2016年06月07日

どうしても総理にしたい女傑、森ゆう子、参院選新潟選挙区より出馬!!!

はたして「戦後」という時代をどのように、
とらえるか?

これだけ、世界各国で格差社会が広がり、
お金万能主義の中で、益々お金の奴隷化が進む。

世界で唯一、実質的な社会主義が成功した国といわれる
日本ですら、その傾向は、顕著に出ている。

冷戦により、ソ連が敗けた。

そうすれば、勝った資本主義というモノが、正しかったということになり、
さらにその主義主張というモノが研ぎ澄まされていく。

むしろ、原始的な資本主義に戻っているという人もいる。

それは、莫大な富を持った資本家が、雀の涙ほどの賃金で、
多くの庶民を従える。

本来の資本主義というのは、こういう構造であった。

それが、「戦後」という時代になって、大きく人権という
要素が入ってきたと思う。

それは、やはり二度の世界大戦により、莫大な死傷者がでたこと。

さらに、無類の経済発展により、多くの労働者が必要になったこと。

もう一つ、資本主義のライバルである共産主義、社会主義が
存在したこと。

このようなことから、本来資本主義の資本家と労働者との関係から、
「福祉」とか、「人権」というような考え方が取り入れられた。

しかし、今はどのように変化していったかというと、
すでに市場は、飽和状態。

もしくは、発展途上国による大量の労働者が、
参入することになり、モノづくりに関して、
競争が激化、、、。

モノを大量に作らなけらばならないから、人が必要という時代が
かなり薄れてきた。

さらに、機械化、ロボット化、コンピューター化により、
全体的に労働者の価値が、下がったといえる。

また、ソ連が崩壊し、労働者のための社会を目指したとされる
社会主義、共産主義が崩壊してしまった。

世界を牛耳る大金持ちたちは、益々自分らの有利な
社会に改変しようとしている。

ほんの一握りの資本家、その他大勢の貧乏人、
本来の資本主義の在り方に、戻りつつある。

というよりも、それが資本主義の本来の姿なのかもしれない。

TPP,TTIP,TiSAなど、日本などのアジア圏だけでなく、
ヨーロッパなど、世界を取り巻くような他国間協定が
着々と突き進もうとしている。

TPPなど、決して農業の問題ではない。

端的に言えば、莫大な富を持つ資本家たちが一番邪魔に思うのは、
「国家」である。

国により、法律に縛られ、環境問題、人権問題などにより、
自分たちの商売が邪魔されることがしばしばある。

それなら、それを超えるような協定を結びましょう、
つまり、各国の自国の国民を保護するような法律を超える
大権を資本家たちに与えてしまうということ。

もし、彼らの商売の邪魔をするようなことを国家がしたら、
訴えますよ〜、賠償してもらいますよ〜、というような
巨大な資本家たちに国家を超える大権を与えるような
世界的な協定というのが、TPP,TTIP,TiSAである。

各国の政治家たちの多くは、すでに買収されているに等しい。

3年ほど前、Eテレのスーパープレゼンテーションで
ハーバード大学のローレンス・レッシグ教授が、
分かりやすく語っていた。

「我ら人民は共和国を取りもどさなければならない」
という題で話された。

アメリカ版、「政治と金」の問題についてだが
アメリカはすでに、ほんの一握りの富裕層に乗っ取られている、
というような話であった。

その教授がおっしゃるには、
アメリカには「二つの選挙がある」と、、、。

一つは、人民が投票する一般の選挙。

もう一つは、資金集めによる富裕層による選挙だ。

アメリカの人口は3億1100万人。

その中の0.05%の人が、大半の選挙資金を出しているのが
現実らしい。

選挙では、莫大な金がかかる。

そのお金を集められなくては、選挙には出られない現実。

さらに、政治家は自由な時間の30〜70%を政治資金集めに
費やしている。

多くの政治が「フリをするのが上手い」という。

一般国民に気付かれないように、
うま〜く、うま〜く、富裕層の意にそうような政策を決定していく。

また、アメリカ議会とは、「ロビイストの二軍」とも語っていた。

1998〜2004年、上院の50%、下院の42%が
政治家が引退後、年収が1452%増加したという。

ロビイスト街に身を投じ、富裕層や企業の「御用聞き」
に、なっていくらしい。

こうなれば、世界行われるアメリカの戦争というのは、
どういうモノなのか、誰でもわかるのでは、、、。

占領した地域に、巨大なグローバル企業が押し寄せてくる。

石油の利権、天然ガスの利権、ありとあらゆるものを搾取していく。

日本でも同じようなこと。

数々の規制緩和、そしてTPPなどの協定。

益々、アメリカの巨大資本家たちに、お金による支配が進んでいく。

では、我々庶民はどうしたらいいのか?

ただ、指をくわえてみているだけでいいのか?

いつものように、見ざる、聞かざる、言わざるを
決め込んでいるだけでいいのだろうか?

「本来の民主主義とは、
常に闘っていなくては、資本主義は保てない」
と、誰かが言っていた。

戦後のように、人権を大事にするという風潮は、
もう世界的に終わってしまった。

原始的な資本主義に戻ろうとしている中で、
みんなが団結して、闘っていかなくては、
今までの生活が保てなくなる。

そう思うと、以前民主党が掲げた
「国民の生活が第一」というスローガン、
どれほど、その大きな時代の流れを危惧した
ものであったことか。

マスコミにも、検察にも、ありとあらゆる勢力によって、
つぶされてしまったが、本来、我々庶民が
今の生活を守るには、そのような政治勢力を
どうしても育てなければならない。

確かに日本というのは、アメリカのある勢力に
深く、それも幅広く根底のところで、支配されている。

しかし、それでもただ順応に、ただ黙っているだけでは、
心底から彼らに操られることになる。

しっかりとした、我々の意志をしめさないと、
たとえ今の支配勢力が衰退しても、支配者が変わるだけで
おなじことである。

また、それ以上に従属を強いられる可能性がある。

また、本当に国民側に立って闘ってくれる
本物の政治家を強烈にバックアップしなくては
ならない。

さあ〜、そうなると、誰の顔が思い浮かぶだろうか。

はっきり言って、今回の参院選で新潟選挙区から
出馬する森ゆう子氏しかいない。

いや、まだ何人か存在するか、強烈に時代を引っ張るというのか、
凄まじい行動力を持った人というのは、そうはいない。

わたしは、森ゆう子さんをどうしても総理にしたい。

彼女は、ただ行動力だけではない。

とても、頭が切れる。

強い信念を感じる。

どうか、みなさん、森ゆう子さんを支援していただけないでしょうか?

森ゆう子さんは、野党の代表として、
今回新潟選挙区から出馬されます。

http://my-dream.air-nifty.com/moriyuuko/

こちらは、森ゆう子さんのブログです。

日本の未来を大きく切り開く可能性のある政治家を
どうかみんなで育てませんか?

次の世代のためにも、そういう種まきをしてみませんか?

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2016年06月01日

共生の時代への意識の大変化、、、。一割の人の意識変化により、大きく時代は動く。

今日は、代休。

最高の開放感だ。

そして、朝一番から、温泉に行き、
昼は近くの喫茶店でランチ。

そこには、私の愛読マンガ「沈黙の艦隊」が
置いてある。

もう、何度も、何度も読んだ。

一番感動的なシーンは、国連総会で主人公である
海江田艦長がこのようなスピーチをする場面だ。

「人類は時代が行き詰まり、変化しようとするとき、
その都度、普遍的な記憶を呼び覚ますのです。
かつて地球上に、王権による支配が、、、
また、列挙の植民地がはびこっていたとき、
次の時代にむかってコモンセンスというべき
考え方が生まれてきました」
と、、、。

つまり、人類が大きく変化するとき、
その人類全体のきざまれた記憶により、
次の時代をどのようにするかという
人類全体の集団意識が生まれる
ということのようだ。

王権がこの地球上を支配していたとき、
庶民が立ち上がり、民主主義が生まれた。

人類が、列強による強烈な植民地支配を経験後、
各国が独立を果たした。

多くの人の意識が変われば、世の中が大きく動く。

その多くの人の意識を動かすのも、一割、二割の人の力が大きい。

活発で感じる力がある人たちの意識が変わることにより、
多数の人に影響を与えて時代が動く。

どの時代も、そのように動いてきた。

社会主義が崩壊し、資本主義の一人勝ちのような時代になってしまった。

金の扱いに慣れきった、ほんの一握りの人たちが、
世界を猛烈に牛耳ろうとしている。

マネーの暴走を引き起こし、果てしない謀略、戦争の数々。

今、多くの人が、そんな行き過ぎた資本主義、
グローバル主義にヘトヘトになっている。

竹中平蔵氏が
「成功しようとする人の足を引っ張るな」
というようなことを言っていた。

しかし、すでに、もう成功する人いうのは、
生まれながらの環境が決定付けられるような時代になってきている。

自然と共に、他民族と共に、生きていかないと
もう地球はもたない。

今は、時代の大きな転換期、、、。

そのことを、より多くのセンシティブな人たちに訴えかけたい。

そして、ドンドンと発進してもらいたい。

みんなで大きな人類の意識変化に挑戦しませんか?

そして、次の時代のコモンセンスを築き上げましょう!!


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快楽とは、落差である!!

今日は、急遽、代休で会社を休めることになった。

昨日の夜から、何をしようか、いろいろと
胸が膨らむ。

そして、朝6時に家を出た。

うちの嫁に「朝風呂に行ってくる」
と、書置きをして、家出のように出ようとしたら、
嫁がつかさず起きてきた。

そして、うちの犬に向かって、
「パンチ、お父さんに散歩連れてってもらいない」
と、しきりに言っている。

とにかく、聞こえないフリをして、
車に飛び乗る。

こんな代休の日でも、家にいれば、うちの女たちが
あれやれこれやれとうるさいので、早朝から逃げるにかぎる。

そして、近くの温泉に着き、さっそく露天風呂に入る。

なんという、開放感、とても気持ちいい。

いつもは、混んでいるが、平日、さらに早朝であれば、
10人ほどしかいない。

そして、深さが10cm程度の寝そべれる湯船で、
約一時間浸かり、ほとんど熟睡状態、、、。

約二時間ほど、温泉に入って、温泉のレストランで
朝食を食べながら、朝ドラ「ととねえ」を見る。

その後、200円のマッサージの「無重力コース」。

これがまた、たまらなく気持ちいい。

ほんと、平日の休みというのは、開放感に浸かれる。

というよりも、今はやっと田植えが終わり、
その開放感もある。

思えば、この4月、5月と、ほとんど休みの日は、
農作業におわれていた。

そして、秋までは、草刈の日々が続く。

私にとっては、今日が久しぶりの休日。

しかし、もし、いつも時間がたっぷりあり、
毎日のようにこの温泉に来ていたら、果たして
今日のような開放感は味わえただろうか。

ある人が言っていたが、
「快楽とは、落差である」
と、、、。

その通りだと思う。

私は、ビールが大好きだ。

しかし、週一しか飲まない。

もし、毎日浴びるように飲んでいたら、
あの黄金の液体様の価値が、かなり落ちてしまう。

このような初夏の暑い日に、丸一日田んぼ仕事を
終えた後などは、最高においしい。

また、昔よくやっていたが、一杯のビールを飲む為に、
自転車で16kmはなれたプールつきの温泉施設に行き、
そこで1kmとる泳いで、風呂にはいって、ビールを飲む。

これなんか最高だ。

それが、毎日、毎日、浴びるように飲んでいたのでは、
ほとんど水と同じだ。

それから、もう一つ。

普通に考えて、
インスタントコーヒーと、例えば高級ホタルの
ロビーで飲むコーヒーとどちらがおいしいか?

ほとんどの人が、後者だというであろう。

しかし、私は大のコーヒー党であるが、
私が今まで一番おいしいと感じたコーヒーは、
インスタントコーヒーである。

それも、さんざん歩き回った山の中で、
思いがけなく、インスタントコーヒーを
もらったときのことだ。

ニュージーランドで、4日間、山の中を歩き回る
トレッキングに行ったことがある。

宿泊は、山小屋で、水、食糧、寝袋などなど、
4日間、必要なモノは、すべてリュックに納め
込んで、持って行かなくてはならない。

もし、水がなくなれば、そこの山の水は飲めないという。

それなら、必要最低限のモノしかもっていかれない。

コーヒーも残念ながら、置いていくことにした。

3日目だったかな〜、一緒に山小屋に泊まっていた
あるアメリカ人の女性が、インスタントコーヒーを入れてくれた。

もう、その時、おいしかった。

三日間ほど、コーヒーが飲めなかったことと、
その時に飲めるとは到底思ってなく、サプライズも
その嬉しさを増幅した。


そのことを分からないと、快楽を求め、もっと激しい刺激を
求め続けることになる。

まさに、快楽とは落差だ。

いつも休みなしに働いているから、
たまに行く温泉が、極楽に感じる。

ストイックにビールを一週間我慢しているから、
350ccの缶ビールをチビチビ飲むだけで、
最高の気分に慣れる。

何もない山の中では、味わえない、突然のコーヒーサービスに
感動する。

これが、日頃から、当たり前のようにありふれていたのでは、
そのありがたさや、感謝など感じることはできない。

今、本当に、食べ物に満ち溢れていること、
水がほとんどただ同然で、毎日飲めること、
便利なモノに囲まれ、快適に過ごせること、
これって本当にいつまでも続くのだろうか。

そろそろ、「快楽とは落差である」ということを
多くの人に知ってもらいたい。

自己のコントロールにより、いくらでもおいしいビールが
味わえるし、健康にもいいはずだ。

と、開放感に浸る温泉の中で、
つくづく思った。

感謝、感謝、、、。
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がんばれ、スズキ!応援しとるよ〜!

 私の家では、三台ともスズキの車である。

私なんかは、アルトのミッション車。

燃費はうたい文句で24km/Lだが、
そのアルトを買って以来、車に電卓を持ち込んで、
毎回燃費をはかっている。

今は、約12万km乗っているが、その燃費の測定の結果、
だいたい20〜22.5km/Lだ。

もちろん、私が燃費運転に気を配っているせいもあるが、
極めていい車だと思う。

それに安い。

諸経費込みで80万円ほど買えた。

以前の車は、リッターで8km程度であったが、
毎日会社の通勤に往復で40kmほど走行するので、
購買したときの値段、日常のガソリン代、
税金、保険等を考えれば、非常にありがたい車である。

私を家から、会社まで運ぶという費用対効果を
考えれば、3分の1ほどになったのでは、、、。

それに、通勤中、反対車線をみると、大きな車に一人で乗っている。

この時間は、ほとんどが通勤車だ。

大人一人70kgとして、その70kgを運ぶのに、1トンを超えるような
車で運ぶというのも、エネルギー資源の事を考えても、
少しもったいないのでは、、、。

車をもっと小さくしてもいいと思う。

さらに、ただ通勤用のために200ccクラスの車が登場しても
いいと思う。

スズキは小さな車が得意なので、この分野で是非、
社会貢献してもらいたい。

現在、アルとに12万kmのっているが、なかなか壊れない。

スズキの営業の人も、とても親切だ。

軽トラも調子いいよ!

そんなことで、頑張れスズキ!応援してます。
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2016年05月31日

「知恵と忍耐」を学ぶことこそ、人生の目的!斉藤一人さんの言葉、いいね〜。

 斎藤一人さんの著書の中にこんなことが書いてあったので、
是非とも、紹介したい。

人間は何度も生まれ変わります。
何のために何度も生まれ変わるのか、わかりますか?
それは『魂を向上させるため』です。
 
では、どうすれば魂を向上させることができると
思いますか?
それは「知恵と忍耐」を学ぶことです。

 人が生まれると、そこには誰でも「試練と困難」が
用意されています。そして、その人の人生にとって、
ちょうどいい時期に「試練と困難」が現れるような
仕組みになっているのです。

「試練と困難」がでてくると、それを解決するために、
人間は「知恵と忍耐」が必要になります。つまり、
そこでどうやって解決すればいいのかという「知恵と忍耐」
を学びながら、魂を向上させるわけです。
だから、どんな人にも「試練と困難」は現れます。
これは決まりなんですね。

私も、まったく同感だ。

この試練と困難と聞くと、私は真っ先にある先輩のことを
思い出す。

その先輩から教わった尊い教え
「人間、土壇場でにげちゃ〜だめ」
という言葉、今でも、私の中で生き続けている。

その先輩は、Nさんといい、Nさんと私は、
当時、大きなホテルの宴会部で働いていた。

ホテルの宴会部となると、いろんな部署と関係し、
多くの派遣の人やアルバイトを使いながら、
大きな宴会を切り盛りしなければならない。

例えば、ある会社のセミナーがあり、その後立食パーティーなど
よくある。

その時は、数百人いるお客さんを一度、ロビーに出てもらい、
たったの10分ほどで、宴会場を作り変えなくてはならない。

その時など、まるで戦争のようだ。

その時は、みんな怒鳴り合い。

いろんな部署の協力を得ながらやらなくてはならないので、
他の部署の人にへそを曲げられたら、大変なことになってしまう。

そんな時、Nさんは、いつもいない。

Nさんは、どちらかというと気弱な人で、
若いときから、そのようなこんなことには逃げて
来られたようだ。

そのため、Nさんは当時40歳ほどであったが、
一人ではなかなか仕事がこなせないし、
気弱なせいもあって、みんなのストレス解消の
はけ口のようになっていた。

よく支配人なんか、Nさんを仕事中に呼びつけ、
みんなの前で、延々、一時間ほど怒鳴り散らしている。

他の同僚もなにかあると、
それは「Nさんがやった」と、何でもNさんのせいにする
傾向がある。

そんなNさんと、私はちょくちょく飲みに行っていた。

Nさんは、酒が回ってくるといつも
「Hideちゃん、土壇場で逃げちゃダメ。
逃げ続けると、俺みたいになる」
と、よく語っていた。


三年ほど前、今の会社に入社したMくん。

彼は、非常にどんくさく、すぐにおどおどしてしまう、
典型的ないじめられっ子体質だ。

しかし、彼のすごいところは、逃げない、
全力で仕事に取り組もうとする。
毎日、毎日、怒鳴られまくり、落ち込むことを
しょっちゅうあるあが、やり続けようとする。

それにとても素直だ。

まだまだ、空回りしているところが多々あるが、
愚直に何事も取り組もうつする。

もし、彼がこの20代を肝心なところから、逃げてばかり
いたらどうなるのだろうか?

うちの会社は、セラミック関係の会社だが、
セラミックスの知識にしろ、今なら聞けることって
いっぱいある。

しかし、その後彼が10年、20年とうちの会社で勤め続け、
その時にすでに彼は、30代か、40代。

もうすでに中堅で、逆に若い人に教えなくてはならない立場であるだろうが、
その彼がそうなったときに、何も知らないでは済まされない。

また、彼は計算が苦手だ。

「3sの調合で、Aという原料を30%仕込む。
何キロになる」
といっても、なかなか答えが出てこない。

はっきり言って、中学生か、小学生レベルの計算だ。

それが苦手だ。

でも、このまま放っておいてよいのだろうか。

やるな今しかない。

今たとえ大恥かいてでも、今やるしかない。

今、遅れを取り戻しておかなくては、
一生、やれないままだ。

30代、40代になって、そんなことができないようでは
すまされないし、Nさんのように、苦手なことから、逃げ続けな
ければならない。

幸運なことに、彼は「素直」さをもっている。

素直に、分からないことは、「教えて下さい」
と、言ってくる。

けっこう、知ったかぶりや、自分を大きく見せようと
する人が多い中、とても素直といえる。

たしかに、たかだか算数も出来ない人なんでしょ〜
と思うかもしれないが、いざというときに、自分を
さらけ出せる人間とそうでない人間違いって、
大きいような気がする。

自分の欠点に素直に向き合える愚直さ。

それも、まだまだ若い20代前半である。

まだまだ若い彼が、苦しくとも20代のうちに
そのような習慣を見につけたら、今後
どれほど成長するか、楽しみなような気がする。

時間という大きな財産があり、それを有意義に使えるだけの
素直さと忍耐力がある。

そのように、若いころから自分自身と向き合ってきた人と、
ただ見栄と張ったりだけで生きてきた人間とでは、
あとあと大きな差が出ることは明らかだ。

彼は今、明らかに「試練と困難」に直面している。

多くの人が、社会人になるときというのは、そんなもんであるし、
その時期に覚えたことというのは、あとあと自身の
肉となり骨となり、大変貴重なことである。

人間というのは、完全ではない。

誰でも必ず欠点がある。

欠点があるゆえ、つまずき、困難と試練に遭遇する。

その自身の欠点を乗り越えないと、もしくは知り尽くさないと、
その欠点による試練が形を変えて、目の前に何度も
現れることになる。

解決できないまでも、しっかりとその自身の欠点を
知ること。

それだけでもだいぶ変わってくる。

自身の評価をただ噂話の中だけで、映し出そうとすれば、
必ず大きな「ツケ」を払うことになり、
ただ世渡りが上手なだけでも、自身の成長というモノは、
かなり鈍くなる。

恥をかく、傷つき、怒りがこみあげ、不安に心が占領される。

誰でも与えられる「試練と困難」には、必ず
そのような強い感情が自分自身を支配する。

それに耐える、そしてそれを乗り越えていく知恵をが生み出されてくる。
耐えて耐えて、考えて考えて、そこから生まれだされる
小さな悟りというモノが、あなたの心の中で結晶化されていく。

そのようなモノというのは、決して忘れることはない。
また、そのようなモノの積みかねこそ、あなたの本当に
財産になりうる。

忍耐力とは、「小さな悟り(知恵)」母である。

勇気というモノは、「小さな悟り(知恵)」の父である。

そして、うまく説明できないが、「神」という概念が、
勇気と忍耐を支えることになる。

「神」といっても、月謝の高い新興宗教でなくてもいい。

亡くなられた、あなたをかわいがってくれたおじいさん、おばあさん、
近くの氏神さん、その道端にあるお地蔵さん、
そんな身近な方々にあなたの「神」になっていただいたら、
いつまでもあなたの行動を根底から支える一部になるはずだ。
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2016年05月23日

「幸福は、不幸の始まり」、、、。何かが足らないのが常、、、。それを自覚してこそ、真の幸せが味わえるのでは、、、。

「幸福とは、不幸の始まり」、、、。

毎週、聴いていいる土曜日早朝のラジオ番組、
「なぜ生きる2」で、こんなことを言っていた。

確かにそうだと思う。

例えば、ボクシングで世界チャンピオンになった鬼塚選手、、、。


 少年の頃、世界チャンピオンはスーパーマンみたいな存在やと思ってきた。
俺にとっては神様に近い存在ですよね。凡人の俺が、そんな凄い場所に
辿りつくことができたら、いったいどんな凄い人間になれるんだろう。
そのことだけを励みにここまで頑張ってきました。
しかし、試合に勝ってはみたものの、あるはずのものが何もないんです。
「エッ、何なのこれ?なんで、何もないんや?」
「いや、次勝てばきっと何かが得られる」
そう信じて、次から次へと試合を積み重ねていきました。だけど何も残らない。
試合が終わった夜は、生き残れた実感と自分が探し求めたものが何もなかったと
いう寂しさで発狂しそうになりました。俺は常に素直に飛び跳ねる自分で
おりたいのに、充足感がないから、「何でや?」という思いばかりが
虚しく深まっていく。最後の試合までずっとその繰り返しでした。
  (『週刊文春』平成6年11月)



世界の頂点を極めても「充足感」がない。

人間とは、いつになったら「満たされる」というような
感覚になるのであろうか。

到達した時点で一時の達成感、、、。
そして、そのあとの猛烈な恐怖と不安、、、。

「世界チャンピオンは、スーパーマン」、、、、。
「世界チャンピオンは、神さまに近い状態」、、、、。

そのような自分が抱いてたイメージとはかけはなれ、
充実感などなく、次なる恐怖と不安を抱えなくてはならい。

むしろ、世界チャンピオンになるまでの過程が、
一番充実感に満ちていたのかもしれない。

何かに、がむしゃらに打ち込める。

そのことって、もしかしたら、煩悩から少し離れることが
できるのかもしれない。

むしろ、「少し足らない状態、、、」そのあたりが、
一番いいのかもしれない。

「腹八分」、、。

出来すぎるのも、返って、新たな不安を抱え、
時には、傲慢になってしまう。

人間とは、もっと、もっとの動物、、、。

その「もっと」には、限りがない。

むしろ、足らないというのが、常であるということを
しっかりと自覚するべきなのかもしれない。

来てみれば さほどでもない 富士の山、、、。

遠くから眺めていると、壮大で美しい富士山、、、。

しかし、山頂に登ってみると、岩だらけで、
そこら中にゴミが落ちている、、、。

あそこに行けば、あの地位につけば、あの人と結婚すれば、
全てがかなえられ幸せになれる、、、。

そんな錯覚に陥っている人って、けっこういるように思う。

ただ、何かを得ても、また何かを求める。

それが人間の宿命、、、。

それなら、常に何かが足らないということを
よくよく認識しよう。

そうなれば、もしかしたら、もっと周りが見え、
今が、一番幸せ出ることを実感できるのでは、、、。




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2016年05月20日

亀井静香氏「謝罪なしで広島来ないで」、、、。

 本日の中日新聞に、亀井静香元金融担当大臣が
このような発言をしているという。

「反省も謝罪もないのであれば、おいでいただかない
でほしい」
と述べた。

亀井氏は広島県出身。
「私の姉が原爆で殺されたということだけで
いっているわけではない。凶悪で残虐な行為を
した国の現在の代表だ」
などと語った。

私は、ニュージーランドに一年間いた経験がある。

その時に、ある英会話スクールでの話、、、。

ニュージーランド人の先生が三人ほどいて、
私はその一人にニュージーランドの100ドル札を見せて、
「この人は何をした人なんですか?」
と、質問した。

そしたら、先生の一人が
「原爆を造った人だ」
と、答えた。

多くの日本人なら、
「原爆を造った人が一番高い紙幣である100ドル札の
図柄に、、、」
と、胸ぐらをつかみたく思いになるのでは、、、。

私もその時、少し顔色が変わったようで、
先生たちが
「hide、違うんだ、違うんだ、多くの日本人が
誤解しているんだ。原爆のおかげで、戦争を終わらせ、
多くの将兵が助かったのであり、日本がやっと軍国主義から
開放されたんだ」
と、熱心に説き伏せられた。

多くの相手側の一般人は、このような認識であるり、
一般のアメリカやニュージーランドの教育とは、そのようなモノだ。

そのあたりを我々日本人は、しっかりと認識するべきでなかろうか。

また、アメリカとは、建国以来、その二百数十年の歴史の中で、
戦争をしなかった年というのが、ほんの十数年に過ぎない。

世界の各国に基地を置き、毎年莫大な軍事予算を使い、
経済の中心には、軍事産業がはびこっている。

そろそろ、アメリカの「正義」について、真剣に考え直す時期では、、、。

ある人が
「米兵のいるところ、秩序が崩壊し、カオスと化す」
と、、、。
 
アフガン・イラク戦争に参加した多くの米兵が
「我々こそ、真のテロリストだ」
と、語る、、、。

そして、今、多くのアメリカの帰還兵が精神的に病んでいるという。

果たして、日本の行く末は、、、。

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2016年05月09日

「命とは、時間である。与えられた80年という時間をどのように使い切るのか」なぜ生きる2を聞いて、、、。

毎週土曜日の早朝、ラジオで放送されている
「なぜ、生きる2」。

今回もなかなかよかった。

「命とは、時間である。80年という時間を生まれたときに
与えられるのである。」
と、、、。

では、その与えれらた命をどのように使うのか?

生きる目的とは、何ぞや〜?

いつものごとく、そのような内容であった。

誰しも認める宇多田ヒカルも村上春樹も
あれだけ名声を得ても、「満足感はない」という。

どれだけ、成功しても、新たなる煩悩に苦しめられることになる。

むしろ、左の肩に背負っていた荷物を、
右の肩で背負うだけのこと。

地位、名声、お金、学歴などなど、たくさんの勲章で自分を
着飾っても、果たして本当の満足感は訪れるのだろうか。

上手くは、言えないが、いつまでも他人のうわさ話の中で、
生きていたのでは、本当の幸せなど訪れないのでは、、、。

「露とおち 露と消えにし わが身かな 
難波のことも 夢のまた夢」

これは、日本で最大の成功者、たくさんの家臣に囲まれ、
多くの財を一代で築いた、天下人、豊臣秀吉の辞世である。

あれだけ名声を得ても、死ぬときは、何もかも残し、
身一つであの世に旅立たなくてはならない。

そして、秀吉にも「時間」という命、最大の財産がつきてしまう。

いつまでも、「今」が続くわけではない。

その限られた時間に何をするのか?、どのように使うのか?

とくに、たいしたことができるわけでもないが、
もしかしたら、自分の世の中を見るモノサシを変えれば、
まったく違った人生になるような気がする。

どんなに地位や名声を得ても、煩悩とは消えないもの。

次なる欲望、次なる恐怖に、次なる不安に悩まされることになる。

人間は、一生、煩悩に付きまとわれる。

あの親鸞さんでも、人間の光と闇の中で、
悩み続けてきた。

では、その煩悩を薄めることはできないのか。
上手く付き合っていくことはできないのか。

それは、自分を忘れること、、、。自我を薄めること、、、。

自分という意識が強ければ強いほど、煩悩に振り回されることになる。

それならば、相手を活かせ、周りを活かせ、社会を活かせ、
「自分」という意識を外に移す努力をし続ける。

誰かが言っていたが、「自分」なんて何もない。

体は、いずれ水と二酸化炭素に戻るだけ。

心だって、何層にも、何層に、周りの人から、
影響を受けて、自分という人格が成り立っている。

そう思えば、自分なんてものは、
何か大きな大きなモノのほんの一部なんだ。

それよりも、何かその大きなモノに身を熔かすこと、
そうすることにより、煩悩が薄らぐ。

次の時代の共生社会のキーワードは、自我を薄めること、
周りに尽くすこと、そういうことがとても重要になってくる。

そのような時代に向けて、思想も宗教も収斂されて
行くのではなかろうか、、、。


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2016年05月06日

歎異抄は、面白い!!「阿弥陀仏は、なぜ存在するのか、それは、この俺を救うためなんだ。どうしても、煩悩を捨てることができない、この 俺を救うために、阿弥陀仏はいるんだ」

NHK Eテレ100分de名著 「歎異抄」 
第4回 「人間にとって宗教とは何か」
なかなか、非常に強烈な一言があった。

「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
ひとへに、親鸞一人がためなり」
との確信だった。
あまりにも有名な親鸞の言葉だが、常識的に考えれば、
傲慢ともとれる言葉だが、もう少し分かりやすく言えば

「『弥陀の五劫思惟の願』とは、すべての人を救いたいという
阿弥陀仏の願いなのだが、よくよく考えれば、
この親鸞一人を救う為の願いなんだ。阿弥陀仏は、なぜ存在するのか、
それは、この俺を救うためなんだ。どうしても、煩悩を捨てることが
できない、この俺を救うために、阿弥陀仏はいるんだ」
と、、、。

聞き方によっては、あまりにも傲慢極まりないようにも
聞こえる。

しかし、ある意味、それほど、そのような生き方、そのような
信仰というモノを我が身一身で引き受け、その切実さを生き
切ろうという親鸞の実存的な決断でもあるという。

生きている限り、煩悩は捨てきれない。

親鸞ですら、人間の「光り」と「影」の部分をさまよい、
苦悩し続けた。

よくよく考えれば、つまらないことで腹を立てる。
つまらないことに意地になる。
なるようにしかならないのに、不安で心を占領される。

そうなれば、不安や怒りで心が占領され、
身動きが取れなくなる。

その煩悩をよくよく観察すると、例えば「不安」に陥っている人の
大きな特徴は、まったく周りが見えていない。

逆に言えば、自意識過剰なくらい、自分というものに対して、
意識が集中し、被害妄想になりがちになるか、
自分を責めまくる。

そして、暗い壁に囲まれた狭い部屋で、震えながら
強い孤独感を感じている。

煩悩から少しでも、離れるというのは、
自分という意識から離れること、自分を忘れること、
そのようなことのような気がする。

そのために、
「もう、悩みも不安も、阿弥陀様にませてしまいなよ〜」

「阿弥陀仏も、俺に任せろ!」
て、言ってるじゃないか。

小さなことに怒る自分、
些細なことにこだわりを捨てきれない自分、
不安なんて、ある意味、次から次へと自分自身が作り出している
ようなもの。

さあ〜、もう悩むのは疲れたんじゃない。

もうそろそろ、自分を解放しちゃいなよ〜。

それには、心の中に、自分を圧倒的に救ってくれる
何かの存在が必要なのではないか、、、。

ホイットニー・フューストンの歌に
「イエース ジーザス ラブ ミ〜
オ〜オ〜 イエース ジーザス ラブ ミ〜」
というような歌のフレーズがある。

キリストがさ〜、私のこと好きで好きで、
たまらないみたなんだ。いつも、守ってくれているよ〜。
っていうようなのが、一神教のキリスト教などの
根本的な考え方。

もし、そのように思えば、安心を得ることができるのでは、、、。

不安だから、心の中に大きな壁を作り、
自分を閉じ込めてしまう。

でも、心の中に、あんたのことをいつも見守って、
救おう、救おうとしている人がいるよ〜。

安心しなさい、不安から解放しなさい、
自分という意識、自我から自分を解放しなさい。

そうすれば、周りがよりよく見えるようになる。

そうすれば、人の心が見えるようになる。

あなたを苦しめているのは、あなた自身、、、。

もう、それ以上、あなた自身を傷つけるのはやめたら、、、。
それ以上、自分のことを責め続けるのをやめにしたら、、、。

情けない自分、みじめな自分、そのような弱い自分を受け入れる
のって、もしかしたら大事なことなのかもしれない。

さみしさを身に染みたような経験をした方のが、
人間として強いといえるのではないだろうか。

自身の限界を知るというのも、とても大事なこと。

「回心(えしん)」と「自然(じねん)」
という言葉が、仏教用語であるが、自分の限界を知ったところに、
「回心(えしん)」があるのではなかろうか、、、。

そうなれば、ありのままの自分、自然の状態を受け入れる
ことができる、自分を許せることができる。

自分自身が作り出す「劣等感」により、
猛烈に頑張るのも必要なこと、、、。

しかし、その向こうには、それに疲れ切って
「回心(えしん)」というモノが、現れるのでは、、、。

世の中、思い通りにならないことだらけ、、、。

そして、この体さえ、目が見えなくなり、
足腰が悪くなり、衰え、病になって死んでいく。

そんな中で、残るものというのは、心のあり方ではなかろうか。

世の中など、自分のモノサシ一つで、大きく見方が変わるもの。

本当の自由とは、心の解放のようだ。

疲れ切りなさい、そして、疲れてよれよれになった
弱々しい、あなた自身を受け入れなさい。
そこから、初めて自分が解放される。

親鸞の悟りとは、そんな感じなのかな、なんて未熟な私が、
親鸞さんの悟りについて語るなど、お叱りを受けそうだが、、、。

真宗は「他力」、禅宗は「自力」というが、
その根本は、ほとんど違いはないと私は思う。

禅宗の教えの中にも、
「あるがままを受け入れろ」
というモノがあり、
それは阿弥陀様に言わせれば、
「私にすべてを任せんかい」
という表現になる。

自我から離れ、ありのままを自分を許し、受け入れる。

これが本当の幸せにつながり、周りを幸福にするような
気がしてならない。
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2016年04月23日

5/15「IWJ代表 岩上安身 講演会」奈良に!!中村てつじを囲む会にて!

 さあ〜、奈良で必死に日本再生のために頑張っている男がいる。

何度も落選しながら、まだ踏ん張っている男がいる。

元参議員議員 中村てつじ氏、、、。

この男は、熱いでっせ〜!!

そんなてっチャンを囲む会で、あのIWJの岩上さんが
講演会をやるとのこと。

行きたい〜、是非とも行きたい〜。

是非とも、岩上さんに直接会ってみたい〜!

しかし、我が家では田植えシーズン真っ只中〜。

近畿方面の方々、どうかフルってご参加下さい!!



5月15日(日)岩上安身講演会

【第141回話す会】

日時:2016年5月15日(日) 15時~17時
岩上安身講演会

場所:生駒市コミュニティセンター(セイセイビル)1階ホール
(生駒市元町1丁目6-12(近鉄生駒駅から南へ徒歩3分))

http://www.city.ikoma.lg.jp/map/map1/map19.html?target=0-0&cacd=20&mapno=94




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2016年04月22日

「神」も「仏」も、、、。その曖昧さこそ、共に生きる道なのかも、、、。

 上田正昭氏の著書、
「歴史の中の人権 アジアの世紀をめざして」
の中で、本来の我々日本人は、どのように生きてきたのかが、
書いてあったので、是非とも紹介したい。

鎮守の森の再発見

 21世紀をむかえて早くも2年と5カ月ばかりの歳月が過ぎ去った。
20世紀は、第一次・第二次世界大戦が象徴するように、世界全体が
2度にわたって戦争の渦をまき起こされた戦争の世紀であった。
その反省にもとづいて、新世紀は平和の世紀として始まるのでは
ないかと、多くの人々が期待していた。しかし、現実はその願いに
逆行し、アフガン・イラク戦争が21世紀の初頭をいろどった。
 そればかりではない。20世紀には自然の破壊・地球の汚染が
いちじるしく進行して、自然と人間のあるべき姿が、21世紀の
大きな課題としてあらためて問われている。1935(昭和10年)
の暮れにこの世を去った、優れた物理学者・寺田寅彦の遺言とも
いうべき論文「日本人の自然観」はいう。
西洋の科学は自然を克服しようとする努力のなかで発達したが、
日本の科学は事前に順応するための経験的な知恵を蓄積する
ことで形成されたと。

その指摘は見事である。
 自然との対決するのではない。自然と調和して暮らしを営む知恵が、
縄文時代の昔から今に至るまでの日本文化の前提を形づくってきた
といっても過言ではない。
 周りを海で囲まれている文字通りの島国日本は、島国だからこそ
古くから海上の道を媒体として、アジアに連動してきた。そして、
海外から数多くの文物や人間集団が渡来した。島国であったから
閉鎖的であったと思うのは錯覚に過ぎない。
 その島国日本列島の国土の約4分の3は山地であり、その3分の2を
森林が占める。わが日本列島の人々の多くは、昔から森林との
共生の中で、歴史と文化をおりなしてきた。しばしば、日本の文明は
「森の文明」であったといわれるが、森そのものが文明なのではなく、
森に生きる文明であり、森を生かしてきた文明であった。
 それを代表するのが、森の中に神を見いだし、森の中に社を
造営して、カミとヒトとがまじわる接点として森を活かしてきた
鎮守の森である。したがって、鎮守の森は神の水を共に味わって
盟約する「一味神水」「一味同心」の寄り合いの場となり、自治や
芸能の場ともなった。(P.157〜158)・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



09.9立山竹藪 006.jpg


09.9立山竹藪 008.jpg


この写真は、うちの近所のある竹が侵食してしまった林である。

この中をよく見ると、「社」が祀られているが、
見るも悲惨な状態になっている。

今は、誰も管理されてなく、竹が侵食し、このような
状態になってしまった。


09.9立山竹藪 002.jpg


CIMG6993.JPG


このように、日本全国の竹林は、荒れ放題、、、。

なぜこのようになったのかというと、竹の需要がなくなって
しまったからだ。


変換 〜 09.9水野家竹製品 005.jpg


変換 〜 09.9水野家竹製品 008.jpg


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あれだけ重宝された竹かごやタケミも、プラスティック製品に
置き換わってしまった。

1960年代より、中東より安価な石油が入るようになり、
それにより我々の生活を一変した。

この荒れ狂う竹藪が象徴的であるが、竹も、里山の薪も、
落ち葉も必要なくなり、このような竹藪、里山も
今では誰も見向きもしなくなってしまった。

今は、何でもスイッチ一つで動いてくれる
便利な世の中になってしまったが、それと同時に、
このように身近な自然から、どこか遠ざかった暮らしに
なったと言わざるをえない。

この豊かな生活を支えているのは、石油などの化石燃料であり、
石油文明といえる。

しかし、それがいつまで続くのか、自然環境破壊は
著しいし、気温もどんどんと上がっているようだ。
また、いつまでたってもエネルギー資源の奪い合いに
よる戦争・謀略は止まらない。

自然の中に「神」を見いだして生きてきた我々日本人は、
大きくその本来の特性から逸脱してしまいつつあるのでは、、、。

それから、上田氏の著書から、もう一つ紹介したい。

「日本人らしさ」とは何か

・・・・・「日本人らしさ」を掘り下げてみると、次のような
史実がうかぶ。日本列島の歴史と文化は、内なる人々のみによって
形づくられてきたのではなく、縄文時代・弥生時代のむかしから、
海外とのつながりやかかわりのなか、あまたの海外からの
渡来した人々とのまじわりによって展開したことがわかる。
 たとえば日本はしばしば葦原の瑞穂の国と称されてきたが、
その稲作じたいが渡来の文化であり、青銅器や鉄もまた、
そのはじめは中国大陸や朝鮮半島から日本列島へと伝播した
金属器であった。
内なる文化に外なる渡来の文化をたくみに結合し、変容して、固有で
独自な文化を形成してきたのである。われらの祖先がすぐれて
いるのは、外来のものをすべて受容したのではない。たとえば
儒教は積極的に受け入れたが、革命思想は排除した。都城制は
中国長安城や洛陽城に倣ったが、藤原京や平城京でも、長岡京や
平安京でも、ついに羅城は構築しなかった。したがって日本の都には、
宮都はあっても、都城はなかったといわなければならない。
菅吏登用の試験ともいうべき華僑や去勢された男子の小吏すなわち宦官
の制はついに受容しなかった。
日本の宗教史をひもとけば、神と仏は対抗するよりも習合の道を
たどって、神宮寺や社僧が誕生し、平然と神前読経が行われた。
 かつて長崎県五島列島の一つ福江島の「かくれ切支丹」の調査に
おもむいて感銘したことがある。聖母マリアの像が氏神である
神社の本殿の中にまつられ、17世紀の古文書に、オラショ(祈祷の言葉)
がかきとどめられていて、そこには「パライソ(天国)にまします
イカヅチノカミ」とかきとどめられていた。イカヅチノカミとは
神道のかみである。神仏習合ならぬ神基習合の歩みがあった。
(P.160〜162)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


何年か前、英会話の飲み会で、イギリス人の先生が
こんな質問をぶつけてきた。

「こないだ、高尾山に登ったのだが、そこには神社もあり、
お寺もある。なんでだ???」

と、、、。

お〜、いいね〜。

日本文化を知るいい機会だ。

しかし、どう「神仏習合」を、どう英語で説明するか?

彼は、20年日本に住んでいるし、奥さんも日本人だ。

とにかく、ありったけの英語を使って、説明してみた。

「習合」をミクシング、とかユナイテッドとか、行ってみたが、
伝わらなかったが、身振り手振りを使い、紙に書きながら、
理解させたが、どうも彼は受け付けられないみたいだ。

「You are completely wrong.
   (あなたは完全に間違っている)」


周りにいる日本人は、誰もその説明にトライしようとしないので、
もうひと踏ん張りして、「神仏習合」という字を紙に書いて、
「奥さんに聞いてみてくれ。これは、日本の文化を知る上で、
非常に大事なことだ」
と、伝えておいた。

とにかく、多くの外国人に日本のことをよく理解してもらいたい。

また、海外にでも行けば、一人一人が、日本代表、、、。

互いの文化、国の理解が深まり、
勘違いによる争いが起こりにくくなるはずだ。

一神教の世界観では、「神も仏も、、、」というような感覚など
あり得ないのかもしれない。

また、長いこと「我々の神こそが本物だ」という主張のもと、
何千年も戦い続けた彼らには、極めてあいまいに映るのでは、、、。

さらに上田氏の著書の中で、もう一つ紹介したい。

神も仏も

 外国の日本文化研究者が不思議そうな顔をして質問する。
毎年12月になるとクリスチャンでもないのに、クリスマスツリーを
飾ってお祝いする。そして年末には、お寺の除夜の鐘をきいて、
正月には神社へ初詣する。日本人の多くがどこかの神社の氏子であり、
どこかの寺院の檀家である。日本人の過程を訪問すると、神棚があり
仏壇をまつる家が多い。いったいこれはなぜなのかと。
 一人一宗の海外の人々にとっては、たいがいの日本の人生における
通過儀礼そのものも理解できないらしい。子供が生まれるとお宮参りをし、
七・五・三のおりには神社や寺院に参詣し、結婚式は神前・仏前ばかり
でなく、教会であげる人々が年々増加している。亡くなるとその多くが
仏式で葬儀をする。
 氏子であり檀家であって、さらにどこかの宗教の信者になっている人も
かなりある。日本人の信仰は神道なのか仏教なのか。神棚と仏壇の
平和的共存そのものが不可解らしい。日本人の宗教そのものが
一人一宗でなく、一人多宗であるといってよい。
 こうした現象は古くから存在した。六世紀のなかばの頃に、百済から
仏教が「公伝」するが、『日本書紀』はその仏を「蕃神」とか「仏神」とか
故と表現し、747(天平19)年にまとめられた『元興寺縁起』は、
仏を「他国神」、現代最古の仏教説話集である『日本霊異記』は
「隣国の来神」、平安時代末期の史書『扶桑略記』は「大唐の神」などと
記すが、神仏の習合は仏教伝来の初めのころからすでにはじまていた。
質を異にする二つ以上の宗教がふれあうことによって生じる
意識的・無意識的な融合現象をシンクレティズムとよぶ。この言葉は、
ギリシアのプルタルコスの造語というが、シンクレティズムは、
世界の各地にみいだされる。しかし日本の宗教史のように、その基本的な
流れが「神か仏か」ではなく、「神も仏も」の融合・重層・習合で
あったような例は極めてまれである。
 八世紀になると神宮寺が具体化し、平然と神前読経が行われる
ようになる。そして神社に得度層が常住した。山岳信仰と道教・密教が
融合した修験道、真言密教と神道が結びついた両部神道など、
新分厚習合の展開は日本宗教史のあちこちに見いだされる。
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世のさかしらびとは、こうした日本人の宗教感覚をあいまいであり、
自己矛盾であるという。だがはたしてそうなのだろうか。
そのあいまいさを自覚したとき、そのあいまいさは万物にカミをあおいだ
「万物生命信仰」としてよみがえり、自然と人間の「共生」の
思想・信仰として輝いてるのではなかろうか。
(P181〜183)・・・・・・・・・・・・・・・・


なるほど、なるほど、、、。

ある家のリフォームの時に行う地鎮祭に参加したとき、
明らかに神様系の人が、白いヒダヒダの紙が付いた棒を振りながら、
祝詞かと思ったら、明らかに仏教の「お経」であった。

「ね〜、今の人、神さんなのに、明らかにお経だったよね〜」
と、いろんな人に聞いてみても、その答えははっきりしなかった。

ある建築屋の大将に聞いたところ、
「わしも何度も、こんな地鎮祭に参加しているけど、
けっこうこういうの多いよ」
とのこと。

ここでも神仏習合の例が今でも生きている。

外国でも、二つ以上の宗教が意識的、もしくは無意識の
うちに融合しているというのはある。

例えば、南米・中南米なんかで、スペイン、ポルトガルの侵略により
ほとんどの人がキリスト教に改宗させられた。

しかし、隠れてというか、在来の宗教的なところを目立たないように
取り入れたりということがいくつもあるらしい。

しかし、日本のように、クリスマスはキリスト、
大晦日はお寺、新年明ければ神社、こんなあけっぴろげに
やるのって、外国人から見れば、おかしくてたまらないのでは、、、。

しかし、今後、自然との共生、他民族との共生を考えれば、
日本人的な「あいまいさ」って必要なのではなかろうか。
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2016年04月13日

人生の総仕上げ、「終活」について、、、。

先日、数人の近所の人と話していた。

80を超えるおじいさんが、
「柳田邦男の本を処分したい。図書館で引き取って
くれるだろうか。うちの娘が、そういうモノをしっかり
処分しといてね,と言われているんでね〜」

と、語った。

そして、ある人が
「終活だね〜」
と、、、。

「終活」か。

そこで、ふいに私も
「わしも、終活やっとるで〜」
と、言いそうになった。

その中では、私が一番若いので、その私が
「終活」などという言葉を口にすれば、
少し場がおかしくなるので、やめといた。

自分の身に置き換えれば、もう私もすぐに50歳。

人生80年とすれば、、もうすでに6割は過ぎている。

それにこれからの30年なんて、どう考えても
あっという間だ。健康年齢から考えれば、
あと20年だ。

40代のこの10年間というのも、瞬く間に過ぎてしまった。

さらに加速がついて、50代が過ぎていくのであろう。

小学校の時の一ヵ月と、今の一ヵ月では、明らかに
体感時間が違う。

死に向かって一直線の自分の人生。

これは、もちろん誰でも同じこと。

では、その残された時間をしっかりと使い切りたい。
有意義な人生にしたい。

どのように総仕上げをするのか。

もうこの歳から、しっかりと考え行動することって、
大事じゃないのかな〜。

話は、変わるがあるテレビ番組で、又吉さんが
「自分はみんな、みんなは自分」
というようなことを言っていた。

その続きを聞きたかったが、出演していた
ある心理学者がチャチャを入れたので聞けなかった。

あらゆる本を読んでいる又吉ならでは、人生観を
持っているような気がする。

それは、「自分というのが本当に存在するのだろうか?」
というような感覚ではなかろうか。

人間って、他の動物と比べて、非常に社会性のある動物。

互いに依存し合って生きている。

例えば、このようにパソコンをの前で、キーボードをたたいているが
このパソコンを自前で作れるのかと問えば、誰かに依存しなくてはならない。

パソコンもそう、鉛筆、シャーペンがあるが、どれもこれも
自分以外の人が作ってくれたものあり、多くのそれらのモノに囲まれて、
今、生きることができる。

鹿や馬が生まれるシーンを見たことがあるだろうか。

産み落とされるとすぐに、起き上がり、歩き始める。

では、人間はどうだろうか?

立ち上がれるまでに二年近くかかり、言葉を覚え、
字を覚え、いろんな知識を覚え、社会性を身に着けて、
成人になるまでに20年はかかる。

それらは、みんな周りの人たちから、学び吸収していく
ことになる。

オオカミに育てられた少年が、オオカミのような習性を
持つようになる。

中国で育てば、中国語を話し、中国人の習慣、価値観を
身に着けていく。

日本で生まれれば、日本人的な「空気」を重視する人間性に
育っていく。

あるニュージーランドに移住した家族の話。

1歳の女の子、5歳の男の子、9歳の男の子が
それぞれ、新しいニュージーランドの社会に入っていくことになった。

それぞれ大人になり、
9歳の子は、とても英語を覚えるのに苦労したという。

5歳だった子は、両方とも、話して聞き取れるが、
やはり英語のが得意だという。

1歳だった女の子は、日本語が何とか聞き取れることはできるが、
話せないとのこと。そして、英語を普通に話す。

そのため、その女の子は、一緒に住んでいる祖父母とうまく、
話ができない。

何が言いたいのかというと、言葉というのは、両親から覚えるのではない。
周りから教わるものなんだということ。

それだけ、家族だけでなく、社会から大きな影響を受けて、
人間は成長していく。

ある精神科医が言っていたが
「人間というのは、著しく周りから影響を受けている」
とのこと。

影響を受けた人というと、上司や先輩、友人、恩師、両親、祖父母と
いろいろと思い浮かぶが、それだけではない。

人間社会には、文字というモノがある。

つまり、何百年も前の昔の人の考えを、その文字を通して、学ぶことができる。

例えば、中国の孔子とか、ギリシャ時代のアリストテレスとか、プラトンとか、
哲学、宗教などなど、人間の在り方について、有史以来、研究されてきた。

その影響も多く受けている。

私は、おじいさん、おばあさん子であるが、20歳ぐらいまで、
祖父母と寝起きを共にしてきた。

毎日、毎日、祖父母の言うことは、同じようなことではあったが、
歳を重ねれば重ねるほど、祖父母の影響を強く受けていると感じるときがある。

その祖父母に教わったことが、私の中で生きているということは、
祖父母が私と共に、生き続けているということ。

その私の祖父母も親がおり、恩師がおり、
周りの人から多大な影響を受けていることになる。

その、その親だって、周りから影響を受けている。

人間とは、体なのか、人格なのか。

人格であるならば、何層にも何層にも、いろんな人の影響を
受けながら、今、自分というモノが存在する。

これだけ、周りから影響を受けて、人格が成り立っていく以上、
本当に自分のことを「自分」といえるのだろうか。

周りの人から、影響を受けずに、オオカミに育てれられれば、
オオカミのような習性を身に着けていただろうに、、、。

自分というのは、過去、現在と未来も含めた大きな大きな意識の集合体の
ほんの一部なのである。見えない、無数の糸でつながりあっている。

そして、自分も知らず知らずのうちに、誰かに影響を与えることになる。

我々一人一人が、未来の人の心の中で、自分の影響を受けてきた人たちと
共に、生き続けることになる。

例えば、うちの92歳になる会社の会長、、、。

強烈なまでに、自分の考えで生きる人。

そういう人の方が、周りに影響を与えやすい。

そんな会長から、教わったことはいくつがあるが、
やはりその生きざまだ。

あの腹のくくり方、そしてそこから来る決断力。

凄みさえ、感じる。

さらに、このブログでもそうだが、なるべく日常で体験したこと、
そこから学んだことなどを、このブログで書き続けている。

もしそれが、このブログを通じて、誰かに
影響を与えているのなら、それらの人の中で、
私は生き続けることになるのではないか。

毎週楽しみにしているラジオ放送の「なぜ生きる2」。

浄土真宗系のラジオ番組であるが、
その内容をこのブログでもよく紹介している。

そして、それらの教えが私の中で取り入れられ、
活かされれば、私は親鸞さんが私の中でいき続けることになる。

何百年も前の人である、親鸞さんと共に、生きているということだ。

そして、私はよいと思ったことは、ドンドンと周りに伝えたいという
性格なので、たとえばこのブログを通じて、もし誰かに
伝わるのであれば、そんな嬉しいことはない。

そうなれば、親鸞さん、私、そしてその方と共に、生きている
といえるのではなかろうか。

私にとって、このブログというのは、一つの「終活」とも言える。

何かを、次の世代に伝えていくということが、
「終活」そのモノである。

大きな大きな、そして過去・未来とつながる人間の意識の集合体。

それに自分の身を溶かす、それが私の終活である。

これはあくまでも私の妄想であるが、
もし、亡くなるときに、強い怒りや不安、憎しみなどに心を
占領されていたのでは、心を昇華させることが、できるのだろうか。

そのような煩悩にがんじがらめで縛られていれば、
昇華できずにこの世を永遠にさまよい続けることに
なるのでは、、、。

また、「死」というのは、人生最大の苦難である。

死への恐怖、病気の苦しみ、別れのつらさ、年老いていく惨めさ、
これらのことが、人生の最終盤に怒涛のごとく押し寄せてくる。

どんな状況で死ぬにせよ、それに耐えれるためにも、
精神的にも強くなくてはならない。

体の苦しみももちろんだが、それと同等以上に、
心の苦しみも伴う。

その心の苦しみだけでも、しっかりと耐えられるだけの
心構えが必要であり、怒りや恨みなど、しっかりと脱ぎ捨てて
あの世に旅立てるように、心構えが必要のような
気がする。

それには、上手くいえないが、何か大きなモノに
身を溶かすような感覚が必要なのではないか。

それから、どうしても次の世代には、すべてのことが
つながっているという感覚、そのような感覚こそ
共生の時代に必要のような気がしてならない。







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2016年04月10日

生きる目的にとは、、、。「なぜ生きる2」の中で、、、。

昨日も、毎週土曜日恒例の仕事で北陸へ向かう。

その中で、一つ楽しみがある。

それは、早朝、6時半よりラジオで放送される
「なぜ生きる2」を聞くこと。

6時にに、会社を出て、ちょうどそのころは、
高速道路に乗り始めるころ。

清々しい、朝焼けの中、車の中でその放送を聞くのも、
なかなかいいものである。

今日の内容は、だいたい次のようなモノであった。

買い物に行くにも、「目的」がある。

受験勉強をするにも、「目的」がある。

では、生きる「目的」とは、、、。

受験戦争をくぐり抜け、大学にいき、そして就職。
その後、30手前で結婚し、次の年には子どもができる。
60まで働いて、ソコソコ部長まで出世し、
その後はリタイヤという人生、、、。

何万枚とうれた「泳げたたい焼き君」のなかで、
「毎日、毎日、僕らは鉄板の、上で焼かれていやになっちゃうよ〜」
と、あるように、毎日毎日同じことの繰り返し。
そして、時間は駆け足のように過ぎていく。

地下鉄の「広尾(ひろお」駅というのがあるが、
電車の中で、「次は広尾(ひろ〜お)、広尾(ひろ〜お)」
と、聞くと自分のことのように思える。

しかし、そんなクタクタな人生が、今の世の中では、
一番安定である。

今日のテーマは、「何のために生きるのか」という
問いかけであった。

「生きる目的とは」、、。

例えば、ボクシングで世界チャンピオンになった鬼塚選手、、、。

 少年の頃、世界チャンピオンはスーパーマンみたいな存在やと思ってきた。
俺にとっては神様に近い存在ですよね。凡人の俺が、そんな凄い場所に
辿りつくことができたら、いったいどんな凄い人間になれるんだろう。
そのことだけを励みにここまで頑張ってきました。
しかし、試合に勝ってはみたものの、あるはずのものが何もないんです。
「エッ、何なのこれ?なんで、何もないんや?」
「いや、次勝てばきっと何かが得られる」
そう信じて、次から次へと試合を積み重ねていきました。だけど何も残らない。
試合が終わった夜は、生き残れた実感と自分が探し求めたものが何もなかったと
いう寂しさで発狂しそうになりました。俺は常に素直に飛び跳ねる自分で
おりたいのに、充足感がないから、「何でや?」という思いばかりが
虚しく深まっていく。最後の試合までずっとその繰り返しでした。
  (『週刊文春』平成6年11月)


世界の頂点を極めても「充足感」がない。

人間とは、いつになったら「満たされる」というような
感覚になるのであろうか。

到達した時点で一時の達成感、、、。
そして、そのあとの猛烈な恐怖と不安、、、。

「世界チャンピオンは、スーパーマン」、、、、。
「世界チャンピオンは、神さまに近い状態」、、、、。

そのような自分が抱いてたイメージとはかけはなれ、
充実感などなく、次なる恐怖と不安を抱えなくてはならい。

あれだけ、名声を極めた清原選手も、
シャブに頼らなくては、自身の心を不安を抑えることが
出来なかったのだろうか。

たとえば、一億円得たとする。

しばらくすれば、その喜びも当たり前となり、
次は、その一億円が減っていく恐怖に、取り付かれることになる。

世界一貧乏な大統領と呼ばれる南米の小国ウルグアイのホセ・ムヒカ氏
の言葉、、、。

「貧乏なひととは、少ししかものを持っていない人ではなく、
無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」


一昨日、70歳を越えるある技術屋さんと話していたが
「昔の方が、みんな幸せだったようなきがする。
今では、隣に誰が住んでいるのか分からないし、
自由というものが、もしかしたら人と人との絆を
切り刻んでいるのではないのかな〜」

というようなことを語っておられた。

物質的な豊かさというのと、幸福感というのは
違うのかもしれない。

地位や名声があっても、無限の欲から開放されない限り、
本当の自由を得ることは出来ないのではないか。

それよりも、少しずつでも心の皮下脂肪を取り除いていけば、、、。

地位を得ても、お金を得ても、けっして煩悩から逃れられる
わけでもない。

さらなる恐怖と不安に心が占領される。

その不安と向き合うこと。

その恐怖と上手く付き合うこと。

どんな立場や、どんな環境によっても、いろんな体験から、
心の開放に取り組むことはできる。

毎日、毎日いろんなことが起きる。

津波のように、自分に襲い掛かってくる。

しかし、神様はいつも自分の味方。

必要なときに必要な出来事を与えてくれる。

では、今立ち止まっている目の前のことから、
自身は何を学ぶのか、、、。

ここを逃げれば、また同じようなことで、
悩み、苦しまなくてはならない。

自分には、そのことが欠けているから、
今、躓いているのでは、、、。

というようなことを誰かが言っていたが、
本当の幸せとは、心の開放なのではなかろうか。



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2016年03月31日

ロシアから見た世界状況!ソチでのプーチン演説!!

日本に住んでいると、まったく電波ジャックされたような
状態で、一方的な情報が垂れ流されている。

これは、日本だけではないようだ。

アメリカと関係の深い、西側諸国では、
いつの時代からか、気骨のある記者がいなくなり、
みんなヒツジのように順応になってしまった。

これはある意味当然のことである。

テレビにしろ新聞にしろ、オーナーが存在し、
スポンサーにより成り立っている。

そうならば、それならば、そのスポンサー、もしくは、
新聞、テレビなどの株主の言うことを聞かなくては
成り立たない。

それは誰なのか?

世界の富を牛耳っているほんの一握りの人々、、、。

規制が撤廃され、グローバル化が進めば進むほど、
彼らの力は強くなる。

そして、それらに辛うじて、抵抗できるのが、
ロシアであり中国だ。

では、そのロシアが、近年、さんざん米国などの
謀略に苦しめられ、それでも健全と国家を運営し、
世界に影響力を強めている。

そんなロシアから、今の世界をどう見ているか?

非常に興味深い演説を先日、ロシアのプーチンさんが
ソチで行ったようだ。

その内容が、下の記事に掲載されている。

一度じっくりと、お読み下さい。


http://ryuubufan-78.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7040601

Dmitry Orlov
The, Mar 17, 2016
オリジナル記事:リンク(上)
オリジナルの長い記事はClubOrlov blogです。

英語圏に住む人のほとんどが、二、三日前にソチのValdai会議で
行われたプーチン大統領のスピーチを見逃したのではないでしょうか。
たとえ聞くことができたとしてもその内容を読むことまではできなかっ
たのではないでしょうか。そしてスピーチの重要性を見逃したのでは
ないでしょうか。

西側メディアは全力でそれを無視するか、意義を捻じ曲げました。
皆さんがプーチンについて思ったり思わなかったりすることのいかんに
かかわらず(ちょうど太陽と月のようなものです。彼はあなたが意見を
持つことができるようにするために存在しているのではないのです)
この演説はおそらく1946年3月5日のチャーチルの「鉄のカーテン」
演説以来の重要な政治的演説でしょうね。

演説でプーチンは突如、ゲームのルールを変えてしまいました。
かつては国際政治のゲームは以下のようにプレイされていました。
@政治家が国家主権という聞こえのいいフィクションを保つために
公の場で声明を出す。だがそれは徹底して見世物(ショー)のためで
あり国際政治の本質とは関係のないものであった。同時に彼らは控室で
の交渉に従事し、そこで実際的な取り決めが打ち出された。

かつて、プーチンはこのゲームを演じていました。ロシアが平等に
扱われるものとだけ期待して。だがこの希望は露と消え、今回の会議で
彼はゲームが終わったと宣言したのでした。それはエリート一族や
政治的リーダーたちの頭上を通り越えて人々に直接語りかけるという
手段で、あからさまに西側のタブーを冒すことだったのです。

1.ロシアは今後ゲームはしない。小競り合いについて控え室で交渉する
こともしない。ロシアはしかし真剣な会話と合意には準備ができている。
それらがもし集合的な安全保障に役立つのであれば、また公正に根ざして
いてお互いの立場の利害を考慮に入れているのであれば。

2.グローバルな集団的安全保障が今、瓦解しようとしている。もはや
国際的安全保障の保証はどこにもない。それを破壊した存在には名前が
ある。アメリカ合衆国である。

3.新世界秩序の建設者たちは失敗した。彼らが建設したのは砂上の楼閣である。
どのような形の新世界秩序が建設されるかいなかは単にロシアが決めること
ではない。だがそれはロシアなしでは作り得ないものとなるだろう。

4.社会秩序にイノベーションをもたらす建設的なアプローチをロシアは好む。
だがそうしたイノベーションを探求したり議論することに反対はしない。
そうしたもののどれでも、もし導入するなら正当化できるものかどうかを
検討する。

5.アメリカの止むことなく拡大する「カオスの帝国」によって作り出された
濁った水の中で釣りをするような意図はロシアには全くない。またロシア自身
の帝国を築く意図も全くない(これは不必要なのだから。自国の広大な領土の
発展にロシアが抱えるチャレンジがあるわけなので)。かつてそうだった
ような世界の救世主役をロシアはかって出る意思はない。

6.自分の姿に似せて世界を作り変えるという意図はロシアにはない。だが
ロシアを自身の姿に似せて作り変えようとする何者をもロシアは許さないだろ
うし、ロシアは自身を世界から遮断することもない。だがロシアを世界から
遮断しようとする何者も、結果何倍も酷い目に会うことになるだろう。

7.カオスが蔓延することをロシアは望まない。戦争も欲しいとも思わない。
戦争を始めようという意図もない。だが、今日、世界戦争の勃発がほぼ
不可避であるとロシアは見ている。そのための準備はできている。継続して
準備を万全にしている。ロシアは戦争を仕掛けないが同時に戦争を恐れ
てもいない。

8.未だに新世界秩序を建設しようとする人々を頓挫させるための積極的な
役割をロシアは採ろうとはしない。彼らの努力がロシアの鍵となる利害に
抵触するようになるまでは。ロシアは待機して彼らがその貧弱な頭で取れる
だけの一かたまりを取るのを観察するということを選好する。だがロシアを
このプロセスに引きずり込もうとする人々 - ロシアの利害を軽視するという
ことを通じて - は痛みの本当の意味を教えられることになるだろう。

9.外交政治や今ではそれに増して内政においてロシアの力はエリートや
控え室の取引には依らない。そうではなくて人民の意志に依るだろう。

これら9のポイントの他に10番目を付け加えたいです:

10. 世界戦争を回避するような新世界秩序を建設するチャンスはまだある。
この新しい世界秩序は、必要性からアメリカを含めることになる。だが皆と
同じ条件でのみそれはなし得る。つまり、国際法や国際協定に従い、単独行動
を控え、他国の主権に対する全面的な敬意を持つ、という条件だ。

以上を要約すると:お遊びの時間は終わった。子供らよ、おもちゃを片付け
なさい。大人が意思決定を下していく時間だ。ロシアはその準備ができている。
世界は?

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2016年03月29日

民進党を思い切って、応援してみませんか!!「生活者、納税者、消費者、働く者の立場に立つ。国民と共に進む改革政党である」とのこと。

昨日の中日新聞朝刊に、
「民進党綱領の要旨」が載っていた。

民進党綱領の要旨


「自由、共生、未来への責任」を理念とする。

私たちの立場
「生活者」 「納税者」 「消費者」 「働く者」の
立場に立つ。国民と共に進む改革政党である。

目指すもの
1.立憲主義を守る。
  自由民主主義に立脚した立憲主義を守る。象徴天皇制の下、
 新しい人権、統治機構改革など時代の変改に対応した
 憲法を構想する。

2.共生社会を作る全ての人に居場所と出番がある社会を造る。

3.改革先送りしない行財政改革、政治家が身を切る政治改革、
 地域主権改革を断行する。原発に頼らない社会を目指し
 震災復興を実現する。

4.経済成長を実現  
  人への投資によって持続可能な成長と、能力発揮を阻む
 格差是正を実現する。

5.平和と繁栄に貢献
 専守防衛で外交安全保障の実現主義を貫く。日米同盟を進化させる。



このような内容であった。

本当にやれるのか?

と問われると、前の民主党のことがあるので、どこまでの議員が
腹をくくれるのか、半信半疑だ。

しかし、もうそんなことは言ってられない。

何とか、今の政権を止めなくてはならない。

それには、もう一つの政治勢力を造るしかない。

特にこの要旨の中で気に入ったことは、

「生活者」「納税者」「消費者」「働く者」の立場に立つ

とうたっていることだ。

これは、現政権と根本的に違うことだ。

本当に、お金の必要な人にこそ、お金が回らなければ、
経済などよくはならない。

子育て世代、中小企業などなど、喉から手が出るほど、
お金が欲しい人にいきわたってこそ、お金が循環するというモノ。

大企業、米国などにお金を吸い取られ続けていれば、
結局は、格差など広がる一方である。

米国でも、格差是正を訴えている大統領候補者が、
健闘している。

この流れを、どうにか日本でも起こしたい。

さらに、米国の要請により、若者を大義のない戦争に
送るわけには、どうしてもいかない。

さらなる野党の結集を期待しながら、
どうです、みなさん、清水の舞台から飛び降りたつもりで、
民進党を応援してみませんか?


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2016年03月20日

よっしゃ!!森ゆう子、新潟選挙区野党統一候補へ!!絶対に当選させる!!!!!

いや〜、いいニュースだね〜。

なんと、元参議院議員森ゆう子氏が、新潟選挙区において、
野党統一候補になったという。

少し前まで、民主党の現職衆議院議員が、辞職してまで、
今度の参議院議員選挙に出馬するとされていた。

それを聞いて、この国の闇の深さに、うんざりしていた。

しかし、ここに来て、本当に、いいニュースが聞けて、
希望がわいてきた。

まだまだ、諦めるわけにはいかない。

どんなことがあっても、諦めるわけにはいかない。

森ゆう子は、我々の希望。

あの度胸、行動力、何が一番の問題なのか、
多くの議員は、目を背けるが、どんなにその闇が深かろうが、
勇敢に突き進もうとする森ゆう子氏。

日本に今一番必要なのは、このように突破口を
開こうとする勇敢さだ。

日和見的な真実に目を向けようとしない人が、政治家になる時期ではない。

時代は、森ゆう子、山本太郎、中村てつじなど、命をかけれる人々こそ、
この国に今、一番必要なのである。

あの小沢事件での森ゆう子氏の検察との戦い、、、。

多くの仲間であるはずの政権与党の民主党議員が
しり込みする中、ゆう子さんは猛然と権力の闇に挑む。

彼女は、勇敢だけではない。

認識力、見識、さらに忍耐力も十分に備わっている。

みなさん、どうか日本に希望を、、、。

それには、突破口を開く人がどうしても必要。

森ゆう子しかいない。

どうか、彼女を支援してやってください。
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2016年03月15日

「幸せ」に耐え切れない人々、、、。

「幸せに耐え切れない人々」、、、。

先日、テレビを見ていたら、こんな言葉が
耳に入ってきた。

真っ先に目に浮かんだのは、清原さんだ。

もったいない、ほんと、もったいない。

あれだけ才能に恵まれ、家族もいて(離婚してしまったが)
お金にも、周りの人々にも恵まれていた人が、
何でシャブなんかに手を出すのか。

世の中見渡せば、このように手が動くだけで幸せではないだろうか。

息ができ、足が動き、水が飲め、食糧にありつける、
よくよく周りを見渡せば、しあわせなことっていっぱいあるのでは、、、。

何億という人々が、水不足に苦しんでいる。
何億という人が、飢餓に苦しんでいる。

今の生活、今の環境、世界的に見ても、はたまた過去と比較しても
これだけ恵まれた国、時代はないと思う。

清原さんを見ていると、逆に言えば「幸せ」が怖いのか、
そのようにすら思えてならない。

どんなに才能があっても、どんなに人間的に純粋でも、
「こんな自分は受け入れられない」というような
劣等感のようなものがあるのかもしれない。

自分は、愛されていると感じれる人、、、。

こんな自分では、周りから受け入れられないと、
思い続けてしまう人、、、。

どのように、自分の弱さを受け入れられるのか、、、。

自分の弱さを受け入れられれば、人のことが
受け入れられるようになるのでは、、、。

愛されてるって、別に今、生きている人でなくてもいい。

キリストでも、ブッタでもいいと思う。

たとえば、自分をかわいがってくれた、亡くなった
祖父とか、そんな亡くなった身近な人を有効活用すれば
いいのでは、、、。

私は、けっこうなヤンチャ坊で、昔からずいぶん危険な
目にもあってきている。

しかし、今、ここに生きている、何とか生活できている、
家族もいる、友人もいる。

誰かが、私を導いてくれているのでは、と、ふと思う時がある。

それが、亡くなった祖父母のような気がしてならない。

それも、たとえ思い過ごしでもいい。

大きな心の空白を埋めるのであれば、そのような宗教チックな
考えも有効に使えるのではなかろうか。

うちの92歳になる会社の会長さん
「信じられないくらい豊かになったが、人の心は
ずいぶんと貧しくなったもんだ」
と、よくつぶやいておられる。

もしかしたら、豊かさと心の空白というのは、
なんか関係があるのかもしれない。

そんな時に、その心の空白をどう埋めるのか、
人生の大きな課題である。
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2016年03月11日

「有限」、、。エレン・マッカーサー!!!

先日、NHKのEテレのスーパープレゼンテーションで、
2005年、ヨットによる単独無寄港世界一周航海で
最短記録達成したイギリス人女性
エレン・マッカーサーのことをやっていた。

彼女は、意志の強い信念の人、とそのように感じた。

荒れる海、強風にさらされ、油断をすれば、転覆の危険性もある。

それが、極寒の南極の海などで起こったら、
ひとたまりもない。

単独によるヨットの航海なので、頼れる人はだれもいない。

そして、少しでも、油断したら、ヨットがどこへ行ってしまうのか、
もしくは転覆の危険性だってある。

71日と数時間で世界一周を成し遂げたそうだが、
果たしてその間、どのように寝ていたのか?

とても、過酷な航海である。

それと、その過酷な航海で彼女が一番感じたことは、
モノは「有限」であるということ。

無寄港による航海なので、約三カ月ほどの食糧、水など、
その間に過ごす荷物をすべて計算して積み込んだという。

私も、彼女ほどのレベルではまったくないが、
ニュージーランドの山の中を四日間ほど、歩き回ったことがある。
その時に、山小屋で寝れるのであるが、食糧、水、燃料、
衣服、寝袋など、すべての物資を背中に担いでいかなくては
ならない。

私は、コーヒーが大好きであるが、
持っていける荷物というのは、限りがある。

泣く泣く、コーヒーはもっていかなかった。

しかし、いつも当たり前のように飲んでいるコーヒーでも、
その四日間のトレッキングの中で、3日目の山小屋で、
あるアメリカ人女性が、インスタントのコーヒーをくれた。

なんとうまかったことか!!

たぶん、私の人生の中で、これが最高のコーヒーであったことは、
間違いない。

そのような制限のある空間の中で、インスタントコーヒーですら、
拝みたくなるようなありがたいモノに変わる。

また、シャワーもだ。

四日間、山を歩き回り、その後宿舎に帰って、
浴びたシャワーも最高であった。

ニュージーランドは、風呂でなく、ほとんどシャワーだ。

それも、お湯の制限があり、5分ほどで入り終わらなければ
ならない。

それでも、その時のシャワーが私の人生の中で、最高のものであった。

モノには限りがある。
むしろ、今の豊かさが異常なほどである。

ここらで、話をエレンに戻すが、
その世界最速記録を出した後、エレンはまったく違った
道を選ぶ。

そのあたりが非常に詳しく載っているのがこの記事


http://www.jf6yje.com/~salaku/weblog/index.php?itemid=3307&catid=1


その中で

「世界記録をつくったということで時の人となり、スポンサー企業など
からたくさんのお金が入ったのでしょう。普通なら、それを元手にまた
新たなヨットによるチャレンジを始めたりすることが多いけど、
エレンの場合はまったく違う方向へ進むことにした。
それが、循環型経済を世界に広めていこうという、遠大とも
思える目標だった。このままの形で全世界の経済が突き進めば、
いずれは資源が枯渇し温暖化で気候も乱れ、人類の未来がなく
なってしまう。ここでアタシがなんとかしなければ、ということを
航海中から考え始めたという。」
と、、、。

航海中に一番強く思ったこと、、、。

それはモノは「有限」ということ、、。

いろんな物資だけではないはずだ。

航海中、命の危険に何度もさらされたエレンは、
その命でさえ「有限」と感じたはずだ。

その限りある命、どのように使い切るのか?

死線を潜り抜けた人の共通する視点であろう。

この200年ほどで、人間はその活動範囲を
莫大に拡大した。

その原動力は、地球が何億年とかけて、貯め込んだ
石油などの化石燃料によって、賄われている。

その化石燃料も有限だ。

銀は、あと61年、
スズ、亜鉛は 40年、
銀は、29年、 

と、スーパープレゼンテーションの番組のなかで、
語られていた。

人口が増え、生活空間の中にモノが増え、
このまま経済活動を活発にすれば、
地球がいくつあっても足りやしない。。

ドンドン資源を採掘して、ドンドン造り、
そしてドンドン消費する。

これでないと、経済がまわらない。

なんでこんな世界になってしまったのだろうか?

これは、世界に大きな影響力を持つ、アメリカの歴史を振り返ると
よく分かる。

二百数十年前のアメリカの建国の理念とは
「人間には、幸福を追求する権利が、神から与えられている」
というモノであった。

当時、宗教的な束縛、階級的な束縛から離れ、
多くの人がアメリカ大陸に渡った。

その理念とは、宗教的に制限されていた経済活動を
より自由に、そしてより豊かに人間は暮らしていいんだと
神が保証していると、解釈された。

アメリカとは、科学の最先端を走ってきたが、
同時に巨大な宗教国でもある。
数ヶ月ほど前に、
「NHKスペシャル新・映像の世紀
第2集 グレートファミリー 新たな支配者 」
が、これがとても面白かった。

アメリカが、なぜ急成長できたのか?

その一つの大きな要因は、石油である。

アメリカを作った男といわれるジョン・ロック・フェラー。

19世紀の半ばに、アメリカで大量の石油が見つかり、
時代は、石炭から石油に大きく転換するときであった。

ロック・フェラーは、その採掘された石油を、科学者を使って、
精製する技術を確立し、自らの会社をスタンダード石油と
名乗った。

アメリカの石油を90%を独占し、世界はロックフェラーの石油なしでは、
動くことができなかったほどだ。

彼は、次のようなことを語ったとさ入れる

「非難がどれほど激しかろうと、我々が全世界に伝道を行ったのだ。
これは間違いない事実だ。富を築く才能は、神からの贈り物だと思う。
こうした能力を最大限に伸ばし、人類の幸福の為に役立てようと
神が与えてくださったのだ」

と、、、。

「World peace through trade」

これがロック・フェラー家に伝わる信念のようだ。

人を豊かにすることで、平和をもたらす。

その跡を継ぐロック・フェラー・ジュニアは、
莫大な富を利用してロックフェラー財団の活動に全力を尽くした。

それが資本主義伝道の手段にも、なっていた。

労働環境を整え、生産性を上げる、現地を所得を向上させ、
市場を広げる。世界に資本主義を浸透させる、遠大な計画であった。

大規模な慈善活動を行って、自社のイメージアップをはかる、
ロックフェラーは世界で一番金を使うのが上手い、と言われた。

確かに、市場が拡大すれば、そこまで、多くのモノを運ばなくては
ならないし、大地を切り開くためにも、莫大な石油という燃料がいる。

資本主義の発展と、石油の需要というのは、
密接な関係がある。

資本主義の浸透というのは、自社の発展であり、
さらにそれが世界に平和をもたらすと、信じていたのかもしれない。

しかし、それにもどうも限界が見えてきた。

今、大きく我々の生き方を転換するときだ。

そんな時代に、一昔前の日本的な感性、思想がとても重要になってくる。

足るを知る、もったいない、リサイクル、リユース、
限られた島国の中で、長いこと鎖国のような状態の中で
生きてきた日本人は、そのような感覚が染み付いている。

さらに、人間中心的な世界観を持つ西洋人とは違い、
長いこと豊かな自然と共生してきた我々日本人、、、。

本来の我々の生き方というのは、それほど捨てたものではない。

今日は、これぐらいで、、、。
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2016年03月10日

共生の思想!!「アドラーの共同体感覚」と我々日本人、、、。

こないだまで、シリーズでやっていた
NHKのEテレ「100分で名著」のアドラーの心理学を
すべて見終えて、正直驚いた。

アドラーという人は、とても日本人的な考え方のように思えた。

当初は、フロイトらのグループと、共同研究していたが、
袂を分かち、その後、軍医として招集され、第一次世界大戦に従軍した。
戦争と大勢の負傷者、とりわけその中でも神経症の患者を大勢観察する中で、
アドラーは共同体感覚こそが何にもまして重要であることを発見したらしい。

その「共同体感覚」とは、
人は全体の一部である、、、、。
全体と共に生きている、、、、。


もしくは
「自分自身の幸福と人類の幸福の為に、もっとも
貢献するのは共同体感覚である」
と、、、。

他者を仲間と思い、自分の居場所がある、共同体感覚。

生きる喜びや幸福は、他者との関係からしか、
得ることができない。
その為、自己の執着から離れ、他者への関心へ、、、。


また、共同体感覚に必要なこととして、
@ 自己受容
A他者への貢献
B他者への信頼

この三つが必要で、これはセットである。

これらのことを、番組を身ながら、走り書きながら、
書き留めた。

自己の執着から離れ、他者への関心へ、、、。

まるで、禅宗の言葉のようではなかろうか。

禅宗的にいうならば、「自分を忘れる」という
ことなのかもしれない。

禅宗などの日本の仏教では、煩悩というが、
それに近い言葉として、アドラーは「劣等感」という言葉を
使っているように思える。

生きている以上、不安、怒り、嫉妬、恨みなどの
煩悩に一生付きまとわれる。

その煩悩のほとんどは、他者との関係から起こる。

その煩悩をよくよく観察すると、例えば「不安」に陥っている人の
大きな特徴は、まったく周りが見えていない。

逆に言えば、自意識過剰なくらい、自分というものに対して、
意識が集中し、被害妄想になりがちになるか、
自分を責めまくる。

そして、暗い壁に囲まれた狭い部屋で、震えながら
強い孤独感を感じている。

恐怖を超える何か、
不安を超える何か、
嫉妬や悲しみ、恨みをも忘れる何かとは、
アドラーのいう「共同体感覚」では、なかろうか。

たぶん、ほぼ同義語で、日本的に言うならば
「公共心」というのが、とても近い言葉のように思う。

煩悩に心を奪われがちな自意識過剰な自分に突破口を開くのは、
やはり他に関心を移すこと。

つまり「共同体感覚」、公共心ではなかろうか。

私は、歴史マニアであり、民俗などもけっこう興味を持っている。

亡くなられた山本七平さんがよくおっしゃっていたが、
日本というのは、稲作文化の北限であり、
日本人の気質とは、とてもその影響を受けている。

常に暖かい東南アジアなどでは、田植えなどはいつ植えてもいいだろうが、
日本では、決まった時期に、決まった作業をこなしていかないと、
収穫にひびいてくる。

収穫に響くということは、つまり「飢え死」である。

例えば、田植えを真夏に行えば、収穫が冬になる。

冬に差し掛かれば、収穫量が激減するだろし、
梅雨の時期の雨を利用できない。

そのような環境から、みんなで協力して、
決められた時期に労力を集約しなくてはならない。

そう、みんなで協力しなければ、待っているのは
「餓え」である。

そのような環境から、どうしても共同体というのが、
非常に重要になってくる。

そうなれば、日本の思想も、宗教も、哲学も、
そのような感覚に合ったものに、収斂されていく。

日本人というのは、むかしから、共同体感覚(公共心)を
強く持った民族で、自分のことよりも集団のことを
優先する性質がある。

アドラーの言う「自分を忘れ、他者に意識を移す」というのが、
自然と成り立ちやすい社会であった。

例えば、うちの辺りの愛知用水の話であるが、
慢性的な水不足に悩む、知多半島、濃尾平野東部に
なんとか、水で潤したいという強い思いで、
立ち上がった二人の男がいる。

その一人が、農民の久野庄太郎であるが、
彼が立ち上がったいきさつがこのようなことらしい。
 
「知多郡は雨が少ないのみでなく、地下水も少ないし、川
もない。また水持ちが悪い。我々知多郡の農民の夏の労働の
半分は、水汲みの仕事でした。お皿のような浅いため池が何
千箇所もあるが、深さと言えば平均1メートル位で、1年中の
雨を大切に溜めようとするが、池が満水になるのは、3年に1
度。またそのため池を境として、池下が上田、池上が下田。上
田は10年中8、9年は反当り6俵位とれるが、池上の下田で
は、10年中満作は2年、5年は半作、あとの3年は収穫皆無
という哀れな作況です。水さえ汲めば5、6俵はとれます。だ
から貧農は命がけで池の水を汲みます。焼けつく様な土用の
陽を受けて、草いきれのするぼた(畦畔)に張り付いては水を
汲みあげます。襦袢も褌も搾るような汗です。足にヒルが吸い
付いて、トウガラシの様に赤く膨れてぶら下がっています。そ
んなことを気にしていては、能率が上がりません。片方の足で
こすり落とすくらいです。池に水のある間に汲まぬと、その年
はダメです。これが末期の水です。水の切れ目が命の切れ目
です」
 「命がけで汲んだ水は数日にして無くなり、10日過ぎると
稲の葉が黒くなってよれる。万策尽きて神頼み、笛や太鼓で
氏神様に雨乞いの祭り。馬鹿げたことだが、その頃は他に何
の仕事もない。それから10日も拝んでいると稲はすべて枯れ
てしまう。昭和19年、22年の干ばつ、敗戦、食糧不足で遂
に用水建設運動に踏み切った」(久野庄太郎『躬行者』)

そして、久野氏は心血注いで、まさに人生をかけて、
愛知用水建設運動を展開した。

挙句の果てには、全財産を使い果たし、
破産してしまった。

それでも、彼を動かすのは何だったのか。

それは、共同体感覚であり、公共心であると思う。

全財産を使い切りまでやったということは、
まさに自分を完全に忘れ、公の利益のために、
身をささげた。

アドラーのいう
「自分を忘れ、他者に関心を移す」
ということであり、

他者への貢献、それをやり続けることにより、
自分の価値を見出し、自分を受け入れることが
できるのではなかろうか。

自分もいくつかの共同体に属している。

家族、夫婦、会社、地域社会、国、人類、
それだけではなく過去の人々、未来の人々ともつながっている。

今、水道をひねれば、水が出る。
スイッチを入れれば、明かりがつく。

これらを成し遂げるまで、どれだけ多くの人の苦労が
存在したことか、、、、。

先人たちが心血注いでくれたおかげで、今の我々の生活がある。

そして、今我々が住んでいる社会を、未来の子供たちが
引き継いでいく。

鹿や馬が生まれるシーンを見たことがあるだろうか。

産み落とされた瞬間に立ち上がり、歩こうとする。

人間が、歩けるまでにどれだけかかるか。

それだけではない。社会で生きていくために
いろんな知識や経験を積んで一人前になるまで、
周りの多くの人のサポートがいる。

それだけ、自分というのは、社会からいろんなことを
授かっていることになる。

オオカミに育てられた少年は、オオカミのような習慣を身に着けてしまう。

中国人は、中国人らしく、日本人は日本人らしく、
何が言いたいのかというと、それだけ人間というのは、
その社会が育てるということになる。

自分というモノは、何層にも何層にも、
いろんなひとの影響を受けている。

これだけ影響を受けている以上、
自分というモノは、本当に自分といえるのか。

本や文字がある以上、現代生きている人だけでなく、
例えば法然さん、親鸞さんなどの影響も
私達は受けていることになる。

そのような社会というモノ、人間の意識の共同体というのか、
そういうものを少しでもよくすることに自分の持てる力を
使ってみたら、もしかしたら自分を忘れることができるのでは、、、。

共同体感覚、公共心というのは、日本人にとって、
自分を忘れ、煩悩から離れれる最たる方法だったのかもしれない。

それが、日本人のある意味、精神安定剤だったような気がする。

posted by hide at 09:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月03日

「幸せになる勇気」、「嫌われる勇気」とは同じことらしい、、、。

「幸せになる勇気、嫌われる勇気とは、実は
おなじことなんだ。ダメなことばかり指摘する、
できないことばかり指摘する、理想の子供や
部下をイメージし、現実の相手から、
引き算でしか見ない」

・・・・・・・・。
また、
「自分を嫌う人がいるということは、
自由に生きている証し。
それぐらいの代償を払わなくてはならない。
それくらいの覚悟をもって生きなければならない
。」

・・・・・・・・。

これは、先週までシリーズでやっていた
NHKのEテレ「100分で名著」のアドラーの心理学で
言っていた言葉だ。

なんとなく、各々思い当たる節があるのでは、、、。

たとえば、人の陰口ばかりたたいて狭い世界でしか、
生きようとしない集団がいるとする。

そこから、離れれば、自分もたちまち陰口をたたかれ、
村八分にされるとする。

正直、それは怖い。

でも、いつまでも、そんな集団に依存していて、
いいのだろうか、、、。

その集団を変えるのもあなたの勇気では、、、。

飛び出してみないと、分からない世界がいっぱいある。

たとえ失敗しても、自分の考えで、自分の足で立つという
ことが、どれほど大事なことか。

いつまでも、噂話の世界だけで生きていては、
何も見えないし、何も感じない。

それに、「捨てる神ありゃ〜、拾う神〜」という
ことばもあるのでは、、、。


posted by hide at 07:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする