2008年10月06日

日本人の「和」の原理(まとめ)

 今日は、「和の原理」について
私なりに、まとめてみようと思う。

「和の原理」の始まりは、
日本に古代からある「怨霊信仰」
あると思う。

地震、台風、洪水、噴火など、
日本は「天災のデパート」である。

科学もない古代の人々が、
この現象をどのようにとらえたかと
いうと、左斜め下

「不幸にして亡くなった人の怨霊の仕業exclamation
もしくは、
「何か恨みなどから発生する怨念の仕業exclamation
と考えた。

これらが怨霊信仰である。

では、どのようにしたら、
「怨霊、怨念が発生しないのかexclamation&question

それは、みんな「仲良く睦ましく」、
暮らせば、何ごとも起こらないexclamation

また、みんなが常に一致団結していれば、
逆によいエネルギーが発生し、
何ごとも、達成できると思っていた
ふしがある。

聖徳太子の十七条憲法の
最初の第一条に、
このように書いてある左斜め下

「人々が、睦ましく話し合いができれば、
道理がかない、何も事も成し遂げられるexclamation

みんなが一致団結して、
事に当たれば、良いエネルギーが
発生し、何ごとも成し遂げられるが、

反対者がでれば、
それが怨念となり、
何か不幸な事が起こる。

このような「和の原理」が、
仏教にも儒教にもない。
日本古来からあるモノだ。

そのことが、一番大事な第一条に、
書いてあるのだから、
日本人にとって、「和」が
何より大事であるということだexclamation

また、日本は天災は非常に多いが、
自然が豊で、自然からの幸多き国である。

なので、みんなが仲良くし、
分配がうまくいっていれば、
そこそこ食べていける。

その辺りが、「和の原理」が
発達したバックグランドでは
ないだろうかexclamation&question

そして、その後稲作が発展していく。
それと同時に、村社会が形成されていく。

稲作というのは、田植えや稲刈りなど
限られた一定の期間に、労力を集中して、
行わなければならない。

なので「和」保ち、一致団結してなければ、
出来るモノでもないexclamation

稲作とは、本来はもっと
温かい地域のモノであり
日本は、稲作の北限である。

フィリピンなどのように、
4毛作ではなく、
田植え、稲刈りなど、
やらなければならないときに、
やることやらないと、
収穫に大打撃をくらってしまう。

その為には、みんなが一致団結して
労力を効率よく集中して、
行わなければ、みんな餓死してしまう。

また、村というのは、教育、福祉、納税など、
すべてのことを、協同で行ってきた。
それも先祖代々、何百年と
同じメンバーである。

こうなると村社会にとって、
「和」というモノが、非常に大事になる。

そして、怨霊信仰からはじまった
「和の原理」が、このような
村社会の中で、発展してきた。

とにかく、村の運営、維持が第一で、
それを乱すモノは、
徹底的に排除される。


「和」を保ちながら、一致団結して
協同で村を維持していけば、
なんとか食べていけた。

しかし、協力しない輩が続出すれば、
たちまちのうちに、村は崩壊
したであろう。

このような形で、「和の原理」が
より発展し、継続されてきた。

そして、我々日本人の中に
現在でも、しっかりと生き続けている。

いくら、文明社会が発達しても、
思想パターンというのは、
なかなか変わるモノではない。

日本人は、「和」を保つことが
非常に大事と感じ、その「和」を
保つために、「場の空気」というものに、
非常に敏感な民族である。

次回からは、その「空気」について
書いていきたい。

また、見てちょーすわーい(嬉しい顔)





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2008年10月05日

日本人の「和」の原理(7)

 日本人は、左斜め下
独裁者」を嫌うexclamation
話し合い絶対主義」であるexclamation
コンセンサス社会」であるexclamation

このような「和の原理」をベースとした
民族性を、しっかりと認識し、
政治のシステムとして取り入れたのが、
徳川家康である。

家康の「老中制度」は、
実に日本人の民族性を
汲み上げたモノであるexclamation

これは、将軍が5,6人の老中を任命し、
何ごとも、その老中の間で話し合い、
全会一致」で決まったことを、
「将軍に上奏して、御裁断を仰ぐ」
というようなシステムである。

これは、決して一人で
決めたことにはならないので、
「独裁」ではないexclamation

しかし、反面 
責任の所在がはっきしない。
もし、政策的に何か失敗したとしても、
将軍一人に、民衆の不満が
ぶつけられることはないexclamation

ことによっては、
老中を罷免して、
据え変えることもできる。

それによって、
政策の失敗の責任を取らせた形にも出来るし、
その後、政策転換も計れる。

将軍を一段上の地位に置かれ、
どちらかというと
「君臨すれど、統治せずexclamation
というような状態であったと思う。

また、老中みんなで話し合われて
決めたことなので、
コンセンサスがすでに
出来上がっている。

また、各老中が色々な人の
意見を汲み上げることもできる。

幕府全体としては、
コンセンサスが出来やすいように、
なっていた。

もちろん、このシステムであると、
大きな変革というのはしずらい。

コンセンサスを形成するため、
「全会一致」が原則であり、
それには、おのおのが納得できるように
妥協、妥協を繰り返さなくては、
ならないであろう。

しのぎを削り合った戦国の世から、
安定社会に入った江戸時代は、
このようなシステムが
ピッタリであったと感じる。

そして、現代もこの老中制度のが、
日本の最高機関でつづいている。

それは、内閣の閣議前の
「事務次官会議」である。
そこでは、全会一致が大前提であり
妥協、妥協で、大きな変革など
できるはずはない。

それは、さておき
徳川家康というのは、
創業者であり、もちろん
大変な独裁者であった。

しかし、そのような独裁が
日本人には合わないということを
よく認識していたのかもしれない。

なので、二代目以降には、
この制度を採用させた。

家康は、色々な面で
平和であり続ける為のシステムを
残してあの世へ旅立った。

家康の世の中のを見る「洞察力」と
いうのは、すごいものがある。











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日本人の「和」の原理(6)

 「和の原理」が、心の中に
しっかりしみ込んでいる日本人は、
どうも、独裁者を好まないようだ。

日本の歴史の中で、
「ここぞexclamationという時に、
独裁者が出てきて、
大きな変革をしてくれるのであるが、
その後、まず暗殺されてしまう。

織田信長、井伊直弼、大久保利通など、
暗殺者によって葬られた。

なぜなんだろうexclamation&question
日本人の民族性として、
「強力なリーダーによって導かれる」
というのが、あまり性分に合って
いないのかもしれない。

それは、やはり「和の原理」と、
深く関わっていると思う。

聖徳太子の十七条憲法の中でも、
「人々が、睦ましく話し合いができれば、
道理がかない、何も事も成し遂げられるexclamation
と、なっている。

みんなが一致団結して、
事に当たれば、良いエネルギーが
発生し、何ごとも成し遂げられるが、

反対者がでれば、
それが怨念となり、
何か不幸な事が起こる。

これは、日本に古代からある
「怨霊信仰」の影響が、
強く影響していると思う。

外国には「和の原理」などない。
あっても、二の次、三の次である。

重要な会議の前には、
「根回し、根回しexclamation

会議になれば、「全会一致exclamation

これらが大原則である。

みんなが賛成し、そこで決まった事は、
最優先である。

時には、法律をも集団で無視しても、
「みんなで決まったのなら」
ということで、それほど罪の意識がない。

井沢元彦さんがよく言っている
「日本人は、話し合い絶対主義exclamation
なのかもしれない。

みんなで決まったことなら、
「何でもありexclamation
時には、法律やルール、モラルなども、
関係なくなる。

一番重要なのは、その集団の
空気exclamationもしくは、「コンセンサスexclamation
なのである。

日本人にとって、
ほとんどの人が、
「なんとなくそういう雰囲気になれば」
初めて「物事が動くexclamation
のである。

日本は、「雰囲気社会」というか、
「コンセンサス社会」なのである。

それとは別に、
日本人は異端分子を嫌う。

周りからはみ出そうとする輩は、
徹底的に排除する。
今でも、「村社会」的なところが、
十分あると思う。

しかし、一度「空気exclamation&questionもしくは、
「コンセンサス」ができれば、
一気に変わる。

逆にその変化について行けなければ、
異端分子となり、排除されてしまう。


明治維新後、
西洋化の波に取り残され、
いつまでも、武士としての地位に
こだわった人々が、
各地で乱を起こし、
排除されてしまった。

しかし、これって世界的にみれば、
すごいことなのであるらしい。

ほとんどの武士が、
自分らのシンボルである
「刀」と「ちょんまげ」を、
あっさり捨ててしまった。

日本の伝統のシンボル的存在である
天皇までが、それまでの「和装」
をやめ、「洋服」を着用し始めた。

これって、すごいことなのでは
ないだろうかexclamation&question

中国人や韓国人に言わせれば、
日本人は「変質癇exclamationだという。

伝統や文化を平気で捨てられる。
また、こないだまで主張していたことを、
平気で変えてしまう。

これらのことは、日本人の中では、
全体の「空気の流れが変わった」から、
しょうがないこととして、
自然に受け入れられる。

それだけ日本は、
「コンセンサス社会」なのである。

今、日本は歴史的にみても、
大きく変わらなければ
ならない地点にいると思う。

最近の流れをみていると、
そろそろ、その「コンセンサス」
が出来上がってきたな〜と
感じることが出来る。

「コンセンサス」ができれば、
変質癇の日本人は、
一気に変わるであろうexclamation×2
















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2008年10月04日

日本人の「和」の原理(5)

 これだけ、文明社会になっても、
和の原理」は、日本人の心の中に、
生き続けている。

注意深く、日常生活を観察すれば、
いろんなところで、
深く作用している。

「和の原理」が作用した
我々日本人の思考パターンには、
明らかに他の国々と異なり、
日本人独特のモノである。

今日は、「和の原理」が
作用した私自身の体験を
紹介したい。

もう何年も前、
ある食事会にさそわれた。

構成メンバーは、
男性5人、女性3人。

その中のある友人宅で、
自分らで食事を作って、
みんなで食べる

という企画であった。

その家のキッチンは、
それほど広くない。

どう見ても、3人が
活動出来るぐらいの
スペースしかない。

「8人一緒に料理を作るexclamation
というのは、とうてい
無理である。

料理を作る」or「皿洗い
どっちが楽しいかexclamation&question

と、自分に問いかければ、
明らかに「料理を作る
方である。

それなら、みんなにそちらの方を
ゆずって、自分は「皿洗い」を
やろうと考えた。

そして、自然に女性3人が
料理を作り始めた。

そこで、彼女らに
おれ、後で皿洗い
バリバリやるねexclamation

宣言して、
他の友人達と会話を
楽しんだ。

当時、私もけっこうハードな
生活をしていて、
久しぶりにそのような食事会だったので、
けっこうはしゃいで、
しゃべりながら、
料理が出来るのを待っていた。

そして、料理ができて、
みんなで食べ始めた。

そしたら、料理を中心的に
作っていた女性が
私に対して、

hideぜんぜん、
作るの手伝わへんもんな〜ちっ(怒った顔)


という苦情が来たexclamation

わたしとしては、
え〜、なぜexclamation&questionexclamation&questionexclamation&question

それに
なぜ、おれだけexclamation&questionexclamation&questionexclamation&question

どうも、他の男性メンバーは、
女性陣が料理を作っている時に、
何か手伝うことあるexclamation&question
ぐらいに声をかけていたらしい。

手伝えるスペースなどないことは、
分かっていても、実は日本人の中では、
これぐらいの「配慮」が必要なのである。

私は、少しその辺の「配慮」に
にぶいところがあるようだ。

私ときたら、
その時、会話に夢中で、
大はしゃぎで、
ゲラゲラしゃべっていた。

そのあたりも、
少し、目についたのかもしれない。

せっかく参加したのだから、
思いっきり楽しみたい。

「楽しむときは楽しむ。
何か、分担で仕事をするときは、
仕事をする」
その方が、合理的
「みんなスッキリするんじゃない」
と、考えていた。

それに、分担の仕事の中で、
楽しい方を譲っているつもりでいたので、
大はしゃぎで会話を楽しんで
いたのも、私の中では、
理にかなっている」と
おもっていたのかもしれない。

しかし、日本人の最重要課題は、
「和」である。
それには、「合理的」とか
「理にかなう」とかは、
かなわない。

その時の「和」とは、
みんなで分担して食事を作るexclamation
という平等主義的な価値観であった。

よく日常生活の中で、
みんなで何か作業をするとき、
日本人は、なぜか全員そろってないと
気が済まない。

そしてどう見ても、
人数が過剰でブラブラしている
人が多くても、別に気にならない。

分担してやれば、
はるかに合理的で能率よくやれるのに、
それよりも、みんなそろっている
ことに、意味があるようだ。

「みんな揃って、何かをする」
というのが「和」であり、
それには、「合理的」とか
「効率がよい」とか、
太刀打ちできないのかもしれない。

しかし、最近はそういうのも
日本人の特徴であり、
とても、微笑ましく思えるように
なってきた。

合理的ではないにしろ、
その「和」の中でも、
楽しめるように
なってきたのかもしれない。

40歳を超え、自分の中で、
何かが変わってきたのかも知れない。
















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2008年10月03日

日本人の「和」の原理(4)

 聖徳太子の十七条の憲法の
第一条に、こんなくだりがある左斜め下

人々が上も下も和らぎ、
睦まじく話し合いができるならば、
ことがらは、おのずから道理にかない、
何ごとも、成しとげれないことはない


これが、十七条の憲法の中の
最初の第一条に出てくる。

これは、仏教的なものでも、
儒教的なものでもない。

その「和」を、一番に重要視するのは、
日本人、独特のモノである。


これは、日本人が古代からもっている、
怨霊信仰による影響が大きいと思う。

「和」を乱し、「怨念」が発生すれば、
それが悪いエネルギーとなって、
何か不吉な事が起こる

しかし、みんなが仲良く
和気あいあいとしていれば、
良いエネルギーが発生し、
おのずと、道理にかない
何ごとも成し遂げられる。

とにかく「和」が第一であり、
その「和」を保つか、
保たないかによって、
「幸」か「不幸」かが、
決まるとされている。

しかし、日本人にとっては、
「和」というものが、
一番に重要視されるが、
他の文化圏では、
どうなのだろうか?

むかし、阪神タイガースにいた
ランディーバースが、
シーズン中、息子が重病にかかり、
シーズンを放り投げて、
アメリカに帰ってしまった。

彼らキリスト教的な考え方としては、
「和」より、家族への「」が
大事なのである。

儒教国の中国や韓国では、
もし戦争中、自分の親が
危篤になれば、例え将校でも、
戦争をほったらかして、
帰ってしまう。
それが正しいとされている。

彼らにとっては、
「和」より親に対する「」が
第一なのである。

日本では、このような
「和」の原理をベースとした
考え方、風習が
現在も至る所に、
残っている。

つい先日、
中学時代の文集を、
たまたま見つけて、
読んでいた。

題名が「我がクラスに対して
のような内容であった。

その中で、ほとんどの生徒が、
団結」とか、「クラスをまとめる
ということが書いてある。

自分のやりたい事を抑えても、
クラスが団結することが大事exclamation

そうすれば、必ず
体育大会や文化祭などで、
良い成績を得ることができるexclamation

というようなことが、
書いてある。

へ〜、現代にも、
しっかりと、はるか昔の
聖徳太子の教えが
生きているんだexclamation

と、実感した。

このような
「和の原理」が、
現代の生活の中にも、
いたるところに生きている。

意識してみれば、
非常におもしろい
人間観察になるexclamation








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2008年10月01日

日本人の「和」の原理(3)

 日本には、古代より、
怨霊信仰というモノがある。

何か、「怨念が発生する」と、
天災、疫病、戦争など、
その怨念が、不幸な事を
引き起こすと、されていた。

科学が発展した現代では、
それらの不幸な出来事が、
怨念によってではないexclamation
ということは、
立証されている。

しかし、人間の思考原理の中では、
どうなのだろうかexclamation&question

長いこと、不幸の原因は、
「怨念」であると、
信じられてきた。

その中で、日本人の
思考パターンというモノが、
形成されてきた。

現代になって、
不幸の原因は、怨念でないですよexclamation
と言われても、思考パターンまでは、
なかなか変えられるモノではない。

その民族の思考パターンを
変えるということは、
その思考パターンが再生産される、
文化全体を変えなくては、
ならなくなる


今、チベットで行われている
民族浄化のようなことを、
やらなくては、無理である。

日本では、だだでさえ
天災の多い国である。

地震、台風、洪水などは、
は毎年のように、
頻繁に起こる。

また、疫病、戦争、
はたまた、人の死、病気、
けが等、不幸なこと全般を、
怨霊、怨念のしわざ」と、
考えた。

では、その「怨霊、怨念」の
発生するメカニズムは、
何かというと左斜め下

人の恨みを買うexclamation
ということになる。

人の恨みを買わないためには、
どうしたらよいのかexclamation&question

それは、お互いが
「良い人」でいなくては、
ならない。

ケンカをするば、
怨念が発生する


そうすれば、
たちまちに社会全体に、
不幸が起きてしまう。

ケンカをしないことexclamation

つまり、
「仲良く、和を保つことexclamation

それが、聖徳太子の
一に曰く、和をもって貴しとなすexclamation
といわれるように、
日本人の最重要原理
であった。

また日本は、
砂漠の国々と違い、
自然が豊で、
その恩恵を仲良く、
分配していれば、
みんなそこそこ 
食べていけた。

その辺りも、
「和」の原理が
発達したバックグラウンドでは、
なかろうかexclamation&question










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2008年09月30日

日本人の「和」の原理(2)

 日本人は、極端に
集団から、はみ出すことを
嫌う。

はみ出せば、たちまちのうちに
村八分」になってしまう。

これは、大人社会でも、
子供社会でも、
はたまた、老人社会でも、
普通にあることだ。

人と違う」ということを恐れ、
異端分子」に対しては、
とても、排他的であるといえる。

なので、常に周りから、
気を使いながら、
「異端分子」もしくは、
「変わり者」と思われる事を、
避けるように、心がけている。

また、常に周りに対して、
ナイスな人」をよそおって
いなくては、ならない。

また、そのように
「ナイスな人」もしくは、
人格者を保つため、
日本の道徳的な美学とは、
集団のために、
献身的に貢献した人を、
イメージされている。

なので、日本人として、
生まれてきた以上、
常に「ナイスな人」で
なければならない宿命にあり、
常にそのことを、
心がけていなくては、
ならない。


実は、それが
一神教による「戒律」
相当するのでは、
なかろうかexclamation&question

周りの人に対して、
常に気を使い、
他人に対して、
親切であることを
あたりまえという
観念がある。

また、集団活動には、
積極的であることを
無意識のうちに、
要求されているし、
実は、自身も自然に
要求しているのである。

なぜ、こうなったかというと、
一つの大きな要因は、
稲作を中心とした
村社会であったからでは
なからうかexclamation&question


むかしは、村単位で、
納税、福祉、教育、
すべての事をまかなっていた。

また、稲作であるため、
その土地を離れることができず、
先祖代々、同じ集団の中で、
暮らしていた。


そうなれば、
どうしても、はみ出すことなど
出来るはずがない。

そのなごりを、
現代社会まで、
多く残していると思う。

しかし、日本人の「和の原理」とは、
これだけではない。
もう一つ、大きな要因がある。

それは、この次ということでexclamation

また、見てちょーすわーい(嬉しい顔)









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2008年09月29日

日本人の「和」の原理

 「人間は、元来粗暴なものであるexclamation
と、一神教の人々は、考えるらしいexclamation

何によって、人間らしさを
保つのかexclamation&question

それは、神様と人間一人一人とで、
交わす契約(戒律)を、
守ることによって、
人間らしさを、
保たれているらしい。

例えば、
人のモノは盗んでは、いけないexclamation」とか、
「人に親切にしろexclamation」とか、

生活全般のこと、
もしくは、
道徳的なことも含めて、
それらを守ることを、
神様と一人一人が、
契約をしている。

そして、それらを守れば、
死後救われる
という観念である。

社会全体を維持するためには、
一人一人も、モラル
非常に大事である。

どんなに豊でも、
どんなに立派な法律を
作ろうとも、
モラルがないところでは、
社会がうまく機能するはずがない。
機能不全を起こすであろう。

日本も徐々に、そのように
なりつつあるもうやだ〜(悲しい顔)

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教など、
一神教の国々では、
その一人一人のモラルが、
神様との契約(戒律)を
守ることによって、
保たれている。

では、我々日本人はどうなんだろうexclamation&question

日本人に、
あなたの宗教なんですか?」
と聞けば、ほぼ間違えなく
無宗教
と、答えるであろう。

しかし、日本人一人一人に
モラルは無いのだろうかexclamation&question

たとえば、
モノを盗まない」というモラルexclamation

国民性として、比較的おとなしい
ニュージーランドで、
一晩、街中の駐輪場に、
自転車を置いて、おけば
間違いなく、取られるか、
解体されている。

ニュージーランド人に聞けば、
夜間に放置してありば、
例え、鍵がかけられていても、
「盗んでもよい」
という感覚らしい。

日本でも、そういうのは、
あるだろうが、ニュージーランド
ほどでは、ないと思う。

また、
モノを置いて、
座席などをとる習慣exclamation


外国へ行けば、
そんなものすぐに
放り投げられて、
ドカンと席を取られているであろう。

外国人から見れば、
基本的に、日本人は
礼儀正しく、親切で
おとなしく、順応である

と思うであろう。

そして、何らかの神様を信じ、
「戒律」をしっかりと
守っているので、
あろうと、イメージするであろう。

だけど、日本には、
一神教のように、
絶対的に信じている
神というモノはない。

また、自己規制をする
「戒律」というものもない。

ではなぜ、そのように
モラルが守られているのだろうかexclamation&question

それも、一神教のように、
しっかりと意識して
「戒律を守る」ということではなく、
無意識のうちに、
そのようになっている


そのようなことを、
宗教にたとえて、
日本教」という人が
いる。

日本教徒としての、
しっかりとした意識もないが、
日本に生まれ、
日本文化の中に育てば、
多かれ少なかれ、
そのようになる。

人からはみ出ることを
極端に恐れ、
根回しを大事にし、
とにかく、自分の所属する
その集団の利益を一番に
考える。


これも実は、
「日本教」の
大きな特徴でり、
そこには、
日本人独特の
和の原理」が
働いているらしい。






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