようなところで
生活した後、帰還して、今、目の前にあるコーヒーって、とても
感動するのではなかろうか、、、。

そんな状況に遭遇したときに、いつもいがみ合っている人が
目の前に現れたときに、なんだかとても懐かしく、
いとおしくなるのでは、、、。

状況が変われば、自身の主観というモノも変わる、、、。

また、今、当たり前のことって、本当にあたりまえなのか、、、。

不平、不満で頭をパンパンにしているのでは、
もしかしたら、自分がいかに恵まれているかが
分からないのではなかろうか、、、。

いま日本では、ギャル曽根のようなタレントがもてはやされて
いるように、明らかに食べ物に満ち溢れた飽食の時代だ。

しかし、世界的に見て、飢餓で苦しんでる人が、どれだけいることか、、、。

時代的に見て、これほど豊かな時代が過去あっただろうか、、、、。

この時代、そしてこの日本に生まれたことが
とてつもなくラッキーであったことか、、、。

もっと、もっとでは、本当の幸せは手に入らないのでは、、、。

持続可能な幸福感っていうのは、味わえないのでは、、、、。

足るを知る心、当たり前など何一つない、諸行無常であること、
そのようなどこか冷静な心って大事なような気がする。

世の中、もっと豊かに、もっと便利にとはいうモノのの、
本当に幸せを味わっている人がどれほどいるのか、、、。

例えば、六本木ヒルズに住んで、一見豪華な生活をしているような人でも、
もしかしたら、不安や恐怖と隣合せなのでは、、、、。

ボクシング世界王者だった鬼塚選手の言葉だった。

少年の頃、世界チャンピオンはスーパーマンみたいな存在やと思ってきた。
俺にとっては神様に近い存在ですよね。凡人の俺が、そんな凄い場所に
辿りつくことができたら、いったいどんな凄い人間になれるんだろう。
そのことだけを励みにここまで頑張ってきました。
しかし、試合に勝ってはみたものの、あるはずのものが何もないんです。
「エッ、何なのこれ?なんで、何もないんや?」
「いや、次勝てばきっと何かが得られる」
そう信じて、次から次へと試合を積み重ねていきました。だけど何も残らない。
試合が終わった夜は、生き残れた実感と自分が探し求めたものが何もなかったと
いう寂しさで発狂しそうになりました。俺は常に素直に飛び跳ねる自分で
おりたいのに、充足感がないから、「何でや?」という思いばかりが
虚しく深まっていく。最後の試合までずっとその繰り返しでした。
  (『週刊文春』平成6年11月)


上へ行けば行くほど、競争が激しくなってくる。

やらなければ、やられてしまう。

そうなれば、常に不安や恐怖が心の中を占領してしまう。

これは、今では、上だけの話ではない。

ある長老の言葉であるが
「今では、競争、競争といって、人をだまくらかしたり、
利用したりが当たり前の時代になってしまった。
昔は、もっと信頼関係があり、助け合ったもんじゃよ〜」
と、、、。

激しすぎる競争というモノが、もしかしたら、
逆に社会を混乱させるのでは、、、。

今では、それが日本の企業だけではなく、中国や
東南アジアなどなど、世界的な競争社会に
なってしまった。

自由貿易、グローバル化、行き過ぎれば、
ほんの一握りの資本家以外、みんな疲れ切ってしまう。

その巨大な資本家たちも、果たして安住な暮らしを
楽しんでいるのだろうか、、、、。

上へ行けば上へ行くほど、競争が激しくなる。

いつ裏切られるか、いつ寝首をかかれるか、
不安や恐怖に飲み込まれる日々なのでは、、、。

江戸時代の鈴木正三は、「我が身を思う念(自己保身)」が分別(煩悩)の本質である」
と言ったとか、、、。

もし、自分が、六本木ヒルズの住人で、そこから破産し、
ホームレスにでもなったら、、、。

しかし、よくよく考えたら、自分もあと30年ほどで、
全てを捨てて、身一つであの世に旅立たねばならない。

やがて死んでいく我が身、、、。

これは決定的なことであり、誰もが避けて通れない。

そう思うなら、執着が薄まるのではなかろうか、、、

先ほどの「足るを知る」ということも
世の中「諸行無常」ということも、冷静にならなければ、
感じることができやしない。

執着が強ければ、冷静になれないし、本質が
見えやしない。

自分を見つめ直すことって、人生を楽しむ
唯一の方法のような気がする、、、。



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2017年05月06日

「己」を溶かす勇気、これって大事なのかもしれない、、、。

 なぜ、怒るのか、、、?

なぜ、悩むのか、、、?

なぜ、自分を大きく見せたがるのか、、、?

なぜ、妬むのか、、、、?

その根本を突き詰めれば、誰でも傷つきたくないと思う
我が身を思う念(自己保身)である。

では、その自己を忘れることは出来ないだろうか、、、。

人間社会の中で、自他を分別し、所有物をはっきりさせなくては
生きていけない。

しかし、その所有物って、本当にあなただけのものなのか、、、。

そして、その根本を問えば、あなたとは本当にあなたなのか、、、?

狼に生まれた人間の子どもが、狼のような風習を身に付けてしまうという。

中国人は、中国人らしく、、、。

日本人は、日本人らしく、周りに常に気を使おうとする。

最近ふと思う。

自分は無くなった祖父母の影響を受けているようだ、、、。

祖父母だけでなく、恩師、上司、先輩、友人などなど、
今まで人生の中で出会った人々の影響を何層にも何層にもうけて、
今自分という人格が形成されている。

今の時代の人だけではない。

その人たちも、親があり、先祖があり、周りの人々から、
いろんな影響を何層にも何層にも受けている。

人間には、文字と言葉が存在する。

何百年前に生きた道元さんや親鸞さんの影響を多くの人が受けて
いることになる。

「人間は著しく周りから影響を受けている」
と、ある精神科医が言っていたが、それだけ社会性のある動物であり、
けっして一人では生きて行けれない。

むしろ、「自分」というのは、昔から続く大きな大きな人間の集団意識により
作り出せれるものであり、そしてそれが次の世代にも引き継がれていく。

つまり、次の世代にも、私が生き続けることになるのでは、、、。

自分って自分であって自分でないのでは、、、。

そんなややこしいことを言っても誰も相手にされやしない。

しかし、もし日常生活の中で、少しでも自我を離れ、
煩悩が薄まれば、それはそれで人生が楽しくなる。

西洋的な「個」主張する文化では、自分は自分、他人は他人というような
心理学になってしまう。

しかし、「自分もみんな、みんなも自分」というような
村社会の中で生きてきた日本人的な考えの方が、もしかしたら
煩悩が薄まるような気がする。

朝の連ドラの「ひよっこ」、とても面白いと思うのだが、
どうだろうか?

主人公であるみね子が、蒸発してしまった父親の代わりに
高校を卒業して集団就職として、東京で働くことを決めた。

そんなみね子に、みねこの叔父が
「みね子、もっと自由に生きていいんだよ〜」
と、、、。

みね子が
「自由って、学校でも言うけど、いったい何?
私は目の前のことを精一杯やることが好きだし、
それを不自由とは思わない。自由ってよくわかんね〜」
と、、、。

私自身の経験であるが、もっと若い独身の頃、
お金も時間も今とは比べモノにならないくらい自由があった。

今では、結婚し、兼業農家である私は、
土日はほとんど野良仕事、、、。

タバコもやらない、競馬もしない、ゴルフも行かない、
飲みにもあまり行かない、しかし不自由かといわれれば、
むしろ昔より自由を感じる。

若いときは、もっと、いろんなことにとらわれていたような気がする。

つまり、自由とは心の開放ではなかろうか、、、。

その心を解放すのは、自分という意識を薄めること、、、。

人生生きていくうえで、いろんなことに遭遇する。

子どもを育てていく上で、お金の問題、人間関係などなど
いろんな試練が起こる。

しかし、それらは本当の自由を手にするためのプログラムなのかも
しれない。

だれもが、いづれあの世に旅立たなくてはならない。

その時に、怨みつらみ、悲しみ、心が占領されていれば、
本当に天国へ昇華していけるのだろうか、、、。

浮遊霊として、深い煩悩を抱えながら、永遠にこの世をさまようことに
なるのではなかろうか、、、。

江戸時代の鈴木正三は、「我が身を思う念(自己保身)」が分別の本質であると言った。

世の中は、すべてのモノがつながっている。

そして、本当の自分など何もない。

大きな大きな集団意識の中のほんの一部分であり、
そのような意識の芽生えこそ、煩悩が薄まるのでは
なかろうか、、、。

それには「己を溶かす勇気」が大事なのかもしれない。


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2017年04月22日

「楽しみとは、苦しみと苦しみの間にあるもの。苦しみとは、楽しみが古くなったもの」、、、。今日のなぜ生きる2よかった!

欲望って、どういうモノなのか?

例えば、喉がカラカラに乾いたときに飲むビールというモノは、
格別だ。

しかし、朝から飲む人もいる。

その人にとってのコップ一杯のビールというのは、
まるで水のようなもの。

同じものを飲んでも、まったくその状況によって、
そこから得られる快感というモノが違ってくる。

始めて、自転車に乗れた時の感動を覚えていますか?

始めて、バイクの免許を取って、ツーリングに行った時の感動を覚えていますか?

始めて、車の免許を取って、ドライブに行った時の感動を覚えていますか?

感動とは、一瞬である。

時が経てば、それが当たり前となり、感動などどこかへ消えてなくなり、
何かに対する不満、不安が心の中に渦巻く。

感動、楽しさ、快楽とは、苦しみと苦しみの谷間にあるもの。

欲には、切がなく、当たり前となった現実だけでは、
満足できなくなる。

「もっと上へ、もっと上へ」と、、、。

しかし、上へ行けば行くほど、競争が激しくなる。

やらなければやられてしまう。

多分、上を上り詰めたいという欲望よりも、
恐怖との戦いとなる。

ジュニアバンタム級世界チャンピオンになったボクシングの鬼塚勝也選手が
こんなことを語っていた。

 少年の頃、世界チャンピオンはスーパーマンみたいな存在やと思ってきた。
俺にとっては神様に近い存在ですよね。凡人の俺が、そんな凄い場所に
辿りつくことができたら、いったいどんな凄い人間になれるんだろう。
そのことだけを励みにここまで頑張ってきました。
しかし、試合に勝ってはみたものの、あるはずのものが何もないんです。
「エッ、何なのこれ?なんで、何もないんや?」
「いや、次勝てばきっと何かが得られる」
そう信じて、次から次へと試合を積み重ねていきました。だけど何も残らない。
試合が終わった夜は、生き残れた実感と自分が探し求めたものが何もなかったと
いう寂しさで発狂しそうになりました。俺は常に素直に飛び跳ねる自分で
おりたいのに、充足感がないから、「何でや?」という思いばかりが
虚しく深まっていく。最後の試合までずっとその繰り返しでした。
  (『週刊文春』平成6年11月)


世界の頂点を極めても「充足感」がない。

人間とは、いつになったら「満たされる」というような
感覚になるのであろうか。

到達した時点で一時の達成感、、、。
そして、そのあとの猛烈な恐怖と不安、、、。

「世界チャンピオンは、スーパーマン」、、、、。
「世界チャンピオンは、神さまに近い状態」、、、、。

そのような自分が抱いてたイメージとはかけはなれ、
充実感などなく、次なる恐怖と不安を抱えなくてはならい。

上へ上がって何をするのか?

ただ噂話の中の価値観だけでは、どう考えても、
苦しくなる。

それよりも持続可能な幸福感とは、何なのか?

どんな場面でも、どんな状況でも楽しめる自分を作るには、、、。




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2017年04月17日

サダム・フセインの「大量破壊兵器」、、、。そしてアサドの「化学兵器」、、、。

アメリカの戦争とは、、、。

アメリカの正義とは、、、。

https://www.youtube.com/watch?v=Zub_W25PCS8


どうか、一度この動画をご覧下さい。
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2017年04月08日

幸せのパターン、、、。

 先日、家族で焼肉を食べに行った。

相変わらず、オヤジはそのほとんどが、
愛犬パンチの話、、、。

だいぶ認知症が進んでいるが、食事をしていても、
10分に一度ぐらい
「パンチに餌はやったか?」
と、聞いてくる。

これも、毎日、毎日のこと。

母は母で、日常のことを面白可笑しく話す、、、。

何度も聞いた話もあるが、大体落ちは見えているのであるが、
本人が気持ちよくはなしているので、ただ聞いている。

特にありふれた日常のことであるが、ふと考えてみれば、
10年後、このように家族で、食事に出かけることができるのだろうか?

オヤジは、その頃90歳になる。

オフクロにしても、その頃は80代中盤だ。

愛犬パンチも、今12才なので、10年後は、
この世にいないであろう。

今、このような日常のたわいもない話を家族とできる。

もしかしたら、とても幸せなことなのかもしれない。

家族がいる、健康な体、、、。

それだけで、十分おつりがくるぐらい幸せなのかもしれない。

実は、あるデーターによると、「ありがとう」という言葉をいう人ほど、
「幸福感」を感じているとのこと。

逆に、あれが足らないこれが足らない、不幸だ、不幸だと
常に言っている人というのは、幸福感というのは味わえないのかもしれない。

成功していないと幸せにはなれないのだろうか?

もしかしたら、世の中を見る、あなたのメガネのレンズを変えてみると、
まったく違って見えるのではなかろうか、、。

毎日、毎日自分を責め続ける人、、、。

他人との背競べのみに、執着する人、、、。

見栄、張ったり、、、その虚像って、けっこう家賃が高くない、、、?

「頭がいい」キャラでい続けるよりも、自分のことを馬鹿だと
思い込めば、行動範囲が広がるのでは、、、。

他人の噂話の中で生きていれば、どうしても虚像を作らなくてはならなくなる。

斎藤一人さんがこんなことを言っていた
「すごいやつは、昨日の自分と比較できる人。
ダメなやつは、すごい人と自分を比較する」
と、、、。

例えば、ライバルがいるとする。

そのライバルとの、競争心むき出しにしているよりも、
相手のすごいところを素直に認める。

そして、そこを自分に取り入れる。

その方のが、自分にとっては、メリットが高いのでは、、、。

ありのままの自分を受け入れる、、、。

他人の噂話に、自分を身を置いて、良いだの悪いだの言っていれば、
いつまでたっても、そこから抜け出せなくなる。

たとえば、散らかっていた自分の机の上の整理した、、、。

今日は、本をここまで読んだ、、、。

いつも挨拶する人に、今日はより明るく大きな声で言えることができた。

そんな、日常の小さなこと、自分の意識を集中する、昨日の自分と比較して、
少しだが成長したのではなかろうか。

そのようなことを10年、20年とやり続ければ、
まったく人生変わってくる。

誰が認めてくれるわけでもない。

しかし、あなた自身が認めて認めてやればいい。

等身大の自分でいれば、視界が広がる、感謝ができる。

ありのままの自分でいれば、他人と本音で話すことができる。

そうなれば、必ず「運」もついてくる。

今までの思考パターンを変えるということは、不安なことあり、
時には恐怖を感じる。

そんな時、役立つのが昔からの思考パターンである
心に神を持つこと。

つまり、信仰だ。

宗教なんて言うと引く人がいることは十分承知の上で語る。

有史以来、人間は何らかの神を持ってきた。

確かに、戦争の道具にされたり、金儲けの道具にされたことも多い。

しかし、全部を否定することももったいない。

不安に思ったとき、氏神さんがついている、
近くのお地蔵さんが守っていてくれている。

誰もわかってくれなくても、あなたをいつもかわいがってくれた
亡くなったおじいさん、おばあさんがあなたをいつも見ていてくれる。

高い月謝を払って、新興宗教に染まることもない。

身近な氏神さん、通勤途中にいつもこちらを見守っていてくれるお地蔵さん、
そして身近な親族、そんな方々の方が、より親近感がわき、
自分を守っていてくれると、感じるのではなかろうか。

常に不足しているモノに、意識を集中するのか、
それとも今あるモノに、ありがたみを感じるのか、

それによって、まったく違った見方ができる。

禅的な思想であるが、足るを知ることこそ、しあわせへの道、、、。

また、常に何かに、不安を抱いているよりも、浄土系の思想である、
「何かがあなたを守ってくれている、もうすべて任せてしまいなよ〜」
と、このような思想も幸せをもたらすのかもしれない。

否定され続けた宗教ではなるが、十分役に立てることもできる。

それらも含めて、あなた次第だ。


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2017年04月03日

エジソンの名言「失敗ではない。うまくいかない方法を一万通り発見しただけだ」、、、。

エジソンの名言に、こんなモノがあるという

「失敗ではない。うまくいかない方法を一万通り発見しただけだ」
と、、、。

うちの94歳になる会長さん。

かなりの高齢であるが、今、一緒に実験の仕事をしている。

つい最近、あることにチャレンジして失敗してしまった。

その時の会長の一言
「失敗も非常い大事なんじゃよ。それでやれないということが分かるんだから」
と、同じようなことをいう。

このように実験に携わった人でなくても、けっこう成功者って
同じようなことをいう。

失敗って、ショックだよね〜。

また、みんなの批判を浴び、冷や汗モンだよね。

しかし、もし、それをやらなかった自分と、やった自分では
その後、どうなっていくのだろうか。

成功という果実ばかり味わっている人の将来とは、、、。

恥をかくことを恐れ、教科書通りのことしかできない人というのは、、、。

その時、その時というのは、人生において小さなことなのかもしれない。

しかし、それが10年、20年とたってしまったら、どうなるだろうか。

「やれないということが分かる」ということは、モノの分別がつくということ。

つまり、何かを判断するうえで、貴重な体験になるということ。

人間って、朝起きてから夜寝るまで1億回以上の判断をするという。

また人生において、大事なことを決断しなくてはならない時がある。

そんな時、周りの人は相談には乗ってくれるだろうが、
最終的には自分の決断しなくてはならない。

失敗から学ぶことって、とても多い。

本質を見極める力というのは、失敗から学ぶことの方が多い。

さあ〜、また、目の前の試練から逃げるのか。

決断を他人任せにするのか。

ある人が言っていたが、
「人生とは知恵と忍耐を学ぶためにある」
と、、、。

そのように、学ぶために神様が用意していくれた
プログラムがそれぞれに組んであるとのこと。

深い言葉だね〜。


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2017年03月25日

「その悩みは、過去形になる」ラジオ、なぜ生きる2、よかったね〜。

今日も土曜日の朝のラジオ「なぜ生きる2」、
これがなかなか良かった。

「その悩みも過去形になる」

ということ。

私は、もう30年近く日記を書いているが、
私にとって、自分に向き合う唯一の場所だ。

ふと、昔の日記を読み返してみると、
「あ〜、こんなつまらないことで悩んでいたのか」
と、思うことが多い。

多くの悩みというのは、時間が解決してくれるということ。

その時というのは、その問題が過去のものとなり、
客観的に見れるようになる。

では、客観的に見れる訓練をすればどうだろうか?

苦悩に苦しんでいる人の大きな特徴というのは、
極端に視野が狭くなること。

自意識というのが、過剰になり、周りが見えなくなる。

もし、もっと周りに目が行くようになれば、客観的に
自分自身が見ることができるようになる。

そんなこと言うのは、簡単であるが、長年慣れてきた
自分の思考パターンを変えるということなので、
なかなかむつかしい。

しかし、もしそのようにならば、かなり自由を手にすることになる。

「自由」というと、とても魅力的な言葉であるが、
それが物質的な、もしくは時間的なゆとりから自由を感じるわけでも
ないようだ。

むしろ、心の開放こそ、本当の自由を感じることができるように思う。

何から解放するかって、それは思考パターンを変えて、
時が経てば、とても小さなことに思える、常に存在する、
今現在の悩みだ。

たとえば、初めて自転車に乗れた小学校一年生の時、、、。

おじいさんに、後ろから押してもらって、その惰性で自分一人で乗れた。

その時は、まるで背中に翼が生えたように思えた。

高校の時、原付免許を取って、初めてバイクに乗ったとき、、、。

この時も明確に覚えている。

車の免許を取って、車を買って初めてのドライブ、、、。

この時もメチャ楽しかったし、どこへでも行けると、
とても自由というのは、開放感のようなものを感じた。

しかし、どうだろうか?

自転車に載れれば、その自転車でいつまでも満足などできやしない。

いつの間にか、次のモノを求めている。

バイクに乗っているときも、車が欲しい、車が欲しいと
常に思っていた。

車を手にしても、あの時味わった解放感というのは、
一年もすれば消えてしまい、今では次のモノを欲している。

欲には切りがない。

逆に言えば、物質では、飽きてしまい、次々と欲に翻弄され、
満ち足りない自分を常としているのが現実ではなかろうか。

それよりも、見方を変える、捉え方を変える、
それによって本当の自由を手に入るような気がする。

例えば、そこに缶ビールがあるとする。

朝からビールなどを浴びるように飲む人は、
その缶ビールなど、まるで水のように飲んでしまうであろう。

しかし、しっかり体を動かして、風呂に入り、
その後ビールをのめば、はるかに美味しいのでは、、、。

今、ビールが飲めるありがたさ、、、。

病気になれば、飲めなくなる。

震災にあえば、しばらく飲めなくなる。

世界中で、多くの人が貧困に苦しんでいる以上、
冷蔵庫に常にビールが冷やされ、いつでも飲めるという状態というのは、
もしかしたら、とてもありがたいことなのかもしれない。

そのように、視野を広げれば、かなり幸福感が得られるのでは、、、。

不自由だ、不幸だと思ってしまう人よりも、あ〜幸せ、あ〜自由だと
思える人の方が、人は集まってくるし、頭を悩みでパンパンにしていれば
いろんなチャンスを逃してしまうことになる。

モノの見方を変える、心の開放こそ、本当の自由を味わえると思う。

神様は、常にあなたが必要な時に必要なモノを与えてくれる。

そんな風に考えた方のが、心が軽くなるのでは、、、。



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2017年03月24日

「愚直」さ、「素直」さの大切さ、、、。

私の会社の後輩であるM君。

M君は、現在20代で入社して丸四年だ。

かなりどんくさいタイプで、何か言われると
おどおどしてしまういじめられっ子タイプ、、、。

しかし、こんな彼でも、他の人とは違った
素晴らしさを持っている。

それは、「愚直さ」と「素直さ」だ。

焼き物が好きで、高校卒業後、焼き物の産地である愛知県瀬戸市の
窯業の専門校に入る。

その後、うちの会社に入社したのだが、最近、私の友人で
陶芸活動をしているF君に、M君を紹介した。

F君は、山の中の斜面で、自分の手作りの薪を燃料とする昔ながらの
窯を作ってしまうほどの凄腕で、粘土の方も、自らいろんな
工事現場や開発地におもむき、採取して使いこなしている。

つい最近、会社の後輩のM君が、凄腕の陶芸家のF君の仕事場に
手伝いに行き、一日一緒に作業したらしい。

その夜、F君から私のところにメールが来て、その内容は
「今日は、Mくんが手伝いに来てくれました。
いろいろと教えるつもりでいましたが、M君と接していると
その愚直さ、素直さに私が何か教わっているような
気分になりました」
というような返信があった。

どんくさくて、要領が悪く、世渡りのうまくないM君、、、。

しかし、果たして若いうちから、世渡り上手なのが
本当にいいのだろうか。

前の会社の先輩が
「だいたい要領のいい奴というのは、すぐにやめていってしまう。
むしろ、どんくさいやつのが残っていく」
というようなことを言っていた。

ある意味その通りだと思う。

要領が悪く、世渡りがヘタならば、もがき苦しむ。

そのもがき苦しむことって、若いうちには必要なんじゃないかと思う。

特に、M君は、いつも等身大の自分をさらけ出す。

だれでもそうであるが、自分を大きく見せようとするところって
あると思う。

しかし、M君はそういうところがほとんどない。

たとえば、「頭のいいキャラ」を前面に出している人っていると思う。

そういう人って、うかつに自分の疑問を他人に聞けることって、
できるのだろうか?

恥をかいて、何かを思いっきりやってみるということができるのだろうか?

失敗こそ、いろんなことを学ぶチャンスである。

自分を大きく見せようとする気持ちを抑え、好奇心と探求心を
第一に生きてきた人では、モノの理解力が格段差が出てくる。

「プライドを捨てる、プライドもを持つ、両方とも大事なことさ〜」


と、むかしスズキの宣伝でやっていたが、
つまらないプライドが自分を縛り上げ、成長を止めてしまうことって
あるんじゃないかな〜。

そんな意味でも、素直さを前面に、そして愚直なまでに
自分の道を突き進むMくん、、、。

なかなかいない存在であり、見かけより、輝くものがあるような気がしてならない。

どこか多くの人が、忘れ去った大事なモノを持っているような気がする。




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2017年03月18日

占守島の戦い、三ヶ根山の英霊達、、、。その壮絶な日本の歴史を振り返る、、、。


先日の日曜日、愛知県の三ヶ根山に行ってきた。

そこに、戦争で亡くなった方々祀られているということを聞いて、
さっそく行ってみた。


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この慰霊碑、、、。

占守島の戦いって、ご存じだろうか。

太平洋戦争が終結した日といえば、昭和20年(1945)8月15日,,,.

しかし、その二日後にあたる8月17日に、占守島という島で、ソ連と
日本の壮絶なる戦いがあった。

占守島とは、択捉島、色丹島、歯舞群島、国後島の「北方四島」が属する
北千島列島の北東端の島で、終戦の混乱に乗じて、日本の北方の領土、
そして北海道まで奪い取るというスターリンの思惑があったようだ。

ドイツ、朝鮮半島をみれはわかるように、もし北海道までソ連に取られていたら、
日本人民共和国、北日本民主共和国のような国ができ、日本を二分するような
時代が続いた可能性があった。

占守島を守っていた兵隊たちは、8月15日の玉音放送後、「これで故郷に帰れる」
「久しぶりに、家族の顔を見ることが出来る」安堵していた頃、ソ連軍が
占守島に侵攻、、、。

このまま黙って降伏するのか、それとも戦うのか、
大きな選択に迫られた。

上の三ヶ根山に祀られている士魂碑は、その占守島の戦いで大活躍した
戦車第十一連隊は、「十一」を合わせて「士」、通称「士魂部隊」と呼ばれた精鋭部隊で、
「戦車隊の神様」と言われた池田末男大佐が指揮していた。

池田大佐は、自らの部下たちの前で、

「諸氏は今、赤穂浪士となり、恥を忍んでも将来に仇を奉ぜんとするか、
あるいは白虎隊となり、玉砕もって民族の防波堤となり、後世の歴史に
問わんとするか!?赤穂浪士たらんとする者は、一歩前に出よ。
白虎隊たらんとするものは手を挙げよ!」


と、問いかけたところ、

全員が、喚声と共に即座に手を挙げた。

池田大佐は、先頭に立って敵陣に突撃し、戦闘中に敵の戦車砲に
よって戦死なされた。

本来ならば、一日で落ちると思われていた占守島に
かなりの時間を費やし、その間にアメリカ軍が北海道に
入ってしまったので、ソ連軍は北海道まで到達することが
出来なかった。

この激闘で、日本軍の死傷者は700〜800名におよび、
ソ連軍は3000名以上の死傷者を出したとのこと。

ソ連軍の侵攻地における略奪、破壊はすさまじいものがあり、
特に女性に対する陵辱は陰惨を極めた。ベルリンや満州では地獄絵図が
繰り広げられた。この占守島にも、缶詰工場で働く約400人の若い
女子工員がいた。戦闘のさなか、占守島司令部隊は、島にあった独航船
20数隻に女性を乗せることにした。戦闘を終了したソ連兵が血眼に
なって女性を探したが、女性達は無事に北海道に着いた後だった。


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この三ヶ根山の士魂碑の前に立つと、素直に両手を合わせて
「ありがとう、ございます」という気持ちになる。

降伏を決めた8月15日以降に、、占守島、樺太における対ソビエト軍への
戦闘を指揮し占守島の戦いではソ連軍千島侵攻部隊に痛撃を与え、
防衛戦に勝利した樋口季一郎中将。そのため極東国際軍事裁判に際し、
スターリンは当時軍人として札幌に在住していた樋口を「戦犯」に指名した。
世界ユダヤ人会議はいち早くこの動きを察知して、世界中のユダヤ人
コミュニティーを動かし、在欧米のユダヤ人金融家によるロビー活動も始まった。
世界的な規模で樋口救出運動が展開された結果、ダグラス・マッカーサーは
ソ連からの引き渡し要求を拒否、樋口の身柄を保護したとのこと。

では、なぜユダヤ人が、この樋口中将を助けたのか?

http://rekisi.amjt.net/?p=4744

そのあたりのことが、この上の記事に載っている。

オトポール事件


1938年3月、満州国と国境を接したソ連領のオトポールに、ドイツの迫害から
逃れてきたおよそ2万人のユダヤ人難民が、極寒の吹雪の中で立往生し
凍死しようとしていた。
これらのユダヤ人たちは、ソ連政府によってビロビジャンに強制入植させら
れた人たちで、過酷なビロビジャンから逃れ、満州国を経由して上海へ脱出し
ようと考え、オトポールまで逃れてきたのであるが、ドイツに遠慮した満州国が
入国を拒否したため、極寒の中、食糧がつき凍死寸前の難民たちは前へ進む
こともできず、そうかといって退くこともできなかったのである。
当時、満州国のハルビン特務機関長を務めていた樋口季一郎のところに、
ハルビンのユダヤ人協会会長・カウフマン博士が飛んできて、同胞の窮状を訴えた。 
しかし、満州国外務部(外務省)を飛び越えて、独断でユダヤ人を受け入れるのは、
明らかな職務権限逸脱であった。
が、樋口季一郎は自分の判断で、ユダヤ難民全員を受け入れることを認めた。
この、樋口季一郎少将のユダヤ人救出に 「まさに 八紘一宇(はっこういちう)
である」 として許可を出し外務部とドイツを説き伏せたのは、
東條英機 関東軍参謀長(当時)。
ドイツ外務省は日本政府に対し、大量のユダヤ人難民を満州国へ入れたことへの
強硬な抗議を行った。 この抗議は東京から新京の関東軍司令部にすぐ伝えられたが、
東條英機中将(当時)は、「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ」として
一蹴したのである。救援のための列車を動かしたのは、当時の満鉄総裁 松岡洋右
(戦後、A級戦犯として公判中に病死) の判断であった。
日本のシンドラーとして有名になった杉原千畝が「生命のビザ」を6,000枚発行する
2年前に、樋口季一郎少将と松岡洋右、東條英機 によってユダヤ難民が救われていた。
この流れがあったからこそ杉原千畝はビザの発行ができたわけです。



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この三ヶ根山には、東京裁判でA級戦犯として処刑された
東條さんら七名の方が祀られている。

彼らは、むしろ、永遠に汚名が引き継がれる世界の極悪人を
引き受けた人たちではななかろうか、、、。

戦争に負けた、、、。

誰かが裁かれなくてはならない。

そんな中でもA級戦犯として、刑場に上がった人々、、、。

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この慰霊碑の前で、深々と頭が下がるのは、私だけなのだろうか、、、。

薩摩の知覧特攻記念館にいった時もそう。


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二十歳前後の若者が、大きな爆弾を抱えて、
沖縄方面に向かう、、、。

確かに、「彼らは洗脳されていたから、
その洗脳をした軍部が悪い」
というような意見をよく耳にするが、
ただそれだけみるには、あまりにも了見が狭いように思う。

歴史とは、[his-story」であり、勝った方のものである。

日本の歴史、地形、風土、文化、思想、気候
あらゆる観点から見て、「強固な共同体」存在し、
そこから生まれる「仲間意識」というのは、かなり強いものが
あったはずだ。

「仲間を信じられるか」どうかで、自分よりも大事に
思える共同体が生まれると、私は思える。

ある戦争の生き残りの人と話した時に、私が
「死ぬのは怖くなかったんですか?」
と、たずねると、

「そんなことを言っておれる場合ではない。
我々の世代で何とかしなくてはならない、という
気持ちが強かった」

と、、、。

そんな思いがこもった郷土であるこの日本、、、。

ただ、日々の欲望を満たすだけの人生でいいのか、、、。

見ざる、聞かざる、言わざるを貫いているだけの
人生でいいのか、、、。

この日本という国、日本という社会は、
多くの先人たちの結晶であり、
その日本を次世代に引き継がせていかなくてはならない。

うちの会社の会長さん、、、。

94歳であり、元陸軍少尉であり、22才で終戦を朝鮮で迎えられた。

会長の同級生の半分が戦死しておられ、
一番被害が大きかった世代である。

会長は、アメリカの悪も、中国の悪もいうが、
それでも最終的には、
「戦争は絶対やってはならない」
と語る。

そして、こないだ安保法案が国会で通過したとき、
いきなり
「わしゃ〜、自民党をやめる!!」
と言って本当に自民党員をやめてしまった。

地元では、自民党支持者の大物である。

この100年の世界の戦争を振り返れば、そのほとんどが
石油などのエネルギー資源の奪い、、、。

なぜ、中東で戦争が止まらないのか、、、。

なぜ、日本があのような無謀な戦争に突入しなければ
ならなかったのか、、、。

昭和天皇は、
「あの戦争は、石油で始まって、石油で終わった」
と、語られている。

ただ、戦争反対を唱えているだけでは、戦争は止まらない。

戦争を極力少なくする方法とは、なんなのか、
よくよく考える必要があるのでは、、、。

日本のために、そして我々のために、多くの人々が
命をかけてくれた現実、、、。

はたして、次の世代のために、われわれは何をするべきなのか、、、。




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2017年03月14日

三ヶ根山に眠る七名のA級戦犯たち、、、。彼らは英霊なのか?世界の極悪人なのか?

 ある人から、三河の三ヶ根山に、東條英機元総理ら七名のA級戦犯の
方々が祀られていると聞き、さっそく見に行ってみた。

東京裁判で絞首刑とされ、その後死刑が実行された後、
心ある方がGHQの命令を振り切って、その遺骨を拾い
上げることに成功した。

そして、現在、愛知県の三ヶ根山に祀られている。


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果たして、彼らは本当に世界の極悪人だったのか?

歴史とは「his-story」と言われるように、勝者のモノ。

どの時代でも、世界のどこでも、勝った方が自分たちの正当性を高めるため、
書き換えられる。

これは、ごくごく当たり前のこと、、、。

本当に日本だけが悪かったのか、、、。

アメリカがだけが本当に正しかったのか、、、。

アフガン・イラク戦争、シリアでの戦争、、、。

目を覆いたくなるようなアメリカの悪事の数々、、、。

アメリカとは、建国以来二百数十年のうち、戦争をしなかった年というのは、
たったの十数年に過ぎない、、、。

イラクに対しても、シリアに対しても、戦争にまで
トコトン追い詰めていく、、、。

それが現実であり、アメリカの東側の数州で始まったアメリカ合衆国が
今では世界唯一の超大国、、、。

それには、数々の世界の覇権を狙った戦争、謀略があったのは、
これはれっきとした事実である。

それに、日本が戦争に突入する直前の状況をよくよく考えてもらいたい。

世界の石油の生産量の大半は、米国産だ。

その石油を止められてしまった。

昭和天皇が
「あの戦争は、石油で始まり、石油で終わった」
と、おっしゃられていた。

エネルギーでも、軍事力でも、圧倒的な力を持つ米国に対して、
「窮鼠猫を噛む」というような状態で、ドンドン追い詰められ、
最終的には、真珠湾へと向かうことになってしまった。

長崎、広島への原爆投下、、、。

東京大空襲などは、四方を炎の壁で囲い、人々が逃げれないうえで、
その中を徹底的に焼き尽くす。

あれが戦争犯罪でなくて、何をもって戦争犯罪というのだろうか。

私は、過去のことでアメリカを憎めと言っているのではない。

世の中には、非常に不合理なこともあるし、
過酷な運命を受け入れないけない人も多くいる。

東條さんを始め、A級戦犯の方々というのは、
むしろ、誰かが敗者としての罪を背負わなくてはならない中で、
絞首台で命を落とした人だということ。

実際に、東條さんは東京裁判でたった一人で、
よく戦われた。

歴史とは「his-story」、勝者によって作られる。

そんな中で、負けた方の総大将として、
世界の極悪人として、東京裁判でさらされながら、
刑死される。

一人の人間として、これほど過酷な人生も、
そうはないのでは、、、。

開戦当時は、東條さん、東條さんとして英雄視していた国民が、
戦争敗れれば、極悪人として蔑む。

そして、未来永劫、極悪人として世界にその名が引き継がれていく。

残された家族はどうなのか、、、。

天皇、国民、そして共に戦った部下達、、、。

そして日本の未来は、、、
と思うと、生き続けるということは、東條さんにとって
耐え切れない思いではなかろうか。

処刑される前にこんなことを語っていたらしい
「死ぬにはいい時期です。終身刑にでもなったら
永遠に煩悩に付きまとわれ、たまったものではない」

と、、、。

またこんなことも
「昨日宣告のとき、心が朗らかになりました。
『大無量寿経』の中の、法蔵菩薩が決定して無上正覚をいるといわれる、
あのような気持ちになりました。
日本の土地に同化して行けることは、非常にありがたいことです」

と、、、、。

そして、東條さんの奥さんへの歌
「明日よりは誰にはばかるところなく
    阿弥陀のみもとでのびのびと寝む」

と、、、、。

そしてA級戦犯として判決を待つ元側近に対して
こうも語ったとされる
「戦争の責任は僕一人で背負いたかったが、多くの人々に
迷惑をかけて相済まぬ。君もどんな判決を受けるか知らないけれども、
敵に罰せられると思えば腹もたつだろが、陛下や国民から罰をいただく
と思って、甘んじてもらいたい。敗戦により、国家と国民とが蒙った打撃と
犠牲を思えば、僕が絞首台に上がるごときは、むしろもったいない。
 僕はただ絞首の辱めを受けるだけでなく、永遠に歴史の上に罵りの
鞭を受けなればならないからです」

と、、、。

そして
「トウジョウ・。ヒデキ、デス・バイ・ハンギング(絞首刑)」
を、言い渡されたときに
東條さんは「そうか、よしよし」とでも言いたげに軽くうなずいた。

東條さんは
「自殺でもしたら意味がない。絞首刑で死ぬことこそ意味がある。
それが日本の再建の礎石隣、平和の捨石となりえる」

考えていたようだ。


IMG_2599.JPG


私は、東條さんは東京裁判では立派に戦った唯一の日本人だと思う。

ご立派だったと感じる。

多くの人々の犠牲のもと、今の日本という国が存在し、
我々が豊かな生活で暮らしている。

あのような悲惨な戦争に、二度と巻き込まれないためにも、
自前のエネルギー資源がどうしても不可欠だ。

自前のエネルギー資源、そして石油が確実にそう遠くない将来に
枯渇する現実を考えれば、どうしても再生可能エネルギーで
自給できる国家、見本のような存在が必要である。

それが、日本以外、どこの国ができるというのだろうか、、、。






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2017年03月05日

遺伝子組み換え食品が生物兵器となる可能性、、、。

https://jp.sputniknews.com/opinion/201703053399812/

「遺伝子組み換え食品:普通の食べ物、それとも生物兵器?」

遺伝子組み換えについて、私もその害、もしくは
害になる可能性について、ほとんど知らなかったが、
上の記事によると、こんな使われる可能性もあるという。

その部分を一部紹介したい。

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病気を作り出す有機体を故意に拡散させる様々な手段は、
生物学兵器として受け止められている。しかし普通の人達にとって、
最も恐ろしいことは、日常口にする普通の食べ物や、あるいは
飲む水を通して、人々の間に病気が蔓延するという事だ。
そうしたリスクは、一体どれほどのものなのだろうか? 
その点では、遺伝子組み換え食品は、どんな役割を果たすのだろうか? 
そうした食品が全く有害なのか、あるいは人間にメリットがあるのか、
今も分かっていない。
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ツィヂェンダムバエフ氏
:遺伝子組み換え食品は、完全に、そうした兵器になり得る。なんらか
の病原性細菌の遺伝子を、植物ゲノムに組み込むチャンスは常にある。
例えば、コレラや、あるいは炭疽菌のようなものだ。そうした植物の
種から得られる食物は、その後、バイオテロ攻撃実施のための手段として
用いることが可能だ。毎日の生活の日常のレベルで、それは、少なくとも
アレルギーを、ひどい場合にはガンを誘発させる。しかし、そうした食物を
とることで第一に影響が出るのは、生殖機能においてである。血液の成分が
変化し、肝臓、腎臓、副腎に害を与える可能性がある。そして一度に数千の
遺伝子の働きが変わる。
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確かに、恐ろしいことだ。

コレラや炭素菌のようなモノを植物のゲノムに組み込むことができるという。

それを日常的に食べる遺伝子組み換え食品に組み込みこまれたら、、、。

そういうことが、技術的に可能だという。

さらに、次のようなことも述べている。
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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ツィヂェンダムバエフ氏:
 まず第一に、これは、遺伝子が組み替えられた種を作っている
巨大多国籍企業によるビジネスだからだ。遺伝子組み換えを利用する
根拠とされたのは、それによって飢餓状態にある人達を救う助けに
なるという事だった。それ以外に、定着しつつある遺伝子組み換え
植物の70%は、除草剤に対する耐性遺伝子を含んでいる。それゆえ
企業は、種ばかりでなく、それらが耐性を持っている除草剤も売る
ことができる。そうすることで、巨大多国籍企業の利益は、
2倍に膨らむのだ!
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巨大な多国籍企業が、果たして人々の命と健康を優先するのか?
それとも自身の利益を優先するのか?

果たして、彼らの根本にある一神教的な価値観とは、、、。

う〜ん、なんだか深く考えさせられるのは、私だけだろうか??


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2017年03月02日

入社20周年に思うこと。

昨日で、今の会社に勤めて勤続20年となる。

会社の入り口に、いつものように足を踏み入れる瞬間、
20年前はどんな気分だったのだろうか、とふと思った。

不安もあったが、それ以上に、かなり気負っていたような気がする。

振り返れば、人一倍、いろんな体験をさせてもらい、
自分で言うのも何だが、人一倍よく学んできたと思う。

それまでは、ホテルマンから、まったく畑違いのセラミックスの会社への入社。

それも、うちの社長の講演を聞いて、押しかけてきた
薄紫色のスーツを着た元ホテルマンの青年、、、。

会社もよく私のようなどこの馬の骨かわからないような男を、
いれてくれたものだと、大変ありがたく思う。

私にとっては人生の大転換であり、飛び込み入社、そして一年後に結婚と
それらの理由から、かなり私を気負わせた。

とにかく、いろんなことを体験しよう、いろんなことを学ぼうという
気持ちが強かった。

入社以来、ひたすら突っ走ってきたが、まったく畑違いの仕事なので、
自分の知識不足を痛感する。

仕事にのめり込めばのめり込むほど、科学的な知識が
喉から手が出るようにほしくなる。

そして、入社三年目から、放送大学に入り、そこで科学を徹底的に
学ぶことにした。

もちろん、仕事をしながらなので、かなりハードであったが、
何とか5年で卒業することができた。

会社としても、突然、飛び込んで入ってきたと思ったら、
大学にも行き始め、かなり生意気なこといい、協調性のない若者に、
かなり手を焼いていただろうと思う。

また、いろんな体験から、周りの人から、とても多くのことを学んだ。

特に、今93歳になられるうちの会長さん、、、。

かなり個性的な人であるが、その生きざまというモノも、
すごい味を感じる。

いろんなことを学び、いろんなことを体験し、20年がたった。

あと数カ月で50歳になるが、いい感じで50を迎えれるのではないかと思う。

まだまだ気力もあり、体力もあり、それなりの知識、知恵も身についてきた。

ある人が言っていたが、
「よく学び、よく体験すること、それらが自身の血となり骨となる」
と、、、。」

日々、その場その場で逃げるのか、立ち向かうのか、
その積み重ねで、大きく人生変わってくると思う。

立ち向かうということは、自身を追い込むことであり、
それだけ身につくことも多いように思う。

その自身で身につけたモノをどう使うか、

それは世間様に還元すること。

私がここまでこれたのも、いろんな人からいろんなことを教わってきたからだ。

だから、次の世代になるべく伝えるていきたい。

知識なんて、一人で抱えていては腐ってしまう。

それより、いいと思ったことは、周りに惜しみなく伝える、
それは知識でも知恵でもそうだ。

知識や知恵なんて、一人だけのものではない。

例えば、目の前に納豆があるとする。

この納豆を最初に食べた人は、ものすごい勇気だと思う。

多分、ありとやらゆる、このような見た目に、腐っているようなものに
いろんな人が食べれるかどうかと、トライしてきたのであろう。

そんな人類の歴史の中で、それを食べて亡くなった人もたくさんいるはずだ。

そんな中で、「納豆が食べれる」ということが、
人類の共通する知識の中で、固定されていく。

つまり、それは我々人類のの財産である。

そんな多くの犠牲や、多くの血のにじむような努力によって、
培われた知識や知恵を土台にして、今の私は生きている。

そう思えば、今自分が、習ったこと、次の時代に伝えていかなくては
いけない。

一番、働き盛りの50代に間もなく突入する。

どのように生きるのか?

どのように、より自由に幸せに生きれるのだろうか?

それよりも、自我を溶かし、自分を溶かす、
そんな生き方の方が、しあわせになれるのではなかろうか。

自分の身を溶かし、一歩踏み込んで、周りに尽くす。

それには、かなりの忍耐が必要であり、
自身の煩悩との戦いになる。

簡単なことではない。

しかし、それを積み重ねることにより、
より強い信頼関係ができるのではなかろうか。

これからは、明らかに共生の時代となる。

今までの価値観では、何もかもが上手くいかなくなってくるであろう。

地縁、血縁、社縁が崩壊し、無縁社会に突き進む中、
時代とは逆行するであろうが、周りに尽くし、
周りとの信頼関係を築くことがどれほど大事なことか。

欲望と恐怖は紙一重、、、。

本当の自身を縛るものとは、何んなのか?

すべてがつながっている。


posted by hide at 20:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする