2016年03月11日

「有限」、、。エレン・マッカーサー!!!

先日、NHKのEテレのスーパープレゼンテーションで、
2005年、ヨットによる単独無寄港世界一周航海で
最短記録達成したイギリス人女性
エレン・マッカーサーのことをやっていた。

彼女は、意志の強い信念の人、とそのように感じた。

荒れる海、強風にさらされ、油断をすれば、転覆の危険性もある。

それが、極寒の南極の海などで起こったら、
ひとたまりもない。

単独によるヨットの航海なので、頼れる人はだれもいない。

そして、少しでも、油断したら、ヨットがどこへ行ってしまうのか、
もしくは転覆の危険性だってある。

71日と数時間で世界一周を成し遂げたそうだが、
果たしてその間、どのように寝ていたのか?

とても、過酷な航海である。

それと、その過酷な航海で彼女が一番感じたことは、
モノは「有限」であるということ。

無寄港による航海なので、約三カ月ほどの食糧、水など、
その間に過ごす荷物をすべて計算して積み込んだという。

私も、彼女ほどのレベルではまったくないが、
ニュージーランドの山の中を四日間ほど、歩き回ったことがある。
その時に、山小屋で寝れるのであるが、食糧、水、燃料、
衣服、寝袋など、すべての物資を背中に担いでいかなくては
ならない。

私は、コーヒーが大好きであるが、
持っていける荷物というのは、限りがある。

泣く泣く、コーヒーはもっていかなかった。

しかし、いつも当たり前のように飲んでいるコーヒーでも、
その四日間のトレッキングの中で、3日目の山小屋で、
あるアメリカ人女性が、インスタントのコーヒーをくれた。

なんとうまかったことか!!

たぶん、私の人生の中で、これが最高のコーヒーであったことは、
間違いない。

そのような制限のある空間の中で、インスタントコーヒーですら、
拝みたくなるようなありがたいモノに変わる。

また、シャワーもだ。

四日間、山を歩き回り、その後宿舎に帰って、
浴びたシャワーも最高であった。

ニュージーランドは、風呂でなく、ほとんどシャワーだ。

それも、お湯の制限があり、5分ほどで入り終わらなければ
ならない。

それでも、その時のシャワーが私の人生の中で、最高のものであった。

モノには限りがある。
むしろ、今の豊かさが異常なほどである。

ここらで、話をエレンに戻すが、
その世界最速記録を出した後、エレンはまったく違った
道を選ぶ。

そのあたりが非常に詳しく載っているのがこの記事


http://www.jf6yje.com/~salaku/weblog/index.php?itemid=3307&catid=1


その中で

「世界記録をつくったということで時の人となり、スポンサー企業など
からたくさんのお金が入ったのでしょう。普通なら、それを元手にまた
新たなヨットによるチャレンジを始めたりすることが多いけど、
エレンの場合はまったく違う方向へ進むことにした。
それが、循環型経済を世界に広めていこうという、遠大とも
思える目標だった。このままの形で全世界の経済が突き進めば、
いずれは資源が枯渇し温暖化で気候も乱れ、人類の未来がなく
なってしまう。ここでアタシがなんとかしなければ、ということを
航海中から考え始めたという。」
と、、、。

航海中に一番強く思ったこと、、、。

それはモノは「有限」ということ、、。

いろんな物資だけではないはずだ。

航海中、命の危険に何度もさらされたエレンは、
その命でさえ「有限」と感じたはずだ。

その限りある命、どのように使い切るのか?

死線を潜り抜けた人の共通する視点であろう。

この200年ほどで、人間はその活動範囲を
莫大に拡大した。

その原動力は、地球が何億年とかけて、貯め込んだ
石油などの化石燃料によって、賄われている。

その化石燃料も有限だ。

銀は、あと61年、
スズ、亜鉛は 40年、
銀は、29年、 

と、スーパープレゼンテーションの番組のなかで、
語られていた。

人口が増え、生活空間の中にモノが増え、
このまま経済活動を活発にすれば、
地球がいくつあっても足りやしない。。

ドンドン資源を採掘して、ドンドン造り、
そしてドンドン消費する。

これでないと、経済がまわらない。

なんでこんな世界になってしまったのだろうか?

これは、世界に大きな影響力を持つ、アメリカの歴史を振り返ると
よく分かる。

二百数十年前のアメリカの建国の理念とは
「人間には、幸福を追求する権利が、神から与えられている」
というモノであった。

当時、宗教的な束縛、階級的な束縛から離れ、
多くの人がアメリカ大陸に渡った。

その理念とは、宗教的に制限されていた経済活動を
より自由に、そしてより豊かに人間は暮らしていいんだと
神が保証していると、解釈された。

アメリカとは、科学の最先端を走ってきたが、
同時に巨大な宗教国でもある。
数ヶ月ほど前に、
「NHKスペシャル新・映像の世紀
第2集 グレートファミリー 新たな支配者 」
が、これがとても面白かった。

アメリカが、なぜ急成長できたのか?

その一つの大きな要因は、石油である。

アメリカを作った男といわれるジョン・ロック・フェラー。

19世紀の半ばに、アメリカで大量の石油が見つかり、
時代は、石炭から石油に大きく転換するときであった。

ロック・フェラーは、その採掘された石油を、科学者を使って、
精製する技術を確立し、自らの会社をスタンダード石油と
名乗った。

アメリカの石油を90%を独占し、世界はロックフェラーの石油なしでは、
動くことができなかったほどだ。

彼は、次のようなことを語ったとさ入れる

「非難がどれほど激しかろうと、我々が全世界に伝道を行ったのだ。
これは間違いない事実だ。富を築く才能は、神からの贈り物だと思う。
こうした能力を最大限に伸ばし、人類の幸福の為に役立てようと
神が与えてくださったのだ」

と、、、。

「World peace through trade」

これがロック・フェラー家に伝わる信念のようだ。

人を豊かにすることで、平和をもたらす。

その跡を継ぐロック・フェラー・ジュニアは、
莫大な富を利用してロックフェラー財団の活動に全力を尽くした。

それが資本主義伝道の手段にも、なっていた。

労働環境を整え、生産性を上げる、現地を所得を向上させ、
市場を広げる。世界に資本主義を浸透させる、遠大な計画であった。

大規模な慈善活動を行って、自社のイメージアップをはかる、
ロックフェラーは世界で一番金を使うのが上手い、と言われた。

確かに、市場が拡大すれば、そこまで、多くのモノを運ばなくては
ならないし、大地を切り開くためにも、莫大な石油という燃料がいる。

資本主義の発展と、石油の需要というのは、
密接な関係がある。

資本主義の浸透というのは、自社の発展であり、
さらにそれが世界に平和をもたらすと、信じていたのかもしれない。

しかし、それにもどうも限界が見えてきた。

今、大きく我々の生き方を転換するときだ。

そんな時代に、一昔前の日本的な感性、思想がとても重要になってくる。

足るを知る、もったいない、リサイクル、リユース、
限られた島国の中で、長いこと鎖国のような状態の中で
生きてきた日本人は、そのような感覚が染み付いている。

さらに、人間中心的な世界観を持つ西洋人とは違い、
長いこと豊かな自然と共生してきた我々日本人、、、。

本来の我々の生き方というのは、それほど捨てたものではない。

今日は、これぐらいで、、、。
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2016年03月10日

共生の思想!!「アドラーの共同体感覚」と我々日本人、、、。

こないだまで、シリーズでやっていた
NHKのEテレ「100分で名著」のアドラーの心理学を
すべて見終えて、正直驚いた。

アドラーという人は、とても日本人的な考え方のように思えた。

当初は、フロイトらのグループと、共同研究していたが、
袂を分かち、その後、軍医として招集され、第一次世界大戦に従軍した。
戦争と大勢の負傷者、とりわけその中でも神経症の患者を大勢観察する中で、
アドラーは共同体感覚こそが何にもまして重要であることを発見したらしい。

その「共同体感覚」とは、
人は全体の一部である、、、、。
全体と共に生きている、、、、。


もしくは
「自分自身の幸福と人類の幸福の為に、もっとも
貢献するのは共同体感覚である」
と、、、。

他者を仲間と思い、自分の居場所がある、共同体感覚。

生きる喜びや幸福は、他者との関係からしか、
得ることができない。
その為、自己の執着から離れ、他者への関心へ、、、。


また、共同体感覚に必要なこととして、
@ 自己受容
A他者への貢献
B他者への信頼

この三つが必要で、これはセットである。

これらのことを、番組を身ながら、走り書きながら、
書き留めた。

自己の執着から離れ、他者への関心へ、、、。

まるで、禅宗の言葉のようではなかろうか。

禅宗的にいうならば、「自分を忘れる」という
ことなのかもしれない。

禅宗などの日本の仏教では、煩悩というが、
それに近い言葉として、アドラーは「劣等感」という言葉を
使っているように思える。

生きている以上、不安、怒り、嫉妬、恨みなどの
煩悩に一生付きまとわれる。

その煩悩のほとんどは、他者との関係から起こる。

その煩悩をよくよく観察すると、例えば「不安」に陥っている人の
大きな特徴は、まったく周りが見えていない。

逆に言えば、自意識過剰なくらい、自分というものに対して、
意識が集中し、被害妄想になりがちになるか、
自分を責めまくる。

そして、暗い壁に囲まれた狭い部屋で、震えながら
強い孤独感を感じている。

恐怖を超える何か、
不安を超える何か、
嫉妬や悲しみ、恨みをも忘れる何かとは、
アドラーのいう「共同体感覚」では、なかろうか。

たぶん、ほぼ同義語で、日本的に言うならば
「公共心」というのが、とても近い言葉のように思う。

煩悩に心を奪われがちな自意識過剰な自分に突破口を開くのは、
やはり他に関心を移すこと。

つまり「共同体感覚」、公共心ではなかろうか。

私は、歴史マニアであり、民俗などもけっこう興味を持っている。

亡くなられた山本七平さんがよくおっしゃっていたが、
日本というのは、稲作文化の北限であり、
日本人の気質とは、とてもその影響を受けている。

常に暖かい東南アジアなどでは、田植えなどはいつ植えてもいいだろうが、
日本では、決まった時期に、決まった作業をこなしていかないと、
収穫にひびいてくる。

収穫に響くということは、つまり「飢え死」である。

例えば、田植えを真夏に行えば、収穫が冬になる。

冬に差し掛かれば、収穫量が激減するだろし、
梅雨の時期の雨を利用できない。

そのような環境から、みんなで協力して、
決められた時期に労力を集約しなくてはならない。

そう、みんなで協力しなければ、待っているのは
「餓え」である。

そのような環境から、どうしても共同体というのが、
非常に重要になってくる。

そうなれば、日本の思想も、宗教も、哲学も、
そのような感覚に合ったものに、収斂されていく。

日本人というのは、むかしから、共同体感覚(公共心)を
強く持った民族で、自分のことよりも集団のことを
優先する性質がある。

アドラーの言う「自分を忘れ、他者に意識を移す」というのが、
自然と成り立ちやすい社会であった。

例えば、うちの辺りの愛知用水の話であるが、
慢性的な水不足に悩む、知多半島、濃尾平野東部に
なんとか、水で潤したいという強い思いで、
立ち上がった二人の男がいる。

その一人が、農民の久野庄太郎であるが、
彼が立ち上がったいきさつがこのようなことらしい。
 
「知多郡は雨が少ないのみでなく、地下水も少ないし、川
もない。また水持ちが悪い。我々知多郡の農民の夏の労働の
半分は、水汲みの仕事でした。お皿のような浅いため池が何
千箇所もあるが、深さと言えば平均1メートル位で、1年中の
雨を大切に溜めようとするが、池が満水になるのは、3年に1
度。またそのため池を境として、池下が上田、池上が下田。上
田は10年中8、9年は反当り6俵位とれるが、池上の下田で
は、10年中満作は2年、5年は半作、あとの3年は収穫皆無
という哀れな作況です。水さえ汲めば5、6俵はとれます。だ
から貧農は命がけで池の水を汲みます。焼けつく様な土用の
陽を受けて、草いきれのするぼた(畦畔)に張り付いては水を
汲みあげます。襦袢も褌も搾るような汗です。足にヒルが吸い
付いて、トウガラシの様に赤く膨れてぶら下がっています。そ
んなことを気にしていては、能率が上がりません。片方の足で
こすり落とすくらいです。池に水のある間に汲まぬと、その年
はダメです。これが末期の水です。水の切れ目が命の切れ目
です」
 「命がけで汲んだ水は数日にして無くなり、10日過ぎると
稲の葉が黒くなってよれる。万策尽きて神頼み、笛や太鼓で
氏神様に雨乞いの祭り。馬鹿げたことだが、その頃は他に何
の仕事もない。それから10日も拝んでいると稲はすべて枯れ
てしまう。昭和19年、22年の干ばつ、敗戦、食糧不足で遂
に用水建設運動に踏み切った」(久野庄太郎『躬行者』)

そして、久野氏は心血注いで、まさに人生をかけて、
愛知用水建設運動を展開した。

挙句の果てには、全財産を使い果たし、
破産してしまった。

それでも、彼を動かすのは何だったのか。

それは、共同体感覚であり、公共心であると思う。

全財産を使い切りまでやったということは、
まさに自分を完全に忘れ、公の利益のために、
身をささげた。

アドラーのいう
「自分を忘れ、他者に関心を移す」
ということであり、

他者への貢献、それをやり続けることにより、
自分の価値を見出し、自分を受け入れることが
できるのではなかろうか。

自分もいくつかの共同体に属している。

家族、夫婦、会社、地域社会、国、人類、
それだけではなく過去の人々、未来の人々ともつながっている。

今、水道をひねれば、水が出る。
スイッチを入れれば、明かりがつく。

これらを成し遂げるまで、どれだけ多くの人の苦労が
存在したことか、、、、。

先人たちが心血注いでくれたおかげで、今の我々の生活がある。

そして、今我々が住んでいる社会を、未来の子供たちが
引き継いでいく。

鹿や馬が生まれるシーンを見たことがあるだろうか。

産み落とされた瞬間に立ち上がり、歩こうとする。

人間が、歩けるまでにどれだけかかるか。

それだけではない。社会で生きていくために
いろんな知識や経験を積んで一人前になるまで、
周りの多くの人のサポートがいる。

それだけ、自分というのは、社会からいろんなことを
授かっていることになる。

オオカミに育てられた少年は、オオカミのような習慣を身に着けてしまう。

中国人は、中国人らしく、日本人は日本人らしく、
何が言いたいのかというと、それだけ人間というのは、
その社会が育てるということになる。

自分というモノは、何層にも何層にも、
いろんなひとの影響を受けている。

これだけ影響を受けている以上、
自分というモノは、本当に自分といえるのか。

本や文字がある以上、現代生きている人だけでなく、
例えば法然さん、親鸞さんなどの影響も
私達は受けていることになる。

そのような社会というモノ、人間の意識の共同体というのか、
そういうものを少しでもよくすることに自分の持てる力を
使ってみたら、もしかしたら自分を忘れることができるのでは、、、。

共同体感覚、公共心というのは、日本人にとって、
自分を忘れ、煩悩から離れれる最たる方法だったのかもしれない。

それが、日本人のある意味、精神安定剤だったような気がする。

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2016年03月03日

「幸せになる勇気」、「嫌われる勇気」とは同じことらしい、、、。

「幸せになる勇気、嫌われる勇気とは、実は
おなじことなんだ。ダメなことばかり指摘する、
できないことばかり指摘する、理想の子供や
部下をイメージし、現実の相手から、
引き算でしか見ない」

・・・・・・・・。
また、
「自分を嫌う人がいるということは、
自由に生きている証し。
それぐらいの代償を払わなくてはならない。
それくらいの覚悟をもって生きなければならない
。」

・・・・・・・・。

これは、先週までシリーズでやっていた
NHKのEテレ「100分で名著」のアドラーの心理学で
言っていた言葉だ。

なんとなく、各々思い当たる節があるのでは、、、。

たとえば、人の陰口ばかりたたいて狭い世界でしか、
生きようとしない集団がいるとする。

そこから、離れれば、自分もたちまち陰口をたたかれ、
村八分にされるとする。

正直、それは怖い。

でも、いつまでも、そんな集団に依存していて、
いいのだろうか、、、。

その集団を変えるのもあなたの勇気では、、、。

飛び出してみないと、分からない世界がいっぱいある。

たとえ失敗しても、自分の考えで、自分の足で立つという
ことが、どれほど大事なことか。

いつまでも、噂話の世界だけで生きていては、
何も見えないし、何も感じない。

それに、「捨てる神ありゃ〜、拾う神〜」という
ことばもあるのでは、、、。


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2016年02月26日

「ひとりになれない人間は比較地獄に陥る」、、、。深い言葉だね〜。

 宗教学者の山折哲雄氏の著書
「ひとりの達人のススメ
ひとりには、覚悟から生まれる強さがある」


の中にこんなことが書いてあった。

ひとりになれない人間は比較地獄に陥る
          (P.156〜157)


戦後の変化といえば、テレビ文化の波及もそのひとつ。
家庭の娯楽の主役はラジオからテレビへと移り変わり、
映像が巨大な影響力を持つようになりました。
テレビという視覚を重視したメディアです。そして、
現代人は視覚を過剰に重要視し、視覚にふりまわさる
ようになった。
 もちろん、人は基本的に、朝起きてから夜寝るまで、
目を開けています。たえず視覚を使って眼前にある
何ものかを見て、さまざまな判断をしている。
もし、一人が嫌いで、常に誰かと一緒にいるとすると、
どういうことが起きるのか。
 視覚は人間を比較に誘います。この人は(自分よりも)
いい服を着ている、あの人は(自分よりも)容姿が
整っている、、、、。視覚で判断すると、容貌や才能、
環境などの違いが歴然とします。そのことに耐えられない
人が多いはず。人間は平等だ、平等だと教えられてきたにも
かかわらず、現実を見ると、何から何まで違う。だから、
ひとりになれない人間は、結局は「比較地獄」に陥ることになる。
たえず他人と自分を比較せずにはいられない。比較して、
自分が劣っていても、現実はどうすることもできません。
すると、恨みつらみがつのって、「嫉妬地獄」に移行して
きます。さらには、誹謗や中傷、陰口などの井戸端会議で、
自分より優れていると判断した人を引きずり下ろそうとする。
 このような、群れの関係がしばしば陥りがちな「嫉妬地獄」
から身を話すためにも、ひとりの時間は大切だと思うのです。

なるほど、なるほど、、、。

斎藤ひとりさんが、こんなことを言っていた。

「ダメな人は、すごい人と比較して、自分がだめだだめだと思ってしまう。
しかし、例えば私はインターネットができないが、もし自分が
今日、パソコンのスイッチの入れ方を覚えたとすれば、
昨日よりも素敵な自分になったと言える。そのように、自分を
ほめることができれば、素敵な人生になるのでは、、、。」
と、、、。

今の現実に満足している人って、どれほどいるのだろうか。

人間って、もっともっとの動物である。

何かを手に入れても、いずれはそれに満足できず、
さらなるものを求める。

それには、切がない。

それよりも、冷静に自分を見つめること。

たまには、ひとりになって、しっかりと自分と向き合うこと。

逆に言えば、ひとりになれる人間は、そのことが
強みなのかもしれない。

例えば、強制圧力ってどこの集団でもあると思う。

例えば、みんなで寄ってたかって、ある人を
村八分にしようとする。

そんな時に、やはり集団側についていないと、
いずれは自分がやられることになる。

さあ〜、どうするか?

一緒になって、一人の人の陰口をみんなと一緒に、
たたきながら、嫌がらせをし続けるのか?

そのような噂話の世界観の中で、どっぷりつかっていて、
自身の成長はあるのか。

仲間外れにされるのは、誰でも怖い。

しかし、勇気をもって自分の考えで行動すれば、
もしかしたら逆に自由になれるのでは、、、。

もし、その集団に嫌われても、それは世間話、噂話の世界からの
脱却できるのでは、、、。

嫌われるって、逆に言えば、自分を自由にすることでもある。
誰かからの束縛から、勇気をもって離れる、もしくは
そのことに左右されない、いわば自身の自立だ。

みんなと一緒でないと、怖い、と思う人が多いと思う。

しかし、将来的に、自身の考える力をつけることがどれほど
大事なことか、、、。

また、集団に依存し続けること、ただ常に強いものに
はびこるだけでは、はたして未来があるのかどうか、、、。

必ず、立ち行かなくなってくる。

ありのままの自分を受け入れ、自身の価値観で生きた方のが、
より心が軽くなるのでは、、、。
ただ、噂話の世界だけで生きているだけでは、
自身の成長などありえない。

自分が成長すれば、周りが変わる。

周りが変われば、また自分にも何らかの影響を与える。

「比較」って、ただ劣等感の塊になるだけの比較であるならば、
心が貧しくなるばかり、、、。

確かに劣等感というのは、原動力にもなる。

しかし、その原動力をいつまでも、劣等感に頼っていたのでは、
喰っても喰っても喰いらないような感覚になるのではなかろうか。

一人になって、考える力をつける、これって大事なことだと思う。

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2016年02月17日

「アドラーの心理学」、面白いね〜!!

私は、特に「学びたい」という気持ちが強い方である。

歴史、科学、宗教、自然、生態などなど興味があることは、
多い方だが、その中でもその最上位にあるのが、「心のあり方」だ。

「心のあり方」一つで、「学ぶ」という意味での吸収力というものが、
かなり変わってくると思う。

例えば、誰であれ、自分を大きく見せたい。

しかし、その大きく見せることで、もしかしたら、
自分をがんじがらめに縛ることになるのでは、、、。

たとえば、自分の知らないことがあるとする。

日ごろから、自分は何でも知っているりのような顔をしていれば
いざという時に「それって、どういうこと。教えて」と、
素直に言いづらくなる。

必要以上に、背伸びしない。私が特に気を付けていること。

そのように、感情をコントロールするのも、
常日頃から、心をしっかりと整える癖を
つけた方が大事。

私は、もう20数年、毎日日記をつけている。

日記というのは、自分との対話だと思う。

自分の感情、心のあり方など、よくよく整理する。

なんで、そんなに悩むのか?
何で、そんなに怒るのか?
その感情の根源は、何なのか?

自分自身の心の動向をしっかりと観察することによって、
人としての心をあり方をある意味学んでいるのかもしれない。

「日記を25年もつけている」なんて、自分で言うのも何だが、
なかなかやれることではない。

では、なぜ続けられたのかというと、やはり自分自身にある
「劣等感」だ。

私は、若いころ、けっこうな問題児だった。

自分の感情を上手く抑えることができる、いろんな問題を引き起こしてきた。

特に、怒りだ。

そんな中で、「何でみんなそんなに平然といられるんだ」
「なんで、みんなそんなに怒らないんだ」、
なんだか、自分がみんなと違う、自分だけ異常なのではないのか、
そんなような劣等感が強かった。

さらにこのまま、社会で自分が生きていけるのか、
また何らかの問題を起こしてしまうのではなかろうか、
そんな不安を強く抱いた20代前半の頃だった。

そこから、「変わろう」と決意した。

そして、この20数年、一番の相棒が日記だったのかもしれない。

今日は、アドラーの心理学のことを書こうと思う。

アドラーって聞いても、ほとんどの人が分からないのでは
なかろうか。

日本では、フロイトなどが、とても有名だが、
最近とても注目を集めているという。

現在、NHKのEテレで、100分で名著という番組で
アドラーの心理学をやっている。

「心理学の自家中毒」という言葉を聞いたことはないだろうか。

心理学って、結構人気があり、多くの人が興味を持ち、
中にはカウンセラーを目指す人も、けっこういる。

しかし、正直なところ、知識に振り回されている人も
多いように思う。

私も、むかし、心理学を学んでいる人の会合に何度か出たことがある。


その会合には、会社での人間関係でトラブり、
数年間、心理学を学び続けている人、、、。

子供とうまくコミニケーションが取れず、不登校の子供を抱えている
40代のお母さん、、、。

彼らは、確かに知識は豊富であった。

しかし、勇気が足りないのではなかろうか。

現場に出る勇気、そして人との軋轢を恐れず、
立ち向かう勇気、、、。

そこからしか、本当の人に役立つような心理学というのは、
なかなか身についていかない。

例えば、心理学を長年学んだ人と、まったく無学であるが、
経験豊富なじ〜さん、ば〜さんと、もし自身の悩みを相談したとき、
もしかしたら、じじ、ばばの方が、よいアドバイスが
できるのではなかろうか。

毎日、思いっきり生きることで、いろんな壁にぶち当たる。

壁にぶつかれば、苦悩するであろう。

その苦悩を乗り越えるていく。
人生って、何度も何度も、その繰り返し。

悩み苦しんだ経験が多いほど、喉から手が出るほど、
何らかの真理を求めるようになる。

「必要は習得の母である」と誰かが言っていたが、
必要な時に、その必要なモノが一番吸収されやすい。

そのような体験で、身につけたモノというのは、
心の中で、結晶化し、いつまでも覚えているもの。

よく、テレビやラジオで心理学者がいろんなアドバイスを
しているが、もっとシンプルな表現でいいのではないか、
もっと、本人に飲み込みやすく、するべきではなかろうか、
というような感情を捨てきれない。

私も、心理学に関しては、読み漁ったことはあるが、
実際、ここ数年、遠ざかっていたところがある。

話を、アドラーの心理学に戻すが、
最近、NHKのEテレでアドラーの心理学をやっている。

しかし、このアドラーの心理学というのは、
とても実践的だ。

とても大事なのは「勇気」だ。

心を動かすのは、「劣等感」だ。

人間として生きる以上、「その劣等感」は
常に持ち続けるもの。

劣等感って、誰でも持っている。

アドラーが身体能力が非常に要求されるサーカスの人々の
調査をやったとき、そのほとんどの人が、小さいときに
「身体的劣等感」を持っていたという。

それを何とか、感服するために、体を鍛えて、
サーカスができるようになったらしい。

「劣等感」というのは、心に大きか負荷を与える。

その反面、このままではいけない、というような危機感から、
何かを始める原動力にもなりえる。

「劣等感」とうまく付き合うこと、
そのようなことを番組の中で語っていた。

そのアドラー心理学の100分で名著も、4回の構成で、
まだ、一回目と二回目しか見ていないので、
全体のことは分からないが、見る価値があるような気がする。

今日、三回目がやるのではないかな〜。
夜遅いので、多分、寝ているだろうが、
しっかり録画しておこうと思う。

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2016年02月11日

「上手な死に方」について、、、。

「上手な死に方」なんていう題で、ブログを書いたりすれば、
「こいつ死ぬつもりなのか」と、思われるかもしれないが、
全く逆である。

まだまだ、やりたいことも学びたいこともいくらでもある。

「生者必滅」と言われるように、生きている者は、
死なないものはいない。

むしろ、必ず自分が死ぬということをしっかりと認識していれば、
残された時間、残された人生をより大事にするようになると思う。

生死についてなら、宗教学者の山折哲雄さんか、
あの「バカの壁」の解剖学者、養老孟司さんの本なんかが、
参考になる。

「山折哲雄」さんの本を、図書館で検索していたら、
「いのちの対話 死に方上手」という本があったので
借りてきた。

複数の人の対話を載せている本であるが、なかなか
参考になることもあったので、紹介しようと思う。

上智大学名誉教授、アフファンス・デーケンさんが、
ユーモア精神たっぷりに次のようなことをおっしゃるという

「ミナサーン、イイデスカ。キョウハ厚生労働省で調べテキタ、
大変貴重ナデータガアリマス。ミナサン、メモノ用意ハ
イイデスカ?大権貴重ナデータデス。人間ノ死亡率ハ
100%デス」(笑)

と、、、。

ケガレの思想がある日本人にとって、
「死」というモノは、縁起でもないことと、
潜在的に思う人がほとんどではなかろうか。

「死」をタブー視しすぎると、やがて死んでいく身のうえである
以上、残してきた者たちにいろんなことを語り残すことが
出来ないのかもしれない。

また家族が「死」を迎えようとしているときに、
ただやみくもに猛烈会社のように「がんばれ、がんばれ」
を繰り返すだけでは、ますますその本人に対して、
「孤独感」を感じさせるのではなかろうか。

自分の身内にも、もし元気なうちに
「どのように死にたいか」ということを、
語り合えていたら、死に対する苦痛というモノが、
かなり軽減されるのではなかろうか。

「死」とは、年老いて、病気になり、多くの親しかった
人たちとの別れがともなう。

「死」、「老」、「病」、「死」どれをとっても、
現在家族に囲まれ、健康で体が動く、私達にとって
大変なことが一機にその時期に、自分の身に
のしかかることになる。

多くの人を患者さんを看取った諏訪中央病院名誉院長の
鎌田寛さんは、こんなことをおっしゃっている。

「もちろん今でも患者さんを助けることが
僕ら医師の最大の仕事です。でも、結局人間は歳をとるし、
150年も200年も生きられません。だとすれば、
最後の時は自分はこういうふうにしてほしいなとか、
あるいは自分のたいせつな父や母にはこうしてあげたいな
とかということを、ご飯を食べながらでも語り合えると
いいですね・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「おれは徹底的に病気と闘いたいからね」と家族に
言っておけば、最新設備を使ってがんばる最高の
医療を受ければいいのではないか。でも
「あんまり闘いたくないな」という考えを持った
年老いたお父さんやお母さんは、家族が守って
あげてもいいんじゃないかなという気がします。」
と、、、。

そして、鎌田さんの義父の死に方について
紹介されていた

「僕の女房の父親が肝臓ガンになったときに、
「おれは歳だから病気が見つかっても手術は
もういいよ。でも生きたいから」と、手術せずに、
肝動脈の人工的塞栓術(肝動脈の一部を塞ぎ、
がん細胞に栄養が行かないようにする治療法)を
しながら3年半過ごしました。そして最後に
「もういいよ」と言って、その処置を止め、亡くなり
ました。新しく建てたアパートを長男に譲るのに
税金がかからなくなる時期まで頑張ってくてた
ということが、あとでわかりました。父の、
子への優しさでした。その時間が過ぎてから、
「もうあんまり無理な治療はしなくていいよ」と、
父はぼくに言いました。病気が重くても、ゴルフが
好きでゴルフをやったり、娘を連れて温泉に行ったり、
絵が好きだったから美術館を歩いたりして、最後は
家族みんなを集めて歌を歌いたいといって、
病院の一室でみんなで歌を歌い、お風呂に入れて
と言って、僕の女房が背中を流してあげて、
そして昏睡状態に入ってなくなった。すごい
「死に方上手」だなと思います。全部自分で
選んでいるんですよね。」

と、、、。

なぜ、そのように上手に死ねるのか、

私もいづれ死んでいく身、死についてしっかりと
した知識、認識、死生観などが必要ではなかろうか。

嵐山光三郎氏が「死ぬための教養」という本を
出しているとのこと。

図書館で調べてみようと思う。
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2016年02月04日

納棺夫日記の中で見つけた正岡子規の言葉!「悟るとは、平気で生きること」、、、。

 映画「おくりびと」の原作本とされる
納棺夫日記の中で出てくる、正岡子規の言葉を紹介したい。

その言葉は、子規が亡くなる二日前、
病魔にもがき苦しむ中でのモノらしい。

「悟りというのは、いかなる場合にも平気で死ぬることかと
思っていたのは間違いで、悟りということは
いかなる場合にも平気で生きていることであった」
と、、、。

深い、言葉だね〜。

たしか、禅宗の偉いお坊さんが、死ぬ間際、
お弟子さんが、今の心境を尋ねたところ
「死にたくない、死にたいくい」
と、なげかれたとのこと。

お弟子さんは、素晴らしい悟りの境地について、
聞けるのだと思ったが、なんだか拍子抜けしたという。

まあ〜、それが禅宗なりの禅問答だったのかもしれない。

死に対して、恐怖というモノは、どんな修行を積もうとも、
つきまとうモノ。

それよりも、今を平気で生きなさい、

その延長上に、死があるようなというようなメッセージの
ような気がする。

周りを見ていると、いつまでたっても、過去にあった出来事で
悩み続けている人がいる、
怒り続けている人がいる、
悲しみ続けている人がいる。

今、その悩み、あなたに必要?
今、その怒り、あなたに必要?
今、その悲しみが、あなたに何をもたらすの?

それらのことにこだわり続けると、
損をするのはあなた自身ですよ。

そんなこと、無理やりでも放り投げてちゃいな〜、
そして目の前のことに全力で取り組んでみたら。

悩みは、あなたの体をしばりつける。
怒りやは、あなたの視界を極端に狭める。
悲しみ、見栄やチンケなプライドなど、あなたの成長を止めてしまう。

世の中の見方、人の見方など、自分のモノサシ一つで
どれほど変わることか。

深い悩み、怒り、悲しみを抱えて、あなたが死を迎えるとする。

そのまま死ねば、確実にこの世での執着にがんじがらめに縛られ、
昇華できず、その執着を引きづりながら、あなたの魂は、
この世をさまようことになる。

まあ、それが本当か嘘かわからないが、
通常、死というのは、老、病、別れも伴い
自身の人生において、津波や台風、大地震が一気に
来るようなもの。

体がまったく動かず、いくつもの管を体につけられ、
何日も何日も、病院のベットの上で、あなたは耐えられますか?

そして、家族や友人との別れ、
何で私だけ、みんなを残して、お別れしなくてはならないのか、
その無情さにあなたは耐えられますか?

思いっきり生きて、しっかりと心を整える習慣をつけておかないと、
その人生最大の難局に耐えれることはできやしない。

そういう意味でも、正岡子規がいう「悟るとは平気で生きること」
理にかなっているのではなかろうか。


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2016年02月03日

霊峰富士の魅力!「草木国土悉皆成仏」、、、。

先日、静岡県に行ってきた。


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これが、美保の松原から見た富士、、、。


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静岡市内からも、街のバックに、これほど大きく、
美しく見える。


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そして、これが日本平から見た富士だ。

富士をバックに、このように石に
「草木国土悉皆成仏」と書かれている。

いいね〜。

このような美しい山を見ていると、
その山の頂上に、「極楽浄土があるのでは、、、」
昔の人は、あこがれたのではなかろうか。

それが、山岳信仰が生まれた一つの要因なのかも
しれない。

しかし、この美しい富士山も穏やかな表情ばかりではない。

数百年に一度は、真っ黒い煙を吐いて、噴火する。

周り一面を暗闇の中に引きずり込み、それが長く続けば
農作物にも被害を与える。

科学的な知識もない昔の人は、富士山が「怒った」と
感じるのではなかろうか。

なぜ、富士山が怒ったのか、もしかしたら、あの木を勝手に切り倒したから、、、。
あの動物をいじめたから、、、。
あの恨みを持って死んでいった人の祟りでは、、、。

いろんなことを考えたのであろう。

では、その恨みや怒りを鎮めるために昔の人々は、
山、川、海、動物、また人間まで神として祀る。


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このような穏やかな海から、突然大きな壁のような津波が
押し寄せてくる。

昔の人は、「海が怒った」、と感じるのでは、、、。


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このような川も、日本ではいたるところで氾濫する。

昔の人は、「川が怒った」と感じるのでは、、、。


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突然、大地が揺れ、多くの家屋が崩壊し、いたるところで火の海、、、。

昔の人は、「大地が怒った」と、感じるのでは、、、。

我々日本人は、そんな環境で、自然と共に暮らしてきた。

その自然が恐怖だけではない。

昨年のNHKスペシャルで、縄文時代の三内丸山遺跡についてやっていた。

「自然を破壊することなく、これだけ長く文明を維持した例は、
奇跡である」
と、専門家が言っていた。

世界では、栄えては衰退した文明などいくらでもある。

その中で、三内丸山遺跡というのは、異例ともいえるそうだ。

それを、可能にしたのが、日本の豊かな自然である。

住居の周りに、栗を植え、海の幸、山の幸、その季節により、
バラエティーに富んだ豊富な食糧が存在した日本の豊かな自然、、、。

他の文明は、大地を切り開いて、農耕を進め、燃料として
森林を伐採しつくす。

それにより、土が荒れ、森林がなくなり、消滅してしまう。

農耕にしろ、日本は稲作だ。

日本の国土の七割が森林。
そして、残りの平野に、梅雨の時期などには、水が
溢れかえる。

その平野を水田に造りかえて、集団で協力しながら、
大地にしがみつくように生きてきた。
村を形成して生きてきた。

溢れかえる水を治め、その水で水田をして
生きてきた。

そして、何年も連作できる稲作。

日本にとって、稲作は、日本に適した農業であり、
持続可能なモノであった。

天災がしょっちゅう起きるおっかない自然環境であるが、
それと同時に多くの幸をもたらしてくれた。

そんな自然に対して、愛着と畏敬の念をもち、
草にも、木にも、大地にも、動物にも、
仏性があり、仏になれるというのが、日本の思想だ。

そして、ミラクルピースと呼ばれた徳川三百年に、
内向きではあるが、平和の思想を確立された。

豊かな自然が縄文文明、稲作、
そして300年というミラクルピース、このあたりが
日本人の思想に大きな影響を与えた。

今、その日本人的な思想がとても、
世界に必要とされているように
強く感じる。

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2016年02月02日

「死に直面した患者にとって、冷たい機器の中で一人ぼっちで死と対峙するようにセットされている」、納棺夫日記を読んで、、、。

年末の大掃除のご褒美として、何年か前に読んだ
「納棺夫日記」という本を見つけた。

これは、映画「おくりびと」の原作本で、
その主演の本木雅弘さんがこの本を読んで、深く感銘を
受けて、映画化になったと聞く。

それだけ、非常に深い本だ。

その中のある部分を紹介したい。

最近とみに、ぶよぶよとした死体が多くなってきた。
ナイロンの袋に水を入れたような、青白いぶよぶよ死体である。
 私が初めて湯灌・納棺の仕事を始めた昭和40年の初期には、
まだ自宅死亡が5割以上もあって、山麓の農家などへ行くと、
枯れ枝のような死体によく出会った。肌色も柿の木の枯れ枝の
ように黒ずんでいた。
 そんな遺骸が、暗い奥の仏壇の間に、くの字となって
横たわっていた。
 寝棺に納めるのが大変であった。腰が海老のように曲がった
ままのため、棺窓から顔が見えるように納めるには、腰を
伸ばさないと上向きに寝かせられないのである。膝が出っ張るか
頭が出っ張るかで蓋が閉まらない。
 子供の頃から何十年も、田畑にへばりつくように生きてきた
証である。農村の老人のほとんどが腰を曲げて歩いていた時代、
やはり座棺の方が適していたように思われる。特に丸いお風呂桶型の
棺などは最適であったはずだ。
 そんな農村での老人の死体は、遺骸という言葉がぴったりで、
なんとなく蝉の抜け殻のような乾いたイメージがあった。
 しかし、わが国経済の高度成長とともに、枯れ枝のような死体は
見られなくなっていった。
 今日、事故死や自殺以外は、ほとんど病院死亡である。昔は
口から食べ物が取れない状態になったら、枯れ枝のようにやせ細って
ゆくしかなかったが、今では点滴で栄養が補給されるため、以前の
ように極端にやせ細った状態にならない。
 どう見ても、生木を裂いたような不自然なイメージがつきまとう。
晩秋に枯れ葉が散るような、そんな自然な感じを与えないのである。
 それどころか今日の医療機関は、死について考えさえ与えない。
 周りを取り巻いているのは、生命維持装置であり、延命思想の
医師団であり、生に執着する親族たちである。
 死に直面した患者にとって、冷たい機器の中で一人ぼっちで
死と対峙するようにセットされる。しかし、結局は死について
思うことも、誰かにアドバイスを受けることもなく、死を
迎えることとなる。
 誰かに相談しよと思っても、返ってくる言葉は
「がんぱって」の繰り返しである。親族が来て「がんぱって」と言い、
その間に看護婦が時々覗いては「がんぱって」となる。
 癌の末期患者に関するシンポジウムかなにかだったと思うが、
国立がんせんたーのH教授が発言した言葉だけを覚えている。
 ある末期患者が「がんぱって」といわれる度に苦痛の表情を
しているのに気づき、傷み止めの注射をした後、
「私も後から旅立ちますから」と言ったら、その患者は
初めてにっこり笑って、その後顔相まで変わったという話であった。
 こんな先生は減多にいないわけで、集中治療室などへ入れられれば、
面会も許されないから「がんばって」もないが、無数のゴム管や
コードで機器や計器につながれ、死を受け入れて光の世界に彷徨しようと
すると、ナースセンターの監視計器にすぐに感知され、バタバタと走って
きた看護婦や医師によって注射をうたれたり、頬をぱたぱた叩かれたり
するのである。
 折角楽しく見ていたテレビの画面をチャンネルを無断で変えられるような
ものである。<生命を救う>という絶対的な大義名分に支えられた<生>の
思想が、現代医学を我がもの顔ではびこらせ、過去に人間が最も大切に
していたものを、その死の瞬間においてさえ奪い去ってゆこうとする。
 美しい死に方どころでないのである。
     (納棺夫日記 P62〜65)


「死に直面した患者にとって、冷たい機器の中で
一人ぼっちで死と対峙するようにセットされる」


「誰かにアドバイスを受けることもなく、死を
迎えることとなる」


「朝から晩まで、猛烈会社の営業部のように
「がんばって」と繰り返される」


なかなか、考えさせられる文章である。

解剖学者の養老孟司がこんなことを言っていた
「現代生活の中で、『死』を生活空間から排除している」
というようなことを言っていた。

たしかに、家で死ぬ人はいなくなった。

人はみんな老いて、病気になり、死んでいく。

それが、なんだか身近でなくなってしまった。

だから、多くの人が「死」ぬということ、老いるということの
イメージが湧きづらくなってきているのでは、、、。

十数年前、うちのおばあさんもそうだが、
家で七年間寝たい切り状態の後、
家でなくなっていった。

それを見ていて、やはり何か私の中で、影響を受けている。

うちのおふくろの兄弟姉妹も、8人中、4人が子供の頃
亡くなった。

うちのおじいさんの兄弟もそうだ。

昔は、死というモノがもっと身近にあったように思う。
それが家の中にあった。

そんな環境の中で、育てば、やはり「死」というモノに
向き合いやすくなる。

うちのおじいさんもおばあさんも、死ぬ前からい
黒縁の額に入った葬式用の写真を自分で用意していた。

写真だけではなく、白装束もだ。

「いずれ自分が死んでいく」ということをしっかりと自覚して
いたと思う。

病院で死ぬということ、はたして本当に幸せなのだろうか。

おじいさんも亡くなる週間ほど前、入院し、その後病院で
亡くなっていった。

亡くなる数時間前、意識がなく、亡くなろうとすると、
心臓マッサージのようなものをかけて、生き返らせる。

そして、おじいさんも意識がないのにわずかな声であるが
「痛い、痛い」と、言っていた。

もっとひっそりと死にたい、
もっと自由に死にたい、

もしかしたら、多くの末期患者の人などは、そう思っているのでは
なかろうか。

もしかしたら、孤独死の方がいいのでは、、、
と思う時もある。

死ぬ直前になって、みんなに「がんばって、がんばって」
と、大合唱され、苦しい中、これでやっと死ねる、と思っても、ブザーが鳴って、
看護婦さんやお医者さんがかつけて、延命のための処理をされる。

そうなれば、苦しい中、やっと死ねる、と思っても、
生きながらえなくてはならない。

人の「死」というモノは、いろんなしがらみがあると思う。

看護婦さんやお医者さんも、そりゃ〜大変な職業だ。

夜中でも、懐中電灯一つ持って、各病室をまわる看護婦さん。
手術にしても、診察にしても、一つ間違えれば、
大変なことになってしまうお医者さん。

しかし、死を直面した人が、本当に望むことというのは、
いささか違うのかもしれない。

病院側にも、立場がある。

親族、家族にもそれぞれ立場がある。

そのそれぞれのしがらみの中でしばられながら、
一人の人が死んでいく。

もっと静かに死にたい、もっと自由に死にたい、
もっと、心豊かに死にたい、
もしかしたら、そんな風に思っている人が
多いのではなかろうか。

それと、死、老、病、別れ、これらのことが、
人生の最終盤でいっぺんに来ることになる。

その不安というのは、計り知れない。

そんな中で、孤独に死んでいくことになる。

「がんばって、がんばって」といわれても、
誰もこの不安と苦しみを分かってくれていない、
と感じるのでは、、、。

死に直面して、表面的なことなど、どうでもよい、
当たり障りのない励ましの言葉など、どうでもよい、
それよりも、私の現実を分かってもらい、
その上で、残り少ない時間の中で、
何かを伝えたい、と思うのではなかろうか。

あるお坊さんが、
「身内の人が死んでいくというのは、いずれあなたにも
死が訪れるんだよ、ということを、分からせるために、
身をもっておしえているんです」
というようなことを言っていた。

生きるとは、死ぬとは、どういうことなのか。

「やがて死ぬ」ということも、しっかりと理解しないと、
そのようなことは、語れない。

タイの小乗仏教では、お坊さんの修行の過程で、
水死や餓死など、いろんな死にざまを写真で、
見せるという。

「生きる」ということの対極にある「死」を
しっかりと認識してこそ、限られた命、
限られた時間ということが理解でいる。

私も「死」まで、あと30年、思いっきり人生を
使い切ろうと思う。

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2016年01月29日

ある末期癌患者の女性の詩、、、。青木新門氏の「納棺夫日記」の中で。

映画「おくりびと」の原作本といわれる
青木新門さんの著書「納棺夫日記」の中に、
ある末期がん患者の女性の詩が書いてあったので紹介したい。

<生死>

死というモノを自覚したら、生というモノが
より強く浮上してきた。
相反するものが融合して、安らげる不思議さ、、、。

<仲間>

死という絶対平等の身にたてば、誰でも
許せるような気がします。
いとおしくいきかう人もなにか温かい思いが
あふれ出ます。


何も思い残すことはない、
もう充分

啓介も、、、大介も、、、慎介も、、、
マミも、、、あなたも
みんな南無阿弥陀仏の諸仏になって
あなた方を育てましょう
 私は
私は真弥の南無阿弥陀仏になります
私は啓介の南無阿弥陀仏になります
私は大介の南無阿弥陀仏になります
私は慎介の南無阿弥陀仏になります
私は真吾さんの南無阿弥陀仏になります
・・・・・・・・・・・・・・・
門徒の方 有縁の方々の
南無阿弥陀仏になります
思い出したら、南無阿弥陀仏と呼んでください
私はいつもあなた方に南無しています

  鈴木章子著
『癌告知のあとで-私の如是我聞』
    探求社刊より

この詩は、鈴木章子さんとという真宗のお坊さんが
乳癌を告知されてから書かれた作品である。
四年間も死と戦い、死を受け入れようとした瞬間の
ものであるとのこと。

なんか深いね〜。
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2016年01月13日

斉藤一人さん「しあわせは、あなたの心の感度や感性によって決まってくる」!グッとくる一言だね〜。

最近、うちの嫁がはまっている斎藤一人さんの
本を読んでいる。

これが、すばらしくいい。

「大丈夫だよ、すべてうまくいっているからね。」
という本の中で、とてもいいことが書いて
あったので紹介したい。

しあわせとは探すもの”である

不幸な人って、幸せの探し方がヘタなんです。
「アジの開き」だってつくるのに大変な手間がかかっています。
そのことを思って食べると「しあわせだなぁ」と思えるんです。
 水道の蛇口をひねれば水が出るのだって「しあわせ」だよね。
昔はわざわざ川まで水を汲みに行っていたんですから。
 さらに言えば、世界には飢えに苦しんでいる人が約8億人、
慢性的な栄養失調の人が約20億人いると言われています。
 世界各地でいまだに紛争が起こっていて、いつ銃撃戦に
巻き込まれたり、爆弾を落とされたりするかもわかりません。
 それに比べれば、私たちは平和な日本に暮らせてしあわせ、
生きているだけでしあわせだと思えます。
 しあわせって、しあわせと思える感度が高いか、低いか
なんだよね。そして「しあわせ」とは、与えられるものではなく、
”探すもの”なの。
 些細なことがあるたびに「不幸だ、不幸だ」っていう人が
いるけれど、しあわせな人にも不幸な人にも起こることって、
そんなに変わりはありません。
 それでも、しあわせと思える人のところに、しあわせって
引き寄せられてきちゃうんです。完全無欠の幸せを探して
みたってどこにもないから。
 神様だってね、「しあわせ」というものをくれるわけでは
ないんだよね。「しあわせ」に変わるものをみんなに
くださるんだよ。
 性格だって、この世の中に完璧な人なんていません。
誰にでも欠点の一つやふたつはあるものなの。
 細かいことを言わなければ誰だって「いい男」だし、
「いい女」なんです。それを「こういうところが良くなって
くれたら」とか「ああいうところを直してくれたら」とかって
言っていると、いつまでたってもきりがありません。
 しあわせっていうのは、50点か60点でいいの。
完璧を求めすぎると、しあわせになんかなれないよ。
 サッカーが好きな人って、相手から邪魔されたりすることですら、
おもしろさを感じます。だから人生も邪魔する人が現れたら
「これでもっとおもしろくなるぞ」って思えると、あの人の人生は
ますますおもしろくなるんだよね。
 人って誰でも、ものすごく可能性を秘めています。それを
”ちっちゃく”まとめようとするからだめなんです。
「ここがダメ」とか、「あそこがダメ」とか言っていると、
どんどんちっちゃくなっちゃうんだよ。もっと大きく、
大らかに物事を捉えていこうね。


斉藤一人さんって、いいね〜。

幸せを感じるれるのも人間力なのかもしれないね〜。
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2016年01月08日

ブッダは説く!「愛とは煩悩なり」、、、。

先日、テレビをつけると、女子アナが並んで座っていて、
「恋ばな」に、花を咲かしている。

「わたし、彼氏に上手く甘えれないんですよね〜」とか、
二人きりでいるとき、
「チューしよ〜、チューしよ〜と、迫ったら、敬遠された」
とか、司会者が面白おかしく、いじくり倒す。

見ている分には、とても面白いし、大笑いしながら、
そのひと時を楽しんだ。

最近の歌にしても、「愛」の歌がとても多い。

テレビをつけても、映画を見ても、音楽を聴いても
「愛」、「愛」、「愛」、、、。

そこまで、「愛」を大安売りのように連呼すると、
最近の「愛」と言葉自体が、軽くなった気がしてならない。

一人の人に対して、その「愛」という気持ちが継続でいるのか?
互いに一緒にいることで、支え合え続けることができるのか?

実際に、今、離婚率は、40%と聞く。

その「愛」を語る芸能人なら、さらにその比率は高くなる。

「愛」について、あまりにも妄想をひろげすぎていれば、
結婚など、まず失敗する。

こないだの年末、朝の連ドラ「マッサン」の
総集編をやっていた。

私にとっては、マッサンはとてもいい作品であったが、
私以上に、連ドラ歴の長い、うちの嫁には不評だった。

私が、そののマッサンの総集編を見ていると、横から
「そう、そう、こういうところが女には受けへんねん」
と、何度も何度も、口をとがらせて言ってくる。

女性が、自分のことを犠牲にしてまで、
相手の夢の為に尽くす。

また、特にエリーがマッサンのお母さん、姑さんに
いびられるシーンを見ながら、

「ほんと、マッサンってだらしな〜、もっとしっかりしなかんわ」

と、何度もつぶやく。

マッサンの嫁と認められず、女中ということなら、
マッサンの実家に泊まることを許される。

マッサンも、説得するのであるが、
なかなかそこのお母さんが頑として
「外人をうちの嫁と認めるわけにはいきません。
女中としてなら、うちの泊めることを許します」
の一点張り。

そんなこんなで、数日たち、あまりにもひどい仕打ちなので
マッサンが、エリーに対して
「エリー、もういい、大阪に帰ろ」
という。

エリーは、たどたどしい日本語で
「マッサン、大丈夫、大丈夫、私、女中頑張ります」
と、逆にマッサンを励ます。

そして、雑巾がけや料理など、必死に覚えようと
努力を続ける。

確かに、女性から見れば、こんなシーン
いたたまれないのかもしれない。

しかし、本当に人を愛するということは、
相手の大事にするものに対しても、できる限り
ことをすることで、真の夫婦の信頼関係ができるのでは
なかろうか。

エリー自身も、マッサンと結婚し、母国のスコットランドを
発つときに、母親の大反対を押し切って、日本に来た。

ある意味、親を捨てた身だ。

そのつらさは相当なものだ。

では、愛する人に、同じような思いをさせたいのだろうか。

それとも、
「私も親を捨ててまで、こっちに来たので、
おまんのおかん、なんとかせ〜」
と、迫るのか、

果たして、どっちが夫婦の信頼関係を強固なモノにできるのか。

継続できる愛とは、また人生のパートナーを作るために、
どのような努力をするべきなのか。

ただ、「甘えた〜い」とか、「チューした〜い」とかなら、
ペットで十分。

結婚ともなれば、現実の問題が波のように押し寄せてくる。

最近、爆笑問題の田中氏と結婚した山口もえさんがこんなことを
言っていた
「うちの主人は、とても心が広い人。
うちの主人が最初に付き合うことを申し込んでくれた時に、
はっきり言って恋愛の対象外でした。それに子育てに没頭する
毎日だったので、断りました。しかし、うちの主人は、
『そんな子供をも大事にするもえちゃんが好きだ』と、言って
くれました」

と、、、。

相手が大事にするものを大事にする、これって
夫婦の信頼関係を築くのに、とても大事なこと。

もちろん、受け入れられないこともある。

それでも、できる限りのことをするのとしないのでは、
かなり違ってくる。

そういう姿勢を長い時間をかけて、貫き通せれば、
初めて、互いのことを理解し合える関係が築ける
ような気がする。

例えば、相手の親を大事にする、家族を大事にする、
そうすれば、相手に対して自分の主張の方も
通しやすくなる。

逆に、「私よりも親が大事なの?」とか、
「おれより、子供が大事なのか?」
なんて主張するよりも、相手の家族を大事にした方のが、
爆笑問題の田中さんではないが、信頼を勝ち取ることが
できる。

「自分を捨てよ〜」、「自分の殻を脱ぎ捨てよ〜、そこから道が開ける」
と、神様は言っている。

最近、幼い子持ちの女性と付き合っている若い男性が、
その幼い子に覚せい剤を打ったというニュースを聞いた。

何というおぞましいことだ。

「愛とは覚悟だ」と誰かが言っていいた。

確かにそうなのかもしれない。

好きだ、はれたといっても、そう長いこと続かない。

それよりも、長いことかけて、いい関係を築き上げる、
その覚悟が必要のような気がする。

結婚ともなれば、相手の嫌なところを
付き合っていかなくてはならない。

そんな時に、辛抱できるのかどうか、
そのためにも「覚悟」というモノが、
必要だ。

ブッダは「愛」というのは、煩悩であると説く。

「ブッダ、真理のことば」(花園大学教授 佐々木閑著書)

この本は、NHKの「100分de名著」のテキストブックによると
こんなことが書いてあった。

意外にも思われるかもしれませんが、「愛」も無明の子分です。
我々は愛というと美しいものをイメージしますが、仏教では
必ずしも良い意味ではなく、色欲や所有欲などに結びつく
煩悩としての側面の方が大きいのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
慈愛や仁愛という意味で、他者の幸せを願うぶんにはいいのですが、
相手をこちらに振り向かせたいとか、相手の気持ちを他へ向かわぬ
ようにしたいなどと思ったら、それはもう煩悩です。
それがかなわぬと、もっと苦しい嫉妬という感情が起こり、
「がんじがらめ」なるのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・

なるほど、なるほど、、、。

しかし、若いうちのその煩悩に、惑わされて結婚したとする。

私は、これも「縁」なのではないかと感じる。

問題は、そこからどのように信頼関係を築き、尊重し合える
継続できる「愛」にもっていくのか、それには、多大な
労力と時間が必要であろうが、腹をくくってやってみる価値が
あるのかもしれない。

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2016年01月03日

「空」の原理!「自分など何もない」とトコトン自己否定するブッダの教えが、心を解き放す!

年末、家の大掃除をしていると、むかし、読んだ本に出くわす。

「ブッダ、真理のことば」(花園大学教授 佐々木閑著書)

この本は、NHKの「100分de名著」のテキストブックであるが、
再度読み返すことにした。

最近、つくづく仏教に引かれる。

平均年齢から言えば、残りの人生あと30年ほど、、、。

最近、時間など、ものすごいスピードで過ぎていく。

残りの人生、残された時間、どう使い切るか?

つくづく、考えさせられる。

焦ってもしょうがないが、一つ言えることは、
残りの人生を使い切るためにも、心をしっかりと整える
事が大事だと思う。

自分の「モノサシ」一つで、世の中の見方など、
全く変わってくる。

人に出会うにも、何かを経験するにも、苦難に遭遇しても、
心あり様で、大きく変わってくる。

仏教の教えとは、長〜い、長〜い、年月をかけて
先人たちが、積み上げてきた心の整理の方法であり、
現代社会にも十分役に立つ。

ただ「宗教だから〜」と、毛嫌いするには
いささかもったいないような気がする。

キリスト教であろうと、イスラム教であろうと、
科学であろうと、なんであろうと、「自分が使える」と思えば、
何でも吸収すればいい。

心の垢を一つ取り除く、自身を縛り付ける糸を一つ一つ、
取り除いていく、そうすることにより、真の自由というものが、
階段を上がっていくように、開放されていく。

その「ブッダ 真理のことば」のテキストブックの中で、
今日は「諸法無我」という言葉を紹介したい。

「この世に『私』という絶対的存在など、どこにもない」
というのが、その言葉の意味らしい。

われわれはふつう、自分の利益のため、自分の功名のため、
自分の楽しさのため、自分の幸せのため、、、と、
なにごとも自分を中心に置き、自分に都合のよい方向でものを
考えます。ところがブッダは、そもそも自分などないのであり、
ありもしない自分を中心に世界をとらえるのは愚かのきわみだと
説きました。 
 われわれはまず、自我というものを世界の中心に想定し、
そのまわりに自分の所有する縄張りのようなものを同心円上に
形作っていきます。そしてそのいちばん外側に、世間と
呼ばれる一般社会を配置します。自分はこの世界像の
主(あるじ)ですから、手に入っていないものがあったら
手に入れ、意のままになる縄張りの部分を増やして
いこうとします。これが執着です。
 すなわち、執着とは、この「自分中心」の世界観から
発生するのです。自分中心の考え方に立つ限り、欲望は
消えませんし、きりがありません。
 しかし、ここでその中心人物たる自分を、
「それは実在しない仮想の存在である」として、その
絶対存在性を否定してしまうと、まわりにある所有世界も
自然に消えます。自分というのは、本質のない仮想存在
なのですから、当然、それを取り巻く世界も仮想だという
ことになり、執着もおのずと消えるわけです。

なるほど、なるほど、、、。

よくよく考えてみれば、不安、怒り、嫉妬など
煩悩に心が占領されればされるほど、自分という意識が
非常に強くなり、周りが見えなくなる。

それらの煩悩は、違う言葉いえば、「執着」だ。

例えば明日の仕事が上手くいくか「不安」になる、
後輩が生意気な言葉を口にすると「怒り」を感じる、
彼氏のところにただ知り合いの女の人から電話が
かかってくると「嫉妬」で頭が一杯になる。

不安も仕事が上手くいかなければ、かなりショックで自分が傷つく。

後輩が生意気な言葉を発すれば、自分が馬鹿にされているようで
怒れてくる。

彼氏が自分だけを見てくれていない、自分以外の人に取られてしまっ
たら、気が狂いそうになるであろう。

不安も、怒りも、嫉妬も、結局は自分が惨めになることに対する
恐怖であり、自己防衛本能とも言える。

自分を外敵から守る、それが煩悩の正体であり、
ではその自分という存在、自分という意識を薄めてしまったら、
どうなるだろうか。

では、その「自分」っていったいなんなの?

人間とは、「人格」なのか?、「身体」なのか?

「身体」と言ってもそのほとんどが、その大元は、どこにでもある
「二酸化炭素」「水」であった。

そして、死ねばまた二酸化炭素と水に戻るだけ、、、。

もしかしたら、私の体に取り込まれた二酸化炭素は、
そこのねずみの中に入っていたのかもしれない。

私の中に入り込んでいる水は、元はその川の水で
あったのかもしれない。

回り回って、今、私の中に取り込まれているだけである。

さらに、人間の体の中の細胞というのは、数年も経てば、
そのほとんどが新しいモノに、総入れ替えされているという。

では、数年前の私と、今の私って、本当に同一人物と
言えるのだろうか?

体の細胞は、総入れ替えされているのに、記憶というのは、
人間の心の中に残る。不思議だよね〜。

人格というのも、徐々に積み上げられていくものだ。

ある精神科医が
「人間とは、著しく周りから影響を受けている」
と、言っていた。

確かに、その通りだと思う。

よく、鹿などが、産み落とされた瞬間に立ち上がり
歩き出す。そして、すぐに自分で餌を食べるようになる。

人間はどうか?

歩き始めるまで、2年ほどかかる。

それで終わりかというと、周りから言葉を覚え、
字を覚え、数字を覚え、計算を覚え、
自転車の乗り方、箸の使い方、食事の作り方、
掃除の仕方、風呂の沸かせ方とありとあらゆることを
覚えながら、一人前になるまでに20年ほどかかる。

つまり、周りから著しく影響を受けていることになる。

ふと最近思う、おじいさん子である私は、
齢を重ねれば重ねるほど、おじいさんの考え方が
しみ出てくるようだ。

おじいさんの影響を明らかに受けている。

おじいさんだけではない。

祖母、両親、叔父叔母、兄弟姉妹に友人、同僚、上司、先輩、先生
などなど、今まで生きてくる中で、どれほど多くの人から
影響を受けてきたことか。

さらに、本などの文字を通じて、はるか昔の
親鸞さん、道元さんなどなど、多くの昔の人の
思想も私の中に入っている。

先ほど、私はおじいさん子であり、おじいさんの影響を
多く受けているといったが、そのおじいさんでも、
その両親である私から見たら曽祖父、曾祖母の影響を受けて
いるであろうし、おじいさんを取り巻く多くの人から、
多大な影響を受けていることになる。

また、曽祖父もまた、同じように、その時代の多くの人から、
影響を受けている。

日本人なら、日本人らしく、
中国人なら、中国人らしく、
その社会にふさわしく、いわば代々続く、
社会の中で、私も、父も、祖父も、曽祖父も
大きな影響を受けてきて、今、私という人格が
形成されている。

その私でさえ、祖父だけではなく、多くの人から
何重にも重なりながら影響を受け、その人たちも、その人を
取り巻く多くの人から、いろんな影響うけて、
その人の人格というモノが形成される。

そう思うと、「私」って、いったい何なの?

「私」というモノが存在するようで、存在しない、
そのつながりというのは、現在、そして過去も通じて、
とてつもなく多くの人が、今の私という「人格」を
形成するのに携わっていることになる。

そういうことであれば、ブッダが言うように、
「私などない」ということに
なるのでは、、、、。

では、先ほどのテキストブックに戻るが
「諸法無我」について、こんなことが補足されている。

「諸法無我」とは、この世のどこにも絶対的な自己存在など
ない、というのですから、ある意味、究極の自己否定とも
いえます。たとえば西洋世界には「我思う、ゆえに我あり」
などという言葉があり、人々は、当たり前のように自我の
探求をしてきました。ブッダの考え方は、こういった
姿勢とは正反対のものです。
 しかし、そういう極端な自己否定を土台とすることで、
人ははじめて世の現象を本当に客観的に見つめることが
できるとブッダの思想は、説得力があります。自己中心的
なものの見方を捨てた時、世のありさまの真の姿が
見えてくる。そうすれば、自分が為すべき正しい行動も
分かってくるということです。


もしかしたら、私を捨てることにより、
心が軽くなるのでは、、、。


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2015年12月24日

神に好かれる人とは、、、。

「神は、必要な時に必要なことを与えてくれる」

と、誰かが言っていたが、とても深い言葉に思える。

人って、それぞれ、その思考パターンというのは、
持って生まれたモノ、もしくは環境に大きく左右される。

例えば、私の場合であると、「頑固」というのは、
もって生まれたモノだ。

頑固というのは、厄介なモノでなかなか人とは妥協できない。

そのおかげで、どれだけ人と対立してきたこことか。

しかし、逆に言えば、自分の意思を大切にするということ。

もし、対立をなるべく避けるには、その意思をしっかりと整理すること。

本当に、そんなことでこだわる必要があるのか。

「こだわり」の中でも、いろんなものがある。

ちんけなプライドであったり、その正体は自分自身の恐怖や不安であったり、
もし、そんなものをそぎ落としてしまえば、かなり自身の
「こだわり」というモノが、整理される。

整理するにも、しっかりと視野を広げなければならない。

それには、常に本を読む癖をつけ、いろんな人に会い、
いろんな体験をすること。

より見識が広がれば、自分の頑固さを押し通す時と、
引っ込める時の判断が付きやすくなる。

それと、まず第一に、その頑固さという特徴をを自分自身が認めること、
それに合った生き方に変えていくこと。

例えば、自分の主張を押し通しすぎて、人と対立することもある。

そういう時は、あとくされないようにする、
仲直りを上手くやれるようにする。

そういうことに気を付けるだけで、だいぶ違ってくる。

さらに、信頼関係というのは、とても大事。

自分の意思を貫きたいのであれば、たとえ失敗するとは
分かっていても、まずは大きく相手に譲る。

そして、その人と一緒に失敗してみる。

トコトン付き合ってみる。

そこからが、新たな信頼関係を構築するチャンスだ。

もしかしたら、近い関係の人というのは、
こういうことの繰り返しなのかもしれない。

子育てなんかというのは、そういうところがあるのでは
なかろうか。

このようなことを、私の人生の中で、何度も、何度も失敗を
繰り返す中で、学んできたことだ。

何かトラブルを起こす、しかし、今になってみれば、
それはチャンスでもあった。

もって生まれた「頑固」というモノが、私という者に
強い執着でしばりつけ、相手を受け付けれない。

今、思えば、神が、
「はよ〜、気付け〜、はよ〜、気付け〜」
と言って、チャンスを与え続けてくれたのかもしれない。

そして、自分自身の特徴を知り、いろいろと学んでいくと、
やはり心がかなり軽くなる。

それになんだか、運もついてくるし、健康でいられる
ような気がする。

神が好む人というのは、なるべく自身の煩悩から解放している人。

与えたチャンスを上手く、つかめる人。

いつまでも、ウダウダ言っているようでは、そのチャンスを
逃してしまうような気がする。

それに、私もあと30年ほどで、この世とは縁が切れ、
「死」というモノを受け入れなくてはならない。

もしその時に、自身の魂が何らかの執着に、強く束縛されていれば、
あの世へ旅立つことができるのだろうか?

浮遊霊というモノが存在するのであれば、
怒り、悲しみ、不安など、煩悩にとらわれすぎて、自分自身から
離れれることができなかった人の強い念がこの世に存在するのでは
なかろうか。

いざ、死を迎えるときに、自分自身から離れることができるのか?

自分という意識から、離脱できるのか?自我から離れられるのか?

昨日、さんまさんのテレビで、
又吉さんががいいことを言った。

「生きていくうえで、大事な何かとは何ですか?」
という質問に対して、

又吉さんが
「自分はみんな」
というようなことを言った。

とても、深い言葉で、もう少し話を聴きたかったが、
ある心理学の専門家が、又吉に対して
「すばらしい病気ですね。もっと、具体的な
対象を持つべきです。例えば、結婚して子どもを持つとか」

とか何とか言っていたが、果たしてそれだけで
十分なのだろうか?

生きていくうえで、もっと根本的な何かがないと、
たとえ子育てをしていても、間違った方向に
向かってしまうことも、十分ありえる。

いろんなことを学んでいる又吉らしい言葉であったが
「自分はみんな」というのは、自我から離れろっと
いう意味ではなかろうか。

人間だれでも、最終的には、すべてを捨てて、
あの世に旅立つことになる。

そうなることが決まっているということを深く認識すれば、
この世のさまざまなモノに対する執着が薄まるのでは
なかろうか。

いかに客観的に身近に起こる出来事を、見ることができるのか。
自分の怒り、悩み、恐怖に対して、いかに客観的に接することが
できるのか。

それができる人というのは、自分の周りの人に対しても
いい影響を与えることができる。

仏教用語で「無明」という言葉がある。

ある本にこんなことが書いてあった。

煩悩の親分「無明」

「煩悩」と一口に言っても、いろいろなものがあります。
たとえば、強欲とか、傲慢とか、嫉妬とか、数え上げれば
きりがありません。ブッタは、その中でも一番のおおもと
となる煩悩は「無明」だと考えました。
 この「無明」という言葉は、日本人にはなじみが薄い
言葉ですが、ニカーヤを重んずる南方仏教国の人たちに
とっては全くの常識、基本中の基本です。「明」という
単語は智慧(ちえ)という意味なので、「無明」といえば
「その智慧がない」ということ、つまり「愚かさ」を意味
します。「愚かさこそが諸悪の根源」、「煩悩の親分」と
いうわけです。
 ただし「愚かさ」といっても、それはたんに知識が
足りないとか、学がないといった表層的な意味では
ありません。ものごとを正しく、合理的に考える力が
欠如しているという本質的な暗愚(あんぐ)を
さします。


神に好かれる人というのは、煩悩から離れれる人、、、。

自分という意識から、離れることができる人、、、。

光り輝いている先人たちが築き上げてきた叡智に
溶け込める人。

そのためには、真理を追求し、その本質を見抜く力を
つけること。

それが智慧なのかもしれない。

智慧を学び続けることこそ、人生の意義であると感じる。

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2015年12月16日

現代人にとって、心に「神」は必要か、、、?

毎朝早朝、会社に行く前に、我が家の仏さんをお参り
母屋に行く。

そこには、だいたいうちのオヤジが仏壇にご飯をお供え
している。

「ナンマイダ〜、ナンマイダ〜、ご先祖様、おじいさん、
おばあさん、、、」

と、お参りをしている。

だいぶ認知症が進んでいるが、オヤジの口癖は、
「ご先祖さんが守っとってくれている、
おじいさん、おばあさんが守っとってくれている」

と、毎日のように言っている。

これは、日本人の伝統的な「ご先祖さん信仰」であり、私にも
確かにそのような所がある。

何か見えないものに、
生かされている、
導かれている、
守られている、
と思えば豊かな人生が過ごせるような気がする。

そのように思えるようになれば、
何か見えないものに対して「畏敬の念」が生まれ、
自身の弱さを知り、感謝の心がめばえる。

「あ〜、ありがたい」と感じることのできる人、
出来ない人の違いというのは、けっこう大きいような
気がする。

心の中に、何か見えないものの存在、、、。

神なのか、仏なのか、キリストなのか、
そのようなモノを持つということは、
人間として強みになるのでは、、、。

それがもし、身近な存在であれば、より
「自分が守られている」と思えるのではなかろうか。

私は、度が過ぎるほどのおじいさん、おばあさん子であった。

うちの母も「あんたは、おじいさんに育てられたようなもんだ」
と、よくいっている。

おじいさんが、病気になるまで、私が20歳ごろまで、
祖父母と川の字になって、寝起きを共にしていた。

そして、小さい頃から聞かされていたのは、
神様、仏様、ご先祖様の話、、、、。

「ご先祖さんが守っていてくれている。氏神さんが
守っていてくれる」

そんなことを毎晩のように、語られていた。

今、振り返れば、それも一つの宗教教育だったのかもしれない。

その祖父母が亡くなり、今では私のご先祖様となられた。

だんだんと歳を重ねていくと、祖父母の言葉がボディーブローのように
効いてくる。

そして、今、そのおじいさん、おばあさんと寝起きを共にしていた
我が家の離れに住んでいる。

この離れは通称「座敷」といい、祖父母の思いがこもったものだ。
「この座敷はな〜、牛坊飼って、豊田に運んで、それで建てたんじゃよ〜」
と、毎晩のように聞かされていた。

ここに住んでいると、すでに他界している祖父母が、
気配を感じるような気がする。

そんな祖父母に、私は常に見守ってくれていると、
感じる。

科学をさんざん学んできたもう一人の私は、そんなことただの思い込みに過ぎない
とも感じる。

しかし、もし思い込みでも、心の中に神のような存在を持ち、
その神が自分を守っていてくれるというような感覚がもてれば、
困難にも立ち向かう勇気がわくのではなかろうか、、、。

それも一つの思考方法である。

毎日、毎日いろんなことが怒涛の如く起きる。

それにどう立ち向かうのか、どのように心を整えるのか、
もし、心の中に誰かがいて、自分を守っていてくれると
感じれば、心強いのではなかろうか。

人間は、有史以来、神が存在した。

心の安定や困難なことに立ち向かう思考方法としても、
伝統的な方法であるが、心の中に神の存在というのは、
必要なような気がする。

その神が月謝の高い、信仰宗教である必要はない。

自分をかわいがってくれた祖父母、父、母、
身近な氏神さん、毎日通う道におられるお地蔵さんでもいい。

用はいかに身近に感じるか、いかに自身に信じ込ませる
ことができるかである。

伝統的な宗教というのは、それほど捨てたものではない。

アインシュタインが
「進んだ科学の使い道は、宗教が決めること」
と、語っていたそうだ。

最近、何か見えないものに対し、「畏敬の念」というモノが薄れ、
このままでは、我々が住む生態系を喰いつくしてしまう。

大きく人の心を方向転換するには、宗教の役割が大きいような
気がしてならない。



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2015年12月05日

持続可能な「幸福論」、、、。

 先日の土曜日の早朝、ラジオ放送、「なぜ生きる2」。

これがまた良かったので紹介したい。 

ジュニアバンタム級世界チャンピオンになったボクシングの鬼塚勝也選手に
ついて、語られていた。

 少年の頃、世界チャンピオンはスーパーマンみたいな存在やと思ってきた。
俺にとっては神様に近い存在ですよね。凡人の俺が、そんな凄い場所に
辿りつくことができたら、いったいどんな凄い人間になれるんだろう。
そのことだけを励みにここまで頑張ってきました。
しかし、試合に勝ってはみたものの、あるはずのものが何もないんです。
「エッ、何なのこれ?なんで、何もないんや?」
「いや、次勝てばきっと何かが得られる」
そう信じて、次から次へと試合を積み重ねていきました。だけど何も残らない。
試合が終わった夜は、生き残れた実感と自分が探し求めたものが何もなかったと
いう寂しさで発狂しそうになりました。俺は常に素直に飛び跳ねる自分で
おりたいのに、充足感がないから、「何でや?」という思いばかりが
虚しく深まっていく。最後の試合までずっとその繰り返しでした。
  (『週刊文春』平成6年11月)


世界の頂点を極めても「充足感」がない。

人間とは、いつになったら「満たされる」というような
感覚になるのであろうか。

到達した時点で一時の達成感、、、。
そして、そのあとの猛烈な恐怖と不安、、、。

「世界チャンピオンは、スーパーマン」、、、、。
「世界チャンピオンは、神さまに近い状態」、、、、。

そのような自分が抱いてたイメージとはかけはなれ、
充実感などなく、次なる恐怖と不安を抱えなくてはならい。

どんなに世界のトップに立とうと、
どんなに莫大なお金を持とうと、結局、恐怖や不安からは
解放されない。

逆に、しっかりとした心の準備ができていないと、
そのようなご褒美をもらったことで、
人生を狂わせた人など、星の数ほどいる。

不安や恐怖、そのような煩悩というのは、
一生付きまとうモノ。

では、どのように付き合っていくのか、
どのように飼いならすのか、

よくよく、研究する価値があると思う。

不安に心を占領された人の大きな特徴が二つある。

それは、周りがまったく見えず、「自意識過剰」になる。

そして、もう一つは「悪いところにばかり意識が集中する」ということだ。

あるテレビ番組での話。

その中で、少しポッチャリ気味だけど、エクボが素敵で、
可愛らしい若い女性が、泣きながら整形の必要性を訴えている。

彼女の主張は、このポチャリ体形で、どれだけみじめな思いを
してきたか、そしてこれさえクリアーできれば、
幸せになれると、、、。

確かにポッチャリではなるが、そんなみじめなスタイルではない。
むしろ、容姿もいいし、整形の必要性があるとは思えない。

それに、何でもやれる若い時代に、そんなことで頭を
いっぱいにして、悩んでいるなんて、もったいない限りだ。

そのようなことを出演しているパネラーがアドバイスしても、彼女は
頑として受け付けない。

自分という意識が強すぎる、
周りが見えていない、
そしてポッチャリという欠点に
意識が集中しすぎている。

まるで過剰に反応し、自分自身を痛めつけているようだ。

では、どうしたらいいのか。

この「自意識過剰」、「悪いところに意識が集中する」と

では、その逆なことをすればいい。

自意識過剰から、周りに意識を持っていく。
悪いところから、良いところに視点を合わせる。

人のいいところを見つけるようにする、
そのいいところを伸ばすように心がける、
また、それを喜びにする、

これらのこと、習慣にすれば、自分も変わり、
周りの自分に対する態度も、大きく変わっている。

心が不安に占領されれば、まるで牢屋に閉じ込められているようなもの。
それは、あなたの癖である。

その癖を直せば、もっともっと自由になる。
もっともっと、楽しくなる。
もっともっと、周りと調和できる。

やる価値は十分あると思う。

どうすればいいのかというと、

例えば、あの日本全国、講演活動で飛び回っている鴨頭嘉人氏が
やっている「ハーピーマイレージ」活動など、非常に参考になる。

コンビニ、キヨスク、ファミレスなど、サービス業に従事する人から、
ホスピタリティにあふれるサービスを受けたとき、
「ハッピーマイレージの赤いカード」を渡す。

笑顔の素晴らしい店員さんに「元気もらいました!ありがとう!」というような
気持ちをお客さんの側から、伝える「承認」する活動だ。

お金を払っているのだから、当たり前とか、
ただ機械的に注文を取り、サービスをするだけでは、
どこか無機質になってしまう。

そのようなアクションを起こすことで、スタッフ側も、さらなる
やる気が生まれ、サービスされる側も、心のこもった
おもてなしを受けることができる。

好循環を引き起こすことになる。

鴨頭さん自身も、前は日本一の売り上げを誇ったマクドナルドの店長で、
サービス業に精通した人だ。

おもてなしで、人々を幸せにする、と頑張っておられる。

鴨頭さんは、野球の強い名門高校の野球部の出身で、
なんと補欠なのにキャプテンを務めていたという。

それだけ、人を励ますこと、そのことを喜びにできる人、
つまりサービス精神の旺盛な人なのだろう。

鴨頭さんのような大きなことは出来ないが、
そのような精神で生きること。

余のため人の為に生きるということ、一昔前の日本人なら
当たり前のことであった。

「情けは、人のためならず」
という言葉があるが、ある精神科医が言っていたが、
「人間とは著しく周りから影響を受けている」という。

周りをなるべく活かすように心がければ、そこから
また自分もいい影響を受けることになる。

さらに、自分のいいところを褒められれば、
「この人、自分のことをよく見てくれているな〜」
と、信頼関係が生まれるのでは、、、。

また「、人の好意を素直に受けれる」っていう人の方が、
成長する力があるように感じる。

そのような人の気持ちを理解するのに、一番手っ取り早いのは、
自分もそのようになること。

私は、ニュージーランドの一年いたことがあるが、
その時に農場から農場へと、ファームステイをしていた。

100ccのバイクにまたがり、ニュージーランドの田舎町を転々としていた。

その時、ある農場から、次の農場へ移るとき、
きれいな湖があった。

夕方5時ごろ、次の農場までは、約25km、バイクで走りつかれたので、
その湖のほとりで休憩しようと、バイクを止めた。

そして、一服して、戻ってくると、バイクが倒れている。

その後、1時間くらい、かけようとしたが、バイクがウンとも
スンともいわなくなってしまった。

もう、しょうがないので、バイクを押して、次の農場まで
歩き始めた。

歩き始めたといっても、あと25kmの距離、
そして、だんだんと薄暗くなってくる。

車も、30分に一台くらいしか通らないような田舎、、、。

歩き始めて、一時間ほどしたら、後ろから、小型のトラックが
フォンを鳴らして止まってくれた。

運転手さんが、親指を突き立て、笑顔で、
「乗れ」っというようなジェスチャーをしてくれている。

二人で、バイクを荷台にあげ、助手席に乗せてくれた。

なんと運よく、その人は、私が向かう次のファームの
すぐ隣の住人であった。

何度の車の中で、「ありがとう、ありがとう」を繰り返したが、
その人が言った一言がとても印象的だった。

「いいか、世の中には、助け合いのサイクルがあるんだよ〜。
俺も、元ヒッチハイカーで、いろんな人にお世話になりながら、
いろんなところを旅した。だから、今、俺はお前を乗せる。
そしてお前も、もし困っている人がいたら、助けてやる。
それが、助け合いのサイクルであり、お前も今日から、
その仲間だからな〜」
と、、、。

究極に困っていたときであり、その一言が、胸にしみるように
感動した。

「助け合いのサイクル〜」
なかなかいい言葉ではなかろうか。

他人とは、所詮は自分の鏡である。

自分の主観一つで、どうとでも世の中の見方が変わる。

知識やいいアイデアなど、みんなに広めよう広めようとする人ほど、
そのような情報が自然と集まってくる。

周りを活かそう、助けようといつも思って行動していれば、
そういう人たちの輪の中に入ることができる。

人間である以上、いつかは必ず「死」がおとずれる。

それは、だれであろうと避けられない。

それなら、いつまでもこの世のことにこだわっているより、
天への貯金に励んだ方のが、いろんなことが上手くいくのでは
なかろうか。
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2015年11月26日

「ツキまくっている」と思える人間力!

今日も、朝5時ごろ目覚める。

今日も朝を迎えることが出来た。

そして、呼吸ができる。
手が動く、足が動く。

起きてみて、水道の蛇口をひねれば、
飲めるほど,きれいな水があふれ出る。

炊飯器の蓋を開ければ、ご飯が炊けている。

ご飯に納豆、朝飯はこれにかぎる。

トイレに行き、便座に腰を下ろす。

グッと踏ん張れば、今日も快便だ。

この瞬間、いつも亡くなった伯母のことを思い出す。

5年ほど前、すい臓ガンでなくなった。

闘病生活中に、うちの家に電話がかかってきて
「便が出た、便が出た」
と、大喜びであった。

すい臓が衰退すれば、便も出なくなる。

そこで、薬を投与し、一時的に便が出たのだが、
普通に考えれば、汚らしい大便のことでも、
大喜びの伯母、、、。

便が出るのも、胃や大腸など、内臓系がしっかりと
機能しているということだ。

内臓を患って、苦しんでいる人がどれだけいることか、、、。

喘息のうちのオヤジ。
夜中目覚めると、息が出来ない時があったとのこと。

あまりにも苦しくて、もうだめだと思い、
仏壇の前で、しばらく「南無阿弥陀仏」と唱え
ながら、もがいていたことがあるという。

息ができること、手が動くこと、足が動くこと、
健康でいられることが、それだけでも、いかにありがたいことか。

世界には、多くの人が水不足で苦しんでいる。

水道の水が飲め、そのきれいな水で風呂水、
そして便所の水洗の水にまで使っている我々日本人。

オヤジの昔話を聞けば、そのほとんどが、食べ物の話だ。

それだけ、昔はみんな飢えていた。

時代的に見ても、これだけ食べ物が豊富にある時代は
今までない。

世界を見渡しても、何億という人々が、餓えに苦しんでいる。

これらのこと、もう一度よくよく考えてみれば、
これだけのことでも、我々って、つくづく幸せだよな〜。

この時代に生まれてきたこと、そしてこの日本に生まれてきたこと、
つくづく、ついている。

しかし、ほとんどの人が、何らかの悩みを抱え、
そのことで、心を占領されている。

幸せかどうかなんていうのは、その時々の解釈で、
いかようにも変わってくる。

では、神様の立場に立ってみて、どう思うだろうか?

いろんなものを与えて、その価値が分かり、感謝できる人。

その価値が分からず、いつまでも経っても、何らかの悩みから
解放されない人。

どちらを好むのであろうか?

自分は、ツイている、ツキまくっている、そう思える人こそ、
神様がくれたチャンスを最大限に生かすことができる。

うちの会社の92歳になられる会長さん。

中小企業の経営者であり、毎日、いろんなことが起こる。

不良品が出たり、機械が壊れたり、いきなり取引が停止になったり、
経営判断を一つ間違えれば、会社が吹き飛ぶようなことの
連続だ。

私が「経営者は大変だ」
と、言っても
「わしゃ〜、つらいと思ったことなど、いっぺんも
ありゅせん。わしは、軍隊経験をしているから、あれほど
つらかったことはない。それに比べれば、たいしたことないさ〜」
と、、、。

つらいことを乗り越えた人ほど、現実のありがたみが分かる
モノだ。

また、沖縄で知り合ったある年配の民宿の大将、
その人は、先の大戦で、沖縄戦に従軍し、
何度も命拾いをした人だ。

ある集団でかたまっていると、鉄砲玉が飛んでくる。

その人は、その集団の真ん中にいたのだが、
危険にさらされていた外側の人と場所をかわってやった。

その直後、その集団の真ん中に、爆弾が落ちた。

その人は、生き残ったが、真ん中あたりの人は全滅、、、。

さらに、伝令として走らされているときに、目の前に
爆弾が落ちてきた。
運よく、それが不発弾、、、。

そのようなことを幾度と体験してきたその人は、
つくづく思ったことは
「私は、何者かに、導かれている。
何者かに、守られている。でないと、今ここに
おれなかった」
と、、、。

とてもつらいことでも、つらいと感じない、不幸と感じない。

また、何者かに守られている、と感じることができれば、
たとえつらい人生でも、その中でささやかな幸せを
感じることができるのでは、、、。

人間なんて、その人の捉え方で、幸福感というモノが
大きく左右される。

つらいことでも、あとあと考えれば、その時の体験が
活きてくることもある。

神様は、あなたにいつも必要な時に、必要なモノ(出来事)を
与え続けている。

あなたは、ツイている、ツキまくっている、
そう思える人ほど、運を引き寄せ、運を活かすことができる。

そして、何者かに導かれている、守られているというような
感覚が持てるようになれば、きっとより豊かな人生になる
であろう。

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2015年11月25日

「感謝」の力!

 毎週土曜日早朝、ラジオで放送されている
「なぜ生きる2」、その時間、いつも車の中なので、
よく聞いている。

こないだ、こんなことを言っていた。

「快楽とは、苦悩と苦悩の間、ほんの一瞬味わえるもの」
と、、、。

深い言葉だね〜。

人間とは、「もっと、もっと」の生き物。

何か手に入れれば、それだけでは満足できなくなり、
新たなるそれ以上のモノを求めるようになる。

「もっと、もっと」とは、「欲望」だ。

しかし、「欲望」とは「恐怖」と表裏一体だ。

「もっと、もっと」を、「恐怖」という観点からみれば
「足らない、足らない」になる。

自分が劣っている、自分は満たされていない、
自分は取り残されるのでは、、。

足らないという感情から生まれるのは、このような
「恐怖」である。

では「足らない」の逆は、
「足りている」、もしくは「満たされている」だ。

「満たされている」という気持ちになれば、
出てくる言葉は、「ありがとう」だ。

つまり、「感謝」だ。

ある仏教の教えであるが、
地獄でかまゆでの刑に処されている人がいる。

その人が、火の番をしている鬼に対して
「熱い、熱い」と叫ぶ。

鬼は
「この火は消すことができる、しかし、お前の
心の中の炎は、消すことができるのか?」

と、、、。

「自分が満たされている」と、感じれるのも
その人の能力である。

すべての人が、世界チャンピョンになれるわけではない。
そして、たとえ世界チャンピョンになれても、
その地位を維持し続けることは、不可能にだ。

上ばかり見ていれば、周りが見えなくなる。

足りない、足りないの恐怖心で心を占領されれば、
上手くいくものも行かなくなる。

長いこと、何億の人々の言い続けられてきた
感謝の言葉、「ありがとう」、、、。

この言葉には、相当な言霊が宿り、
パワーがあるのかもしれない。

恐怖をやわらげるのは、「満たされている」という
感謝の気持ち、、、。

では、その感謝の気持ちを表わすには、
「ありがとう」という言葉を、周りに発すること。

ある人が言っていた
「『ありがとう』を一年間で、10万回言えば
幸せになれる」

と、、、。

もしかして、理にかなっているのかもしれない。

それを実行しようと思えば、「ありがとう」という
機会を常に探していることになる。

例えば、いつも無表情で行うコンビニの会計、、、。

お金を払い、袋を手渡された時、
これも一つの「ありがとう」という機会である。

そのように、自然と「ありがとう」といういうことを
心がけるようになり、習慣化してくるのでは、、、。

そうなると、周りが変わる、そして自分も変わる。

感謝の言葉をいつも口に出来れば、口から発し、
その言葉が耳から入ってくる。

そして、相手の表情により、目から入ってくる。

悪口を言い続けるよりも、この方が効果的に
ハッピーになれるのでは、、、。

恐怖で心を占領されていては、冷静な判断など出来やしない。

時には、「満たされている」という心の余裕を持たなくては、
身がもたないし、運をつかむことは出来ない。

神様はいつもあなたに働きかけているのは、
「まあ、ええんじゃない、そろそろ自分を許したれや〜」
ということなのかもしれない。

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2015年11月08日

「すべての人に、好かれたい!!」って、そりゃ無理でっせ!

  ある女性から聞いた話、、、。

その女性はSさんといい、Sさんが若いころ、
会社で事務の仕事をしていて、
同期のWさんと一緒に働いていた。

入社して、2年ほどした時から、そのWさんの態度がなんかおかしい。

話しかけても無視をしたり、メールをしても
返事が返ってこない。

そんなことが、数カ月続いた。

同期であるし、同じ職場で毎日顔を合わせるので、
思い切って、
「私、あなたに何か悪いことした?もしそうであるなら、
謝りたい」

と、切り出したが
Wさんの返事は、「別に〜」ということだった。

いったい、何が悪いのか、見当がつかない。

それからというのも、会社に行くのが苦痛で仕方がない。

一時は、何も食べれない、よく眠れない、
Wさん以外の人も、私を嫌うのではないか、
というような妄想に取り付かれる始末。

その後、数カ月して、他の部署に配属されたので、
Wさんとは、疎遠のまま、2年ほどで、結婚退社して
その後も連絡が取れないままだった。

そして、さらに7年ほどたったある日、ある店先で
Wさんとばったりあったとのこと。

お互い結婚して、子連れで、Wさんの方から話しかけてきたとのこと。

その後、喫茶店で2時間ほどいろいろじっくり話をしたらしい。

その中で、何でWさんがSさんのことを無視するようになったかというと、
Wさん本人から自らの言葉で、「嫉妬」だと語り、その時に
素直に謝ってくれた。

同期で入社し、てきぱき仕事をし、男性社員からも、
ちやほやされるSさん、、、。

なんだか、取り残されたような感じがして、
頭の中では、分かっていても、どうしても抑えきれない
イライラが噴出しそうな毎日であった。

しかし、それから時間が経ち、子育てという現実に没頭している二人。

どこか、昔のことなど、吹っ切れ素直な気持ちで再会できたようだ。

何か問題が起きても、たいがいのことは、時間が解決してくれる。
もしくは、その時間が、問題を和らげてくれる。

また、他のことに集中していれば、意識がそちらの方に向き、
昔のことなど、どうでもよくなる。

今日、言いたいことというのは、集団の中で生きていくうえで、
どうしても、人に嫌われたり、仲間外れにされたりということは、
あると思う。

人と人とが集まれば、互いに自分のエゴというのか、
防衛本能というのか、周りとの摩擦が起こるというのは、
当たり前のこと。

たとえば、老人ホームなどでも、ある男性の取り合いで、
おばあさん同士がケンカすることがあるとのこと。

恨みをかったり、嫌われたり、日常的にあることだ。

逆に言えば、全員から好かれるということが、あり得るのだろうか?
また、その好かれた状態をいつまでも維持できるのだろうか?

もう開き直って、
ある人に嫌われているからといって悩み苦しむよりも、
「生きていく以上、一定の人に嫌われるのは、当たり前」
というような感覚でいた方のが、心への負担が軽くなるのでは、、、。

人気のドラマ、「下町ロケット」の中で、
ある中小企業の会社が、独自の特許を、大手の大企業が
数十億円で買いたいと言ってきている。

数十億円で、その特許を売却するのか、
それとも、特許使用を許可し、そのライセンス使用料をもらうか、
もしくは、その特許の製品を自社で製造し、それをその大手企業に
納めるのか、その中小企業の社長さんは、悩みに悩んでいる。

そして、その会社の社員全員に相談する。

各々の立場があり、そして、そのことにより大きく生活にも
影響しているので、みんな真剣に意見を言い合う。

「決断」の重み、、、。

社長の決断一つで、大きく会社が傾くこともあるし、
社員の生活をも破壊しかねない。

経営者の一番の仕事というのは、「決断」である。

そして、その決断一つで、多くの人に嫌われ、罵倒される、
長年付き合ってきた人を裏切ることになることもある。

「決断」とは、そういうモノ。

普通の人でもそう。

人生において、何度も大きな決断をしなければ
ならないことってあると思う。

私の親しい友人が、二十代の時に自ら命を断った。

その数カ月前に、長年付き合った彼女と別れることになってしまった。

そのことが原因なのかどうか分からないが、
彼女に新しい恋人ができ、別れを告げられたらしい。。

しかし、その彼女の立場に立ってみれば、
20代というのは、女性にとっては結婚適齢期(当時)。

その一生のパートナーを決めるというのは、これも
彼女にとっては、人生最大の決断といってもいい。

その適齢期に、新しく好きな人ができ、正面から
私の友人に別れを告げたこと、これって冷静になれば、
だれも責められることではない。

それに、二股をかけることなく、決められずに
キープ君のようにズルズル私の友人と付き合うのでもなく、
正面から別れを告げた、誠意のある対応では
なかっただろうか。

彼が亡くなり、お通夜にも、彼女は来てくれた。
彼女にとっては、さぞかし来づらかったであろう。

そして、お焼香の順番が私のすぐ後ろで、彼女がお焼香をする
瞬間、そのすぐ前にいた私の友人のお母さんが、大泣きした。

それは修羅場だった。

お母さんにとっても、息子が死ぬなんて、耐え切れないことであろうが、
彼女のとって、心にのしかかるものは、それ相当のものであろう。

分かれて数カ月経つのだが、わざわざお通夜にきてくれて、
そしてお焼香までしてくれた彼女、、、、。

このまま、心に大きな傷を負って、人生過ごすのだろうか、、、。

とても気の毒になる。決断というのは、時には
このような大きなリスクも背負うことになる。

ある人が言っていたが、若いときにフラれた経験も大事だが、
ふる経験も貴重な経験になるという。

別れを告げるということは、その本人とも別れなければならないし、
さらに、我々のようにそ彼の友人、関係者とも
縁が切れることになる。

また、どこかであるのかもしれないし、大体の場合が
恨みをかうことになる。

それでも、決断しなくてはならない。

そんな決断の連続が、人生というモノである。

浄土真宗の開祖、親鸞聖人とそお弟子の唯円さんとの会話の
名での教え。

(親鸞聖人)「唯円、お前は私の言う事を信じるか?」
(唯円)「はい、もちろんでございます。」

(親鸞聖人)「では、今から町に行って、人を〔一千人〕殺して来ておくれ。
 そうすれば、お前は必ず極楽浄土へ行ける。 さあ〜、殺って来い!」
 と、、。
 
(唯円)「・・いっいかに〔お聖人〕の仰せとはいえ、私のような人間は一千人は
    おろか、一人だって殺すことはできません!」と、さけぶ。

(親鸞聖人)「では、どうして先に『ワシに背かぬ』と言ったのか?」
 
(親鸞聖人)「これで解ったであろう・・。
 すべての事が自分の思い通りになと思うなら、往生の為と云って、
 人を何千人でも殺す事ができよう。 しかし、たった一人を殺すだけの
 因縁も、備わっていないからこそ、お前には無理なのだ!
 又、『殺すまい!』と思っていても、百人、千人と殺してしまう
 事もあるのじゃよ。 我々の心が良ければ《善》、悪ければ《悪》、
 と思って、阿弥陀仏の『願い』の不思議さに、助けられている事に気づか
 ずにいる。・・それが良くないというのじゃ。」
 と、おっしゃられました。

これは、浄土真宗の教えで有名なお話であるが、
ここに注目するのは、「因縁」(縮業)である。

よく宗教的な教えによると、「因縁」とは、

物事を生ぜしめる内的原因である「因」と外的原因である「縁」。
事物・現象を生滅させる諸原因とされている。

仏教では、その内的な原因を、前世から決まっていたもの(宿命)とか、
前世からの浅からぬ関係になると、教えることが多い。

例えば、先ほど紹介した同じ会社で働く、SさんとWさんの例であるが、
仏教の教えの解釈としては、この二人は前世の関係で、二人の間で、
このような出来事が起こることが、定められているという。

なぜ、定められているのか、それには、前世に原因があり、
それを解消するために、またそのことを解消することにより、
何らかの「学び」を得るために起こるとされている。

仏教では、このように教える。

そう解釈されれば、心が少し軽くなる。

亡くなられた船井幸雄さんは、
このようなことを、『何事も、必然・必要・ベスト』いい、
次のように解説する。

一見、嫌なこと・不幸なことがおきたとしても、
それは自分にとって、必要なことであり、
必然のことであり、結局はおきてよかった最良のことなのだ。

今起こっていることは、すべて自分が引き寄せたことであり、
良くも悪くも、おこるべくして起こることであって、
そこから学ぶことができる。

仏教は、「因縁」、船井さんは、「何事も必然・必要・ベスト」と
教える。

これって、とても理にかなっている。

例えば、先ほどのSさんの話。

人に嫌われたり、憎まれたりって、どんな人間社会でもあたりまえの
ように、あること。

各々、自分の立場があり、感情があり、そんな人たちが集まれば、
摩擦が起こって当然。

Sさんは、若いときに、同僚に嫉妬により、嫌われ、苦しんだ。

そんなこと、Sさんの人生において、今後も何度も、何度も
起こることであろう。

そのために、もがき苦しむのか。

そして、そのようなネガティブな嫉妬のような感情というのは、
相手が弱々しく、苦しんでいれば、その感情が増幅する。

もし、その嫉妬という感情から解放し、自分を救うのであるなら、
強くなること。

逆に言うならば、そんなことに、まったく動じない人もいるし、
気付かない人もいる。

人間の集団の中で、いろんな感情があり、
日々日常的に摩擦を起こす。

そのような多数の出来事に対して、Sさんだけが、そのことを
引き付けてしまう、そのようにいえるのではなかろうか。

もし、Sさんが、今回のWさんとの出来事で、

「問題は時間が解決してくれる」
「何かに熱中していれば、その問題も解決する」
「すべての人に好かれることなど、ありえない」
そのようなことを、学んだのであれば、
同じようなことが起こっても、素通りできる、
もしくは軽傷で済む。

そして、弱々しくしなければ、相手のその嫉妬という感情も
増幅しないので、Wさんにも、よい効果となりうる。

競争心が強く、「嫉妬」持ちっている人は、何処にでもいる。

そのような人と、どのように付き合っていくのか、
それには、そのようなことを体験し、学ばなくてはならい。

そこで学べば、それだけ自分の心を、束縛から一つ解放することになる。
自由になるということだ。

いつまでも、弱々しくしていれば、嫉妬とか、
いじめの感情を持った人たちを、引き寄せているようなモノ。

嫉妬、傲慢、いじめなど、ネガティブな感情は、誰にでもあるモノ。

ネガティブな感情には、ネガティブな感情が、激しく反応し、
互いの心を消耗する。

人のいい面と付き合いたいか、悪い面と付き合いたいのか、
答えは、おのずと見えてくる。

宗教では、より分かりやすいように、阿弥陀様とか、前世とか、
今世とかの言葉を使うが、よくよく解説すれば、理にかなったことも
多い。

船井さんのように、「すべてのことが必然・必要・ベストなこと」
と、訳せば、多くの困難に立ち向かっている人たちに、勇気を
与えることになる。

自分の心次第で、大きく自分の周りが変わる。
自分の考え方一つで、より自分を解放することになる。

心の研磨こそ、本当の自由への道ではなかろうか、、、。
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2015年10月05日

[TPP合意へ」、米国の巨大資本家たちの徹底した搾取が始まる!!

 この土日、風邪をこじらせて寝込んでいたが、
どうしてもアトランタで行われているTPP交渉が気になって、
その情報だけには、かじりついていた。

そして、今日の朝、中日新聞一面に
「TPP交渉合意へ、医療など難航3分野決着」
と、書いたあった。

顔面蒼白、、、。タダでさえ風邪で体の節々が痛いのに、
それに追い討ちを書けるような記事であった。

日本の美しい田園風景が、、、。
共助の精神に満ちた皆保険制度が、、、。
国も地歩自治でさえ、巨大な資本家たちの商売の邪魔をするような
政策、法律を制定すれば、たちまちに訴えられてしまう。

つまり、主権がなくなるということだ。

2015年10月5日、日本が溶け去ることが決定した日、、、。

なさけない、、、。

政治家達は、なんでこうも簡単に日本をたたきうることが
できるのだろうか?

人類全体を見ても、このまま彼らの我欲にまかせ、
資源や生態系を食い尽くせば、必ずそう遠くない将来、
人類は滅亡する。

今は、大きな転換期、大きく我々が進む方向性を変えなければ、
人類の将来などない。

なげいてばかり入られない。

とにかく風邪を治そう。

そして、この時代に生まれた宿命として、
この時代と共に生きていくしかない。

やれることをやるだけだ。
posted by hide at 06:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする