2017年10月11日

北海道11区が面白い!! あの陸山会事件、石川知裕氏の奥さん石川香織さん立候補!!

今日、新聞の朝刊に全国の各政党の候補者が載っていた。

注目は、北海道11区!!

あの陸山会事件の石川知裕さんの奥さんがである
石川香織さんが立候補することになった!!

うれしいね〜!!

ホント、うれしい限りだ!!

あの陸山会事件で、石川さんは本当に国家権力に対して
立派に戦われた。

当時の石川さんは、陸山会事件により、衆議院議員をやめ、
裁判では敗北、、、。

マスコミにも散々たたかれてきた人だった。

そんな当時の石川さんと結婚なさった香織さん、、、。

本当に、ありがたい限りだ。

石川さんの勇気、私の胸に強く刻まれているし、
多くの司法、検察の在り方、そして日本を支配している人たちの
存在などなど、いろんなことが多くの国民に知らしめられた
事件だったと思う。

民主党政権交代のリスク、、、。

石川さんは、小沢さんの住み込み秘書であり、
ベビーフェイスで、落ちやすいと思われてねらわれたの
かもしれない。

しかし、根はしっかりとした信念の持ち主で、
あの著書である「悪党小沢一郎に仕えて」なんてとても面白かった。

まだ、石川さんは立候補できないのかもしれないが、
奥さんも芯の強い人のようだし、是非とも石川夫婦に
幸せが訪れることを願ってやまない。




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2017年10月10日

大正生まれの男たちとは、、、。その偉業は計り知れない。

先日、あの「永遠のゼロ」や「海賊と呼ばれた男」の著者、
百田尚樹氏の講演会に参加した。

百田直樹氏というと、なかなか過激な発言をすることで有名だが、
「永遠のゼロ」や「海賊と呼ばれた男」は、とても名作だと思う。

そのあたりの話をじっくり聞きたいと思い、講演会に参加した。

最初は、安保や改憲の話。

私も安保も重要なことであるし、改憲も決して反対ではない。

しかし、その方法論が、若干、百田氏とは違う。

百田氏も言っていたが、右も左も、結局は目指す目的は同じ。

日本をより良くしようという気持ちは、変わらない。

まあその話をすれば長くなるので、今日は、その公演の中で、
一番心に響いた話を紹介したい。

それは、大正生まれの世代についてだ。

この世代というのは、非常に苦労した人たちであり、
また、今の豊かなこの日本を造り上げた人々だ。

日中戦争、第二次世界大戦と、大正生まれの人々の青春時代というのは、
まさに戦争そのものだ。

大正時代に生まれた男性というのは、約1300万人いるとのこと。

そのうち、200万人を超える人が戦死されたという。

だいたい、6人に一人の割合だ。

さらに、それが大正時代後期に生まれた人で計算してみると、
もっと比率が高くなる。

さらに、もっと年代を選別してみると、
例えば、うちの会社の会長は、大正12年生まれ。

終戦を22歳で迎えた。

会長の同級生の約半数が、戦死しているとのこと。

確かにそうだろうと思う。

知覧の特攻会館に行っても、戦死者の歳を見ると、
だいたい20前後、、、。

兵卒として、最前線で戦争に参加した世代だ。

さらに、百田氏は語るが、永遠のゼロで描いた特攻隊員と
戦争から帰ってきて、奇跡のように日本を復興させた
海賊と呼ばれた男に描かれている若者たちは、同世代であり、
この大正生まれの人たちが主軸だ。

例えば、海賊と呼ばれた男の中で、元海軍の石油貯蔵地下タンクに
入り、バケツで石油をくみ上げた若者たちは、まさに
戦争の生き残り、、、。

この人たちの頑張りがあったからこそ、今の日本の豊かな生活がある。

公演の中で百田氏が語っていたが、例えば今の若い人が
こんなことを言うという。

「我々は、就職してから、高度経済成長もなく、
バブルも味わっていない。まさに不幸の世代だ」
と、、、。

しかし、どうだろうか?

バルブをひねれば、きれいな水道の水が飲める。

ガソリンスタンドが各地にあり、たいていの人が車に乗れる。

農地も整備され、高速道路、ダム、発電所などなど、
世界を見渡しても、これほどきめ細かに社会インフラが整備された
国というのは、それほどない。

これって決して当たり前のことでない。

戦争で生き残り、必死に日本を再生させた
大正時代の人たちの造り上げた基盤の上で私たちはこのような豊かな
生活を送っている。

例えば、うちの会社でも、韓国で終戦を迎え、帰国した
うちの会社の会長が立ち上げた。

ロボットやいろんな機械等、確かに古くなってきているが、
どれもこれも、もしこれらの設備がなければ、今の会社は成り立たない。

会長が死に物狂いでやってきた土台の上で、
今、我々が飯が食えている。

会長の世代の人に、
「同級生の多くの人が戦死し、戦争から帰ってきて、
どのような思いが強かったのですか?」

と聞いても、なかなか照れてなのか、答えてくれない。

もし、会長のように、自分が運よく生き残り、多くの同級生たちが
戦地で亡くなられたとしたら、どのように生きようとするのだろうか?

「彼らは、洗脳されていたんだ」という言葉で片付けるには、
あまりにも思慮が狭すぎる。

そして、戦争から帰ってこれば、価値観も大きく変わってしまい、
戦争に行った人は、軍国主義者のように非難される時代となった。

そんな中で、必死に日本再建に取り組んだ大正時代の人々、、、。

本当に、頭が下がる。

戦争体験者に、私が必ず聞くことは
「自分の死についてどう思いましたか?
死ぬのが怖くなかったですか?」
と聞くと、

ある老人は、こんなことを語ってくださった。
「自分の死とか、そんなこと言っている場合ではなかった。
それよりも自分の世代で何とかしなくては、、、という思いが
強かった。みんなそうじゃったよ」
と、、、。

自分の世代で、、、、。

確かに、一番体力的に体が動き、最前線で戦える世代だ。

自分のことなど、かまっていられない。

自分の祖国を、故郷の難局を何とかしなくてはならないと、、、。

うちの会長が言うには、
「みんな天皇陛下ばんざ〜いなんて言って、死んでいったわけではない。
ほとんど人が、『おっかさ〜ん』と、叫んで死んでいったよ」
と、、、。

日本というより、故郷、そしてイメージとしてその故郷の中心的な
存在である自分の母親、、、。

これって、多くの人が持てる感情のような気がする。

私たちは、多くの先人たちの血のにじむような努力のおかげで、
今の生活があるということ。

そして、今我々が次の世代に何を残すのか?

一人一人が、よくよく考える必要があるのでは、、、。

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2017年10月02日

いったいこの総選挙はどうなるのか???小沢一郎さん、森ゆうこさん、中村てつじさん、あんた方に私の一票を託したい。

「安倍政権をとすために、名を捨ててい実を取る。
もう一度政権を奪取しよう〜」

と、高らかにうたって、民進党を事実上回答した前原氏、、、。

しかし、
「すべての民進党議員を受け入れるわけではない。
安保と改憲で、ワンボイスで戦える人に来てもらう
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


う〜ん、、、。

「大阪維新の松井氏、愛知県知事の大村氏と連携して戦う
、、、、、、、、、、、、、、、、。」


維新の会って、ほとんど与党側じゃないの、、、。

なんか、かなり雲行きが怪しくなってきた。

リベラルを排除したことで、かなり票が逃げ、
政権奪取にはほど遠くなる。

次の次って、そこまで、希望の党が存在するかわからないし、
人気にもかなり陰りが出てくるであろう。

むしろ、「脱原発」でまとまったらどうなのか。

私は、改憲には反対ではない。

しかし、TPPの要素をふんだんに入れた、新自由主義的な
憲法に変色するのであれば、断固反対である。

2012年の総選挙、橋下氏が突然、東京の勢力である
石原氏らと手を組んだ。

その頃、たまたま喫茶店でコーヒーを飲んでいたら、
隣に坐る地元のおじさんが、
「今回、維新に入れたよ〜」
というようなことを話していた。

しかし、その後の結果を見れば、橋下氏の維新は、
ただその総選挙を攪乱しただけ、、、。

このままいけば、そうなってしまう。

しかし、野党がまとまらなくては選挙に勝てない。

一体、どうしたらいいのか?

その辺は、もう政治の世界の技術であり、
その中で、どう読むかということになる。

私のような素人があれこれ考えてもしょうがない。

それなら、信頼できる政治家の意見に託そうと思う。

小沢一郎さん、あんさんはどのように考えているのか??

森ゆうこさん、どうしよか??

佐賀でがんばっとる中村てつじさん、この辺りの
今後の政治の流動性を、どうかブログでも語ってもらいたい。

私の大事な一票を、彼らの意見を十分に参考にしたいと思う。


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「関ヶ原」三成の正義とは、、、。「厭離穢土欣求浄土」の家康が世をどのように見ていたのか??

先日は、念願だった映画「関ヶ原」を見に行ってきた。

岡田君、すごい迫力、、。

また、島左近訳の平岳大もよかったね〜。

全体として、とてもいい作品だと思う。

だいたい、映画に行くとつまらない映画だと、眠ってしまうことが
多いのだが、食い入るように最後まで見た。

また、この映画をDVDでもいいから、見てみたいとも思った。

果たして、三成が何度も主張する「正義」とは、何だったのか?

正義なんて、人によってはかなり違ってくるし、
「正しい」とされてきたことが、時代が変わることによって、
大きく変色することもある。

家康でも、他の大名でも、多くの家臣や一族郎党を抱える中、
家の存続というのも、各々の「正義」であろう。

また、現在の大河ドラマで放映されている直虎の井伊谷、、。

徳川が強くなれば、徳川に、、、。
武田が強くなれば武田へ、、、。

彼らにとって、村の存続こそ、かけがえのない「正義」である。

あくまでも映画の中での話だが、本心を隠し、
天下を狙う家康に対し、いずれ豊臣家が危うい。

そのことに一番、敏感に感じ取っていたのは、三成であり、
その豊臣家の存続こそ、三成が語る「正義」であった。

もちろん、豊臣家の大番頭として、秀吉の権威を高めるためにも、
三成は嫌なことを他の大名に言わなくてはならない。

たしか、どこかの映画での家康の言葉であるが、
「三成のような家臣が欲しかった」というようなことを語っていたが、
その通りだと思う。

自ら汚れ役を買ってくれ、自身の権威を高めてくれるような家臣がいれば、
こんなありがたいことはない。

その豊臣政権内での嫌われ役的な立場に立たされていた
三成の焦りも、関ヶ原の原因だったような気がする。

三成が語る豊臣家存続という「正義」、、、。・

それが果たして日本全体から見たら、正義だったのか?

もし、あの時、関ヶ原で西軍が勝っていたらどうなっていたか?

毛利・上杉は、200万石級の大名へ、、、。

島津、宇喜多あたりも150万石級の大名だ。

なぜ、あのような戦国の世になったのかと言えば、
室町幕府の統治機能が著しく低下していったこと。

その大きな原因は、細川、畠山など、守護大名の強大化だ。

上杉、毛利、島津など、まったく豊臣家にとっては、
外様大名であり、果たして、大阪の幼帝秀頼や淀君の命に従うのだろうか?

みんな実力で這い上がってきた武士である。

実力がなければ、滅ぼされるということをいやというほど
見てきた人々だ。

そんな実力が伴わない大坂城住人たちは、あの巨大な城と、
権威、そして金銀財宝、これらが「いつか自分も、、、」
と思う多くの武士たちに、どのように映るのか??

大坂冬の陣、夏の陣を参考にすれば分かる。

全国から、浪人衆が集まり、その時は秀頼・淀気味も
コントロール不全であった。

「このままでは終わらない、いつか自分も大名に」
というような思いが、彼らにもあったのでは、、、。

福島にしても、加藤にしても、山内にしろ、黒田にしろ、
細川にしろ、当時の大大名というのは、
元はといえば、桶屋か、身分の低い侍、、、。

それらが、戦国の世という乱世によって、
大きな城を構え、たくさんの家臣を抱え、ふんぞり返っている姿、、、。

浪人衆には、どう映るのだろうか?

大陸進出が失敗した以上、増える領地はない。

なら、その浪人衆のその野心を何とかしないと、
いつまでたっても太平の世などは、訪れない。

これこそ、一番、世が乱れる原因、、、。

それに、よくよく考えてもらいたい。

二度にわたる唐入りの失敗により、
日本は厭戦ムードだ。

秀吉軍団とは、日本の歴史上、一番の上昇志向集団だ。

果たして、そんな豊臣政権が、拡げる領土もなく、
果たしてどのように維持できるのだろうか?

一番の問題は、有り余る兵士だ。

全国を統一するまでは、兵士はとても必要な存在であった。

「もう、天下取ったで、おまんらいらんわ〜」
なんて、豊臣政権が言えるわけがない。

「日本にもう奪う領土がない、なに言っとりゃ〜すか、
ほんなん海の向こうには、朝鮮もあるし、唐もあるやろが。
おまんは、北京辺りで100万石あげるでよ〜、きばってちょ〜」

というようなのりで、大陸進出を実行した。

どの時代にも、どの世界でも統一後の「兵士の雇用」という問題は、
その政権を揺るがしかねない。

ひとことでいうなら、兵士をどのように「帰農」させるか、
安定した世を造るには、非常に重要になってくる。

「厭離穢土 欣求浄土」、、、。

家康の旗印であるが、これはもう桶狭間直後ぐらいから使われていると聞く。

秀吉が死に、朝鮮出兵が散々な結果になった現実、
そんな世の中を、家康にはどのように映っていたのだろうか?

また、秀吉末期、秀吉をどのように見ていたのだろうか?

家康は、年老いた狂人のように映っていたのではなかろうか、、、。

もちろん、世の中を安定させるという理想をもって、
家康が戦っていたとは、言い切れない。

しかし、そのような思想の持ち主である家康は、
徳川家の安定と、日本全体の安定というのは、
ほぼ同義語であったように思う。

当時大大名であった家康は、もしどこかで戦があれば、
必ず巻き込まれる。

そして、家康は、今川、武田、北条、織田と、
家康が恐れをなしてきた大大名たちが、次々に没落して
行くのを目の前で見ている。

今の250万石という大大名の地位が、
果たして家康にとっては、永遠のモノではないということを
十分すぎるほど認識していたはずだ。

家康は、秀吉により関東に移封されていた。

その関東平野で、江戸城の修繕も後回しにして、
大々的な新田開発を手掛けていた最中だ。

先ほどの「兵士の雇用問題」という大きな政治課題に対して、
どのような考えを持っていたか、なんとなく想像がつくのでは、、、。

それに、戦続きで世が乱れていれば、収穫間際の他の村に対する
乱取り、人さらい、殺人、村や用水路の破壊など、
頻繁に多発する。

世が治まるだけで、それらがなくなれば、日本全体として、
かなりの収入が増えることになる。

そして、兵士をなるべく帰農させるためにも、
その後、日本全国で展開される新田開発がどうしても必要だった。

そのことにより、その時期日本の人口がかなり増えたことも
事実である。

外にフロンティアを求めず、内側にまだまだ開発の余地がある。

その中心が関東平野であり、各大名も競って自身の領土の
新田開発に取り組んだのが、江戸時代である。

もし、関東平野の莫大な水田がなかったら、
幕末時にのらりくらり、列強の進出をかわすことができたという人もいる。

イギリスやフランスらも、確かに軍艦で海からの攻撃には強い。

しかし、田んぼという沼地や森林、あぜ道という日本の環境で、
それらの国の陸戦隊が内陸地で勝てただろうか?

食糧生産が豊富で、自給自足率の高く、国が一つにまとまって
闘うという意識があれば、ゲリラ戦でも展開すれば、かなりやれたと思う。

イギリスなどの侵略の手口は、その国を分断する。

そして、そのどちらかを手先にし、その土地を分捕る。

当時、関東平野に見渡す限りの田んぼ、、、。

そして、当時の支配階級も、うまく戦乱を必要最小限に
抑え、日本を明治へと導いた。

いろんな評価もあるが、多くの国々が植民地になる中で、
すごいことだと思う。


「厭離穢土欣求浄土、、、。

競争、競争と、世の中、喰うか喰われるかの死闘を、
必死になって行っている。

一体、誰が幸せなのか、、、。

あまりにも競争が激しくなれば、「欲」というより、
自分が没落するのではないかという「恐怖」の方が、
心の中を占領してしまう。

最後にある仏教の教えを紹介して、この記事を終了したい。

地獄でも極楽でも、大きな釜でうどんをゆでている。

そのうどんを1メートルの箸を使って、食べなくてはならない。

地獄では、誰もが、競って食べようとするので、
みんながうどんを食べることができず、餓死してしまう。

極楽では、互いに助け合い、長い箸を使って、
相手に食べさせあい、みんな満腹となった。
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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



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2017年08月30日

米国はシリア北部で軍事基地を建設って???いったい何のために、、、。

この下の記事によると、米軍がシリア北部で
シリア政府に了解もなく、勝手に軍事基地を
建設しているとのこと。

いったい、何のために???


https://jp.sputniknews.com/middle_east/201708043955548/

「何のために米国はシリア北部で軍事基地を建設? 専門家の見解」


トルコ公式通信社のアナドル通信社が、シリア領にある米軍基地の
位置データを公開。同通信社によると、基地は全てシリア北部にある。
専門家らは、シリアにある基地はトルコにあるインジルリク空軍基地の
代わりに地域での米国のプレゼンスの軍事的本拠地となるに違いないと見る。

シリア議会のナビリ・ターマ議員はスプートニクに対して、こうして米国は
シリアにおけるロシアのプレゼンスと釣り合いを取るための重りを作り、
クルド人の独立国家樹立を助けようとしているとの見解を示した。

「これは、シリア主権に対する攻撃だ。米国はシリアの地で攻撃的な
政策を行い続けている。」

ターマ議員は、米国がシリアで足がかりを得て、そこでロシアを追いつき
追い越そうとしていると見ている。しかしロシアはシリア政府の締結した
合意に則って行動している。

一方、シリア軍の戦略専門家であるムハメド・イサ准将は、
「シリアにおける米国の存在は全く違法で、根拠が一切ない」
と指摘した。米国はダーイシュ(イスラム国、IS)や、
いわゆるシリア反体制派というテロ組織の行動を
管理しているとイサ准将は述べる。
これは、ロシアの行動と全く異なる点だ。

先ほど、米国が資金援助していたシリアの反体制派武装勢力
「マハヴィル・アッサウラ(Mahavir as-Saura)」の
メンバー数十人が、武器を置いてシリア政府軍に降伏した。
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米国は、いったい裏で何をしてきたのか、、、。

世界で信じられてきたアメリカの正義とは、
いったいなんだったのか、、、。


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2017年08月27日

信長が「天下不武」とは、室町幕府を立て直すスローガンって???ホンマでっか???

信長について、NHKのある歴史番組で、
次のようなことが語られていた。

「信長自身、戦後にもてはやされるんですよね〜。
戦後のイケイケドンドンの時代に、地方の小大名から
天下人に上りつめる。その過程で、規制の体制を打ち破って、
新しい時代を作っていく。そうして時代背景が、
信長のイメージを押し上げたんだ」

と、、、。

では、どのような方向で見直されつつあるのかというと、
次のようなことが語られていた。

「当時、室町幕府が動揺しているので、信長としては
幕府を立て直すという発想があって、『天下不武』とは
そのスローガンであった」
と、、、。

「上杉、武田などの大大名との外交関係の中で、
信長は当時の社会秩序の中に身を置いていた。
大名としては、セオリー通りの行動」
と、、、。

う〜ん、う〜ん、正直なところ、
いったいどう見れば、このような発想になるのだろうか?

この番組で語っていたように、確かに私も戦後生まれであり、
イケイケドンドンの信長像に染まりきっているのか???

それとも、『信長公記』などを超える一級資料が見つかったのか?

もし、見つかっていないのなら、今まである既存の資料の中で、
どのように解釈するか、解釈変更ということになる。

「天下不武というのが、信長が室町幕府を
て立て直すためのスローガン、、、」
となるのなら、その室町幕府を最終的に葬り去ったのは、
いったい誰なのか、、、。

足利義昭を奉じて、上洛後、副将軍という義昭の要請を
断ったのはいったい誰なのか、、、。

さらにその時期に、義昭の行動を規制するための
「殿中御掟」九か条と「追加」突きつけた信長、、、。

こうなれば、明らかに将軍義昭のロボット化である。

謙信や信玄に贈り物をし、こまめに気を使いながら、
ご機嫌うかがいをしていたから、当時の社会秩序の
中に身を置いたセオリー通りの行動だというような
ことを言っていた。

しかしそれが、果たしてそれがその社会秩序を
大事に思っての行動だったのかどうか、、、。

大改革であればあるほど、多くの敵を作ることになる。

組織として、急成長すれば、これまた多くの摩擦が起こる。

身近な敵と戦いながら、遠くの信玄や謙信となるべく
良好な関係を築く。

これって当たり前のことにように思えるのだが、、、。

ではその後、信長が武田氏や上杉氏をどうしたか?

信長は、最大の敵である石山本願寺を下した後、武田氏を滅ぼしている。

その後、上杉も信長に攻められ、風前の灯、、、。

もし本能寺の変がなければ、確実に滅ぼされていた。

私も歴史が好きであるが、歴史を見る上で、一番大事なことは、
当時のその人の立場にたって、歴史を見ることだと思う。

周りを敵に囲まれているときに、遠くの上杉や武田を敵として、
対立したいのか?

尾張の小大名が、なんの権威もないのに、いきなり京へ出て
「俺に従え」といっても、誰も従うはずがない。

例えば、サラリーマンでも、生きていくためには、
嫌いな上司にも、おべっかを使う場面もあるだろうし、
派閥もあれば、時としては大嫌いな相手に
頭を下げなくてはならない。

むしろ、そういうことに、どれだけ耐えれるか、
忍耐力の強さというものが、信念の強さ、
もしくはその人の器の大きさを感じる。

信長のように、強い自己主張を持てば持つほど、
周りに多くの敵を作ることになる。

例えば、本願寺と妥協すれば、どれだけ楽なことか?

領土を持っても、本願寺などが存在すれば、
虫食い状態、、、。

室町幕府がどうして、あのように乱れていたのか?

守護大名などが巨大化しすぎ、宗教勢力に対する
制御が利かなかったからでは、、、。。

逆に言えば、強力な統治体制が存在せず、
各々が自らの利益に走った結果、あの混乱が続いたのでは、、、。

中国などでは、その混乱の時代がどれほど続いたことか、、、。

そこから、強力な統治体制をつくることが
どれほど大変か、、、。

私には、「天下不武」というスローガンは、
そのような巨大化した戦国大名、宗教勢力を
武力を持って押さえ、統一国家を造るという
大きな目標を明確に示したもののように
感じる。

信玄や謙信のように、豊かな金山を持つわけでもなく、
信長の資金源とは、流通を活発にすること、貿易により利益、
工業製品など、どれもこれも、既得権益を持つ勢力が
邪魔をすれば、成り立たない。

あっちにいけば、信長と対立関係にある
浅井・朝倉がいる、こっちには本願寺がいる、
そんな中で、作ったものを流通させることは、
無理であるし、領土内でそのような活動を保障する
強力な政権が必要となる。

そのためにも、常に戦える軍隊が必要であり、
今まで守り中心の城も、便利な商業地に
立てる必要が出てきた。

一つ一つ検証すれば、明らかに信玄や謙信とは、
違う組織体制であり、その向かう方向もまったく
違って見える。

そうなれば、室町幕府という古い体制の中で、
信長という新しい勢力が生きていけるのだろうか、、、。

その性質というモノが、根本から違う。

今、私が述べてきたことも、戦後の信長イケイケドンドン史観と
言われれば、それまでであるが、今回、番組で戦国史の
専門家として登場された駿河台大学の黒田基樹教授の本を
じっくり読んでみようと思う。


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2017年08月20日

信長による日本の大変革、、、。その城造りから見た斬新さが大きく時代を変えた!!

「信長は意外と新しくない」として、
信長を見直す動きがあるという。

NHKのテレビ番組を見て、

信長の城造りに対して、
天守閣を造るのは、信長が初めてではなく、
コーディネートしただけ。
多聞山四階ヤグラ、安土城より15年前に、
松永久秀の城に存在したとのこと。

天守の前例があり、信長が最初ではない。

しかし、
「その後、秀吉なり、家康など信長の関係者が
天守閣のある城を造っていくので、信長の安土城が
最初のように思われがちだが、それは違う」
というようなことを語っておられた。

う〜ん、どうもしっくりこない。

というのも、信長の城政策をみて、何が斬新であったかを
見た場合、天守閣というのは、それほど重要性がないように思う。

その後、例えば江戸時代、江戸が大火に襲われ、
城下の復旧を優先され、江戸城の天守閣が再現されなかった。

つまり、お城としての天守閣というのは、それほど重要ではなく、
物置のように使われていた大名もいたとのこと。

それよりも、当時戦国時代の城というのは、「守り重視」であった。

山の上であったり、川に囲まれた場所であったり、
便利ではあるが、それだけ攻められやすい平野に作ることは、
まずなかった。

なぜそのようなことが出来たのか?

その一つの理由は、「鉄砲」である。

堀をほり、城壁を造って、攻めてきた敵を
鉄砲で狙い撃ちする。

日本一便利のいい大阪に存在した大坂城、、、。

家康による大阪冬の陣で、20万もの大軍で大坂城を攻めたが、
攻めあぐんだ。

巨大な城壁、深い堀、そして鉄砲が守りにを鉄壁にした。

鉄砲の出現ともう一つは、
それは信長の兵農分離政策である。

つまり、家臣団を城下に住まわせたことである。

当時の大名の家臣団とは、各々の領地と密接につながっており、
常にその領地に住んで、領地内を治めていた。

むしろ、各々が独立経営者のような存在で、その組合長のような
地位に戦国大名であった。

それが、家臣の家を焼いてまで、信長は強引にも、家臣も、その家族も城下に住まわせ、
いわば武士のサラリーマン化と言うのか、自身の領地との関係性を
薄めた。

当時の豪族とは、密接なその土地との関係が強く、
農業生産を基盤に、その組織が成り立っていた。

そうなれば、その領地の都合により、時には離反することもよくあること。

例えば今の大河ドラマでやっている
井伊直虎だが、今川に服従していたが、井伊谷という領地全体が、
むしろ運命共同体のような存在であり、その共同体に不都合なら
今川から徳川に寝返ろうとしている。

今川ファーストではなく、徳川ファーストでもなく、その共同体ある
「井伊谷ファースト」である。

そうなれば、状況次第では、家臣の反乱も絶えない。

それでは、その家臣と領地を離してしまおう、
もしくは関係性を薄めてしまおう、
つまり、武士のサラリーマン化である。

信長以降、お城にばかりいて、代官をおいて
ほとんど顔を見せないという領主が多く出現する。

また、命令一つで、領地替えも頻繁に行われる。

まさに、信長による家臣団の兵農分離であり、
それにより、家臣の反乱が少なくなり、命令一つで領地替え
可能となり、戦争にも敏速に行きやすくなる。

信長軍団の性質上、それは仕方がないことだ。

ドンドンと急成長していく。

「今度、越前を手に入れたので、
今、おまんの領地がある中村から、もっと領地を
たんとやるで越前へ移ってくれ」

なんていう命令は、しょっちゅうあるであろう。

そんな中で、俺は先祖代々、この土地にすんでいたんだ。

この土地から離れるのは、いやだ、
というような武士が信長についていくことは
不可能だ。
(たしか、前田利家の兄さんがそういう人だったんじゃ
なかったかな〜)

城下に家臣団を住まわせるということは、守りに対しても
効果があるということだ。

さらに、内乱を防ぐ為に、家臣を管理しやすい。

そして、出陣にも、それほど手間がかからない。

これらの兵農分離、武士のサラリーマン化というのが、
まったく斬新なことで、農業を基盤とする他の戦国大名とは、
大きく違うこと。

信長の強みというのは、いつまでも戦えるということ。

つまり、戦争の長期化が可能だということ。

農業中心の集団なら、
田植えのときに帰らなくてはならない。
稲刈りのときに帰らなくてはならない。

信長は、信玄や謙信より、戦闘では弱かったのかもかもしれない。

しかし、軍団の傭兵化、家臣団の兵農分離、サラリーマン化、
商業、工業重視などなど、トータルで見れば、その信長の
城のあり方が浮き彫りになってくる。

ヤグラの城が、安土城より、15年前にあったとというより藻、
信長の城の本質とは、当時の常識の根底から覆されるような組織の
性質から見たみれば、まったく斬新なものであったと思うが
いかがだろうか〜。

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「信長」、、、。長篠の戦の真相に迫る、、、。

信長について、どう思うか?

最近、「不器用な信長」というような本が出たとのこと。

私にとって、信長とは、そういう人だと思う。

あまりにも、感性がするどく、そして行動力もある。

そんな人が、まともに型にはまって、組織の中で
生きていけなかったのではなかろうか、、、。

例えば、10倍もの軍勢を率いて、今川義元が攻めてきた。

果たして、信長が今川の家臣として、
今川の一つの駒となることが出来ただろうか?

どう考えても、無理である。

するどすぎる感性、、、。

あまりにも率直で、あまりにも合理的で、
あまりにも本質が見抜けてしまう。

矛盾だらけの中で生きていくには、
自身の「我」というモノが許さない。

そのような観点から見れば、信長はただ
愚直に自分の道を突き進むしかない。

その生き方が、多くの敵をつくり、
大変な苦難の道を行かなくてはならない。

まさに「不器用」な人である。

しかし、その信長が日本に与えた影響というのは、
計り知れないと思う。

信長以前と以後ではどれほど違うか?

よくよく検証してみる必要がある。

本題に入るが、先日、NHKの歴史番組を見ていて驚いた。

信長のことが取り上げられていてのだが、
あの有名な鉄砲を大量に使って、武田氏に大勝利した
長篠の戦について、語られていた。

歴史の専門家の人が出ていて、
信長は、本当は同盟者の家康の要請で、
「信長は決戦する気はなかった。しぶしぶ出て行った」
と、、、。

「信長にとって、大坂の本願寺との戦いの方が、はるかに
優先度が高かったので、鉄砲と柵を用意して対陣し、
武田軍に引いてもらう作戦だった」

と、、、。

「ところが、武田勝頼何を勘違いしたのか、『攻めよう』と
いうことになっちゃたんですね〜」
と、、、。

「決戦するつもりがなかったのに、向うが
勝手に突っ込んできて、バババ−ンと打ったら、
勝っちゃって、大勝利を収めた。
だから、非常にラッキー、運のいい男、それが
現在の研究状況です」
と、、、。

「戦後70年の信長に対するイケイケドンドン史観を見直して、
地に足がついた視線で、戦国時代を見直そうという動きが
出てきている」
と、、、。

う〜ん、とうなりたくなる。

まずは、長篠の戦から、改めて検証してみようと思う。

戦いって、とても重要なのは、まずは
「何処」でやるのか?、「いつ」やるのか?
ということが非常に重要になってくる。

まずは、「いつ」という視点で見れば、武田氏に攻められた
家康からの信長に対する要請は、大きく分けて四回あった。

一つ目は、1573年の信玄自身が家康を攻め、さらに信長の領地をも
うかがおうとした三方が原の戦いのときだ。

その時は、信長は大軍を率いて、決戦に挑んだのか?

お涙ほどの家臣を派遣した程度に終わり、ご存知のように、
家康は大敗、、、。

その時の状況を考えてみれば、まさに信玄を盟主に、本願寺、浅井、朝倉、
足利義満などなど、まさに信長大包囲網が形成された。

近畿を離れ、遠州まで、家康を助けに行けるのかと言えば、
はっきりいって「NO」である。

それこそ、信玄の西上に対して、勢いづく、近畿内の
反信長勢力が大暴れするであろう。

この時、三方が原後、信玄がモタモタしている時間を利用して、
近畿内の敵である浅井、朝倉攻めをかなり強行して、滅ぼしている。

兵をあげてから、数日程度で、打ち滅亡に追い込んだそのスピードは、
まさに神速である。

信長というのは、時間という感覚をとても大事にしていた。

信玄が西上してきたのとしても、農民兵主体の武田軍は、
田植えの時期には帰らなくてはならない。

では、その期間だけ何とか、持ちこたえれば、しのげる。

では、しのぐ為に、少しでも近畿内の敵である浅井、朝倉を
信玄西上前に、打ち滅ぼしておく。

結果から言えば、家康の要請にこたえることなく、
全体から見て、自分のやるべきことを全力でやっていた。

同盟者の家康には、申し訳ないが、全体から見れば、
信長の勢力圏から見れば、優先順位からすれば、落ちてしまう。

まだ、この時は、武田氏との決戦には、機が熟していない。

そして、信玄が亡くなる。

信玄の後を継いだ勝頼は、血気盛んに家康に侵食する。

そして、遠州の高天神の戦いだ。

家康は、三方が原の戦いでも大敗もあり、
どう考えても単独では戦えない。

信長に援軍を要請する。

しかし、信長には、自分の領内、それも尾張と目と鼻の先の
長島で一向宗にかなりてこずっていた。

自分の弟や家臣を数名戦死させ、長島の一向宗に背後を突かれれば、
どの戦場でも、すぐに引き返してこなくてはならない。

このときも、家康の要請にこたえるフリをして、出陣はするが、
その速度はノラリクラリ、、、。

そして、高天神城が落城したと聞くと、神速とも思えるスピードで、
長島を徹底的に叩き潰した。

信長の最大の敵である本願寺は、大阪、越前、この長島と
大きく分けて三大拠点を有していた。

その長島が、完膚なきまで叩かれ、2万人もの
宗徒が焼き殺された。

これが長篠の戦の一年前の1574年の話しであり、
それにより、近年のピンチ続きの信長にとって、
比較的余裕が出来た時期というのが、長篠の戦が
行われた1575年である。

もう一つ、家康からの要請で言えば、1580年、
武田氏滅亡のときであり、このときは完膚なきまでに
武田氏を滅ぼした。

こう見れば、信長が「時」を自ら選んび、
たとえ日本最強の武田軍団と言っても、
決戦するときは、徹底的にやったことがうかがえる。

戦国大名にとって、負け戦というのは、すなわち滅亡に
つながる。

負けるけんかは、けっしてしてはならない。

そうなるためにも、時と場所を選ぶということは、
非常に重要なこと。

では、なぜ、武田の騎馬隊にとって、とても不利と思われる
長篠、もしくは設楽が原で戦で決戦をすることになったのか。

番組みでの歴史の専門家が、
「何を勘違いしたのか、勝頼が突っ込んできたから、
勝っちゃった」
と、、、。

突っ込むには、突っ込むだけの理由があるのではなかろうか?

前日の軍議のときに、酒井忠次が別働隊による
鳶ヶ巣山砦での夜襲を提案したが、信長によって
けんもほろほろ退けられたとのこと。

まるで、毛利元就ばりの長篠へ武田軍を引きずりだすための
内通に対する策略であり、その後しっかりと酒井忠次は、
夜襲を行っている。

結果、この砦が落ち、武田軍は背路をたたれる結果となった。

武田軍にとっては、もう突っ込むしかない。

もしくは、正面軍にある程度打撃を与え、引く。

これは、まさに武田軍と戦った川中島の戦いでの
上杉軍である。

この時、武田軍に退路をたたれ、正面の信玄に対して、
猛攻を繰り広げた上杉謙信、、、。

確かに、川中島という占領地を武田側の支配下であり続けた
以上、武田の勝利といえるが、多くの重臣を亡くした。

引き分けとの見方もあるし、その戦いの後、上杉の名声が落ち、
勢力が衰退したということもない。

むしろ、鳶ヶ巣山砦を落とされ、背後を断たれた勝頼は、
この引き分けを目指したのではなかろうか、、、。

しかし、突っ込んでいった信長・家康連合軍の本隊には、
大量の鉄砲と柵がまっていた。

そして、番組の中で地元の人が
「この辺りは、下田の田といわれるほど、田んぼが深かった。
腰まで浸かるほどだった。そのため、武田軍は、細いあぜ道を
突き進むしかない。そのあぜ道の先に、大量の信長軍の鉄砲部隊が
待ち構えていた」
と、、、。

武田軍にとっては、これがとても不利な場所であり、
不利な戦の展開だ。

これが果たして運なのか?

私は、運というのは、けっして否定しない。

どんなことでも、運というモノが、
勝敗に大きく関わってくる。

でも、運をつかめる人とつかめない人って
いるのでは、、、。

どんなに恵まれていても、そのチャンスをつかめる人、
そうでない人って大きく分かれると思う。

なぜ、武田の騎馬隊を大量虐殺できたのか?

鉄砲があったからではなかろうか、、、?

柵があったからではなかろうか、、、?

大変な沼地である長篠・設楽が原という「場所」を選んだからでは
なかろうか、、、?

大量の兵力を動員できる「時」を選んだからではなかろうか、、、?

確かに、信長が出陣したとき、この戦がどうなるのかということを
想像した場合、いろんなパターンがあると思う。

どんなパターンになろうとも、大軍であり、大量の鉄砲、大量の柵、できる限りの
準備をしていったということは事実だ。

さらに、武田軍の性質、自軍の長所、短所を考えた場合、
運がよければ、大勝利ということも、けっして不可能では
なかったように思う。

それだけ、今回は時を選び、場所を選び、最高の準備をしていった。

爆音に慣れていない日本馬は、鉄砲の音に立ちつくんでしまい、
そうなれば、鉄砲の餌食だ。

鉄砲を知り尽くしている信長なら、そのことも深く理解していただろう。

それらのことをすべて考えれば、状況(運)次第だが、
けっして大勝利の可能性もあり、歴史専門家の言うように、
対陣して武田軍に引いてもらうということも、状況によっては、
起こりうる。

しかし、信長は自分ができるだけの準備をしていたということ。

我慢に我慢を重ね、時を選び、さらに、三方が原ではく、高天神城ではなく、
長篠という場所を選んだ。

これが、ただ「しぶしぶ出て行った、、、。」とか、
ただ「運がよかった」だけという見方では、
どうもしっくりこない。

幾度の経験のもと、運の流れさえ、
ある程度読めるようになるのでは、、、。

ある人が言っていたが、プロになるというのは、
「ある程度、第六感が働くようになり、先が読めること」
と言っていた。

本能寺のときのように、傲慢になっていなければ、
自分の状況、相手の状況、そのことを考慮して、
この戦いが何処までいけるのか、いやというほど
戦をしてきた信長にとっては、直感的に
ある程度見抜けたのではなかろうか。

信玄を盟主とする信長包囲網は、その二年ほど前のことである。

信長にとって、武田氏というのは、いずれは、決戦をしてまで
戦わなければならない相手であり、その武田氏の勢いにより、
近畿の反信長勢力が勢いづくのも、2年ほど前に見ている。

しぶしぶ放置するほど、武田氏を避けては通れないし、
ある程度余力のあった1575年という時期に、決戦を
挑んだという見方ができるのではなかろうか。

番組の歴史家がおっしゃられるように、
私の信長の最大の敵は、大阪の石山本願寺だと思う。

では、その難攻不落の石山に立てこもる一向宗を孤立化させるには、
武田氏をたたくこと、越前の一向宗をたたくこと、そして
どちらを優先するかというと、動きの活発な武田氏であったと思う。

武田氏をたたかなければ、石山の本願寺の降伏には、たどり着けない。

武田氏を長篠で破った後、次にやったことは、越前の一向宗との
戦いであった。

石山本願寺を本気で降伏させるには、どうしても武田氏と
戦わなければならなかったのが、現実ではなかろうか。

「信長自身、戦後にもてはやされるんですよね〜。
戦後のイケイケドンドンの時代に、地方の小大名から
天下人に上りつめる。その過程で、規制の体制を打ち破って、
新しい時代を作っていく。そうして時代背景が、
信長のイメージを押し上げたんだ」

と、、、。

そんな中でも信長像が、突き進んできたので、
今、歴史学会で、信長を見直そうという動きが
出てきているとのこと。

私も、戦後生まれの戦後育ちであり、その環境の中で、
信長を学んできたので、その影響下にあると言える。

しかし、どうもこの歴史の専門家の言うことが、
間違いだらけのような気がしてならない。

そう思うから、このようにブログを書いているのだが、
もし、新しい新事実が出てきたのなら、
必ず今まで言ってきたことに対して、間違いを認め、
従ってみせる覚悟はある。


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2017年08月19日

信長の「天下布武」とは、、、。その「天下」というのは「近畿一円」という話を聞いたのだが、、、。

 先日、NHKの歴史番組で、織田信長のことがやっていた。

大学教授のような歴史の専門家がおみえになられて、、

「信長の「天下布武」について、それは全国を指していることではなく、
近畿一円のこと」

だといっていた。

う〜ん、、、?????

つまり、信長が目指していたのは、全国的な統一ではなく、
古い体制を打破し、武力により近畿一円を治めるということだ
と、、、。

「近畿」、、、「全国」って、当時にとっては、
ほぼ同義語じゃ〜ないのかな〜。

例えば、家康がなぜ、関ヶ原の時、対峙していた東北の上杉の戦いをさけ、
関ヶ原まで戻ってまで、中央にいる石田三成らを優先的に
たたいたのか、、、。

その後を見れば、分かるのでは、、、。

関ヶ原で勝ち、大阪、京都を支配下に治めた家康に対して、
上杉は、大阪まで来て、降伏した。

豊かで発展していて、さらに地形を見ればわかるが、
水運が発達している近畿をとることが、すなわち全国支配につながる
ということ。

信長のその後を見ればわかるのではないか、、、。

中央の大勢力である本願寺を降伏させ、近畿を抑えた信長が次にやったことは、
上杉攻めであり、毛利攻めだ。

その後、本能寺があり、毛利攻めをしていた秀吉が
まず行ったことは、中国大返しであり、近畿を抑えに行った。

そして、明智光秀、柴田勝家に打ち勝ち、近畿を手中に収めた秀吉が、
その後、九州攻め、小田原攻め、四国攻めなどの地方への軍事行動であり、
最後には、まだ攻められてもおらずに、恭順を渋っていた、
東北の伊達政宗も、小田原攻めの最中に秀吉の軍門に下った。

代々の政権がなぜ、近畿地方にあったのか?

確かに鎌倉幕府は、地方であるが、しかし、その中央の勢力であった
平氏を倒し、さらに承久の乱では、朝廷側と闘い、
その後六波羅探題を置いて、中央をしっかりと管理しながら、
鎌倉政権を維持してきた。

このように見ると、「近畿」と「全国」というのは、
ほぼ同義語であり、信長の「天下布武」が、よりこじんまりした
近畿地方の制圧であり、より規模の大きな全国では
なかったというのは、いささかまと外れではなかろうか、、、。




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2017年08月17日

「健康」か?「生き甲斐」か?人生の最終盤、何を思うべきか?

お盆前のある夜中、四時ごろ、
突然携帯が鳴った。

何かと思い電話に出ると母である。

「トイレに行こうと思って、立ち上がったら
あるけんくなったで、すぐに来てくれ」


ということであった。

私の住む離れから、母屋におとずれると
うずくまっている母を見つけた。

「三時ごろに、トイレに行こうと思ったけど、
あるけんくなっちゃった。這っていこうおもったけど、
うまくいかんわ」
と、、、。

今年75才になるうちの母は、むかしからよく働いてきたせいか、
膝の軟骨がすり減り、膝に激痛が走る。

膝だけでなく、腰も、肩も傷む。

五月にも、同じように歩けなくなった。

その三年ほど前も、同じようなことがあった。

しかし、少し良くなると、すぐに畑に行こうとする。

「そんな足で、何では畑なんか行くんだ!!
え〜かげんにしとけ💢」

と、私が怒ると、逆切れして

「ほんなもん、生き甲斐かだもんでしょうがないだろうが💢」
と、、、。

「健康」か?「生き甲斐」か?

むつかしいね〜。

母にとっては、畑は楽しみ。

しかし、畑の農作物とは、生き物であり、
必要な時に、必要な世話をやらなくてはならないので、
母の体のことなど、お構いなしにその時期が来る。

たとえ、歩けんほど膝が痛くても、トマトを
今、収穫しないと、すべてダメになってしまう。

私もなるべく手伝うようにしているのだが、
私も仕事に田んぼにと、飛び回っているので、
なかなかその時期に体があかない。

そうなると、私が会社に行っている間、
こそっと畑に行っているようだ。

ほとんど、お金になるわけでもないし、
そこまでして、畑に行きたいのか?

ある意味、母が言う「生き甲斐」のすごさを感じる。

確かに、もし私が母の立場だったらどうだろうか?

もしかしたら、この老いた体をトコトン使い切りたい
と思うのかもしれない。

さらに、あれやってはいかん、これやってはいかんと
言われるのもなにか不自由を感じるのかもしれない。

しかし、私は母に、いずれ体が老いて、病気になり、
死んでいくということをよくよく認識してもらいたい。

あるお坊さんが
「身近な人の死というのは、いずれ自分も死んでいくということを
分からせるためにあるんだ」
と、、、。

畑も何もかも、老いて一人きりで旅立たなければ
ならない日がそう遠くない時期に来る。

いずれ死ぬわが身ということを、母にも認識してもらいたい。

そうなれば、いろんな執着が薄まる。

また、充実した余生が送れるような気がする。

母には四つ上の姉がいた。

その姉は、いわば母の母代わりのような存在であったが、
七年前なくなった。

その時は、母も大泣きであった。

その姉、私から言えば伯母だが、
伯母の四十九日に、毎週母と二人で、お参りに行った。

その後、毎回、二人で喫茶店によって帰った。

その時、
「おばさんが、おまんもいずれ死ぬということを
悟らせるために、先に行ったんだぞ」
というようなことを母に言ったが、
そん時は、
「そうだな〜、そうだな〜」
と、言っていたが、その後あまり効果がないようだ。

自分がいずれ死ぬということを認識知れば、
周りが客観的に見れる。

あらゆる煩悩が、だんだんと薄まってくる。

ただ、カラオケだ、体操だ、旅行だ、畑だと飛び回っているだけでは、
一時的な解放感を得るだけで、果たして本当の満足感が
得られるのだろうか、、、。

それらも、いずれ飽きてくるし、仲間もだんだんと
出られなくなるであろう。

誰でもそうであるが、人生の最終盤で、大変なことが待っている。

得体のしれない「死」だけでも恐怖なのに、年老いていく悲しさ、
病気になる苦しみ、そして身近な人との「別れ」、、、。

それら一つだけでも、大変なことなのに、四つも
津波のように襲ってくることになる。

そんな中で、いかに冷静でいることができるか、
それによってその苦しみを緩和できると思う。

人生の最終版、どのように過ごすか、よくよく考える必要があるの
ではなかろうか。


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