2016年01月13日

斉藤一人さん「しあわせは、あなたの心の感度や感性によって決まってくる」!グッとくる一言だね〜。

最近、うちの嫁がはまっている斎藤一人さんの
本を読んでいる。

これが、すばらしくいい。

「大丈夫だよ、すべてうまくいっているからね。」
という本の中で、とてもいいことが書いて
あったので紹介したい。

しあわせとは探すもの”である

不幸な人って、幸せの探し方がヘタなんです。
「アジの開き」だってつくるのに大変な手間がかかっています。
そのことを思って食べると「しあわせだなぁ」と思えるんです。
 水道の蛇口をひねれば水が出るのだって「しあわせ」だよね。
昔はわざわざ川まで水を汲みに行っていたんですから。
 さらに言えば、世界には飢えに苦しんでいる人が約8億人、
慢性的な栄養失調の人が約20億人いると言われています。
 世界各地でいまだに紛争が起こっていて、いつ銃撃戦に
巻き込まれたり、爆弾を落とされたりするかもわかりません。
 それに比べれば、私たちは平和な日本に暮らせてしあわせ、
生きているだけでしあわせだと思えます。
 しあわせって、しあわせと思える感度が高いか、低いか
なんだよね。そして「しあわせ」とは、与えられるものではなく、
”探すもの”なの。
 些細なことがあるたびに「不幸だ、不幸だ」っていう人が
いるけれど、しあわせな人にも不幸な人にも起こることって、
そんなに変わりはありません。
 それでも、しあわせと思える人のところに、しあわせって
引き寄せられてきちゃうんです。完全無欠の幸せを探して
みたってどこにもないから。
 神様だってね、「しあわせ」というものをくれるわけでは
ないんだよね。「しあわせ」に変わるものをみんなに
くださるんだよ。
 性格だって、この世の中に完璧な人なんていません。
誰にでも欠点の一つやふたつはあるものなの。
 細かいことを言わなければ誰だって「いい男」だし、
「いい女」なんです。それを「こういうところが良くなって
くれたら」とか「ああいうところを直してくれたら」とかって
言っていると、いつまでたってもきりがありません。
 しあわせっていうのは、50点か60点でいいの。
完璧を求めすぎると、しあわせになんかなれないよ。
 サッカーが好きな人って、相手から邪魔されたりすることですら、
おもしろさを感じます。だから人生も邪魔する人が現れたら
「これでもっとおもしろくなるぞ」って思えると、あの人の人生は
ますますおもしろくなるんだよね。
 人って誰でも、ものすごく可能性を秘めています。それを
”ちっちゃく”まとめようとするからだめなんです。
「ここがダメ」とか、「あそこがダメ」とか言っていると、
どんどんちっちゃくなっちゃうんだよ。もっと大きく、
大らかに物事を捉えていこうね。


斉藤一人さんって、いいね〜。

幸せを感じるれるのも人間力なのかもしれないね〜。
posted by hide at 19:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月08日

ブッダは説く!「愛とは煩悩なり」、、、。

先日、テレビをつけると、女子アナが並んで座っていて、
「恋ばな」に、花を咲かしている。

「わたし、彼氏に上手く甘えれないんですよね〜」とか、
二人きりでいるとき、
「チューしよ〜、チューしよ〜と、迫ったら、敬遠された」
とか、司会者が面白おかしく、いじくり倒す。

見ている分には、とても面白いし、大笑いしながら、
そのひと時を楽しんだ。

最近の歌にしても、「愛」の歌がとても多い。

テレビをつけても、映画を見ても、音楽を聴いても
「愛」、「愛」、「愛」、、、。

そこまで、「愛」を大安売りのように連呼すると、
最近の「愛」と言葉自体が、軽くなった気がしてならない。

一人の人に対して、その「愛」という気持ちが継続でいるのか?
互いに一緒にいることで、支え合え続けることができるのか?

実際に、今、離婚率は、40%と聞く。

その「愛」を語る芸能人なら、さらにその比率は高くなる。

「愛」について、あまりにも妄想をひろげすぎていれば、
結婚など、まず失敗する。

こないだの年末、朝の連ドラ「マッサン」の
総集編をやっていた。

私にとっては、マッサンはとてもいい作品であったが、
私以上に、連ドラ歴の長い、うちの嫁には不評だった。

私が、そののマッサンの総集編を見ていると、横から
「そう、そう、こういうところが女には受けへんねん」
と、何度も何度も、口をとがらせて言ってくる。

女性が、自分のことを犠牲にしてまで、
相手の夢の為に尽くす。

また、特にエリーがマッサンのお母さん、姑さんに
いびられるシーンを見ながら、

「ほんと、マッサンってだらしな〜、もっとしっかりしなかんわ」

と、何度もつぶやく。

マッサンの嫁と認められず、女中ということなら、
マッサンの実家に泊まることを許される。

マッサンも、説得するのであるが、
なかなかそこのお母さんが頑として
「外人をうちの嫁と認めるわけにはいきません。
女中としてなら、うちの泊めることを許します」
の一点張り。

そんなこんなで、数日たち、あまりにもひどい仕打ちなので
マッサンが、エリーに対して
「エリー、もういい、大阪に帰ろ」
という。

エリーは、たどたどしい日本語で
「マッサン、大丈夫、大丈夫、私、女中頑張ります」
と、逆にマッサンを励ます。

そして、雑巾がけや料理など、必死に覚えようと
努力を続ける。

確かに、女性から見れば、こんなシーン
いたたまれないのかもしれない。

しかし、本当に人を愛するということは、
相手の大事にするものに対しても、できる限り
ことをすることで、真の夫婦の信頼関係ができるのでは
なかろうか。

エリー自身も、マッサンと結婚し、母国のスコットランドを
発つときに、母親の大反対を押し切って、日本に来た。

ある意味、親を捨てた身だ。

そのつらさは相当なものだ。

では、愛する人に、同じような思いをさせたいのだろうか。

それとも、
「私も親を捨ててまで、こっちに来たので、
おまんのおかん、なんとかせ〜」
と、迫るのか、

果たして、どっちが夫婦の信頼関係を強固なモノにできるのか。

継続できる愛とは、また人生のパートナーを作るために、
どのような努力をするべきなのか。

ただ、「甘えた〜い」とか、「チューした〜い」とかなら、
ペットで十分。

結婚ともなれば、現実の問題が波のように押し寄せてくる。

最近、爆笑問題の田中氏と結婚した山口もえさんがこんなことを
言っていた
「うちの主人は、とても心が広い人。
うちの主人が最初に付き合うことを申し込んでくれた時に、
はっきり言って恋愛の対象外でした。それに子育てに没頭する
毎日だったので、断りました。しかし、うちの主人は、
『そんな子供をも大事にするもえちゃんが好きだ』と、言って
くれました」

と、、、。

相手が大事にするものを大事にする、これって
夫婦の信頼関係を築くのに、とても大事なこと。

もちろん、受け入れられないこともある。

それでも、できる限りのことをするのとしないのでは、
かなり違ってくる。

そういう姿勢を長い時間をかけて、貫き通せれば、
初めて、互いのことを理解し合える関係が築ける
ような気がする。

例えば、相手の親を大事にする、家族を大事にする、
そうすれば、相手に対して自分の主張の方も
通しやすくなる。

逆に、「私よりも親が大事なの?」とか、
「おれより、子供が大事なのか?」
なんて主張するよりも、相手の家族を大事にした方のが、
爆笑問題の田中さんではないが、信頼を勝ち取ることが
できる。

「自分を捨てよ〜」、「自分の殻を脱ぎ捨てよ〜、そこから道が開ける」
と、神様は言っている。

最近、幼い子持ちの女性と付き合っている若い男性が、
その幼い子に覚せい剤を打ったというニュースを聞いた。

何というおぞましいことだ。

「愛とは覚悟だ」と誰かが言っていいた。

確かにそうなのかもしれない。

好きだ、はれたといっても、そう長いこと続かない。

それよりも、長いことかけて、いい関係を築き上げる、
その覚悟が必要のような気がする。

結婚ともなれば、相手の嫌なところを
付き合っていかなくてはならない。

そんな時に、辛抱できるのかどうか、
そのためにも「覚悟」というモノが、
必要だ。

ブッダは「愛」というのは、煩悩であると説く。

「ブッダ、真理のことば」(花園大学教授 佐々木閑著書)

この本は、NHKの「100分de名著」のテキストブックによると
こんなことが書いてあった。

意外にも思われるかもしれませんが、「愛」も無明の子分です。
我々は愛というと美しいものをイメージしますが、仏教では
必ずしも良い意味ではなく、色欲や所有欲などに結びつく
煩悩としての側面の方が大きいのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
慈愛や仁愛という意味で、他者の幸せを願うぶんにはいいのですが、
相手をこちらに振り向かせたいとか、相手の気持ちを他へ向かわぬ
ようにしたいなどと思ったら、それはもう煩悩です。
それがかなわぬと、もっと苦しい嫉妬という感情が起こり、
「がんじがらめ」なるのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・

なるほど、なるほど、、、。

しかし、若いうちのその煩悩に、惑わされて結婚したとする。

私は、これも「縁」なのではないかと感じる。

問題は、そこからどのように信頼関係を築き、尊重し合える
継続できる「愛」にもっていくのか、それには、多大な
労力と時間が必要であろうが、腹をくくってやってみる価値が
あるのかもしれない。

posted by hide at 07:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月03日

「空」の原理!「自分など何もない」とトコトン自己否定するブッダの教えが、心を解き放す!

年末、家の大掃除をしていると、むかし、読んだ本に出くわす。

「ブッダ、真理のことば」(花園大学教授 佐々木閑著書)

この本は、NHKの「100分de名著」のテキストブックであるが、
再度読み返すことにした。

最近、つくづく仏教に引かれる。

平均年齢から言えば、残りの人生あと30年ほど、、、。

最近、時間など、ものすごいスピードで過ぎていく。

残りの人生、残された時間、どう使い切るか?

つくづく、考えさせられる。

焦ってもしょうがないが、一つ言えることは、
残りの人生を使い切るためにも、心をしっかりと整える
事が大事だと思う。

自分の「モノサシ」一つで、世の中の見方など、
全く変わってくる。

人に出会うにも、何かを経験するにも、苦難に遭遇しても、
心あり様で、大きく変わってくる。

仏教の教えとは、長〜い、長〜い、年月をかけて
先人たちが、積み上げてきた心の整理の方法であり、
現代社会にも十分役に立つ。

ただ「宗教だから〜」と、毛嫌いするには
いささかもったいないような気がする。

キリスト教であろうと、イスラム教であろうと、
科学であろうと、なんであろうと、「自分が使える」と思えば、
何でも吸収すればいい。

心の垢を一つ取り除く、自身を縛り付ける糸を一つ一つ、
取り除いていく、そうすることにより、真の自由というものが、
階段を上がっていくように、開放されていく。

その「ブッダ 真理のことば」のテキストブックの中で、
今日は「諸法無我」という言葉を紹介したい。

「この世に『私』という絶対的存在など、どこにもない」
というのが、その言葉の意味らしい。

われわれはふつう、自分の利益のため、自分の功名のため、
自分の楽しさのため、自分の幸せのため、、、と、
なにごとも自分を中心に置き、自分に都合のよい方向でものを
考えます。ところがブッダは、そもそも自分などないのであり、
ありもしない自分を中心に世界をとらえるのは愚かのきわみだと
説きました。 
 われわれはまず、自我というものを世界の中心に想定し、
そのまわりに自分の所有する縄張りのようなものを同心円上に
形作っていきます。そしてそのいちばん外側に、世間と
呼ばれる一般社会を配置します。自分はこの世界像の
主(あるじ)ですから、手に入っていないものがあったら
手に入れ、意のままになる縄張りの部分を増やして
いこうとします。これが執着です。
 すなわち、執着とは、この「自分中心」の世界観から
発生するのです。自分中心の考え方に立つ限り、欲望は
消えませんし、きりがありません。
 しかし、ここでその中心人物たる自分を、
「それは実在しない仮想の存在である」として、その
絶対存在性を否定してしまうと、まわりにある所有世界も
自然に消えます。自分というのは、本質のない仮想存在
なのですから、当然、それを取り巻く世界も仮想だという
ことになり、執着もおのずと消えるわけです。

なるほど、なるほど、、、。

よくよく考えてみれば、不安、怒り、嫉妬など
煩悩に心が占領されればされるほど、自分という意識が
非常に強くなり、周りが見えなくなる。

それらの煩悩は、違う言葉いえば、「執着」だ。

例えば明日の仕事が上手くいくか「不安」になる、
後輩が生意気な言葉を口にすると「怒り」を感じる、
彼氏のところにただ知り合いの女の人から電話が
かかってくると「嫉妬」で頭が一杯になる。

不安も仕事が上手くいかなければ、かなりショックで自分が傷つく。

後輩が生意気な言葉を発すれば、自分が馬鹿にされているようで
怒れてくる。

彼氏が自分だけを見てくれていない、自分以外の人に取られてしまっ
たら、気が狂いそうになるであろう。

不安も、怒りも、嫉妬も、結局は自分が惨めになることに対する
恐怖であり、自己防衛本能とも言える。

自分を外敵から守る、それが煩悩の正体であり、
ではその自分という存在、自分という意識を薄めてしまったら、
どうなるだろうか。

では、その「自分」っていったいなんなの?

人間とは、「人格」なのか?、「身体」なのか?

「身体」と言ってもそのほとんどが、その大元は、どこにでもある
「二酸化炭素」「水」であった。

そして、死ねばまた二酸化炭素と水に戻るだけ、、、。

もしかしたら、私の体に取り込まれた二酸化炭素は、
そこのねずみの中に入っていたのかもしれない。

私の中に入り込んでいる水は、元はその川の水で
あったのかもしれない。

回り回って、今、私の中に取り込まれているだけである。

さらに、人間の体の中の細胞というのは、数年も経てば、
そのほとんどが新しいモノに、総入れ替えされているという。

では、数年前の私と、今の私って、本当に同一人物と
言えるのだろうか?

体の細胞は、総入れ替えされているのに、記憶というのは、
人間の心の中に残る。不思議だよね〜。

人格というのも、徐々に積み上げられていくものだ。

ある精神科医が
「人間とは、著しく周りから影響を受けている」
と、言っていた。

確かに、その通りだと思う。

よく、鹿などが、産み落とされた瞬間に立ち上がり
歩き出す。そして、すぐに自分で餌を食べるようになる。

人間はどうか?

歩き始めるまで、2年ほどかかる。

それで終わりかというと、周りから言葉を覚え、
字を覚え、数字を覚え、計算を覚え、
自転車の乗り方、箸の使い方、食事の作り方、
掃除の仕方、風呂の沸かせ方とありとあらゆることを
覚えながら、一人前になるまでに20年ほどかかる。

つまり、周りから著しく影響を受けていることになる。

ふと最近思う、おじいさん子である私は、
齢を重ねれば重ねるほど、おじいさんの考え方が
しみ出てくるようだ。

おじいさんの影響を明らかに受けている。

おじいさんだけではない。

祖母、両親、叔父叔母、兄弟姉妹に友人、同僚、上司、先輩、先生
などなど、今まで生きてくる中で、どれほど多くの人から
影響を受けてきたことか。

さらに、本などの文字を通じて、はるか昔の
親鸞さん、道元さんなどなど、多くの昔の人の
思想も私の中に入っている。

先ほど、私はおじいさん子であり、おじいさんの影響を
多く受けているといったが、そのおじいさんでも、
その両親である私から見たら曽祖父、曾祖母の影響を受けて
いるであろうし、おじいさんを取り巻く多くの人から、
多大な影響を受けていることになる。

また、曽祖父もまた、同じように、その時代の多くの人から、
影響を受けている。

日本人なら、日本人らしく、
中国人なら、中国人らしく、
その社会にふさわしく、いわば代々続く、
社会の中で、私も、父も、祖父も、曽祖父も
大きな影響を受けてきて、今、私という人格が
形成されている。

その私でさえ、祖父だけではなく、多くの人から
何重にも重なりながら影響を受け、その人たちも、その人を
取り巻く多くの人から、いろんな影響うけて、
その人の人格というモノが形成される。

そう思うと、「私」って、いったい何なの?

「私」というモノが存在するようで、存在しない、
そのつながりというのは、現在、そして過去も通じて、
とてつもなく多くの人が、今の私という「人格」を
形成するのに携わっていることになる。

そういうことであれば、ブッダが言うように、
「私などない」ということに
なるのでは、、、、。

では、先ほどのテキストブックに戻るが
「諸法無我」について、こんなことが補足されている。

「諸法無我」とは、この世のどこにも絶対的な自己存在など
ない、というのですから、ある意味、究極の自己否定とも
いえます。たとえば西洋世界には「我思う、ゆえに我あり」
などという言葉があり、人々は、当たり前のように自我の
探求をしてきました。ブッダの考え方は、こういった
姿勢とは正反対のものです。
 しかし、そういう極端な自己否定を土台とすることで、
人ははじめて世の現象を本当に客観的に見つめることが
できるとブッダの思想は、説得力があります。自己中心的
なものの見方を捨てた時、世のありさまの真の姿が
見えてくる。そうすれば、自分が為すべき正しい行動も
分かってくるということです。


もしかしたら、私を捨てることにより、
心が軽くなるのでは、、、。


posted by hide at 21:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月24日

神に好かれる人とは、、、。

「神は、必要な時に必要なことを与えてくれる」

と、誰かが言っていたが、とても深い言葉に思える。

人って、それぞれ、その思考パターンというのは、
持って生まれたモノ、もしくは環境に大きく左右される。

例えば、私の場合であると、「頑固」というのは、
もって生まれたモノだ。

頑固というのは、厄介なモノでなかなか人とは妥協できない。

そのおかげで、どれだけ人と対立してきたこことか。

しかし、逆に言えば、自分の意思を大切にするということ。

もし、対立をなるべく避けるには、その意思をしっかりと整理すること。

本当に、そんなことでこだわる必要があるのか。

「こだわり」の中でも、いろんなものがある。

ちんけなプライドであったり、その正体は自分自身の恐怖や不安であったり、
もし、そんなものをそぎ落としてしまえば、かなり自身の
「こだわり」というモノが、整理される。

整理するにも、しっかりと視野を広げなければならない。

それには、常に本を読む癖をつけ、いろんな人に会い、
いろんな体験をすること。

より見識が広がれば、自分の頑固さを押し通す時と、
引っ込める時の判断が付きやすくなる。

それと、まず第一に、その頑固さという特徴をを自分自身が認めること、
それに合った生き方に変えていくこと。

例えば、自分の主張を押し通しすぎて、人と対立することもある。

そういう時は、あとくされないようにする、
仲直りを上手くやれるようにする。

そういうことに気を付けるだけで、だいぶ違ってくる。

さらに、信頼関係というのは、とても大事。

自分の意思を貫きたいのであれば、たとえ失敗するとは
分かっていても、まずは大きく相手に譲る。

そして、その人と一緒に失敗してみる。

トコトン付き合ってみる。

そこからが、新たな信頼関係を構築するチャンスだ。

もしかしたら、近い関係の人というのは、
こういうことの繰り返しなのかもしれない。

子育てなんかというのは、そういうところがあるのでは
なかろうか。

このようなことを、私の人生の中で、何度も、何度も失敗を
繰り返す中で、学んできたことだ。

何かトラブルを起こす、しかし、今になってみれば、
それはチャンスでもあった。

もって生まれた「頑固」というモノが、私という者に
強い執着でしばりつけ、相手を受け付けれない。

今、思えば、神が、
「はよ〜、気付け〜、はよ〜、気付け〜」
と言って、チャンスを与え続けてくれたのかもしれない。

そして、自分自身の特徴を知り、いろいろと学んでいくと、
やはり心がかなり軽くなる。

それになんだか、運もついてくるし、健康でいられる
ような気がする。

神が好む人というのは、なるべく自身の煩悩から解放している人。

与えたチャンスを上手く、つかめる人。

いつまでも、ウダウダ言っているようでは、そのチャンスを
逃してしまうような気がする。

それに、私もあと30年ほどで、この世とは縁が切れ、
「死」というモノを受け入れなくてはならない。

もしその時に、自身の魂が何らかの執着に、強く束縛されていれば、
あの世へ旅立つことができるのだろうか?

浮遊霊というモノが存在するのであれば、
怒り、悲しみ、不安など、煩悩にとらわれすぎて、自分自身から
離れれることができなかった人の強い念がこの世に存在するのでは
なかろうか。

いざ、死を迎えるときに、自分自身から離れることができるのか?

自分という意識から、離脱できるのか?自我から離れられるのか?

昨日、さんまさんのテレビで、
又吉さんががいいことを言った。

「生きていくうえで、大事な何かとは何ですか?」
という質問に対して、

又吉さんが
「自分はみんな」
というようなことを言った。

とても、深い言葉で、もう少し話を聴きたかったが、
ある心理学の専門家が、又吉に対して
「すばらしい病気ですね。もっと、具体的な
対象を持つべきです。例えば、結婚して子どもを持つとか」

とか何とか言っていたが、果たしてそれだけで
十分なのだろうか?

生きていくうえで、もっと根本的な何かがないと、
たとえ子育てをしていても、間違った方向に
向かってしまうことも、十分ありえる。

いろんなことを学んでいる又吉らしい言葉であったが
「自分はみんな」というのは、自我から離れろっと
いう意味ではなかろうか。

人間だれでも、最終的には、すべてを捨てて、
あの世に旅立つことになる。

そうなることが決まっているということを深く認識すれば、
この世のさまざまなモノに対する執着が薄まるのでは
なかろうか。

いかに客観的に身近に起こる出来事を、見ることができるのか。
自分の怒り、悩み、恐怖に対して、いかに客観的に接することが
できるのか。

それができる人というのは、自分の周りの人に対しても
いい影響を与えることができる。

仏教用語で「無明」という言葉がある。

ある本にこんなことが書いてあった。

煩悩の親分「無明」

「煩悩」と一口に言っても、いろいろなものがあります。
たとえば、強欲とか、傲慢とか、嫉妬とか、数え上げれば
きりがありません。ブッタは、その中でも一番のおおもと
となる煩悩は「無明」だと考えました。
 この「無明」という言葉は、日本人にはなじみが薄い
言葉ですが、ニカーヤを重んずる南方仏教国の人たちに
とっては全くの常識、基本中の基本です。「明」という
単語は智慧(ちえ)という意味なので、「無明」といえば
「その智慧がない」ということ、つまり「愚かさ」を意味
します。「愚かさこそが諸悪の根源」、「煩悩の親分」と
いうわけです。
 ただし「愚かさ」といっても、それはたんに知識が
足りないとか、学がないといった表層的な意味では
ありません。ものごとを正しく、合理的に考える力が
欠如しているという本質的な暗愚(あんぐ)を
さします。


神に好かれる人というのは、煩悩から離れれる人、、、。

自分という意識から、離れることができる人、、、。

光り輝いている先人たちが築き上げてきた叡智に
溶け込める人。

そのためには、真理を追求し、その本質を見抜く力を
つけること。

それが智慧なのかもしれない。

智慧を学び続けることこそ、人生の意義であると感じる。

posted by hide at 19:31| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月16日

現代人にとって、心に「神」は必要か、、、?

毎朝早朝、会社に行く前に、我が家の仏さんをお参り
母屋に行く。

そこには、だいたいうちのオヤジが仏壇にご飯をお供え
している。

「ナンマイダ〜、ナンマイダ〜、ご先祖様、おじいさん、
おばあさん、、、」

と、お参りをしている。

だいぶ認知症が進んでいるが、オヤジの口癖は、
「ご先祖さんが守っとってくれている、
おじいさん、おばあさんが守っとってくれている」

と、毎日のように言っている。

これは、日本人の伝統的な「ご先祖さん信仰」であり、私にも
確かにそのような所がある。

何か見えないものに、
生かされている、
導かれている、
守られている、
と思えば豊かな人生が過ごせるような気がする。

そのように思えるようになれば、
何か見えないものに対して「畏敬の念」が生まれ、
自身の弱さを知り、感謝の心がめばえる。

「あ〜、ありがたい」と感じることのできる人、
出来ない人の違いというのは、けっこう大きいような
気がする。

心の中に、何か見えないものの存在、、、。

神なのか、仏なのか、キリストなのか、
そのようなモノを持つということは、
人間として強みになるのでは、、、。

それがもし、身近な存在であれば、より
「自分が守られている」と思えるのではなかろうか。

私は、度が過ぎるほどのおじいさん、おばあさん子であった。

うちの母も「あんたは、おじいさんに育てられたようなもんだ」
と、よくいっている。

おじいさんが、病気になるまで、私が20歳ごろまで、
祖父母と川の字になって、寝起きを共にしていた。

そして、小さい頃から聞かされていたのは、
神様、仏様、ご先祖様の話、、、、。

「ご先祖さんが守っていてくれている。氏神さんが
守っていてくれる」

そんなことを毎晩のように、語られていた。

今、振り返れば、それも一つの宗教教育だったのかもしれない。

その祖父母が亡くなり、今では私のご先祖様となられた。

だんだんと歳を重ねていくと、祖父母の言葉がボディーブローのように
効いてくる。

そして、今、そのおじいさん、おばあさんと寝起きを共にしていた
我が家の離れに住んでいる。

この離れは通称「座敷」といい、祖父母の思いがこもったものだ。
「この座敷はな〜、牛坊飼って、豊田に運んで、それで建てたんじゃよ〜」
と、毎晩のように聞かされていた。

ここに住んでいると、すでに他界している祖父母が、
気配を感じるような気がする。

そんな祖父母に、私は常に見守ってくれていると、
感じる。

科学をさんざん学んできたもう一人の私は、そんなことただの思い込みに過ぎない
とも感じる。

しかし、もし思い込みでも、心の中に神のような存在を持ち、
その神が自分を守っていてくれるというような感覚がもてれば、
困難にも立ち向かう勇気がわくのではなかろうか、、、。

それも一つの思考方法である。

毎日、毎日いろんなことが怒涛の如く起きる。

それにどう立ち向かうのか、どのように心を整えるのか、
もし、心の中に誰かがいて、自分を守っていてくれると
感じれば、心強いのではなかろうか。

人間は、有史以来、神が存在した。

心の安定や困難なことに立ち向かう思考方法としても、
伝統的な方法であるが、心の中に神の存在というのは、
必要なような気がする。

その神が月謝の高い、信仰宗教である必要はない。

自分をかわいがってくれた祖父母、父、母、
身近な氏神さん、毎日通う道におられるお地蔵さんでもいい。

用はいかに身近に感じるか、いかに自身に信じ込ませる
ことができるかである。

伝統的な宗教というのは、それほど捨てたものではない。

アインシュタインが
「進んだ科学の使い道は、宗教が決めること」
と、語っていたそうだ。

最近、何か見えないものに対し、「畏敬の念」というモノが薄れ、
このままでは、我々が住む生態系を喰いつくしてしまう。

大きく人の心を方向転換するには、宗教の役割が大きいような
気がしてならない。



posted by hide at 20:29| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月05日

持続可能な「幸福論」、、、。

 先日の土曜日の早朝、ラジオ放送、「なぜ生きる2」。

これがまた良かったので紹介したい。 

ジュニアバンタム級世界チャンピオンになったボクシングの鬼塚勝也選手に
ついて、語られていた。

 少年の頃、世界チャンピオンはスーパーマンみたいな存在やと思ってきた。
俺にとっては神様に近い存在ですよね。凡人の俺が、そんな凄い場所に
辿りつくことができたら、いったいどんな凄い人間になれるんだろう。
そのことだけを励みにここまで頑張ってきました。
しかし、試合に勝ってはみたものの、あるはずのものが何もないんです。
「エッ、何なのこれ?なんで、何もないんや?」
「いや、次勝てばきっと何かが得られる」
そう信じて、次から次へと試合を積み重ねていきました。だけど何も残らない。
試合が終わった夜は、生き残れた実感と自分が探し求めたものが何もなかったと
いう寂しさで発狂しそうになりました。俺は常に素直に飛び跳ねる自分で
おりたいのに、充足感がないから、「何でや?」という思いばかりが
虚しく深まっていく。最後の試合までずっとその繰り返しでした。
  (『週刊文春』平成6年11月)


世界の頂点を極めても「充足感」がない。

人間とは、いつになったら「満たされる」というような
感覚になるのであろうか。

到達した時点で一時の達成感、、、。
そして、そのあとの猛烈な恐怖と不安、、、。

「世界チャンピオンは、スーパーマン」、、、、。
「世界チャンピオンは、神さまに近い状態」、、、、。

そのような自分が抱いてたイメージとはかけはなれ、
充実感などなく、次なる恐怖と不安を抱えなくてはならい。

どんなに世界のトップに立とうと、
どんなに莫大なお金を持とうと、結局、恐怖や不安からは
解放されない。

逆に、しっかりとした心の準備ができていないと、
そのようなご褒美をもらったことで、
人生を狂わせた人など、星の数ほどいる。

不安や恐怖、そのような煩悩というのは、
一生付きまとうモノ。

では、どのように付き合っていくのか、
どのように飼いならすのか、

よくよく、研究する価値があると思う。

不安に心を占領された人の大きな特徴が二つある。

それは、周りがまったく見えず、「自意識過剰」になる。

そして、もう一つは「悪いところにばかり意識が集中する」ということだ。

あるテレビ番組での話。

その中で、少しポッチャリ気味だけど、エクボが素敵で、
可愛らしい若い女性が、泣きながら整形の必要性を訴えている。

彼女の主張は、このポチャリ体形で、どれだけみじめな思いを
してきたか、そしてこれさえクリアーできれば、
幸せになれると、、、。

確かにポッチャリではなるが、そんなみじめなスタイルではない。
むしろ、容姿もいいし、整形の必要性があるとは思えない。

それに、何でもやれる若い時代に、そんなことで頭を
いっぱいにして、悩んでいるなんて、もったいない限りだ。

そのようなことを出演しているパネラーがアドバイスしても、彼女は
頑として受け付けない。

自分という意識が強すぎる、
周りが見えていない、
そしてポッチャリという欠点に
意識が集中しすぎている。

まるで過剰に反応し、自分自身を痛めつけているようだ。

では、どうしたらいいのか。

この「自意識過剰」、「悪いところに意識が集中する」と

では、その逆なことをすればいい。

自意識過剰から、周りに意識を持っていく。
悪いところから、良いところに視点を合わせる。

人のいいところを見つけるようにする、
そのいいところを伸ばすように心がける、
また、それを喜びにする、

これらのこと、習慣にすれば、自分も変わり、
周りの自分に対する態度も、大きく変わっている。

心が不安に占領されれば、まるで牢屋に閉じ込められているようなもの。
それは、あなたの癖である。

その癖を直せば、もっともっと自由になる。
もっともっと、楽しくなる。
もっともっと、周りと調和できる。

やる価値は十分あると思う。

どうすればいいのかというと、

例えば、あの日本全国、講演活動で飛び回っている鴨頭嘉人氏が
やっている「ハーピーマイレージ」活動など、非常に参考になる。

コンビニ、キヨスク、ファミレスなど、サービス業に従事する人から、
ホスピタリティにあふれるサービスを受けたとき、
「ハッピーマイレージの赤いカード」を渡す。

笑顔の素晴らしい店員さんに「元気もらいました!ありがとう!」というような
気持ちをお客さんの側から、伝える「承認」する活動だ。

お金を払っているのだから、当たり前とか、
ただ機械的に注文を取り、サービスをするだけでは、
どこか無機質になってしまう。

そのようなアクションを起こすことで、スタッフ側も、さらなる
やる気が生まれ、サービスされる側も、心のこもった
おもてなしを受けることができる。

好循環を引き起こすことになる。

鴨頭さん自身も、前は日本一の売り上げを誇ったマクドナルドの店長で、
サービス業に精通した人だ。

おもてなしで、人々を幸せにする、と頑張っておられる。

鴨頭さんは、野球の強い名門高校の野球部の出身で、
なんと補欠なのにキャプテンを務めていたという。

それだけ、人を励ますこと、そのことを喜びにできる人、
つまりサービス精神の旺盛な人なのだろう。

鴨頭さんのような大きなことは出来ないが、
そのような精神で生きること。

余のため人の為に生きるということ、一昔前の日本人なら
当たり前のことであった。

「情けは、人のためならず」
という言葉があるが、ある精神科医が言っていたが、
「人間とは著しく周りから影響を受けている」という。

周りをなるべく活かすように心がければ、そこから
また自分もいい影響を受けることになる。

さらに、自分のいいところを褒められれば、
「この人、自分のことをよく見てくれているな〜」
と、信頼関係が生まれるのでは、、、。

また「、人の好意を素直に受けれる」っていう人の方が、
成長する力があるように感じる。

そのような人の気持ちを理解するのに、一番手っ取り早いのは、
自分もそのようになること。

私は、ニュージーランドの一年いたことがあるが、
その時に農場から農場へと、ファームステイをしていた。

100ccのバイクにまたがり、ニュージーランドの田舎町を転々としていた。

その時、ある農場から、次の農場へ移るとき、
きれいな湖があった。

夕方5時ごろ、次の農場までは、約25km、バイクで走りつかれたので、
その湖のほとりで休憩しようと、バイクを止めた。

そして、一服して、戻ってくると、バイクが倒れている。

その後、1時間くらい、かけようとしたが、バイクがウンとも
スンともいわなくなってしまった。

もう、しょうがないので、バイクを押して、次の農場まで
歩き始めた。

歩き始めたといっても、あと25kmの距離、
そして、だんだんと薄暗くなってくる。

車も、30分に一台くらいしか通らないような田舎、、、。

歩き始めて、一時間ほどしたら、後ろから、小型のトラックが
フォンを鳴らして止まってくれた。

運転手さんが、親指を突き立て、笑顔で、
「乗れ」っというようなジェスチャーをしてくれている。

二人で、バイクを荷台にあげ、助手席に乗せてくれた。

なんと運よく、その人は、私が向かう次のファームの
すぐ隣の住人であった。

何度の車の中で、「ありがとう、ありがとう」を繰り返したが、
その人が言った一言がとても印象的だった。

「いいか、世の中には、助け合いのサイクルがあるんだよ〜。
俺も、元ヒッチハイカーで、いろんな人にお世話になりながら、
いろんなところを旅した。だから、今、俺はお前を乗せる。
そしてお前も、もし困っている人がいたら、助けてやる。
それが、助け合いのサイクルであり、お前も今日から、
その仲間だからな〜」
と、、、。

究極に困っていたときであり、その一言が、胸にしみるように
感動した。

「助け合いのサイクル〜」
なかなかいい言葉ではなかろうか。

他人とは、所詮は自分の鏡である。

自分の主観一つで、どうとでも世の中の見方が変わる。

知識やいいアイデアなど、みんなに広めよう広めようとする人ほど、
そのような情報が自然と集まってくる。

周りを活かそう、助けようといつも思って行動していれば、
そういう人たちの輪の中に入ることができる。

人間である以上、いつかは必ず「死」がおとずれる。

それは、だれであろうと避けられない。

それなら、いつまでもこの世のことにこだわっているより、
天への貯金に励んだ方のが、いろんなことが上手くいくのでは
なかろうか。
posted by hide at 05:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月26日

「ツキまくっている」と思える人間力!

今日も、朝5時ごろ目覚める。

今日も朝を迎えることが出来た。

そして、呼吸ができる。
手が動く、足が動く。

起きてみて、水道の蛇口をひねれば、
飲めるほど,きれいな水があふれ出る。

炊飯器の蓋を開ければ、ご飯が炊けている。

ご飯に納豆、朝飯はこれにかぎる。

トイレに行き、便座に腰を下ろす。

グッと踏ん張れば、今日も快便だ。

この瞬間、いつも亡くなった伯母のことを思い出す。

5年ほど前、すい臓ガンでなくなった。

闘病生活中に、うちの家に電話がかかってきて
「便が出た、便が出た」
と、大喜びであった。

すい臓が衰退すれば、便も出なくなる。

そこで、薬を投与し、一時的に便が出たのだが、
普通に考えれば、汚らしい大便のことでも、
大喜びの伯母、、、。

便が出るのも、胃や大腸など、内臓系がしっかりと
機能しているということだ。

内臓を患って、苦しんでいる人がどれだけいることか、、、。

喘息のうちのオヤジ。
夜中目覚めると、息が出来ない時があったとのこと。

あまりにも苦しくて、もうだめだと思い、
仏壇の前で、しばらく「南無阿弥陀仏」と唱え
ながら、もがいていたことがあるという。

息ができること、手が動くこと、足が動くこと、
健康でいられることが、それだけでも、いかにありがたいことか。

世界には、多くの人が水不足で苦しんでいる。

水道の水が飲め、そのきれいな水で風呂水、
そして便所の水洗の水にまで使っている我々日本人。

オヤジの昔話を聞けば、そのほとんどが、食べ物の話だ。

それだけ、昔はみんな飢えていた。

時代的に見ても、これだけ食べ物が豊富にある時代は
今までない。

世界を見渡しても、何億という人々が、餓えに苦しんでいる。

これらのこと、もう一度よくよく考えてみれば、
これだけのことでも、我々って、つくづく幸せだよな〜。

この時代に生まれてきたこと、そしてこの日本に生まれてきたこと、
つくづく、ついている。

しかし、ほとんどの人が、何らかの悩みを抱え、
そのことで、心を占領されている。

幸せかどうかなんていうのは、その時々の解釈で、
いかようにも変わってくる。

では、神様の立場に立ってみて、どう思うだろうか?

いろんなものを与えて、その価値が分かり、感謝できる人。

その価値が分からず、いつまでも経っても、何らかの悩みから
解放されない人。

どちらを好むのであろうか?

自分は、ツイている、ツキまくっている、そう思える人こそ、
神様がくれたチャンスを最大限に生かすことができる。

うちの会社の92歳になられる会長さん。

中小企業の経営者であり、毎日、いろんなことが起こる。

不良品が出たり、機械が壊れたり、いきなり取引が停止になったり、
経営判断を一つ間違えれば、会社が吹き飛ぶようなことの
連続だ。

私が「経営者は大変だ」
と、言っても
「わしゃ〜、つらいと思ったことなど、いっぺんも
ありゅせん。わしは、軍隊経験をしているから、あれほど
つらかったことはない。それに比べれば、たいしたことないさ〜」
と、、、。

つらいことを乗り越えた人ほど、現実のありがたみが分かる
モノだ。

また、沖縄で知り合ったある年配の民宿の大将、
その人は、先の大戦で、沖縄戦に従軍し、
何度も命拾いをした人だ。

ある集団でかたまっていると、鉄砲玉が飛んでくる。

その人は、その集団の真ん中にいたのだが、
危険にさらされていた外側の人と場所をかわってやった。

その直後、その集団の真ん中に、爆弾が落ちた。

その人は、生き残ったが、真ん中あたりの人は全滅、、、。

さらに、伝令として走らされているときに、目の前に
爆弾が落ちてきた。
運よく、それが不発弾、、、。

そのようなことを幾度と体験してきたその人は、
つくづく思ったことは
「私は、何者かに、導かれている。
何者かに、守られている。でないと、今ここに
おれなかった」
と、、、。

とてもつらいことでも、つらいと感じない、不幸と感じない。

また、何者かに守られている、と感じることができれば、
たとえつらい人生でも、その中でささやかな幸せを
感じることができるのでは、、、。

人間なんて、その人の捉え方で、幸福感というモノが
大きく左右される。

つらいことでも、あとあと考えれば、その時の体験が
活きてくることもある。

神様は、あなたにいつも必要な時に、必要なモノ(出来事)を
与え続けている。

あなたは、ツイている、ツキまくっている、
そう思える人ほど、運を引き寄せ、運を活かすことができる。

そして、何者かに導かれている、守られているというような
感覚が持てるようになれば、きっとより豊かな人生になる
であろう。

posted by hide at 20:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月25日

「感謝」の力!

 毎週土曜日早朝、ラジオで放送されている
「なぜ生きる2」、その時間、いつも車の中なので、
よく聞いている。

こないだ、こんなことを言っていた。

「快楽とは、苦悩と苦悩の間、ほんの一瞬味わえるもの」
と、、、。

深い言葉だね〜。

人間とは、「もっと、もっと」の生き物。

何か手に入れれば、それだけでは満足できなくなり、
新たなるそれ以上のモノを求めるようになる。

「もっと、もっと」とは、「欲望」だ。

しかし、「欲望」とは「恐怖」と表裏一体だ。

「もっと、もっと」を、「恐怖」という観点からみれば
「足らない、足らない」になる。

自分が劣っている、自分は満たされていない、
自分は取り残されるのでは、、。

足らないという感情から生まれるのは、このような
「恐怖」である。

では「足らない」の逆は、
「足りている」、もしくは「満たされている」だ。

「満たされている」という気持ちになれば、
出てくる言葉は、「ありがとう」だ。

つまり、「感謝」だ。

ある仏教の教えであるが、
地獄でかまゆでの刑に処されている人がいる。

その人が、火の番をしている鬼に対して
「熱い、熱い」と叫ぶ。

鬼は
「この火は消すことができる、しかし、お前の
心の中の炎は、消すことができるのか?」

と、、、。

「自分が満たされている」と、感じれるのも
その人の能力である。

すべての人が、世界チャンピョンになれるわけではない。
そして、たとえ世界チャンピョンになれても、
その地位を維持し続けることは、不可能にだ。

上ばかり見ていれば、周りが見えなくなる。

足りない、足りないの恐怖心で心を占領されれば、
上手くいくものも行かなくなる。

長いこと、何億の人々の言い続けられてきた
感謝の言葉、「ありがとう」、、、。

この言葉には、相当な言霊が宿り、
パワーがあるのかもしれない。

恐怖をやわらげるのは、「満たされている」という
感謝の気持ち、、、。

では、その感謝の気持ちを表わすには、
「ありがとう」という言葉を、周りに発すること。

ある人が言っていた
「『ありがとう』を一年間で、10万回言えば
幸せになれる」

と、、、。

もしかして、理にかなっているのかもしれない。

それを実行しようと思えば、「ありがとう」という
機会を常に探していることになる。

例えば、いつも無表情で行うコンビニの会計、、、。

お金を払い、袋を手渡された時、
これも一つの「ありがとう」という機会である。

そのように、自然と「ありがとう」といういうことを
心がけるようになり、習慣化してくるのでは、、、。

そうなると、周りが変わる、そして自分も変わる。

感謝の言葉をいつも口に出来れば、口から発し、
その言葉が耳から入ってくる。

そして、相手の表情により、目から入ってくる。

悪口を言い続けるよりも、この方が効果的に
ハッピーになれるのでは、、、。

恐怖で心を占領されていては、冷静な判断など出来やしない。

時には、「満たされている」という心の余裕を持たなくては、
身がもたないし、運をつかむことは出来ない。

神様はいつもあなたに働きかけているのは、
「まあ、ええんじゃない、そろそろ自分を許したれや〜」
ということなのかもしれない。

posted by hide at 00:28| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月08日

「すべての人に、好かれたい!!」って、そりゃ無理でっせ!

  ある女性から聞いた話、、、。

その女性はSさんといい、Sさんが若いころ、
会社で事務の仕事をしていて、
同期のWさんと一緒に働いていた。

入社して、2年ほどした時から、そのWさんの態度がなんかおかしい。

話しかけても無視をしたり、メールをしても
返事が返ってこない。

そんなことが、数カ月続いた。

同期であるし、同じ職場で毎日顔を合わせるので、
思い切って、
「私、あなたに何か悪いことした?もしそうであるなら、
謝りたい」

と、切り出したが
Wさんの返事は、「別に〜」ということだった。

いったい、何が悪いのか、見当がつかない。

それからというのも、会社に行くのが苦痛で仕方がない。

一時は、何も食べれない、よく眠れない、
Wさん以外の人も、私を嫌うのではないか、
というような妄想に取り付かれる始末。

その後、数カ月して、他の部署に配属されたので、
Wさんとは、疎遠のまま、2年ほどで、結婚退社して
その後も連絡が取れないままだった。

そして、さらに7年ほどたったある日、ある店先で
Wさんとばったりあったとのこと。

お互い結婚して、子連れで、Wさんの方から話しかけてきたとのこと。

その後、喫茶店で2時間ほどいろいろじっくり話をしたらしい。

その中で、何でWさんがSさんのことを無視するようになったかというと、
Wさん本人から自らの言葉で、「嫉妬」だと語り、その時に
素直に謝ってくれた。

同期で入社し、てきぱき仕事をし、男性社員からも、
ちやほやされるSさん、、、。

なんだか、取り残されたような感じがして、
頭の中では、分かっていても、どうしても抑えきれない
イライラが噴出しそうな毎日であった。

しかし、それから時間が経ち、子育てという現実に没頭している二人。

どこか、昔のことなど、吹っ切れ素直な気持ちで再会できたようだ。

何か問題が起きても、たいがいのことは、時間が解決してくれる。
もしくは、その時間が、問題を和らげてくれる。

また、他のことに集中していれば、意識がそちらの方に向き、
昔のことなど、どうでもよくなる。

今日、言いたいことというのは、集団の中で生きていくうえで、
どうしても、人に嫌われたり、仲間外れにされたりということは、
あると思う。

人と人とが集まれば、互いに自分のエゴというのか、
防衛本能というのか、周りとの摩擦が起こるというのは、
当たり前のこと。

たとえば、老人ホームなどでも、ある男性の取り合いで、
おばあさん同士がケンカすることがあるとのこと。

恨みをかったり、嫌われたり、日常的にあることだ。

逆に言えば、全員から好かれるということが、あり得るのだろうか?
また、その好かれた状態をいつまでも維持できるのだろうか?

もう開き直って、
ある人に嫌われているからといって悩み苦しむよりも、
「生きていく以上、一定の人に嫌われるのは、当たり前」
というような感覚でいた方のが、心への負担が軽くなるのでは、、、。

人気のドラマ、「下町ロケット」の中で、
ある中小企業の会社が、独自の特許を、大手の大企業が
数十億円で買いたいと言ってきている。

数十億円で、その特許を売却するのか、
それとも、特許使用を許可し、そのライセンス使用料をもらうか、
もしくは、その特許の製品を自社で製造し、それをその大手企業に
納めるのか、その中小企業の社長さんは、悩みに悩んでいる。

そして、その会社の社員全員に相談する。

各々の立場があり、そして、そのことにより大きく生活にも
影響しているので、みんな真剣に意見を言い合う。

「決断」の重み、、、。

社長の決断一つで、大きく会社が傾くこともあるし、
社員の生活をも破壊しかねない。

経営者の一番の仕事というのは、「決断」である。

そして、その決断一つで、多くの人に嫌われ、罵倒される、
長年付き合ってきた人を裏切ることになることもある。

「決断」とは、そういうモノ。

普通の人でもそう。

人生において、何度も大きな決断をしなければ
ならないことってあると思う。

私の親しい友人が、二十代の時に自ら命を断った。

その数カ月前に、長年付き合った彼女と別れることになってしまった。

そのことが原因なのかどうか分からないが、
彼女に新しい恋人ができ、別れを告げられたらしい。。

しかし、その彼女の立場に立ってみれば、
20代というのは、女性にとっては結婚適齢期(当時)。

その一生のパートナーを決めるというのは、これも
彼女にとっては、人生最大の決断といってもいい。

その適齢期に、新しく好きな人ができ、正面から
私の友人に別れを告げたこと、これって冷静になれば、
だれも責められることではない。

それに、二股をかけることなく、決められずに
キープ君のようにズルズル私の友人と付き合うのでもなく、
正面から別れを告げた、誠意のある対応では
なかっただろうか。

彼が亡くなり、お通夜にも、彼女は来てくれた。
彼女にとっては、さぞかし来づらかったであろう。

そして、お焼香の順番が私のすぐ後ろで、彼女がお焼香をする
瞬間、そのすぐ前にいた私の友人のお母さんが、大泣きした。

それは修羅場だった。

お母さんにとっても、息子が死ぬなんて、耐え切れないことであろうが、
彼女のとって、心にのしかかるものは、それ相当のものであろう。

分かれて数カ月経つのだが、わざわざお通夜にきてくれて、
そしてお焼香までしてくれた彼女、、、、。

このまま、心に大きな傷を負って、人生過ごすのだろうか、、、。

とても気の毒になる。決断というのは、時には
このような大きなリスクも背負うことになる。

ある人が言っていたが、若いときにフラれた経験も大事だが、
ふる経験も貴重な経験になるという。

別れを告げるということは、その本人とも別れなければならないし、
さらに、我々のようにそ彼の友人、関係者とも
縁が切れることになる。

また、どこかであるのかもしれないし、大体の場合が
恨みをかうことになる。

それでも、決断しなくてはならない。

そんな決断の連続が、人生というモノである。

浄土真宗の開祖、親鸞聖人とそお弟子の唯円さんとの会話の
名での教え。

(親鸞聖人)「唯円、お前は私の言う事を信じるか?」
(唯円)「はい、もちろんでございます。」

(親鸞聖人)「では、今から町に行って、人を〔一千人〕殺して来ておくれ。
 そうすれば、お前は必ず極楽浄土へ行ける。 さあ〜、殺って来い!」
 と、、。
 
(唯円)「・・いっいかに〔お聖人〕の仰せとはいえ、私のような人間は一千人は
    おろか、一人だって殺すことはできません!」と、さけぶ。

(親鸞聖人)「では、どうして先に『ワシに背かぬ』と言ったのか?」
 
(親鸞聖人)「これで解ったであろう・・。
 すべての事が自分の思い通りになと思うなら、往生の為と云って、
 人を何千人でも殺す事ができよう。 しかし、たった一人を殺すだけの
 因縁も、備わっていないからこそ、お前には無理なのだ!
 又、『殺すまい!』と思っていても、百人、千人と殺してしまう
 事もあるのじゃよ。 我々の心が良ければ《善》、悪ければ《悪》、
 と思って、阿弥陀仏の『願い』の不思議さに、助けられている事に気づか
 ずにいる。・・それが良くないというのじゃ。」
 と、おっしゃられました。

これは、浄土真宗の教えで有名なお話であるが、
ここに注目するのは、「因縁」(縮業)である。

よく宗教的な教えによると、「因縁」とは、

物事を生ぜしめる内的原因である「因」と外的原因である「縁」。
事物・現象を生滅させる諸原因とされている。

仏教では、その内的な原因を、前世から決まっていたもの(宿命)とか、
前世からの浅からぬ関係になると、教えることが多い。

例えば、先ほど紹介した同じ会社で働く、SさんとWさんの例であるが、
仏教の教えの解釈としては、この二人は前世の関係で、二人の間で、
このような出来事が起こることが、定められているという。

なぜ、定められているのか、それには、前世に原因があり、
それを解消するために、またそのことを解消することにより、
何らかの「学び」を得るために起こるとされている。

仏教では、このように教える。

そう解釈されれば、心が少し軽くなる。

亡くなられた船井幸雄さんは、
このようなことを、『何事も、必然・必要・ベスト』いい、
次のように解説する。

一見、嫌なこと・不幸なことがおきたとしても、
それは自分にとって、必要なことであり、
必然のことであり、結局はおきてよかった最良のことなのだ。

今起こっていることは、すべて自分が引き寄せたことであり、
良くも悪くも、おこるべくして起こることであって、
そこから学ぶことができる。

仏教は、「因縁」、船井さんは、「何事も必然・必要・ベスト」と
教える。

これって、とても理にかなっている。

例えば、先ほどのSさんの話。

人に嫌われたり、憎まれたりって、どんな人間社会でもあたりまえの
ように、あること。

各々、自分の立場があり、感情があり、そんな人たちが集まれば、
摩擦が起こって当然。

Sさんは、若いときに、同僚に嫉妬により、嫌われ、苦しんだ。

そんなこと、Sさんの人生において、今後も何度も、何度も
起こることであろう。

そのために、もがき苦しむのか。

そして、そのようなネガティブな嫉妬のような感情というのは、
相手が弱々しく、苦しんでいれば、その感情が増幅する。

もし、その嫉妬という感情から解放し、自分を救うのであるなら、
強くなること。

逆に言うならば、そんなことに、まったく動じない人もいるし、
気付かない人もいる。

人間の集団の中で、いろんな感情があり、
日々日常的に摩擦を起こす。

そのような多数の出来事に対して、Sさんだけが、そのことを
引き付けてしまう、そのようにいえるのではなかろうか。

もし、Sさんが、今回のWさんとの出来事で、

「問題は時間が解決してくれる」
「何かに熱中していれば、その問題も解決する」
「すべての人に好かれることなど、ありえない」
そのようなことを、学んだのであれば、
同じようなことが起こっても、素通りできる、
もしくは軽傷で済む。

そして、弱々しくしなければ、相手のその嫉妬という感情も
増幅しないので、Wさんにも、よい効果となりうる。

競争心が強く、「嫉妬」持ちっている人は、何処にでもいる。

そのような人と、どのように付き合っていくのか、
それには、そのようなことを体験し、学ばなくてはならい。

そこで学べば、それだけ自分の心を、束縛から一つ解放することになる。
自由になるということだ。

いつまでも、弱々しくしていれば、嫉妬とか、
いじめの感情を持った人たちを、引き寄せているようなモノ。

嫉妬、傲慢、いじめなど、ネガティブな感情は、誰にでもあるモノ。

ネガティブな感情には、ネガティブな感情が、激しく反応し、
互いの心を消耗する。

人のいい面と付き合いたいか、悪い面と付き合いたいのか、
答えは、おのずと見えてくる。

宗教では、より分かりやすいように、阿弥陀様とか、前世とか、
今世とかの言葉を使うが、よくよく解説すれば、理にかなったことも
多い。

船井さんのように、「すべてのことが必然・必要・ベストなこと」
と、訳せば、多くの困難に立ち向かっている人たちに、勇気を
与えることになる。

自分の心次第で、大きく自分の周りが変わる。
自分の考え方一つで、より自分を解放することになる。

心の研磨こそ、本当の自由への道ではなかろうか、、、。
posted by hide at 16:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月05日

[TPP合意へ」、米国の巨大資本家たちの徹底した搾取が始まる!!

 この土日、風邪をこじらせて寝込んでいたが、
どうしてもアトランタで行われているTPP交渉が気になって、
その情報だけには、かじりついていた。

そして、今日の朝、中日新聞一面に
「TPP交渉合意へ、医療など難航3分野決着」
と、書いたあった。

顔面蒼白、、、。タダでさえ風邪で体の節々が痛いのに、
それに追い討ちを書けるような記事であった。

日本の美しい田園風景が、、、。
共助の精神に満ちた皆保険制度が、、、。
国も地歩自治でさえ、巨大な資本家たちの商売の邪魔をするような
政策、法律を制定すれば、たちまちに訴えられてしまう。

つまり、主権がなくなるということだ。

2015年10月5日、日本が溶け去ることが決定した日、、、。

なさけない、、、。

政治家達は、なんでこうも簡単に日本をたたきうることが
できるのだろうか?

人類全体を見ても、このまま彼らの我欲にまかせ、
資源や生態系を食い尽くせば、必ずそう遠くない将来、
人類は滅亡する。

今は、大きな転換期、大きく我々が進む方向性を変えなければ、
人類の将来などない。

なげいてばかり入られない。

とにかく風邪を治そう。

そして、この時代に生まれた宿命として、
この時代と共に生きていくしかない。

やれることをやるだけだ。
posted by hide at 06:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月18日

「相手を活かせ」!これからの共生の時代のキーワード!

歳を重ねれば重ねるほど、「健康」というものに
興味がわく。

どのように健康でい続けるのか?

その中で、とても大きな比重を占めるのが、心の持ち方では
なかろうか。

ある世界的に権威のある医師が
「病気の原因の大半は、気持ちの持ち方からくる」
と、言っていた。

心を健康に保つには、どうしたらいいのか。

「なるべく、シンプルに生きる」、「心に負荷はあまりかけない」、
言うのは、簡単だが、人間とは一生、怒り、不安、悲しみなど
煩悩が離れるものではない。

煩悩とうまく付き合る、煩悩を飼いならしす、
そんなことができれば、より人生が楽になる。

そのためにも、心を常に整えること、
整える訓練をすること、

よく、怒り狂っている人がいる、
悩んで悩んで、その悩みからなかなか抜け出せない人がいる。

心の中をのぞいてみれば、その悩みや怒りに占領され、
まったく周りが見えなくなる。

暗〜い、暗〜い大きな壁に囲まれ、その中で自分の映し出した
怒りや不安という画像を見ながら、震え続けているようなもの。

果たして、その問題とは、そんなに大きなことなのか?

肥大化しているのでは、なかろうか?

そうなった場合の大きな問題のことで頭が一杯になる。
つまり、自分という意識(自我)が非常に強くなり、
周りがまったく見えなくなる。

そうなれば、また孤独感に陥り、不安が増大する。

テレビでやっていた若い女の子の話。

大学生ぐらいの若い女性が、自分のぽっちゃり体形に関して、
悩み続けている。その体形のおかげで、自身がどれだけ苦しんで
きたか、泣きながら語り、整形の必要性を訴えている。

しかし、多少ポッチャリかもしれないが、えくぼが素敵な
かわいらしい女性だ。さらに、20才という自由な時間がある中、
そんなことで、心を占領されているのは、事情にもったいない。

時間もある、体力もある、将来もある、もったいないよな〜
と、多くの人が思うのではなかろうか。

もう一人の女性が紹介されていて、その人は彼女よりも、
はるかに太っている。歳も30歳ぐらい。
しかし、とても、明るく堂々と生きているよう。

そして、その太っている体形が好きだという男性が結構いるようで、
彼氏もいるとのこと。

もしかしたら、心の持ち方でその人の幸福感というものが、だいぶ
変わってくるのでは、、、。

そのテレビ番組に出演している人が、「整形をする必要があるのか?」
「もう一度、考え直すべきではないのか?」
と、言っても、彼女は頑なに拒み続ける。

コンプレックスなどに心が占領されれば、周りが見えなくなる。

すべての諸悪の根源は、このポッチャリ体形と思い込んでいるようだ。

周りから見れば、自意識過剰、、、。

そのポッチャリ体形という問題を、自分で肥大化し、周りの人が
そんな彼女をあざけわれっているように思っているのでは、、、。

それほど、みんな暇ではない。
世界で一番、そのポッチャリ体形のことを気にしているのは、
彼女自身である。

たとえば、渋谷のスクランブル交差点で、1000人ほどの人がいるとする。

その人たちが何をその時に考えているのか、頭上に映し出せるとするならば、
各々の抱えている問題について、考え込んでいるのであろう。

自分という意識(自我)を薄めるには、
そうすれば自分から離れれることができる、
自分のことを客観的に見つめることができる、
余裕が生まれれば、周りにも意識が向かうようになる。

そうなれば、相手の心も理解でいるようになり、
そこで「安心」というものが得られる。

もう一度、整理して考えてみれば、
@何らかの怒りや不安に心が占領される。
Aそうなるとその問題を肥大化してしまい、
 自分という意識(自我)が強くなる。
Bそして、周りが見えなくなり、孤立感を感じる。

こういうケースというのは、多かれ少なかれ、
だれでもあると思う。
人によって、その頻度は違うのかもしれないが、
煩悩が一生消えない以上、日常的に大なり小なり、
このような感情というのは、起きるもの。

では、どうしたらよいのか?

キーワードは「自我」だ。

自分という意識を薄めれば、いいのでは、、、。

みんなに馬鹿にされているとか、
みんなが私のことを悪く思っているとか、
例えそうだとしても、殺されるわけではない。

それにその感情って、本当にあなたに問題があるのか?
それとも、そういうところばかりに意識がいってしまう
相手に問題があるのか?

もう一つ言うのならば、人にはいろんな感情がある。

あなたは、どの感情と付き合いたいのか?

例えば、私のある男性の話、、、。

何十年ぶりにあった40代の独身女性に対して
「あれ、老けたね〜」
と、言ってしまう。

久しぶりに合った最初の言葉が、それも40代の独身女性に
対して「老けたね〜」といえば、大半の人が、彼に対して
心の鎧を身にまとおうとするのでは、、、。

何が言いたいのかというと、相手の良い所をみつけるように、
常日頃から訓練すること。

そうすれば、相手のいいところと付き合えるようになる。

自分に対してもそう。

自分自身のいいところと、付き合うようにすればいい。

自分の欠点ばかり、神経を集中している時間と労力があるのなら、
周りの人を活かすことを常に考えた方のが、より生産的だ。

怒りや不安に心が占領されれば、自分のことしか見えない。

苦しくとも、周りの人を活かすこことを常に考えれば、
周りに意識が向くようになる。

煩悩地獄から、抜け出すにはこれしかないのでは、、、。

人が喜ぶ顔って、嬉しくないか?

何かに貢献できたと思えれば、充実感が沸くのでは、、、。

そのような行動パターンが身につけば、
本当の信頼できる友人が出来てくる。

誰も私のことをわかってくれない、この苦しみをわかってくれない
というような感情から、開放されるのでは、、、。

煩悩とどう付き合うか、どう心を整えるのか、
人生の大きな課題でもあるし、健康にも大きく関わってくると感じる。
posted by hide at 06:13| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月08日

共生の思想、、、。社会で起こる諸現象は、心の内側にある。

最近つくづく思うこと、、、。

世の中、いろんなことが起きている。

それって、よくよく考えれば、人々の心が引き起こすもの。

つまり、大きな大きな人類全体の集団的な無意識とでも
いうのだろうか。

石油文明はおかげで、人類はかつてないほどの豊かさを
手に入れた。

豊かになればなるほど、自分のことだけ、お金のことだけ、
今のことだけ、というような風潮が顕著になってきている。

原発問題などは、その最たるモノ、、、。

数万年単位で、放射能を出し続ける原発を、一時の経済的な
理由で再稼動させてしまう。

それも、4年も放ったらかしにしていたあのような巨大な
設備を、再稼動させるというのは、世界的に見ても、
かなり危険なことらしい。

さらに、「川内原発は大事故直前まま運転中です」
とのこと、、、。

詳しくは以下のブログを左斜め下

http://cpt-hide-cook.seesaa.net/

「今だけ」では、もう未来はない。
「自分だけ」では、もう社会が崩壊する。
「お金だけ」では、人と人との絆をズタズタに切り裂く。

社会に信用を、、、

今一番必要なのは、このことだ。

このブログでもちょくちょく出るが、ある仏教の教えを紹介したい。

地獄でも極楽でも、大きな釜で
うどんをゆでている。
そのうどんを長さ1mの箸で、食べなくてはならない。。

極楽では、お互いの口にうどんを運び、交互に食べることができ
みんなのお腹が満たされる。

地獄では、われ先にとみんな競って食べようとするので、
誰もうどんを口にすることが出来ず、結局、みんな餓死してしまう。


この違いはいったい何なのか?

それは、互いに信頼しあえるかどうか、ということではなかろうか。

新自由主義のようなほんの一握りの人間が、富を独占するようでは
どう考えても、地球がもたない。

次なる「共生の社会」で何が一番必要なのかと言うと
「信用」である。

では、いきなり相手に
「俺を信用しろ」と言っても、誰も相手にされない。

それは行動でしかない。

相手を思いやる行動を実行し続けること。

信頼関係が構築できれば、いろんなことが上手く
運ぶようになる。

謀略の限りを尽くすような連中が、世界の牛耳っているようでは、
どう考えても、みんながみんな奈落の底に落ちていくことになる。

そんなことをただ指をくわえて、待っているわけにはいかない。

社会「信頼」を築こう。

それは、一人ひとりの行動から、起こること。

身の周りの人に、挨拶をしよう、優しい言葉をかけよう。

無駄な電気を消そう。

社会に貢献している人を称えよう。

神様は、みんなに「手放せ〜、手放せ〜」
と言っている。

不安や怒り、妬みなどで頭を一杯にしていては、
けっしていいことなど起こるはずがない。

それより、やせ我慢でもいいから、相手に微笑もう。
自分に、微笑もう。

いろんな諸現象は、心の内側にあるような気がしならない。
posted by hide at 05:53| Comment(4) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月30日

日本の歴史上、なんという罪深い「橋下徹」という男!

維新の党を離党したと思ったら、年内に新党を立ち上げ、
全国にその候補者を両立すると言う。

いったい、彼は何がやりたいのか?

2012年、2014年の総選挙、なんであんだけ自民党が快勝したのか。

そのために、安保だの、そして橋下氏があれほど主張していた
原発の再稼動も行われてしまった。

そして、今度、橋下氏の新党が、次の総選挙で全国で候補者を両立すれば、
またもや野党は惨敗、そして自民党が大勝することになる。

自民党を政権の座から引き摺り下ろすには、野党の再編しかないのに、、、。

そんなこと、この二回の総選挙で、しっかりと学習しているはずなのに、、、。

この男は、まったく詐欺師としかいいようがない。

いっそのこと、自民党に入党した方のが、国民としてすっきり
分かりやすいのではないか、、、。

それもせずに、野党の再編を引っ掻き回す橋下氏、、、。

実際に、人気にはかなりかげりが出ているのだろうが、
マスコミがその人気ぶりを作り上げることも、容易にできるのであろう。

口ではどういおうが、どう考えても、その行動を一つ一つ分析すれば、
彼は明らかに1%側とつながっているように見えてならない。

posted by hide at 08:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月29日

限られた命を使い切る!永久に生きるということは、、、。

「どのように、埋葬されたいか?」

先日、会社の休憩時間に、こんな会話が弾んだ。

都会のお寺では、室内の霊安室のようなところだけ、
小さな収納スペースに位牌を収めるスタイルが
静かなブームのようだ。

それから、海に関係ある人が、「海に遺骨をばら撒いてもらいたい」
と遺言され、実際に行われたらしい。

また、どっかのお寺で、そのお寺の庭にある大きな木の下に
骨を埋葬するようなやり方もされているとのこと。

これなら、また焼かれた灰がミネラル分として、
その木の中で、再利用されることになる。

私も、私に使われたミネラル分を再利用されたい。

新しい命の一部として、また活躍したい。

お墓に収められてしまっては、せっかくの私のミネラル分が、
自然と分断されることになる。

また、自分が関係あった場所というと、一番に思い浮かぶのは
「田んぼ」だ。

私は、比較的、若い頃から、田んぼに出ている。

また先祖代々、守ってきた我が家の田んぼで再利用されるとなれば、
これほど嬉しいことはない。
(もちろん、日本は死に対して、ケガレ思想があるので無理だろうが、、)

それに、田んぼは日本文化そのモノ。

単位面積当たりの収穫量が多く、集団で村を形成して
生きてきた日本人の大きな特徴は、この田んぼと
非常に密接な関係を持っている。

勤勉で、生真面目で、周りに気を使う日本人、
さらに、長いこと大自然と共生してきた民族であり、
日本人って、世界から見ればとても特異的な存在。

私は、日本の歴史、宗教、文化、自然環境、民族性に
とても関心があり、日本に生まれてよかったと思っている。

また、「人間とは、周りから著しく影響を受けている」
と、ある精神科医が言っていたが、とても社会性のある集団であり、
日本人に生まれれば、日本人らしく、
中国人に生まれれば、中国人らしくなる。

狼に育てられた少年は、狼のような習性を見につけてしまう。

私は、日本人の集団の中で、日本人によって、
育てられた。

そして、多くの人の影響を受けて、それらの人々が
何層にもなって、私という人格を形成されている。

昔は、随分、ヤンチャ坊であった私、、、。

何人かの周りの大人たちの手助けによって、
今の私がある。

例えば、高校のときに、学校に救急車が来るような
クラスのヤンキーと大喧嘩した。

それは、自分の友達の弁当を取られたという理由だけで、
私が切れてしまい、相手は血まみれ。

救急車が呼ばれ、全校生徒の前で、彼が運ばれていく。

その中を私が、犯罪者のように、先生に連れて行かれる。

その夜、医者に
「今晩が山ですね〜」
と言われた。

脳内終結5cc。それが、20ccならアウト。

運よく、彼は助かった。

約10日ほどで彼が退院したが、その後、
彼の親御さんに謝りに言ったが、
「悪いのは、うちの息子の方です。たかが子どものケンカに
騒ぎ立てる必要もありません」

と、、、。

今ならとても信じられない。

本来なら、あれだけ暴力事件を起こした私は、
明らかに傷害罪であり、少年鑑別所か、どこかに送られることに
なるであろう。

その後、学校は無期停学となった。

大人になってみて、相手の親御さんの気持ち、
そして両親の気持ちというモノがしみじみ分かってくる。

中学校のときは、先生を殴り、大問題。

うちの親も、中学校、高校の職員室で、
先生方の前で、何度も謝ってくれた。

そんな私を見捨てることなく、ここまで育ててくれた父母、祖父母。

ありがたいことである。

高校を出てからも、最初に入った会社でも、
ホント真正面から、新入社員の教育を行ってくれた。

通信教育、各種の免許、5sだの、派遣社員だらけの
今では信じられないくらい、社会全体が
若者を育てようと言う雰囲気があったような気がする。

入社して、3年ほど、日報というモノを書かされた。

私が書いたものに対して、班長、係長、課長、工場長
みんなが閲覧し、それぞれの意見が書かれる。

その日報を今、見てみると、私の幼さというか、
馬鹿さ加減がいやと言うほど分かる。

そんな幼い、私に周りの大人たちは、真剣に向き合ってくれた。

その後、私はその会社を辞めてしまうのだが、
そこで身についた日記を書く習慣、本を読む習慣などなど、
今でも続いているし、それがどれほど、私の人生にとって
どれほど肥やしとなっていることか。

そんな面倒見がいい、大人達により、今の私があり、
私の人格に大きな影響を与えてくれた。

もう一度言うが、
人間とは、社会性の強い動物であり、著しく
周りから、影響を受けている。

そして、その周りからの影響で、今、私という人格がある。

では、私は今後、どのように生きるのだろか。

最初の話に戻すが、もし可能なら、私が死んだ後、
私の体が焼かれて残った灰を自然に帰し、再生産されたい。

人間の体は、そのほとんどが、水と炭素である。

焼かれれば、その水も炭素も大気中に放出され、
植物になるのか、動物になるのか、分からないが再生産されていく
のであろう。

「輪廻転生」、、、。

体を構成される水も炭素も、ミネラル分も、そのほとんどが再生産
されていく。

では、形成された人格と言うものはどうなのか。

先ほど、言ったように多くの人が私にいろいろな影響を与えて、
私という人格が出来上がる。

ということは、その人たちの人格が私の中で再生産されていると
いうことだ。

もし、私に影響される人がいるのであれば、
私はその人の中で、再生産されることになる。

そして、私に影響を与えた人々と、後世も生き続けることになる。

永遠の命というのは、こういうことを言うのではなかろうか。

私も、どうせ再生産されるのであれば、いい形で生き続けたい。

それには、心を研磨し続けること。

そして、思いっきり生きること。

自分の考えで、思いっきり生きている人の方が、
影響力があると思う。

また、なんで多くの大人たちが、私のようなボンクラに
真正面から向き合ってくれたからというと、やはり日本社会という
強い共同体が存在したからだ。

会社という仲間、家族という仲間、地域という仲間、
その共同体も、仲間意識も、今大きく解けようとしている。

ただ、一時の金儲けというだけで、非常に大事な我々社会的な資産を
溶かそうとしている。

ある仏教の教えを紹介したい。

地獄でも極楽でも、大きな釜でうどんをうでている。

そのうどんを、1メートルの長い箸で食べなくてはならない。

極楽では、その1メートルの箸を使って、助け合って、
互いの口にうどんを運び、みんなが食べることができる。

地獄では、一人一人が、我先にとうどんを食べようとし、
結局、誰もが食べることができず、みんな餓死してしまう。

いったい、この違いは何なのか。

結局は、地獄でも極楽でも、相手を信用できるのか出来ないのか、
つまり仲間意識があるのか、ないのかが大きな違いのような
気がする。

本当に、今だけでいいのか。
本当に、自分だけでいいのか。
本当に、お金だけでいいのか。

社会全体の意識が低下すれば、やがてみんな餓死してしまう時代が
くるのであろう。

一人ひとりの大人が、もう一度、自らの生き方を考え直し時期で
なかろうか。
posted by hide at 23:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月18日

「動物セラピー」、愛犬パンチのその神秘的とも言える癒し能力!!

CIMG8061.JPG

この犬、我が家の愛犬、パンチだ。

我が家、、、と、言っても、実際、姉の家から、
週に4日の割合で、レンタルしている。

とても、不思議な犬で、この犬と接すると、
ほとんどの人を癒してくれる。

とくに、うちの両親だ。

オヤジは、間もなく80歳に手が届く年齢で、
だいぶ認知症が進んできた。

足も腰も悪く、皮膚病、そして喘息と、複数の
持病を持つ。

昨年、大腸の大きな手術をやった。

それ以来、ほとんど寝ていることが多い。

まだまだ、歩けるのだが、どうも何もやる気がないのか、
体がえらいのか、そんなオヤジを見て、
おふくろが
「おとうさん、このまま、ボケっててしまうのではないかな〜」
と、心配している。

しかし、そんなオヤジでも、このパンチを見ると、
とろけるような顔をする。

私やうちの嫁に、なんども
「犬、餌やったか?、餌やったか?」
と、聞いてくる。

また、寝てばっかりいた親父が、30分に一度ぐらい、犬を見に立ち上がる。

母も、あれだけ犬嫌いだったのが、
「パンチ、パンチ」と、ささやきながら、
犬に近寄ってくる。

ほんと、不思議な犬だ。

ものすごく、人を癒す能力を持った犬というのか、
動物セラピーというのだろうか、
何処に行っても、多くの人を笑顔にさせる。

この犬というのは、数奇な人生(犬生)を歩んできた。

以前、姉が働いていた介護施設で飼われていたが、
どうも人を噛んでしまったらしい。

私も、この犬と週の半分は一緒に暮らしているが、
まったく人を噛むような様子はない。

たぶん、少し人見知りのところがあるので、多くの知らない人が
訪れると、興奮してそのような行動に出てしまったのでは、、、。

その後、その介護施設をリストラ。

本来ならば、誰ももらい手がなければ、保健所行きであったろうに、
姉が引き取った。

昨年だったか、一昨年だったか忘れたが、ある夏に、あまりにも毛が
伸びていたので、これは暑いだろうと思い、私が毛をハサミで刈るために、
うちの家つれてきた。

その時、間違えて尻尾を切ってしまい、血がドピューと出てしまい、
そこから数日とまっらせた。

血はすぐにとまったのだが、どうも認知症が進む、おやじの顔が
その犬を見て、ほころんでいる。

そのころ、おやじの認知症を進行させないために、なんかないか、
なんかないかと、家族で色々考えている最中であった。

ある人が「動物セラピーっていいよ」
と、聞いたので、その犬をちょくちょく家に連れてくるようになったら、
おやじが段々と明るくなってきた。

週に4日間なので、また姉の家に戻してしまうと
「犬はどうした、犬はどうした」
と、私に言ってくる。

認知症に聞く薬とか、いろんな方法はあると思うが、
私はあまり効かないと思う。

それよりも、このような何か本人を刺激するようなことが
必要のような気がする。

それに、この犬(パンチ)は、とても不思議な犬だ。

その癒し能力は、すごいものがあるし、神秘的というのか、
まるで神様からの贈り物ではなかろうか、と思う。

まじめにコツコツと働いてきたうちのオヤジ、、、。
その人生の最終版に、ご先祖さんからのオヤジに対する
ご褒美なのかもしれない。

posted by hide at 06:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月17日

「天に与えられたものは天に戻す」、「共存同栄」、宇部興産の創業者、渡辺祐策翁の思想!

 「爺らが代には、炭を掘りつくして、おまらアの時には、
何もないと孫にいわれちアならん、長う続く仕事も
残しておいてやらにゃ」

>「有限の鉱業から、無限の工業へ」


「天に与えられたものは天にもどす」

これは、宇部興産を創業した渡辺祐策翁の言葉だ。

宇部では、「神様」とも呼ばれ、地域に発展に
著しく貢献した人だ。

CIMG8737.JPG

「共存同栄」

そして、これが翁の好きなことばであるが、

・・・企業だけが栄えるのではなく、みんなで幸せになる
社会づくりを目指す・・・

という意味らしい。

渡辺氏は、幕末生まれの人で、まだ石油の利用が始まる前だったから、
エネルギーと言えば石炭であり、幸いに日本には九州、北海道を中心と
して地下ではあるが石炭が埋蔵されていたので、それを掘り出して
エネルギー源としていた。

・・・石炭は有限のものだ。掘っていればやがては尽きる。だから、
石炭がある間に、その富で無限の技術に転換しなければならない・・・


「有限から無限へ」

それこそが「子孫に残すべきもの」であると彼は考えた。

九州の炭鉱、北海道の夕張などの町はすでにその輝きを失っているが、
宇部は見事に「有限から無限」への転換に成功し、現在でも宇部の市民は
繁栄している。

果たして、原発を子孫へ残すべきなのか?

桜島が危険水域に入っているというのに、そこから数十キロしか離れて
いない、川内原発を再稼動させている。

未来の子供たちの時代の時代からみれば、
まさに気が狂っているとしか思えない。

一昔前の多くの日本人なら、
「次の世代に何を残すのか」とか、
「我々の世代で、何をするべきなのか」
というような
思想があった。

今では、今だけ、自分だけ、お金だけというような風潮に
変わってきている。

我々に、大変な文明を与えてくれた「石油」。

現在、我々の豊かな暮らしをしているが、
それは石油がもたらしたもので、「石油文明」といえる。

しかし、その石油もいずれは枯渇する。

限りある資源の中で、いかに賢く、次の時代に引き継げさせれる
ものを創造するのか?

それは、今の豊かな時代に行うしかない。

この限られたエネルギーである石油が、限られた地域に存在し、
その利権を奪い合うために、この100年、戦争がとまらない。

今では、兵器も発達し、核兵器、生物化学兵器、無人兵器などなど、
人類自体を滅亡させるようなモノまで、人間が手にしてしまった。

これ以上、争うことは出来ない。

一つ間違えれば、我々人類もこの世界に存在できなくなる。

では、どうすればよいのか?

それには、誰でも、何処でも、取れるエネルギーへの大転換しかない。

石油なんて、何億年かけて、藻類や植物が光合成により、
地下に貯め込んだ太陽エネルギーだ。

何億年かけて貯めた石油を、我々は、たかが100年そこそこで
使い切ろうとしている。

限りあるエネルギーではなく、無限のエネルギーへ、

そして、ただ限りある資源を使う尽くすように出来ている経済、社会構造ではなく、
ものをトコトン大事にする、節約、リサイクル、リユースを善とする社会に
大きく転換するときである。

今では、モノを安く、効率よく造った者が繁栄する社会、それが自由主義、
資本主義社会だ。

しかし、資源にも限りがあり、モノをだだくさに使い続ければ、
人の心も、段々と病んでくる。

この大きな転換期に、自分は何をするべきなのか?

人生80年とするならば、残された時間はあと30年ほど。

健康年齢から言えば、ほんの20年だ。

限られた命、限られた時間、それぞれがどのように使い切るか、
よくよく考える時期ではなかろうか?

先人たちが心血注いで残してくれたこの社会を、ただその貯蓄を
使い切るだけの世代で、本当によいのだろうか?

宇部興産の創業者、渡辺翁展示を見て、ふとそのように思った。
posted by hide at 06:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月16日

「感動」というキーワード!子どもを成長させるには、これが大事!?

いったい、子どもの成長させるには、、何が要因なのか?
 
どのようにしたら、子供たちにやる気を起こさせれるのか?

これは、後輩を育てたり、部下を育てたり、
また、人とコミニケーションをとるにも、
共通した部分がある。

一ついえることは、「感動」を与えること。

うちの京都に住む小6になる甥っ子は、水泳が苦手だ。

幼稚園の頃から、水が目に入るのが、大の苦手で、
顔を水の中につけることが出来なかった。

その為なのか、水泳が苦手だ。

水が目に入る問題は、ゴーグルをして、何とかカバーしているが、
クロールをさせても、足と手をバタバタさせるだけで、
一向に前に進む気配が見えない。

毎年、夏、会うたびにプールに連れて行き、練習させているが、
何年も同じような状態が続いた。

今年の夏も、二週間ほど前に、プールに連れて行ったが、
やはりほとんど、変わらない。

体型的にも、性格的にも、水泳が合うはずなのだが、小学六年生になっても、
あまり進化が見られなかった。

そんなことが何年か続いたが、2日ほど前、
山口県の萩の海水浴場で、なんと甥っ子が、立派にクロールをやり、
おまけに息継ぎまで、できるようになっている。

びっくりするほど、感動した。

それと同時に、いったい何が起こったのか?

不思議でたまらない。

いったいあれは、どういう現象なのか?

その後、頭から離れない。

もしかしたら、二週間ほど前のプールでは、
ふざけて、泳げないフリをしていたのか?

それとも、さんざん練習してきて、ちょうど
泳げるようになるタイミングに出くわしたのか?

とにかく、あれだけ泳げなかった甥っ子が、
しっかりと手で水をかき、足をかいで、クロールをやっている。

それも息継ぎをしながら、けっこうきれいなホームだ。

一ついえることは、「萩の海」なのかもしれない。

長州‘06 029.jpg

長州‘06 036.jpg

これは、山口県萩市の菊が浜海水浴場であるが、とにかく水がきれいだ。

そして、遠浅で、ゴーグルをつけて、顔を水につければ、
魚が泳いでいる。

それに、東海や近畿地区の海水浴所と比べて、驚くほど空いている。

こんな最高の環境で、その日は3時間以上、さんざん楽しんだ。

そして、そこには、砂浜から、50メートルほど離れた場所に、
6畳ほどの黄色の人口島がある。

遠浅であるが、そこまで行けば、深さが5メートルほどあり、
大人の私でも、足がつかない。

最初、甥っ子はそこに行くことを怖がっていたが、
小2の妹が、浮き輪をつけながら、グイグイとそこへ向かっていくので、
甥っ子もつられて、その島へ上陸してみた。

そこに上陸すると、多くの子供たちが、そこから海に飛び込んでいる。

最初は、怖がりながらであるが、
「にいに、飛び込むから、海の中で待ってて」
というので、私をしっかりと飛び込み先の海の中に
配置し、甥っ子が水の中へとびこんだ。

「わ〜、おもしろい、もう一回やる」
と、言い出しその後、何回も飛び込みを繰り返す。

そして、挙句の果てには、妹にも
「やってみろよ〜」
と、すすめる始末だ。

あれだけ、深い人工島に行くのを恐れていた甥っ子が、
小2の妹がグイグイとそこに向かっていくのに、
引っ張られるような形で、向かったのも忘れ、
妹に対してドヤ顔で、飛び込みをすすめる。

飛び込みと言っても、浮き輪をつけてなので、
まだまだであるが、一ついえることは、
水に対しての恐怖心が薄まったような気がする。

それも一つのクロールができる要因であったのかもしれない。

それと、やっぱり感動だろうね〜。

あんだけ、魚が泳ぐようなきれいな海で、日差しの中で
海に飛び込む。

これって、好奇心旺盛な子どもにとって、感動だったのでは
なかろうか。

水に慣れること、そして感動が、甥っ子を大きなチェンジを与えたのでは、、、。

もとから、その海で泳ぐ前に、泳げるようになっていたのかも知れないが、
とにかく、水に慣れたことは、今後の成長にとって、
大きな事なのかも知れない。

私の経験であるが、小学校の1年生のときに、
夏休みが終わった9月の上旬。

恒例の水泳のテストがあった。

夏休み、さんざんプールに通い、何とか泳げるようになって
いたが、そのテスト本番で、緊張してしまったのか、
上手く泳げず、テストは不合格。

とても悔しい思いをしたが、そのテストの終了が10分間だけ
フリーの時間を与えられ、子供たちがプールで自由に泳ぐことが出来た。

その10分間というのは、我々生徒にとって、
その年の泳ぎ納めだ。

その後は、その次の年までプールで、泳ぐことはない。

その10分間の自由時間に、驚くほど泳ぐことが出来た。

その水中の美しい光り輝く風景。

今でも忘れられないほど、感動し楽しい思い出だ。

その後、水泳が得意になった。

その感動が大きかったように思う。

その感動を求めて、大人になってもいろんなところで
泳いだ。

和歌山県太地町の小さな海水浴場で、天然の鯛と泳いだ思い出。

同じく、和歌山県の川湯温泉の川で、5メートルの岩場から、
冷たい水の中に飛び込み、川底にはカワナが泳いでいた。

もっと若い頃は、夜中、雷の中で、母校の中学校のプールで
泳いだり、これもまた感動であった。

感動って、やっぱり成長させると思う。

成長する大きな原動力になると思う。

来年、うちの甥っ子は中学校の一年生だ。

また来年の夏も、私ら夫婦も、甥っ子達も、お盆にジジ・ババがいる
山口県に集合することになる。

その時は、その人工島まで、浮き輪なしで、見事なクロールで
泳げるようになっているような気がしてならない。

また、今まで泳げなかった分、泳げるようになり、
水泳が好きになっているかもしれない。

来年の萩の海が、楽しみだ。
posted by hide at 17:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

高杉晋作の奇跡!その長州の思想的風土と、「尊王攘夷」思想に内在された魔力!

 このお盆に、義両親の住む山口県で過ごした。

山口県といえば、長州だ。

長州をつくづく、見てまわると、
「なぜ、あのような奇跡のようなことが出来たのか?」

と、あらためて思う。

第一次長州征伐で、15万の幕府軍に囲まれ、
それとほぼ同時に、英・米・仏・蘭など、列強との
下関での大敗北、、、。

こんな中で、高杉晋作による大逆転劇、、、。

これって、歴史の教科書の中では、高杉が12月に、長府の功山寺で
十数名で挙兵し、その後藩政を奪還したと、坦々と伝えられているが、
この状況の中、そんなことは誰もが無謀とも言える。

そして、幕府までも倒してしまう。

その四境戦争なんてのも、奇跡中の奇跡だ。

奇兵隊など、そのほとんどが下級武士か、農民だ。

巨大な幕府軍、さらに米・英・仏・蘭などの列強、
そして長州藩の藩政府、これらを敵にまわして、誰が勝てると思うのだろうか。

そして、なぜそんなとてつもない巨大な相手を、
多くの庶民や農民が支持したのか?

戦争には、お金がかかる。

高杉らの諸隊を支持した多くの人々がいないと、ひっくり返すことなど
出来やしない。

歴史を過去から見れば、当たり前のように思うが、
こんなことが出きる、と思ったか、それとも熱烈に支持する多くの長州人は、
私には異常に見えるか、頭がおかしいのではなかろうか、とすら考える。

しかし、長州の歴史を見れば、それも納得できるのかもしれない。

その辺りを、詳しく解説しているのが、逆説の日本史の井沢元彦さん。

長州藩とは、そもそも関が原以前では、120万石の巨大大名だ。
(実際には、石見銀山もあったので、もっと豊かだったらしい)

それが、関が原で負けて、その約、4分の1の36万石に格下げさせられる。

多くの家臣が、かなりの減給か、俸禄を取り上げられる農民に格下げ
させられた武士もいたことになる。

長州生まれであるうちの義父がいうには、
「家臣の名前が書いてある紙の上を、目をつぶって
誰の俸禄を召し上げるか、指をさして決めた」
という言い伝えがある。

そういう人たちが、どのように思うのか?
「むかしは、わしの家もあれぐらい豊かだった」
とか、
「今でこそ、百姓だが、むかしはわしもひとかどの武士であった」
とか、
領土が4分の1になるということは、それだけ莫大なコストダウンを
はからなくはならず、多くの領民に大変な苦痛を払うことになる。

では、その苦痛の原因とは何なのか?

それは、毛利家が関が原で、西軍側として、徹底的の行動をしていれば、、、。
さらに、関が原後、猛将の立花宗茂の意見を取り入れて、巨大な大坂城で
秀頼を手中に収めて、戦っていたら、まったく違った結果となっていた。

その後、大坂冬の陣、夏の陣を見れば、大坂城を落とすことが
いかに難しいことなのか、よくよく理解できる。

毛利家としては、当時、徹底した行動に出れなかったこと、
そのことが多くの家臣・領民に多大な苦痛を与えることになってしまった。

そして、江戸時代、身分制度が固定され、その先祖の失態というのが、
世襲され、その教訓というものは、引き継がれていく。

それが、幕末に、狂人ともいえる行動が、支持される要因で
あるのでは、、、。

また、同じ関が原の敗戦国、薩摩は情報収集能力の欠如により、
冷や飯を食わされることになる。

幕末で薩摩が見せた行動とは、あるときは幕府や会津とくっつき、
逆に今度は、長州と同盟を結ぶ。

薩土盟約、薩土密約を見れば分かる。

http://cpt-hide-cook.seesaa.net/article/397141598.html

これは、私のブログ記事で恐縮だが、一度お読み下さい。

幕末においての薩摩は、しっかりと情報収集し、したたかに巧みに動いている。

これも、江戸時代という固定社会の中では、
「先祖の恨みは世襲」されてきた結果、教訓となって
幕末にその教訓が生きることになる。

第一次長州征伐のときも、もしおとなしく従っていれば、
長州藩全体では36万石からその4分の1ほどに減らされているのは、
確実であったろう。

実際の石高というのは、その36万石より、かなり多かったようだが、
黙っていれば、260年前の辛酸をなめることになる。

むしろ、260年分の恨みが爆発した結果とも言える、それが
高杉の維新回天を後押ししたのであろう。

それと、あたりまえのことであるが、
「今は「農民だがむかしはうちの先祖も、、、」
という気持ちが強い。

その下克上的な風土も、長州藩の大きな特徴であり、
とくに農民や下級武士の行動力の一つの大きな
要因でもあった。

もう一つ言いたい。

吉田松陰の教えが、なぜあそこまで浸透したのか?
「尊王攘夷」の「尊王」というのは、天皇を敬うことになる。

究極を言えば、その当時の固定された身分制度ではなく、
みんなが天皇の民、つまり将軍も、藩主も、上役もなく、
下級武士も農民も、「天皇の直属の民」ということにつながっていく。

それって、260年間も縛られていた身分制度の
大きな大きな変換につながる。

なぜ、幕末、明治維新のときに、あのように身分の低い人たちが、
書物を読み、見識が深く、国を憂うだけの知識があったのか?

それは反面、「現状への不満があった」ということにもなる。

今の社会でもあるように、なんで俺のができるのに、
「あんなヤツが上司なんだ」とか、
確かに江戸時代は、養子制度もあったが、たとえば身分の低い下級武士が
殿様になることはなかった。

例えば、大久保利通は、内務卿、伊藤博文は内閣総理大臣、

むかしでいえば、下級武士の子であった大久保が関白に、
農民の子である伊藤が将軍になるようなものだ。

「尊皇攘夷」には、身分の低い下級武士や農民にとっては、
世に出る大きなチャンスである、そういう意味も内在されていることになる。

それは、下級武士や農民だけでなく、江戸時代虐げられてきた
薩摩や長州のような藩も、同じことである。

そして、松下村塾で吉田松陰が、日本があこがれ続けてきた
隣の大国「清」の現実、列強による侵食、、、。

長州という風土の中で、志を持った多くの下級武士たちに
どのような影響を与えたことか、、、。

ここでも、日本が徹底的に行動しなくては、どえらいことになると
強く思ったのではなかろうか。

また反面、アメリカのように
「大工の子が大統領になれる」ように、天皇を中心とした国家建設で、
本当に実力のあるモノが、出世できる社会を夢見たのでは、、、。

「天皇以外、みんな同じ」、これはある意味平等思想であり、
その後「八紘一宇」にもなっていくのであるが、
そんなことが内在されている「尊王攘夷」であり、
長州藩的な下克上の風土が、明治維新を牽引していく。

高杉の維新回天がなければ、明治維新もその後の日本の急発展も
なかったろうが、反面、陸軍特有の下克上的な体質も、
この辺りから引き継がれていくような気がする。




posted by hide at 11:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

8月15日に靖国神社に訪れる高市総務大臣閣下、真の英霊の「悠久の大義」とは、、、。

この盆休み、例年のことであるが、義理の両親が住む
山口へ向かった。

約800km、14時間の長旅、、、。

私ら夫婦を、私の実の両親が、夕方、出発を見送り、
次の日の朝、山口に着き、義理の両親が出迎えてくれる。

ふと、思う。

うちの両親も、義理の両親も、70代、、、。

いつまで、このように元気で、見送り、出迎えることができるのだろうか。

こないだ、ほんの5年ほど、前の写真を見たが、
私ら夫婦も、両方の両親も、確実に齢を重ねている。

小6になる京都に住む、甥っ子が正月ぶりに会ったが、
確実に大きくなっている。

甥っ子は、未だに抱っこだの、おんぶだの、肩車だのと
ねだってくるが、それほど大きくなっては、なかなかの重労働に
なってきた。

つくづく、時が過ぎていくのを感じる。

もう、私も50歳手前だ。

あと、30年そこそこした、限られて時間はない。

時間には、限りがある、肉体にも限りがある、人生にも限りがある、
では、その与えられた時間、肉体、そして人生をどのように使い
きるのか。

限られた時間であるから、一日一日大事に生きようと思う。

限られた人生であるから、有意義に使い切ろうと思う。

昨日(8/15)、高市総務大臣など、安倍政権の閣僚が靖国神社に参拝したという。

私は、なぜか戦争体験者の方々と縁があり、その方々から、
いろんな生々しいお話をうかがったことがある。

さらに、靖国神社にも、各都道府県にある護国神社にも、知覧にも、
江田島にも、回天の大津島にも、多くの戦争と深い関係のある場所を
まわっている。

英霊の方々には、強いシンパシーを感じ、心から敬意を持っている。

そんな私であるが、私がもし閣僚であったら、8/15に靖国に
行くかかと言えば、「NO」である。

本当に英霊の方々の立場に立って考えれば、
彼らはどのように思うのだろうか?

人間が死んでいくときに、いろんな感情がある。

死への恐怖、身近な人々との別れ、悔しさ、無念さ、

決して、一つの感情には収まるものではない。

実際に、私が何人かの先の戦争に参加した戦争体験者
にうかがった話、、、。

私が「自分の死について、どう考えてましたか?
死に対する恐怖はなかったのですか?」
という愚直な質問に対して、

多くの人は
「そんなこと言っている場合ではなかった。
ほとんどの人が、我々が、我々の世代が何とかしなくては
ならない、という気持ちしかなかった」
と、、、。

私は、歴史マニアだ。

日本の歴史の大きな特徴は、ほぼ単一民族で、同一性が
強く、地縁、血縁、社縁など、強固な共同体が存在する。

つまり、仲間意識が強く、多民族国家の多い他国に比べて、
社会に強い「信頼関係」が存在した国とであり、他国に
それほど例がない。

もし、国が他民族国家だったら、どうだろうか?
その違った民族同士が、常に争っている例など
世界中にいくらでもある。

さらに、陸続きで、侵略されたり、侵略したりを
繰り返された国々だったら、社会に信用というものが、
浸透しただろうか。

日本は、徳川300年に、「社会の信用」というものが、
熟成されてきた。

多分、もっと以前は多民族国家的な要素がもっとあっただろうが、
日本は長いことかけて、ほぼ単一民族的な感覚に統一されてきた。

相手を信用できれば、一生懸命にもなれる。

仲間を信用できれば、自分を犠牲にしてまで、守ろうと思う。

戦争中だけではない。

会社でも、地域社会でも、互いに信頼関係が生まれれば、
「自分のことなど、考えている余裕などない、、、」
という感覚が芽生えやすい。

では、それを「洗脳」という人がいる。

しかし、日本というのは、狭い土地で、それも国土の30%ほどしかない
平野で、稲作をメインにしてやって、ひしめき合って生きてきた。

互いが協力しなくては、我欲を押さえ、
「和」を維持しなくては、みんな餓死しまう環境だ。

「和」を大事にするには、自分のことよりも、
周りを優先しなくては、維持できない。

だから、日本の思想、宗教、教育などなど、そういうものが中心になってくるのは、
極当然ではなかろうか。

そして、自分の命を犠牲にしてまで、この日本社会を守ろうとした
英霊の方々、、、。

そんな方々が、中国や韓国との対立を望むのか?

それより、「静かに眠らせてくれ」と、私なら思う。

それに、「大東亜共栄圏の建設」、「八紘一宇」など、
確かに戦争遂行のため、利用された面もある。

しかし、真にそれに目指して命を賭けた英霊の方々が、
どれほどいることか?

戦後、各植民地で、欧米列強から独立戦争が勃発した。

そこに残って独立を支持して戦った元日本兵の方々、、、。

欧米列強による支配、、、さらに人種的差別、、、
これも列記とした歴史の事実であり、それらから
開放を求めて、命をささげた日本兵、もしくは元日本兵の
方々がどれだけおられることか。

先人たちのその時の感情を考えれば、
「悔しい、俺の敵をとってくれ」という感情を選ぶのか、
「アジアの開放、人種差別撤廃」という目的を掲げて
戦った英霊の方々の気持ちを汲み取るのか?

人生には、限りがある。

その限りある人生を使い切り、その人生に価値をもたせるには、
後者では、、、。

それが、英霊の方々への一番の供養である。

果たして、やっと訪れたアジアの時代に、お隣の
中国や韓国と喧嘩していて、それを一番喜ぶのは、
どの人たちなのだろうか。

過去の歴史を振り返れば、一目瞭然、、、。

原発を落としたのも、東京を焼き尽くしたのも、
韓国や中国ではない、、、。

「アメリカに恨みを持て」といっているのではない。

ただ、あのときの強烈な恐怖が、我々の「空気」を支配しつくすのではなく、
そこからしっかりと脱却すること、、、。

一つ一つ、検証し、相手をしっかりと研究すること、、、。

相手を知れば、自分が見えてくる。

8月15日に、靖国神社に訪れる方々、英霊の方々は
真にどのような気持ちなのか?

彼らが、守ろうとした日本社会を我々の世代で
どのようにするのか?

限りある命をどのように使い切るのか?

よくよく、お考え下さい。



posted by hide at 08:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月11日

中東での米国の戦争の実態、、、。中東研究者105人が「廃案」を求める。

2015年8月11日、中日新聞朝刊の記事

中東研究者105人「廃案を」

元駐エジプト大使を含む中東研究者105人が連盟で10日、
安全保障関連法案について
「(近年の)イラク戦争など米国主導の大規模戦争は、
もっぱら中東地域が対象。協力体制を一気に拡大する
政策は誤りだ」
として廃案を求める声明を発表した。
 呼びかけ人には、駐エジプト大使や湾岸戦争時の
駐イラク大使を歴任した片倉邦雄と、元駐リビア大使の
塩尻宏氏も。東京都内で開かれた記者会見では、
片倉氏が寄せたメッセージが披露された。片倉氏は
「1990年以降の米国の中東政策とその結果を検証して、
日本が米国と一線を画した独自の政策を打ち出せる保証は
ない。リスクが大きすぎる」
と訴えた。
 一方、声明は「日本は経済大国であっても、海外で
一切の武力行使を行わないことが極めて好意的に
受け止められ、中東の人々の友情・信頼感の基礎と
なってきた」と指摘。
「法案は中東やアジア、世界の民衆の信頼を打ち砕き、
日本人の声明を危険にさらす」とした。
 会見で黒木英充東京外国語大教授(中東地域研究)は
米国追従でない外交政策をつるべきだとして
「例えばシリア内戦では日本がソフトパワーを使って
仲介したり、宗教指導者を呼んで対話の機会を設けたりして、
紛争緩和に努めるべきだ」と強調した。
 長沢栄治東大教授(エジプト社会経済史)は
「考案は中東との関係に深刻なダメージを与え、日本人の
尊厳も失う」と批判した。


憲法9条を守り、他の先進国とは違い、他国で武力行使を70年間
行わなかった日本を、外国からどのように見えるのか?

さらに、アメリカの戦争の実態だ、、、。

アフガン・イラク戦争というのは、いったいどういうものだったのか?

シリアで、ウクライナで、彼らは何をしているのだろうか?

はっきり言えば、世界平和とは程遠い、世界の秩序をかき乱しているのは、
米国である。

アメリカは、すでに巨大資本家たちに乗っ取られている。

 2年ほど前、Eテレのスーパープレゼンテーションで
ハーバード大学のローレンス・レッシグ教授が、
非常に興味深い話をしていた。

「我ら人民は共和国を取りもどさなければならない」
という題で話された。

アメリカ版、「政治と金」の問題についてだが
アメリカはすでに、ほんの一握りの富裕層に乗っ取られている、
というような話であった。

その教授がおっしゃるには、
アメリカには「二つの選挙がある」と、、、。

一つは、人民が投票する一般の選挙。

もう一つは、資金集めによる富裕層による選挙だ。

アメリカの人口は3億1100万人。

その中の0.05%の人が、大半の選挙資金を出しているのが
現実らしい。

選挙では、莫大な金がかかる。

そのお金を集められなくては、選挙には出られない現実。

さらに、政治家は自由な時間の30〜70%を政治資金集めに
費やしている。

多くの政治家が、「フリをするのが上手い」、という。

一般国民に気付かれないように、
うま〜く、うま〜く、富裕層の意にそうような政策を決定していく。

また、アメリカ議会とは、「ロビイストの二軍」とも語っていた。

1998〜2004年、上院の50%、下院の42%が
政治家が引退後、年収が1452%増加したという。

ロビイスト街に身を投じ、富裕層や企業の「御用聞き」
に、なっていくらしい。

極度の戦争依存国アメリカ、、、。

そして、そのアメリカが巨大資本家たちに乗っ取られている。

そんなアメリカの先兵として、日本の自衛隊が海外で戦争をさせられるのか。

大義のない戦争後の出兵した兵隊は、どうなっているのか。

アフガン・イラク戦争後、アメリカでは、多くの帰還兵が
精神的に異常をきしている。

そして、多くの帰還兵が
「我々こそ、テロリストだ」と、語っている。

米国を乗っ取った巨大資本家たちが、
自分の利益と、地域の平和と、どちらを優先するのか?

そこに住む、伝統文化、慎ましく暮らす庶民、
それらをも貪欲に食いつぶす。

そして、経済と軍事というのは、密接な関係を持っている。

資本家たちが、裏で操り、どのようにアメリカの巨大な軍事力を使ってきたのか。

今までのアメリカの戦争を見れば分かること。

それに追従する日本の自衛隊をどのように使うのか。


「戦争に行きたくない、というのは無責任だ」
と、安保反対を唱える学生諸氏を批判した
自民党滋賀4区武藤貴也衆議院議員の議員に、聞いてみたいことがある。

貴殿のブログにこのようなことが書かれてあった。

http://ameblo.jp/mutou-takaya/

・・・・・・・・・・・・・・・・
 誰もが戦争に行きたくないし、戦争が起こって欲しいなどと考えて
いる人はいないと思います。しかし他国が侵略してきた時は、
嫌でも自国を守るために戦わなければならないし、また世界中の
各国が平和を願い努力している現代において、日本だけがそれに
かかわらない利己的態度をとり続けることは、地球上に存在する
国家としての責任放棄に他ならないと私は考えます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

しかし、利己的な戦争をしているのは、巨大資本家たちに
乗っ取られた米国であり、そのために多くの若い米兵が、
帰還後、心の病におかされている。

なぜ、中東であのように頻繁に戦争が起きるのか。

100年間の世界の戦争を振り返れば、そのほとんどが、
石油などのエネルギー資源の奪い合い、、、。

もし、誰でも何処でも取れるエネルギー資源があり、
それをトコトン有効活用できるようになれば、
世界の戦争など、限りなく少なくなる。

また、もしあの時、自前のエネルギー資源が存在すれば、
もっと違った選択脈があったはずだ。

限りが場所に、限られた資源であるから、それを独占するものにより、
支配の構図が生まれる。

もし、各々が自前のエネルギー資源を持てるようになれば、
世界など大きく変わり、自立と共生の社会へと大きく転換するのであろう。

石炭に近い植物資源から、バイオコークスという石炭に近いエネルギー資源を
開発した近畿大学の井田教授は、
「私は、これで戦争を無くす」
と、熱く語っていた。

安全で、誰でも何処でも取れるエネルギー資源の有効活用こそ、
戦争を無くす一番の近道なのかもしれない。

今、本当に必要なのは「信用」である。

武藤先生、せっかく世界的に信用のある日本が、巨大資本の手先となって、
世界中で武力を行使するというのは、英霊達へと
屈辱に等しいのでは、、、。
posted by hide at 09:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする