2017年01月18日

日本を救う究極のエネルギー資源「水力発電」!水力のプロが語る今の日本の潜在能力!!

IMG_2181.JPG

この「水力発電が日本を救う 今あるダムで年間2兆円超の電力を増やせる 
   元クコ度交通省河川局長 竹村公太郎」

を、一気に読み切った。

いい本っていうのは、とてもシンプルでわかりやすい。

それには著者なりの工夫と、やはり深い理解力が必要だと思う。

まだ、新年が始まって間もないが、間違いなくこの本が、
私が今年読んだ中で、ベストブックになるであろう。

水力も、太陽光も、風力も、バイオマスも、石油も自然エネルギーといわれる
ほとんどのモノが、その大本は、太陽光である。

要するに、地球のそのほとんどのエネルギーとは、太陽光であり、
その太陽光をどのように使うかということに尽きる。

その太陽光の大きな欠点というのは、エネルギー的には、莫大であるが
広く薄く、どこでも分布している。

石油も大昔に、その太陽光により光合成をして繁殖した藻類によりできたとされている。

つまり、藻類により、太陽光エネルギーがとてつもなく長い時間
集められ、堆積にして、集められ、そのエネルギーにより、
今の文明がある。しかし、それにもいずれなくなる。

今ある太陽光エネルギーを上手く集まられる方法はないか?

日本においては、それは水力が非常に有効である。

水力でも、海水が太陽光に温められ、水蒸気となり、雨として降る。

日本の大地とは、その70%高低差のある山々であり、そこには森林があり
その森林がふった水を貯めてくれている。また、山に積もった雪もそうだ。

そのたまった水が湧き水となり、しみ出てきて山と山の間の谷に、
川として集められる。

高度経済成長期に、水の需要に伴い、その谷をせき止めて造られたのが、
日本のダムである。

ダムは、基本的に高い山の中になる。

ということは、高低差を利用して、水力発電ができる以上、
ダムに貯められた水というのは、石油と同じ。

つまり、エネルギーがかたまりだ。(位置エネルギー)

そのダムは、その機能からして、はっきりって半分も使われていないという。

そのダムや用水施設を少しだけ、手を加えるだけで、今の何倍も
有効に使えるという。

水力発電は、1960年代、中東より安価な石油が入ってきて、
衰退していった。

その後、原子力が始まり、福島の原発事故を経て、今に至る。

もう一度水力を見直してみる必要があるのでは、、、。

震災以来、そんな思いでモンモンとしているところで、水力の専門家で、
元国交省河川局長の竹村公太郎氏の「水力発電が日本を救う、、、」という
本に出合った。

読んでみると、驚きの連続。

すべてを書き起こしたいくらいだが、それも時間が許さないので、
冒頭の「序 100年後の日本のために」だけ、書き起こしたので、
どうか一度読んでみてください。

これからの日本のためにも、次の世代のためにも、
どうしても多くの人に読んでもらうことを強く望みます。

序 100年後の日本のために

 私はダム建設の専門家で、水力発電を心から愛する人間の一人だ。
 未来の日本のエネルギーを支えていくのは水力発電、そう考えている。
 このようなことを言っても、今さら水力発電かと思われる人が多い。
確かに、現在の電力をめぐる実態を思えば、水力が時代遅れに見えるのは
やむを得ない。
 私は、国土交通省の河川局で主にダムを造ってきた。三つの巨大ダム建設に
従事し、人生の大半をダムづくりに費やしてきた。
 ダムは水を貯める装置で、水力発電と密接に関連している。水力発電の
エンジニアや事業者とは随分と仕事上のお付き合いがあった。
 その過程で、水力発電のことを学び、様々な経験も積んできた。厳密には
発電の専門家ではないが、水力発電の基礎的なインフラのダムの専門家であるし、
水力発電の専門家の一人だと思っている。
 それで、国交省を退職して以来、あちこちの講演会で、水力発電を見直そうと
いう話をしてきた。2011年3月11日の東日本大震災以前であるが、何度か、
電力会社から有能な若い人が私のところへ来た。その人たちは、原子力がいかに
有利か、水力が時代遅れなのか、こんこんと説いてくれたものだ。
 だが、彼らは誤解している。
 私には原子力を否定する気持ちもない。私には今日のエネルギー政策を云々する
ような資格はない。何しろ、エネルギー全般に関して断定的なことを述べる素養を
持ち合わせていない。
 ただ、言いたいのは、50年後、100年後、そして200年後日本にとって、水力発電は
必ず必要になるということだけだ。
 今は石油がある、原子力がある。そうしたエネルギーに頼るほうが価格の面でも、
安定供給の面でも有利だろう。
 だが、石油などは100年後、200年後に本当にあるのだろうか。今と同じように
安価で手に入るのだろうか。現実の資源状況を見れば、わたしのような門外漢にも
危ういことは分かる。
 そんな時代になったら、必ず、水力発電が必要になる。
 今、この時代に、私のようにダムを三つも造った人間はめったにいないだろう。
日本の山奥で巨大ダムを次々に建設していたのは高度経済成長期、もう半世紀も
前のことだ。
 現在はもう、巨大ダムを建設する時代ではない。さみしいが、ドンドンとダム建設の
経験者は少なくなっている。私のように人生をダム建設に費やしてきた人間は
あまり残ってない。
 同様に、水力発電設備のエンジニアたちもいなくなりつつある。電力会社には、
発電所を建設する土木技術者がもちろんいる。けれど、今の中心は、火力や原子力の
発電所であり、水力発電の土木を知っている技術者はいなくなりつつある。
 水力発電所の建設には、川の地形に合わせる発想力が必要だ。過去の実例には
頼れない場所が多く、自分たちの力で、何もないところから新しく造っていくことを
求められる。過去の技術者たちには、そうした発想力ある先輩たちがいた。私は、
その先輩たちの背中を見て、追ってきた。今の時代、そうした方々はいなくなりつつある。
今この時期に、そうしたダムを含めた水力発電の経験やノウハウを、未来に繋いで
残しておかなえればならないと考えている。
 繰り返しになるが、私が危惧するのは、現在のことではない。50年後、100年後、
200年後の日本のエネルギーなのだ。
 水力のプロの私は、純国産エネルギーである水力発電の価値を知っている。日本の
ダムは半永久的に使える。例えば100年経っても、ダムは水を貯めている。ダム湖の
水を電気に変換できる。
 しかも、ちょっと手を加えるだけで、現在の水力の何倍もの潜在力を簡単に引き出せる。
 この事実を、今、日本の人々に伝えることが、数少なくなった水力の専門家としての
義務であると考えている。



posted by hide at 07:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 水資源 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月15日

森林・石炭・石油へ、、、。エネルギー史がもたらす社会の大変換から大東亜戦争へ。

IMG_2181.JPG

我が街の市の図書館に、この本のリクエストを出し、
先週、やっと取り寄せてくれた。

しかし、自分でこの本を買うことにした。

それだけ、非常に価値のある本だ。

「水力発電が日本を救う 今あるダムで年間2兆円超の
  電力を増やせる」
  著者は、 元国土交通省河川局長 竹村公太郎であるが、


水力、ダムのプロ中のプロが何を語るのか、
どうか多くの人に読んでいただきたい。

エネルギー史から見た文明論、歴史論、まったく違った視点からの切り口、、、。

確かに、信長がどうの、、、龍馬がどうの、、、と、人物中心の歴史観という
のは、無理がある。

それよりも、地形、気候、そしてその社会を根本から支える
エネルギー源とは何なのか、、、?

それらにより、大きく道徳、宗教、哲学、生活習慣から
社会全体まで、大きく変化する力を持っている。

政権を握るにも、多くの人の支持が得られなくては、成立するものではない。

それに大きく左右するのが、社会のインフラであり、その土地の
気候、風土、地形などが深く関係してくる。

この辺りのことをこの本から、よくよく読み取っていただけたらと思い、
ちょっと長くなってしまったが、この本のP.103〜119まで、
書き起こさせてもらった。

エネルギー史が与えた社会に対する大きな影響、、、。

そして、原発、化石燃料、そして地球温暖化、資源の枯渇などなど、
この先どう考えても、我々の生活が崩壊する現実に直面して、
新しい大きな変革が我々にとって、必要なのが、明らかになってきた。

日本社会だけを考えれば、著者である武村氏は、専門家の視点からして、
今、現実のダムや水路などの施設が十分に使いきられておらず、
新しい大型ダムなどを建設しなくても、水力だけで2兆円規模の
電力が掘り起こせると指摘している。

著者である水力、土木などのプロ中のプロである竹村公太郎氏の言葉であるが
「日本のだむは、ちょっと手をくわえるだけで、現在の水力発電の何倍もの
潜在力を簡単に引き出せる。この事実を、今、数少なくなった
「水力のプロ」としての私の義務であると考えています」
と、、、。

そして、その具体的な方法、技術がとてもシンプルに
簡単に分かりやすく、書き綴られている。

とても読みやすい本である。

新年始まったばかりであるが、この本が今年の私のベストブックに
なることは、間違いないと思う。

それでは、すべて書き起こしたいほどであるが、
今日はこれぐらいにしときましたので、どうかお読み下さい。


奈良盆地から京都への遷都はエネルギー不足が原因

かつて、日本の中心は奈良盆地におかれていた。飛鳥京、藤原京、
平城京と、六世紀から八世紀までの約二百年間、日本の都は奈良盆地にあった。
 ところが八世紀末、突然のように桓武天皇によって、奈良から京都へと
都が移される。
 まず、長岡京が作られ、それから10年の西暦794年に、平安京へと
遷都された。奈良から京都(平安京)への遷都について、歴史家は様々な
理由を挙げている。
 例えば、天智天皇家と天武天皇家の争い、藤原氏との確執、仏教と道教の
対立など、政治や宗教に選との理由を求めている。
 だが、私は歴史の専門家ではないので、複雑な人間模様に基く原因を文献から
探ることは出来ない。
 ただ、土木技術者の目で当時の都のインフラを見ると、確実に分かることがある。
「奈良にはもう、エネルギーが残っていなかった」という事実である。
 当時の人々のエネルギー源は薪、つまり木材だった。ほかにも木材は
建築材に使われており、当時の社会では、人一人当たり年間10本ほどの立木が
必要だったと推定できる。
 都がおかれていた頃の奈良盆地には、ピーク時で、約20万人の人口があったと
言われているが、平均で10万人だったとしてみよう。年間に一人当たり10本の
立木を必要としたとすると、奈良盆地全体では年間100万本の木を伐ることになる。
 100万本もの立木が伐採するとは、毎年、100万坪の森林を消失させる
イメージである。奈良の都は200年も続いている。単純に考えて、年に
100万本ずつ200年も立木を伐採し続ければ、奈良盆地の周囲の山に木は
残らなくなるのが当然だ。
 つまり、森が消失してしまい、生活に必要なエネルギーを調達できなくなったため、
奈良にはもう大勢の人が住めなくなったということだ。
 これは、単なる想像だけでなく、証拠として文献記録が残っている。
 コンラッド・タットマンという歴史学者が、日本全国の神社仏閣に使用された
木材の出所(伐採地)を、古文書の記録によって調べた。
 すると、奈良時代の後半には、伐採のエリアが奈良盆地の周辺をはるか超えて、
紀伊半島から琵琶湖の北にまで広がっていたのである。
 これは、奈良時代後半、琵琶湖や紀伊半島の先まで行かなければ、木材が手に
入らなかったということを意味している。
 つまり、京都に都が移されたのは、奈良周辺の山々は禿山になってしまっていて、
もう木材エネルギーを手に入れることができなくなっていたから、と結論できる。
 このように、エネルギーに注目すると、歴史的事件の思わぬ真相が
浮かび上がってくることがある。

家康が江戸に幕府を開いた理由は豊富なエネルギーだった

 世界の中心の文明の歴史を見ると、人口が集中する都は、
エネルギー問題を常に抱えている。
奈良から京都への遷都して以降も、この原則は変わらない。地形と
エネルギーに注目すると、意外な真実が見えてくる。
 豊臣秀吉の命で家康が入部した1590年当時の江戸には、農家が数百戸しか
なかったと言われている。
 1600年の関が原の戦いで勝った家康は、征夷大将軍になった後、その辺鄙な
江戸に自分の幕府を開いたのだが、これは不思議な話しだ。
 というのも、関が原の後も豊臣家は大阪城に健在だったし、敵対していた毛利に
せよ島津にせよ西日本に構えていて、そこから家康に対していつ反旗を翻すか
分からない状況だった。
 そうした反徳川勢力に備えるのなら、箱根を越えた遠い関東に本拠をおくよりも、
京都か、名古屋、岐阜などのほうが、はるかに理にかなっていた。
 軍事的にも不利で、しかも未開の地だった江戸に、なぜ、家康は幕府を
開いたのか?
 歴史の専門家からは、この謎について明確な説が出されていない。
 だが私は、やはりエネルギーに注目することで、謎が解けると思っている。
 実は、この当時、関西にはもう木材がなかった。これが家康の決断を
理解する重要なカギになる。
 先ほども触れたタットマンの研究によると、戦国時代には、森林の伐採圏が
近畿地方にとどまらず、西は山口、高知、北は能登半島、南は紀伊半島、
そして東は伊豆半島にまで拡大している。
 奈良時代には、年間に一人当たり10本の立木が必要だった。ところが、
戦国時代には20本が必要になっていたと推定できる。
 当時の関西の兵庫、大坂、京都、滋賀、奈良地域の人口を100万人だった
とすると、年間に2000万本の立木が必要ということになる。
 これは奈良時代の森林破壊と比較して、20倍もハイペースである。
 さらに、奈良時代から平安時代、そして戦国時代まで約1000年が
経過している。この間の森林破壊は、奈良の山を破壊させたときとは、
けた違いだったはずである。
 つまり、戦国が終わったとき、京都や大坂などの人口集中地の近くには、
もう、森林が残っていなかったと推定されるのだ。
 そんな1590年、家康は秀吉に追いやられるようにして関東の
領地を得た。
 そこで彼が見たのは、利根川や渡良瀬川、荒川などの流域に広がる、
手つかずの広大な森林だった。莫大な木材は家康の心を動かした。
今日で言えば、軍事国家の独裁者が大油田を発見したようなものだ。
 エネルギー資源が戦略物資であることは、戦国の昔も今と変わらない。
家康という戦国武将が、エネルギー獲得に有利な江戸に魅力を感じたのは、
当然だった。 
 このように、家康が江戸に幕府を開いた理由も、エネルギー問題から
考えるとストンと胸に落ちていく。

幕末は文明の限界だった

家康は手つかずの森林に魅力を感じて、江戸に幕府を開いた。江戸は
豊富な木材というエネルギー資源を得て繁栄していく。
 ところが、江戸時代の繁栄にも限界が訪れる。またしても、木材が
不足する事態になってしまったからだ。
 もう一度、タットマンの研究を使わせてもらおう。彼のデータを基に、
天竜川流域の木材伐採量の推移をグラフにしてみた(P.108グラフ)。
すると、1700年頃にピークが訪れ、その後、急に下がっていることが
分かる。
 天竜川流域には幕府の天領が置かれ、重要な木材供給地の一つだった
のだが、その森林に置いても伐採できる木材が消えていったのだ。
 そのほかにも証拠がある。
 幕末に活躍した歌川広重の有名な浮世絵「東海道五十三次」シリーズ
がある。その一枚「二川」を見てみると、背景の山には木がポツン、
ポツンとしか描かれていない。
 広重ほどの絵描きがあからさまな手抜きをしたと考えるより、当時の
山には本当に木がなかったと解釈するほうが自然だ。二川だけではない。
広重の東海道五十三次の山の絵は、みな貧しい植生に描かれて、
21世紀の今の緑豊かな姿はまったくない。
 つまり、江戸時代の終わりには、木を伐りつくし、日本は森林と
いうエネルギー資源の限界を迎えていたのだ。
 もっと直接的な証拠を挙げてみよう。
 幕末に神戸を訪れた外国人が
「神戸の山には木がなくて丸裸だ」
と驚いている。
 幕末の日本は、森林というエネルギー資源が枯渇寸前で、文明の
限界を迎えていたのである。
 現代は、環境破壊が世界的な問題になっている。
 環境破壊により森林が減り、地球規模で二酸化炭素濃度が高まって、
地球の気温が上昇るると危惧されている。
 日本でも環境問題は深刻である。戦後になって高度経済成長から
バブル経済の頃へと急速な経済発展に伴い、次々と森林が宅地や
商業地、工業用地になっていった。
私たち日本人は、戦後の経済成長が、こうした自然破壊を代償にして
成し遂げられたことを知っている。
 そして、多くの人は、こう思っている。
「ああ、昔の日本は、きっと今とは違って、緑の豊かな美しい国だったろうに」
ところが、これは勘違いである。昔の日本の山のほうが、今よりも
ずっと破壊されていた。
 なぜなら、人々が山という山の木を伐り倒して使いつくしたからだ。
山の木を伐採して燃料にし、家の材料にし、農具にし、舟にしていた。
 人間が生まれて文明を生むにはエネルギーが必要であり、そのためには
山の森林を破壊せざるを得なかったのである。
 平城京の時代、奈良の山はすべて伐採の対象だった。
 平安京、すなわち今の京都に首都が移ったのは、奈良の山に木がなく
なったためだ。
 戦国次代の森林化かも激しかった。関西の周辺の山は丸裸となり、
西は山口、東は伊豆まで森林は伐採されていった。
 そして、江戸時代に入っても、日本の森林の破壊は止まらなかったのである。

明治日本の足元に眠っていた石炭

ペリーが黒船で来航し鎖国が終わり、明治維新が起きる。これより、
日本の近代化が始まった。
 実は、ペリーの来航は、日本の外交政策を転換させただけでなく、
エネルギー政策を一変させる事件でもあった。
 それは、日本人と、黒船を動かしている蒸気機関との遭遇である。
 ペリーの乗ってきた巨大な船が、木材で動くのではなく、石炭で
動くと知って、日本人は驚愕した。
「この真っ黒い石で、あんなデカい船が動くのか」
 日本人は、石炭という黒い石がエネルギー源であることを知って、
驚き、かつ、喜んだのだ。
 長い江戸時代が続き、日本の山は丸裸の状態にあった(P.113写真参照)。
燃料としての木材が枯渇寸前で、文明社会の限界にさしかかっていた。
 その日本人にとって、石油というエネルギー源の出現は、まさに光明だった。
 石炭ならば、九州から北海道の地面の下に埋まっていた。しかも、
木材よりも石炭のほうがエネルギー量が大きい。当時の感覚で言えば、
日本に埋蔵されている石炭のエネルギー量は、無限に思えただろう。
 ペリー来航の翌年に日米和親条約を結んで以降、日本の歴史は急展開する。
尊王攘夷運動が活発になり薩長が幕府と対立、ついに幕府の大政奉還から
王政復古に至り、時代は明治となる。
 そして、明治5年(1872年)には新橋-横浜間に、日本発の鉄道が
開業して、石炭を燃料とする蒸気機関車が走った。明治22年(1889年)
にはという東海道線全通が開通した。
 北海道、九州などの炭鉱が開発され、日本は、木材エネルギーから
石炭エネルギーへと一気に転換したのであった。 
 黒船によって日本人は、石炭の可能性を知った。
 木材エネルギーの文明の限界に立っていた日本が、石炭という
新しいエネルギー源の存在で救われたのだった。

石油は日本を戦争へと駆り立てた

国内に大量に埋蔵されていた石炭という化石エネルギーによって、
日本は一気に近代化を進めた。
 食品加工業から、繊維工業、そして重化学工業を発展させていった。
 時代は下り、第一次世界大戦で世界的なエネルギー政策の転換が起こった。
 化石エネルギーの主役が石炭から石油へと移り変わったのだ。
 このエネルギー転換が、日本を窮地へと追い込むこととなった。
日本には石炭はあっても、石油はほとんどなかったからだ。
 第二次世界大戦直前の頃の石油産出量を見ると、アメリカが突出して
多かった。(P.115グラフ)。
 日本には、石油の需要はあるのに国産の石油資源がほとんどなく、
アメリカからの輸入に頼るしかなかった。
 つまり、石油により、アメリカに首根っこを押さえられていたのだ。
 あの太平洋戦争が起こった一因は、ここにあった。
『昭和天皇独自禄』(文春文庫)には、こんな天皇の言葉がある。

「先の戦争は、石油で始まり、石油で終わった」

「窮鼠猫を噛む」という言葉そのままに、日本はアメリカという
ネコに苦し紛れに噛みつくネズミのようなものだった。
 アメリカに石油を止められて苦しむあまり、アメリカとの戦争へと
突入した日本が狙ったのは、オランダ領インドネシアの石油だった。
第二次世界大戦を始めたヒトラーもまた、エネルギーを求めていた。
彼はソ連のバクー油田を狙っていたのだ。
太平洋戦争に突入した日本は、石油を止められたために、幕末の
ように大量の木材が伐採されている。
 戦中の写真を見ると、当時の山はすっかり木がなくなり、どれも禿山の
状態だったことが分かる。山の木材さえも使い切ってしまった日本には、
もちろん石油の備蓄などほとんど残っていない。
 エネルギーがなくなった軍隊には、もはや勝ち目はなかった。
 石油を求めて始めた戦争は、石油が切れたことで、終わったのである。
 まさに日本は、昭和天皇のお言葉通り、石油という化石燃料を求めて
戦争を起こし、石油がないことで敗けたのである。
 多くの評論家、歴史家、作家が、戦争に突入していった原因や、
日本帝国軍部の戦争責任について解説してくれている。
 しかし、そのような社会状況と人間模様がおりなす歴史はむつかしい。
それよりも、昭和天皇の一言のほうが、分かりやすい。
「あの戦争は、エネルギー問題で起こった」と、理解できるのだ。
 ところで、昭和天皇は昭和25年(1950)に山梨県甲府市で
植樹を行った。これは天皇自らのご発案だったという。
 以降、天皇は全国の山に植林をなさっている。それほどにも、
終戦直後の日本は丸裸だった。

文明のあるところ環境破壊あり

 文明というのは、山が丸裸になるほど燃料の木が必要であった。
それは日本に限った話しではない。
 世界中の人類文明に共通した現象なのだ。
 メソポタミア文明が分かりやすい。中東は、今でこそ砂漠地域であるが、
昔からそうだったわけではない。メソポタミア文明が栄えた頃には
緑があり、レバノン杉の森林がいっぱいに広がっていた。
 ところが、文明が繁栄するにしたがって人口が増え、森林が伐採されていき、
とうとう伐りつくしてしまったのだ。 
 つまり、メソポタミア文明が、この土地を砂漠にしてしまったわけだ。
同じことは中国でも起こっている。
 例えば、春先になると、大陸から日本まで黄砂がやって来るが、これは
黄河流域の黄色い砂が季節風に乗って運ばれるからだ。
 現在の黄河流域には森林が5%しかなく、そのほかは荒涼とした砂漠が
拡がる不毛な土地なのだが、昔からそうだったわけではない。
 今から3000年前、黄河流域には古代文明が栄えていた。その頃には、
この大河の流域の80%が森林地帯だったといわれている。
ところが1500年前には森林率が15%に激変し、現在はたった5%に
なってしまった。
 かつては豊かな森林が広がっていた黄河流域が、今では砂漠になっている。
 これは、気象変動が原因なのではない。人間のせいである。
 黄河文明が栄えると当然のように人口が増える。すると、燃料として
木が伐採されていき、森林は激変していったのだ。
 秦の始皇帝は万里の長城を築いたのだが、あの長城は莫大な数の
レンガでできている。レンガを焼くために、黄河流域の森林が大量に伐採された。
 こうして、かつては森林地帯が80%もあった緑豊かな土地が、20世紀に
入った頃にはわずか5%という土漠地帯となってしまった。
このような歴史を見れば、「人類文明の誕生と発展は環境破壊」であった
ことが分かる。


このように、今まで培ってきた文明を維持するには、
どうしても持続可能なエネルギー社会に変換しなくてはならない。

それと、昭和天皇の言葉であるが当時日本では採掘さらなかった石油について
「先の戦争は、石油に始まり、石油で終わった」
と、語られたように、もしあの時、自前のエネルギー資源が存在すれば、
まったく違った選択脈があったはずだ。

水力のプロ中のプロである著者の武村氏は、純国産エネルギー資源として、
さらに持続可能なエネルギー資源として、水力発電の莫大な可能性を
強く語っている。

雨が多い日本、急勾配な地形、そして高度経済成長時代に
膨張社会のニーズで建て続けられた数々のダムが、今、この時代の
遺産として、非常に有効に活用できることを強く訴えられている。

どうか、多くの人が、この本を読んでいただけることを望みます。


posted by hide at 18:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 水資源 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月08日

その「自意識」って、本当に必要なの??と、問いかけるもう一人の自分の存在が必要なのでは、、、。

昨日のNHK朝の連続ドラマ「べっぴさん」で
とても、いいシーンが合った。

ベビー商品の総合商社をめざすすキアリスが
海外と取引することになった。

そこで必要なのが、英語を話せる人、、、。

白羽の矢があたったのは、以前から英語を勉強し、
外国人のベビーシッターの経験があるあけみだった。

そして、取引先のアメリカ人といざ交渉しようと思ったが、
なかなか専門用語が分からず、大恥、、、。

その後、あけみはその通訳の仕事を頑なに拒否をする。

そこで、すみれは姉であり、英語ができるゆりに
あけみに英語を教えてくれるように頼む。

それでも、大恥をかいたのがかなりショックだったのか、
あけみはなかなか腰を上げようとしない。

ゆりがあけみに
「別に私は、あなたが英語を習っても習わなくてどちらでもいいんだ
けど、そやけど、一言だけ言わせてもらうと、あなたの自意識、
いらない自意識だと思うわ。
大方、人前で恥をかいて、もう
傷つきつきたくない、そんなところでしょ〜」
と、核心を突く。

「なんで?だれが?」
と、うろたえるあけみ、、、。

「誰に聞かなくても、あなたを見れば分かるわよ。
私もべんきょうしてきたから、、、。どれだけ恥をかいたか、
どれだけ笑われた、、、。でも、そこをのりこえなければ、一生
中途半端なままよ〜。せっかく、今までやってきたことが水の泡よ。
それで、本当にいいの?手に入れたいものがあるなら、絶対に手に
入れる気持ちでやらないと、なりふりかまわず、一生懸命に、、、。」

と、あけみにほのめかすゆり。

私もニュージーランドに一年間滞在した経験がある。

そこで知り合った英語を勉強する日本人、韓国人、台湾人、タイ人、
などなど、いろんな人を見てきた。

はっきりいって、たとえ20年英語圏に滞在したからと
いって、英語がみにつくわけではない。

日常生活から、積極的に周りの人に触れながら、英語の環境の中に
飛び込んでいかないと、英語などほとんど上達しない。

そういう人って、けっこういたりする。

逆に、猛烈に地元の人と交わりながら、自身で猛勉強して、
短時間に英語を見につける人もいる。

ニュージーランドで知り合った韓国人女性のSさん。

Sさんの齢は、当時三十代後半ぐらいで、
少しわけありのようだ、どうも韓国で地位の高い人と結婚していたようだが、
その人と分かれて、子どもをつれて逃げるようにニュージーランドへ
きた人だった。

最初に、英会話スクールであったときは、ほとんど英語が出来ない。

そんな状態であるが、とにかく積極的で、
みんなで映画に行くとなれば、私も行きたい、
ホームパーティをすると言えば、私も参加するというような
形で、ほとんど意思疎通が出来ないのだが、
すごいバイタリティーの持ち主だ。

意思疎通が出来ないので、そんなときでも、
トンチンカンな行動の連続ではあるが、
それでもめげない。

ある日、私のフラットに、みんな遊びにくることになった。

そこで、知り合ったのが私のフラットメイトのニュージーランド人の
デービットだ。

その後、デイビットが外泊が続く。

ある日、デイビットが朝方帰ってきたので、
齢も近く、男同士なので、
「さては、彼女でも出来たな〜」
と、デイビットに言うと、

両手をうれしそうに、その彼女のことをかたってくれた。

なんと、その相手は韓国人のSさん。

男同士であり、デイビットは話し好きなので、経緯から、
何から全部話してくれた。

その後、関係は長く続く。

関係は、思いもよらぬ展開になるのだが、Sさんはデイビットと
結婚したい。しかし、デイビットは、あまりその気ではないようだ。

積極的なSさんの結婚に対するモーションは、ものすごいものがあった。

とても、このブログでは書けれないこともあるが、
何度もビザを更新したが、とうとうビザが切れ、韓国に
帰らなければいけなくなった。

デイビットに猛烈にあたっくしながら、ビザが切れても
韓国に帰ろうとしない。

最終的には、強制送還となるのだが、、、。

結局、何が言いたいのかというと、Sさんというのは、
傍から見ればハチャメチャな人ではあったが、英語の上達は
ものすごかった。

ほとんどまったくしゃべれなかったが、それが信じられないほどの
進歩であった。

Sさんの行いが、いいのか悪いのかべうとして、
積極的かどうかで、明らかにその上達力は変わってくる。

恥をかくことを恐れ、躊躇している日本人をよく見たが、
一歩踏み出す勇気って、ものすごく大事だと思う。

ゆりが言う「その自意識って、本当に必要なの?」
と、私も常に自分に問いかけている。

誰でも、自分を大きく見せたい。

しかし、大きく見せれば見せるほど、
その自意識によって自分自身が縛られてしまうことって
ないだろうか?

分からないことを誰かに聞く、
「迷惑になる」とか何とか言うより、もっとシンプルに
分からないことは分からない、だから教えてもらう、
自分自身も、見につけた知識・知恵は惜しみなく
周りの人に伝える、そういう姿勢って大事なのではないか?

英語にしろ、せっかく英語圏にいるのなら、
その都度、その瞬間というのが、チャンスである。

例えばフラットメイトに、
「ちょっと、チャンネル変えたいんだけど、いいかな〜?」
と、場面があるとする。

ただ教科書で習っているよりも、実際の現場でそのような体験をした方のが、
はるかに心に残るのでは、、、。

「必要は習得の母」である言われるように、見栄で自分を固めるよりも、
大恥をかきながらでも、必死にかぶりついていく姿のが
私は美しいように思う。

なにごとも、一期一会、その場面・場面を躊躇する癖がついてしまった人と、
その場面が「学ぶチャンスだ」と思う人と、後々、まったく違ってきてしまう。

ある人が、
「だめな人というのは、すごい人と比べようとする。
すごい人は昨日の自分、過去の自分と比較する」

と、、、。

勇気を出して、知らないことを聞いたのなら、
ビビリの自分という比べれば、すごいんじゃないかな〜。

いつも、毎朝、通りすがる人に、思い切って挨拶してみた。
それて、昨日の自分よりも、進歩したとほめてやれるのでは
なかろうか。

噂話の世界に生き続けるのか、それとも確実に自分の人生、
自分自身が主人公に持っていくのか、
日々の小さな勇気の積み重ねではなかろうか、、、。


posted by hide at 09:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月06日

日本の「縮小と循環の文明」、、。その日本人が未来文明の先頭に立たなければ、いったい誰に立ってくれと言うの か、、、。

今日の中日新聞一面に

炭素繊維材 車向け量産

 航空機用などリサイクル

 東レ・豊田通商 年内にも 


このような記事が載っていた。

かいつまんで言えば、東レが航空機などに使われる炭素繊維複合素材
(CFRP)のリサイクル事業に参入し、自動車向けの再利用炭素繊維を量産
する方針とのこと。

そのCFRPとは、樹脂と炭素繊維で構成されており、熱分解により処理し、
その際にガス化した樹脂を燃料として活用すると、通常に比べ、10分の1の
エネルギーですむとのこと。

炭素繊維は、鉄よりも強さは10倍。重さは4分の1なので、かなり車の軽量化に
つながり、燃費向上を飛躍的に伸ばすであろう。

今日は、そのことを語りたいのではない。

このように、モノをトコトン使い切ろうとする日本人の発想って、
世界から見れば、とても特異的なことらしい。

最近、「日本史の謎は「地形」で解ける」など、竹村公太郎氏の著書に
はまっている。

その中で、竹村氏がエジプトへ行った時の話。

エジプトの首都カイロの中央駅で、ボロボロの列車が放置されていたとのこと。
その列車は、ホコリをかぶり、ドアは空きっぱなしで、窓ガラスは割れている。
明らかにもう何年もそこに放置されているようだったという。それも、カイロの
中心駅だ。

電車だけではなかったという。空港でも大型飛行機が胴体を傾け、ホコリをかぶり
放置されっぱなし。

これは、エジプトだけではないようだ。

米国のアリゾナ州にも、いわゆる「飛行機の墓場」に、
古くなった4000機の飛行機が、砂漠に放置されているとのこと。

エジプト人と米国人は、言葉も宗教も違うが、モノを捨てるという感覚において、
根っこは一緒のようだと、、、。

それは、「移動する民族」と「移動しない民族」とで、竹村氏は説明していた。

狩猟や遊牧など移動する民族は、最小限のモノしか携帯しない。軽やかな身支度で、
素早く移動し、新しい土地を征服していく。そして、そこで必要なモノを手に入れる。
彼らにとって、大切なことは、敏速に移動し、瞬時に新しい土地を制圧すること。
その為、不要なモノは捨て、放棄したものは人々の意識から去り、ホコリをかぶり
砂に埋もれて姿を消す。それが、移動する民の行動様式らしい。
その思想的な遺伝子が、21世紀になっても、引き継がれているとのこと。

それとは、真逆にユーラシア大陸から200組にと出された日本。
、激しい海流が流れる海峡に隔離され、独自の文明を育んできた日本人は、
かなり世界から見れば特異的だ。

さらにその内部を見ても、中央には、背骨のような山脈が走り、激しく流れる無数の川が
存在し、平野には湿地帯が広がる日本では、その土地土地の文化が形成されやすい。

その湿地帯で、我々日本人は3000年前から、稲作を開始した。

米は富であった。さらに保存がきき、お金の代わりにもなった。
しかし、その労働は、過酷であった。川から水を引き、硬い土を起こし、
苗を植え、水の管理、雑草を除く、洪水を防ぎ、稲刈りと、
むしろ狭い土地にへばりつきながら、過酷な労働のもと、集団で生きてきた。

そんな各々の隔離された土地で、外部から資源が投入されることはなかった。

だから、すべてのモノを徹底的に有用な資源とした。

例えば、「着物」である。

植物の綿から作られ、何十年使われた後、布団の布に再利用され、さらにその何年か後、
座布団の布へ。さらに何年か後、下駄の鼻緒や雑巾となり、何度もその姿を
変えて再利用されていく。そして最終的には、燃やされて田畑の肥料として、
栄養分となっていく。

輪廻転生の日本人の思想とは、そのような実生活と結びついていたのであろう。

付け加えるなら、日本には、エジプトや米国のように、不毛の砂漠のような
広大な土地がない。そのため、飛行機などを放置する場所などない。

むしろ、狭い土地をトコトン有効活用してきた。

また、日本の大地は、土壌が豊かで、余った土地でも、
田畑に変えられる。森林も貴重なダムであり、森林が損失すれば、
たちまちに水害が発生してしまう。

無駄なモノを放置できないし、捨てる場所が限られている以上、
それをトコトン再利用を考えるしかない。

そんな条件で、暮らしてきた我々日本人。

元米国務長官のキッシンジャー氏が次のようなことを語っていた。

「その国を知りたければ、その国の気象と地理を学ばなければならない」

と、、、。

国土の70%森林で、大変高低差のある大地。そして、梅雨の時期には
集中して降り注ぐ雨水は、狭い平野に押し寄せる。

その雨水を治めながら狭い平野に張り付き、過酷な労働を
共同作業で数千年もの間こなしてきた。

さらに、外国とはほとんど閉ざされ、侵略することもされることもなく、
国内においても、河川・山脈・湿地等で他の地域に移動がしづらかった。

そんな環境・風土の中で、独自の内向きの文化を我々日本人は、
長いことかけて、育んできた。

他の地域とは、大きな違いがあり、むしろ特異的な文化ともいえる。

今は、明らかに石油などの化石燃料をベースにした
石油文明といわれている。

人間は、莫大なをエネルギーを手にして、たいへん豊かになった。

それ以前は、採掘が不可能であった世界中の資源を
その莫大なエネルギーのおかげで、掘り起こせるようになった。

それから、すでに百数十年が過ぎようとしている。

今、急激に、いろんな資源が枯渇しようとしている。

2005年愛知万博が開催された。

焼き物の産地、愛知県瀬戸市では、各家庭から排出される
廃陶磁器を回収し、それをパウダーにして、50%と原料として
再利用する「Re瀬ッ戸運動」が展開された。

その時、回収された廃陶磁器を見て驚いた。


瀬戸ツアー写真 004.jpg


瀬戸ツアー写真 002.jpg



なんと、まだまだ、使えるものがいっぱいある。

明らかに新品のお皿が何枚も捨ててあったり、新品のノリタケの
高級マグカップまで捨ててあった。

そして、千年以上続いた焼き物の産地の愛知県瀬戸市が
今、大変な危機に直面している。

それは、粘土原料の枯渇である。

白さといい、可塑性といい、当たり前のように存在した
世界最高峰と言われた瀬戸の粘土が、あと数年で
枯渇してしまう。


瀬戸ツアー写真 085.jpg


瀬戸ツアー写真 088.jpg


瀬戸ツアー写真 097.jpg


瀬戸ツアー写真 100.jpg


瀬戸ツアー写真 082.jpg



これは、昔の焼き物を作るまでの工程だ。

手掘り原料を掘り、籠に担いで運び、足で捏ね上げ、
手引で成型し、薪で焼成していた。

しかし、今では大型シャベルで掘り起こし、
掘り起こしたついでに、ダンプカーが待機し、
その荷台に積んで運び出す。

各工程が機械化され、焼成もプロパンガスや重油だ。

シャベルもダンプもうすべて、石油で動く。

機械化された機械の原料も、化石燃料がなければ、
掘り起こせられない。

そして、薪ではなく天然ガスや重油などで焼成。

大量に資源を掘り起こし、大量生産し、その果てには
資源の枯渇、、、。

今、枯渇がささやかれている掘り起こされた粘土鉱山跡地に、
焼き物などの大量の産業廃棄物が捨てられている。

その中には、まだまだ使えるようなモノも多く含まれている。

ダンプもシャベルも、機械への設備投資も、お金がかかる。

モノがどんどん売れていかないと、そのお金が返せない。

私も数年前、自宅の倉庫の整理をしたが、そこから出てきたものは、
大量の冠婚葬祭でいただいた焼き物の引き物であった。

その時は、心を鬼にして断捨離をしたが、大量生産・大量消費で
経済が回るということは、結局は、ドンドンと捨てていかないと
経済がダメになる。

そのおかげで、ありとあらゆる資源の枯渇、、、。
温暖化、大気汚染、水質汚染などなどの環境破壊だ。

鳥の糞がとてつもなく長い時間かけて堆積してできたリン鉱石が
あと数十年で枯渇するという。

化学肥料としてリン鉱石が枯渇してしまえば、現在80億人を支える
現代農業は、崩壊することになる。

この200年の間に莫大に拡大した農業も工業も、水資源がなければまわらない。

その水資源の中で、一番使われているのは地下水であるが、
その地下水も、地下にとてつもない長い時間かけて貯め込んだ水が、
それを今、一気に使い切ろうとしている。

石油文明のおかげで、人口が爆発的に増え、人間の活動が飛躍的に
活発になった。

逆に言えば、世界が狭くなった。

狭くなったところでひしめき合って生きているのが、
今の人類であり、資源にも限りが見えてきた。

大航海時代のように、だだっ広い世界を開拓・開発していくというのら
征服民である一神教的な世界観が必要であるが、
今は明らかに大きく変わった。

狭い平野でひしめき合い、限られた資源をトコトン有効活用してきた
我々日本人、、、。

集団でひしめき合いながら生きるには、どうしても他人を思いやる
共生の思想が必要になってくる。

竹村氏もこんなことをおっしゃっていた↙

未来の人類社会への日本人の役割は、日本人自身が思っている以上に大きい。
 日本人は拡大解放系の文明を享受しつくして、世界トップクラスの豊かな
国になった。この日本人が、実は「縮小と循環」の性向をも持っている。
この日本人が未来文明の先頭に立たなければ、いったい誰に立ってくれと言うのか。
 ただし、日本が世界全体を新しい文明へ導くなどとは考えない方がよい。
日本人ほど世界のリーダーに不向きな民族もいない。
 ただただ心行くまでモノを見つめ、モノを縮小する性向を発揮していけばよい。
日本が「「縮小と循環文明」のモデルを創り、それを世界に見せることができれば、
それで十分責任を果たす。


と、、、。

我々が、この狭い国土の中で、生きてきた意味が、
今はっきり見えてきたような気がしてならない。


posted by hide at 20:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月04日

他人と自分との「違い」、、、。それを認識できるれば、自分を解放することにつながる、、、。

年末の紅白はよかった!!

とくに中継であったが福山君、なかなかすばらしい
パフォーマンスだったように思う。

私は、男ながらに福山君のファンだ。

ファンと言っても、コンサートに行ったり、CDやグッツを買ったり
というファンではなく、とくに福山君のラジオが好きで、
毎回爆笑している。

ラジオを通してのファンであり、お金を使わず、
福山君にとってはあまりありがたいファンではないだろうが、
なんていうのか、あんな歌も出来て、芝居も出来て、
あんだけ人気のあるのに、ラジオではエロ話の連覇、、、
ふざけた口調で、笑いの渦に誘い込む福山君の能力、、。

彼は、多分、売れなくなっても、その道では、名古屋で言えば、つボイノリオや
北野まことのようなラジオをふざけたおじさん的なパーソナリティでも
十分やっていけるような気がする。

それほど、面白い。

通常、イケメンであれだけ人気があれば、どうしても
「イケメン」キャラに自分が自分で知らず知らずうちに
押し込んでいってしまいがちだ。

無口で不器用、そんな感じのしぐさなり、そぶりにはまって
しまいがちであるが、福山君というのは、むしろ、そんな自分と
懸命に戦っているのではなかろうか。

天然なのかどうか分からないが、その方のが自然体でいられ、
自由でいられる、そのことをよくよく理解しているのでは
なかろうか、、、。

そんな福山君と同世代として、もし同じクラスなら
友達になっているだろうとさえ思った。

とにかく、毎週、楽しみに福山君のラジオを聴いている。

ある日、ネット上で福山君に対してこんな中傷記事が載っていた。

「福山は、あれだけのルックスで、あれだけの演技力・歌唱力で、
それが独身であったから、エロ話が許されていた。結婚した
福山君がエロ話なんかすることを、世間は許さないであろう」
と、、、。

その記事を見て、なんだか腹がたったというのか、
ほんと、分かっとらんやっちゃな〜と感じた。

なんだか、無性に腹がたったので、福山君のファンである
ある女性にそのことを話した。

話したというより、腹が立っていたので、その苛立ちを
解消するために、その女性に対して、共感を求めたというのが
実際のところだった。

「ネットでさ〜、福山君、結婚したんだから、あんなエロ話
しちゃいかんわ〜なんていうやつがいるけど、福山君から
エロ話をとってみ〜。話が制限されてつまらなくなるわな〜。
ほんと、分かっとらんやつがいるもんだ」


というようなことをいったら、その女性が

「ほんなもん、あたりまえだわさ〜。あんなきれいな顔をして
お父さんになる福山君が、いつまでもエロ話なんか、しとっちゃ〜
いかんわさ〜。ほれに、あんな几帳面な福山君が、まさか
結婚するとは思わなかった」

と、、、。

私は、かなり福山君に対する意見というのは、自信を持っていた。

しかし、まさか、こんな身近に違う意見の人がいたとは、、、。

その福山君に対する中傷記事の腹立たしたは、吹っ飛んでしまい、
人って、こんだけモノの見方が違うんだということに
圧倒された。

冷静に感じれば、男友達なら、ちょとカッコいいけど、気さくでエロ話が得意な
同級生なら、自然に友達になりたいと思う。

あれ言っちゃいけない、これ言っちゃあいけないといえば、
たちまちに話がつまらなくなり、その人の魅力も影を落とす。

しかし、女性はまったく見る目が違うということ。

確かに、イケメンのスターで、社会的に影響力のあり、今後
パパになる男性のエロ話は、少し違和感を感じるというところ
なのかもしれない。

結局、長々と書いてしまったが、何が言いたいのかというと、
自分がいくら自信を持って主張していることでも、
人によって、立場が違い、主観が違えば、まったくモノの見方が
違ってくるということ。

人と自分とは違う、違いが分かるようになれば、もしかしたら、
自分を自由にすることになるのかもしれない。


posted by hide at 15:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

長州・維新回天の謎!? 功山寺の坂を駆け上がってきた若者たちを動かした思想とは、、、。

今年も毎年の恒例であるが、この年末年始、
義両親の住む山口県へ大旅行、、、。

もう何年も続けているが、かなり山口県内も見て回った。

今回は、あの維新回天挙兵の功山寺へ行ってきた。

写真を取りまくってきたが、今、デジカメの操作を間違えて、
すべて消してしまった。ほんと、新年早々自分のアホさかげんには
あきれるばかりだ。

気を取り直し、文字だけで書き上げようと思う。

高杉が挙兵を決意し、この功山寺の坂を数十人の若者がその時に
駆け上がってきたという。

しかし、その若者たちがどういう思いだったのか?

ふと思いにふけながらその坂を見つめていた。

当時の長州といえば、まさに絶体絶命!!

禁門の変で敗れ、その後15万の大軍が長州に押し寄せて
来ていた。

その状況を見て、長州藩内の幕府への恭順派が実権を握り、
次々の改革派の重臣が死に追いやられていく。

そして、長州の窮地はまだある。

この時期、攘夷を実行し、その報復として
イギリス・フランス・オランダ・アメリカの列強四国の
連合艦隊によって攻め込まれ、完膚なきままにたたかれた。

そんな状況での高杉の功山寺での挙兵、、、。

功山寺に、数十名の若者が集まったが、みんな不安げな顔をしていたという。

そんな若者の前で、雷のごとき高杉の大演説、、、。

さらに攘夷派の三条卿に対して、

「長州男児の肝っ玉をお目にかけまする!あとのことよしなに
お願い奉りまする!ではごめん」


と、言い残して立ち去ったという。

のちに、総理大臣にまで登りつけた伊藤博文が高杉のことを
「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し。衆目駭然として
正視する者なし、これ我が東行高杉君に非ずや。」
とも評したという。

この意味は、
「動けば雷電のようで、(言葉を)発すれば風雨のようで
ある。多くの人はただ驚き、正視できる者はいない。
これが我らの高杉君なのである。」


とのこと。

さらに、伊藤公は
「私の人生において、唯一誇れることがあるとすれば、この時、
一番に高杉さんの元に駆け付けたことだろう」
とも言う。

人生において、何度か、自身の人生をかけて
大勝負する時ってあると思う。

そんな時、一番大事なのが、決断力であると思う。

いつまでも悩んでいてもしょうがない。

いつまでも迷っていてもしょうがない。

どこまで、腹がくくれるか、、、。

どこまで、開き直れるか、、、。

腹がくくれれば、行動するのみ。

槍でも矢でもかかってこんかい!全部引き受けたる!!
ぐらいに思うと、死中から活路が開けることがあるような気がする。

これは、大げさかもしれないけど、勇気を出して、
一歩進むこと、これって日常的な小さなことでも、
とても大事ではなかろうか。

一歩進めば、新しい視界が開ける。

小さな一歩による新しい視界の積み重ねが、とても大事なのかもしれない。

話しがそれてしまったが、ではこの時、高杉の心境はどうだったのか?
功山寺の坂を駆け上がってきた若者達の心境はどうだったのか?

その辺りが知りたくて、萩博物館まで足を伸ばした。

このような博物館に行くと、年配のボランティアで解説してくれる人と
話すのがとても面白い。

いつもでたっても、話が尽きない。

学芸員の人もいるにはいるのだが、立場上、好きなことが話せないのか、
話が硬く、視野の狭い話しになりがちだ。

その点、ボランティアの人と話すと、
「こんな可能性もあるのではないか?」
「こんな視点から、見ることもできるのでは、、、」

とか、色々話がふくらみ、いつまでも話がつきない。

萩博物館にも、そのような面白い人がいたので、さっそく
高杉の功山寺の挙兵のことについて聞いてみた。

「あれは、まさに高杉の特攻ですね〜。
もう絶体絶命の死ぬ気だったんでしょうね〜。
その後、長州のほぼ全農民が高杉に味方することになり、
その時高杉も『勝てる』と思ったらしい」

と、おっしゃっておられた。

『勝てる』と思ったといっても、長州内の幕府恭順派に勝てると
言う意味であろうし、まだこの段階では、幕府をも倒してしまう
回天につながるとは、思っていなかったと思う。

その後、奇跡のような幕府に対しての勝利が続いていく。

その時には、若杉の体もかなり病み、倒幕が成し遂げられるときには
この世にはいなかった。

もう一つ、なぜどう考えても勝てるとは思えない高杉に
数十名の若者がついていったのか?

これは、歴史を知る我々からすれば、当たり前のことであるが、
このような絶体絶命の境地に、あえて付き従う人が
数十名もいたということは、驚くことではなかろうか?

確かに迷いもあったのは、当たり前。

この時、伊藤ですら、死を覚悟したであろうし、のちに総理大臣にまで
上り詰めるような「運」が開けるとは、思っても見なかったと思う。

長州の毛利家を振り返れば、本来関が原での優柔不断な行動が
もとで、120万石からその4分の1ほどの石高に格下げになって
しまった。

いざというときに、トコトン行動しないと、とんでもない
冷や飯を喰うことになる、これは関が原以来の長州藩の教訓、、、。

それに、奇兵隊にしろ、力士隊にしろ、その大半が下級武士か、
農民である。

それらの隊というのは、自身の大志を抱き、その可能性が開ける
道だったのかもしれない。

もし、幕府が力を回復し、幕府恭順派が実権を握り続ければ、
その芽が摘まれることになる。

ある意味、この長州の内戦とは、

幕府に恭順か?、それても戦うのか?というモノと、
既存の武士と下級武士の価値を示す戦いだったのかもしれない。

ただでさえ、百姓の中には関が原で敗れる前は
「今は、こげな貧乏をしちょるが、我が家だって、昔はけっこうな大禄を
もらっとった武士の家だったんじゃ〜」
というような意識が強いような気がする。

それに、毛利家自身の始まりが、安芸の国の豪族集団組合のような存在だった。

だから、平等意識が強く、他の藩では考えられないような下克上が簡単に起こる。

さらに萩博物館で聞いた話だが、毛利家は江戸時代を通して、
同じ殿様であった。もし、他の人が殿様になれば、自分たちの
権利や身分が台無しになってしまうという恐れが農民の間で
強かったらしい。

そりゃ〜、そうだと思う。

「関が原の折には、徳川に恭順したために、だまされて
あのような目にあわされた。そんなの真っ平じゃ〜。
高杉のいうことの方が、お〜ちょる〜。」


こんなような感情になったのではなかろうか。

当時の武士というのは、かなり官僚化していて、
果たして戦いのときに役にたったのだろうか。

逆に武力が強ければ幕府に目を付けられ潰されてしまうし、
怪我でもすればそろばんが使えなくなる。

例えば、なぜ浪人や百姓の集まりである新撰組が
京の街を守る為に、臨時採用という形で雇われたのか?

本来、それは武芸を生業としている、武士の仕事である。

江戸時代、会津藩や薩摩藩など、一部を除いて「武芸」というものを
かなり弱体化されたようだ。

長州でも、実際に戦ってみれば百姓の方が強かったということになる。

それに、鉄砲を主体とする戦いにおいて、鎧兜に槍というような武士の
価値がかなり縮小されてしまったのでは、、、。

そのようないろんな事から、長州の百姓達は、
俺達でもやれる、腰抜けの武士ではだめだ。俺たちが何とかしなくては
ならない、、、というような意識があったのでは、、、。

さらにそのような意識に火をつけたのが、吉田松陰ではなかろうか、、、。

松蔭の思想を突き詰めれば、百姓も武士も関係なく、
大志を抱き、この国のために命を駆けろというような思想なら
平等思想につながっていく。

それがかなり多くの若者を引き付けた根本ではなかろうか。

百姓が武士と共に、塾で学ぶ、そんなことってそうはありえない。

明治維新には、いい面と悪い面があり、その時代によって、
その評価も大きく変わってくると思う。

一つよい面を取り上げるなら、身分制度の
大シャッフルという意味では、多くの優秀な人材を
いろんな部署に投与できたのではなかろうか。

それが、日本の躍進にとてつもない原動力になったことは、
間違いないと思う。

江戸時代なら百姓が将軍になることは絶対にない。

いろんなしきたりに縛られ、いくら優秀であっても、
かなり身分制度に阻害されていたというのが事実であろう。

それが実際に、勉強がよくできれば、官僚にもなれる、
大将にもなれる、会社を興すこともできる。

さらに、長州藩全体で、尊王の意識が強かったという。

それは毛利家が天皇家の流れだということのようだが、
私が思うにはこういうことではなかろうか。

江戸時代を通して、朱子学が奨励された。

主君に忠義を尽くす、このことにより秩序が保たれ、
世の中を安定させようと幕府の狙いであろうが、
その主君というのが、極めれば極めるほど、将軍ではなく、
天皇のほうに思想的に重心が移されていく。

それが幕末の全国的な風潮であった。

とくに、江戸時代を通じて、幕府に対して押さえつけられてきた
長州藩には、そのような思想が強かったのだと思う。

長州には、回天の下地があった。

そして、その回天に火をつけた男が高杉晋作であった。

もし、あのような過激な男が、その後生き残っていたら、
もしかしたら、その後の長州も、新政府もかなりもてあますことに
なるだろうが、そこから天性の大調整役、桂小五郎が後を引き継ぐことになる。



posted by hide at 12:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月01日

共生の思想の探求、、、。2017年の課題。

 新年あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いします。

今回の年末年始も、毎年恒例の義両親が住む
山口県に来ている。

年末は、紅白を見て、それが終わるころに
すぐ隣にあるお寺の除夜の鐘が鳴り始める。

そして、鐘を突きに行き、その後近くの八幡さんに
初詣。

灯籠で参道が飾られ、新春らしい音楽が流れ
たき火のの火を横目に見ながら、お屠蘇を飲み
その後神社に参拝。

今年は、空を見上げれば、美しい星空、、、。

毎年、毎年の行事であるが、いつも思うことは
あ〜日本人に生まれてきてよかったな〜とつくづく思う。

私のブログ名は「日本人の研究!」である。

なんで日本人にそれほどこだわるのか?

それは、我々日本人って、それほど捨てたものではないということ。

また、今後必ず進むであろう、共生社会への大転回、、、。

その時にどうしても必要とされるのが、我々日本人が
自然とともに、限られた国土の中で、ひしめき合いながら暮らして
きた我々日本人、、、。

そんな中で培ってきた思想、精神、
技術が今後どうしても必要となってくる。

むしろ、そのために、今まで何千年の間、このような隔離された
島で独自の文化、文明をはぐくんできたのではなかろうか、
とすら思う。

今、若者は豊かさをそれほど求めないとも聞く。

新しい生きがい、新しい価値観、それを生み出すには
温故知新というのが、大きなキーワードになってくるのでは、、、。

そのような観点から、今年も、これから役に立つであろう共生の思想を
掘り起こしていきたい。

posted by hide at 09:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月31日

家康の江戸への遷都の謎!?森林・エネルギーと武士の大量リストラから見た歴史、、、。

家康の江戸への遷都、、、。
歴史を知っている後世のものから見れば、
そんなもん当たり前のように思う。

しかし、当時の人から見たらどうだったのか?

関ヶ原の戦いの前哨戦、多くの大名が上杉征伐のため
東に向かった。

そして、江戸周辺のみすぼらしさを見て、愕然としたという。

それほど、関東エリアというのは、まだまだ未開の地、、、。

便利で華やかな関西圏を捨て、江戸に居続け、関東圏の開発を
続けた家康の考えはいったいどういうものだったのか?

私も歴史マニアであるが、武村公太郎氏の著書
「日本史の謎は地形で解ける」を読んで、
目からうろこが出る思いであった。

関西を嫌った家康

 なぜ、家康はあの江戸へ戻ってしまったのか?」
この問いのエネルギーからの回答が
ページの図2である。


IMG_2055.JPG


 この図は、巨木の伐採圏の遷移を示している。図のタイトルの
「記念構造物のため」でわかるように、宮廷、寺院、城などを建造する
巨木の伐採の時代変遷である。
 巨木の伐採場所や伐採時期は、寺社に保存されている縁起で特定できる。
それらを丹念に調査して作成した図である。
 これによると、」平安遷都したころの巨木の伐採圏が、淀川流域と
みごとに重なっている。
 さらに安土桃山時代の頃には、伐採圏が近畿から中部、北陸、中国、四国と
急速に拡大していった様子がはっきりとわかる。
 東京大学名誉教授の太田猛彦氏によれば「最初に建築材の巨木の伐採が入る。
それに続き燃料材の採取。その後に農民による焼き畑利用などが進む」という。
 この図2によって、単に巨木伐採の広がりだけが分かるのではない。人口の
増加と文明の発展、それに伴う森林消滅と山地荒廃の広がりを透かして見る
ことができる。
 家康が関ヶ原で戦っていた頃、木材の需要は関西圏の森林再生能力を
超えていたことが図2からわかる。当時、大阪で約40万人、京都でも
40万人の人口であったといわれている。少なく見積もっても、関西圏で
年間800万本の立木が必要であった。これは関西の産地は荒廃せざるを得ない。
すでに室町時代の後半、京都の東山や比叡山は荒廃していたと伝えられている。
 山地の荒廃が進展すると、雨のたびに養分を含む表層土壌が流出し、森林再生は
困難となっていく。兵庫県の六甲山、滋賀県の田上山がその代表である。
昭和年代までこれらの山々は、荒れるにまかせ放置されていた。
 1938年7月、梅雨前線豪雨と六甲山各所で崩壊が発生し、大規模な
土石竜が発生した。この災害は谷崎潤一郎の小説『細雪』でもとりあげられて
いる。神戸、芦屋市に土石に埋まり700人の人々が死亡した。この災害は、
400年前の秀吉の大阪城築城に伴う森林伐採のツケであった。
 徳川家康は関西の産地荒廃を目の当たりにしていた。家康はこの関西を嫌った。
1590年に家康は秀吉によって江戸へ移封されたが、そこで見たものは
日本一の利根川流域の手つ数の森林であった。目にしみいるような緑は
利根川流域の未来の発展を告げていた。家康は利根川の江戸を選択した。
 これが「なぜ、家康が江戸に戻ったのか?」の問いに対するエネルギーの
観点からの答えである。
 強力な権力を確立した江戸幕府は、木材供給基地を利根川・荒川流域だけに
とどめなかった。幕府直轄の木材基地を日田、木曽、飛騨、秋田、蝦夷と
全国に広げた。江戸幕府は、文明のエネルギー負荷を日本列島全体へ広く
薄く分担させることに成功した。全国各地から江戸に向かう大型船の船底には
大量の木材が積み込まれた。
 こうして日本全土から江戸へエネルギーが注入されたことにより、100万人と
いう当時の世界最大の都市・江戸の出現が可能となり、徳川幕府260年の
長期政権が保たれた。
・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・

なるほどね〜。

世界の歴史上でも、エネルギー源である森林がなくなってしまって、
滅びた文明がいくつもあるという。

関ケ原あたりの日本の最大の政治課題は、有り余った兵士のリストラを
どうするのか?

秀吉の大陸進出も、現実問題、そのあたりが非常に強く絡み合ったいる。

秀吉軍団を見てみれば、日本一の上昇志向集団だ。

例えば、自分の部下に自身の領地を半分与えても
「秀吉様が、必ず新しい領地を与えてくれるはずだ」
という感覚が当たり前のようにあった。

では、その新しい領地とは、どこにあるのか?

外国しかない。

そんな上昇志向集団が、大きく方向を転換して、
大リストラしたのであるならば、たちまちに混乱して
しまったであろう。

しかし、大陸進出も失敗した。

そして、大衆の間も厭戦ムードになってきた。

そこで起こったのが、秀吉の跡目騒動である
関ヶ原の戦いだ。

戦争に明け暮れ、上昇志向の政治体制からの大きな
政治体制の大転換、、、。

その大転換を、当時日本一、また歴史上でも日本一の
上昇志向集団の秀吉軍団の遺伝子を受け継ぐ人たちでは、
どう考えてもできやしない。

社会全体として、それらの有り余った人材の雇用先として、
国内での新天地の開発しかない。

江戸初期では、日本の歴史上、飛躍的に新田開発が進んだ。

その最大の場所が、関東であったとも聞く。

そういう意味でも、エネルギー的に限界のある関西圏では、
ダメだったのかもしれない。

もし、家康が大阪に生き続けたら、西日本の森林は
荒れ放題、、、。

それが政治不信となり、大きな混乱が起こったのかもしれない。

大坂の陣とは、ある意味、「オレもいつかは大名になる」という
日本全国の浪人たちの野心を捨てさせる戦いであったともいえる。

もし、家康が大阪に居続け、秀吉のように豪華な生活を続けながら
より一層森林が荒れ放題になれば、大阪の陣はあれだけの規模で
収まっただろうか。

今回の真田丸の感想を多くの人に聞いても、
大半の人が幸村の生きざまに共感を受けていたようだが、
全体から見れば、家康のすごさというのは
計り知れない。

今の日本人の基礎を作った江戸時代、、、。

この江戸時代につちかったことが、これからの世界に
どれほど必要か、そう思えば、その基礎を作った家康が
もう少し評価されてもいいような気がする。




posted by hide at 08:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月27日

「3.9+5.1」は「9.0」では減点で「9」でないといけないってホントなの!?

 先日、テレビを見ていたらあの「今でしょ」の
林修さんの番組がやっていた。

その中で、林さんが今年一番問題だったこととして、
いろんなことがある中で、どこかの学校の数学のテストで、
「3.9+5.1」の回答が、「9.0」では減点で「9」でないと
完全な正解にならないとのこと。

さらに、立方体の体積を出す時に、
「縦 ✖ 横 ✖ 高さ」であるが(順番が違うかもしれないが)
これが、例えば「高さ ✖ 縦 ✖ 横」などと書くと、
これも完全な正解にならないとのこと。

このことについて、多くの生徒に聞いてみると、
「答えがそのようだというのなら、それが答えになる」
という人が、多かった。

う〜ん、私もそれには引っかかるものがある。

例えば、体を横向きしある方向から見れば、「高さ ✖ 縦 ✖ 横」だったものが
「縦 ✖ 横 ✖高さ」にもなるはずだ。

ただそう教えるから、
それが答えだというやり方って、子供の学習能力を上げるのに
よくないような気がする。

大事なのは「何でこうなるのか?」ということ。

物事を根本から覚えるように癖をつけないで、ただ暗記だけに
頼る勉強方法で、本当に面白いのだろうか。

本当の力が付くのだろうか。

特に数学、理科なんてそうじゃないのかな。

歴史だって、歴史に興味を持てば、歴史に深い関係がある
例えば科学技術とか、宗教とか、政治、地理、地形学、などなど
いろんなことを知らないと、トータルで広い視野で歴史など
見れやしない。

ただ、「1192年に源頼朝が鎌倉に幕府を開いた」ということを暗記する
だけでは、本当の真実は見えてこない。

頼朝を押し上げる社会の大きな流れは何だったのか?

関東とは、どういう土地柄だったのか?

武士が出来上がった背景は、、?

などなど、いろんなことを総合して、頼朝の幕府創設というモノが
見えてくる。

確かに、受験勉強など、莫大な暗記量が必要とされる。

それを少しでも楽にするにも、
小さいころから、「何でこうなるのか?」というような
好奇心が大事なような気がする。

それを、小学生のころから
「3.9 + 5.1」は「9」じゃないといけないという風では、
なんとなく幅の狭い子供になってしまうような気がしてならない。


posted by hide at 07:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月21日

自尊心の在り方、、、。

 先日、テレビで煩悩についてやっていた。

間もなく、大晦日、今年も義両親の住む山口で
除夜の鐘を突くことになるが、その除夜の鐘とは、
人間の持つ108の煩悩をあらわすという。

そのテレビの内容は、その煩悩の中の「嫉妬心」について
やっていた。

江戸時代初期のある旗本の話。

その旗本は、大砲の技術にたけていて、大阪城攻撃の時も
その大砲で活躍したという。

その大砲の技術を買われ、1000石の旗本になれたらしい。

しかし、その後、若い技術者が現れる。

その技術者に対する嫉妬心が抑えきれず、ある日、
その人と刺し殺してしまうという話だった。

「嫉妬心」とは、誰でも持つもの、、、。

その嫉妬心とどう付き合うのか、というよりも自尊心というモノを
どのように持つのかが、とても重要になってくるような気がする。

すごい技術、すごい知識を持ち、みんなにちやほやされる。

しかし、ちやほやされることだけで、自分の評価をしていたのでは、
いずれ崩壊することになると思う。

私が一番評価するのは、すごい技術よりも、すごい知識よりも
「常に学ぶ」という姿勢の人。

私は、戦国の三英傑の中で、信長も秀吉も好きだが、
紙一重で家康を評価している。

私なりに家康のことを表現するならば、
「内省の鉄人」とでも、言っておこう。

家康という人は、武田からも、北条からも、信長、秀吉、
天皇家からも、いろんなことを学んで取り入れている。

それには、常に自分を鑑みる、冷静さが必要。

こんな例がある。

小牧・長久手の戦いで秀吉軍に打ち勝ち、その後、
秀吉の傘下に入ることになる。

その直後の小田原攻めの時に、秀吉は小田原城をしっかりと囲み、
小田原城が見える高台に、自分の城を建てた。

そこに、全国から集まった大名たちが登城してくる。

その城の手前に急な川が流れ、そこを渡ってくる様子を
城から丸見えであった。

戦国の荒々しい時代を生き抜いてきた多くの戦国武将たちは、
その川を馬に乗り、勇敢に渡り切ろうとする。

ある意味、自分の武勇を見せつける見せ場であった。

そんな中で、家康がとった行動は、馬を降り、
数人の若い家臣に抱えられながら、石橋を渡るように
その川を渡った。

城から見ていた多くの大名たちは、そんな家康の臆病さを
あざけ笑った。

その中でも、数人の武将は「家康恐るべし」と
感じたという。

さあ〜、家康の立場になってみれば、
ほんの少し前まで、敵であった秀吉や秀吉配下の武将たちに
普通なら、自分を大きく見せようとするのでは
なかろうか。

こないだまで敵だった人たちに囲まれ、その中には家族や仲間を
家康に打ち取られた人もいるであろう。

そういう環境なら、通常、心を支配するのは、「恐怖」では
なかろうか。

恐怖心が心を支配すれば、自分を大きく見せようとするであろう。

しかし、家康は違った。

むしろ、自分の小さく見せようとし、その後の豊臣政権下では
徹底的に「律儀な内府」を演じきった。

「恐怖心」や「劣等感」のようなものが、心を支配していれば、
そのような行動はできないと思う。

それを抑える冷静さ、そして忍耐力、豊臣政権下の家康には、
そのことが一番重要だったと思う。

噂話の世界ではなく、自分の自尊心をどのように保つのか、
それは「常に学ぶ」という姿勢をやり続けること。

もし、常に学ぶという姿勢で、10年、20年やり続ければ、
相当な知識や知恵がつく。

目先の周りの評価よりも、本当の実力の方が、
結局は土台がしっかりした自分の自尊心につながるであろう。

それには、忍耐力、勇気、見識が必要なのかもしれないが、
同時に、心のあり方も、しっかりと研究していかないと、
身に付かないのかもしれない。

斎藤一人さんが、こんなようなことを言っていた。

「ダメな人は、すぐ、すごい人と自分を比べようとする、
有能な人は、昨日の自分、過去の自分と今の自分を比べることができる人」

もし、ライバルがいるなら、しっかりとその人から学ぶべし。

敵愾心を持っている暇などないし、それにとらわれていては、
周りが見えなくなる。

例えば、同窓会や昔の同僚になったりすると、
以前はもっと仲が悪かった相手でも、その憎しみのようなものが消え、
なつかしさが増してくることってないだろうか。

敵愾心や嫉妬心など、時間には勝てないということ。

環境が変わり、他のことで忙殺されるようになれば、
すっかり忘れてしまう。

人生の中で、その一瞬、一瞬を活かしきるには、
学ぶということに重点を置くべきではなかろうか。


posted by hide at 07:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする