2017年07月02日

「維摩経」から見た日本思想、、、。

今週まで、NHKのEテレ「100分de名著」で
やっていた「維摩経」、これが非常によかった。

通常、仏教のお経の多くは
「あるとき私は、こんなふうにお釈迦様から聞きました、、」
と、言ったスタイルで仏教の教えを語るのが定番だ。

しかし、維摩経では、維摩自身が、仏教徒ではあるが、
出家者ではなく、在家者であり、その教えをお釈迦様の高弟との
やり取りの中で、伝えら得ているようだ。

それは、かなり相手をやり込めたやり方であるが、
とくに在家者の立場として、この世俗の世で、仏の教えを活かして生きる
ことこそ、真の道であるという立場だ。

その高弟とのやり取りをいくつか紹介したい。

釈迦の高弟ナンバーワンといわれる舎利弗が
林の中で静かに瞑想していると維摩が現れ、

「舎利弗さま。必ずしも坐ることだけが座禅ではありません。
座禅というものは俗世間の中にあって、身と意(こころ)を
現さないことなのです。何もせず、心の動きを止め、しかも
諸々の俗世間の行いをするのです。修行を捨てず、俗事を
する。これが座禅です。心は自らに向くものでも、外に
向くものでもありません。これが座禅です。世間の種々の
見方、考え方を知りながら仏道を修行する。これが座禅です。
煩悩は起こるにまかせ、しかも心が平静である。これが座禅です。
もしこのような座禅ができたならば、仏も喜びになるはずです」
と、、、。

例えば、英語を勉強するのであれば、
やはり実際に英語圏で生活するのが一番いい。

もちろん、英語を勉強するの大事だが、いくら英単語や
文法を覚えても、実際に使えなくては何にもならない。

英語圏の生活の中で、一人っきりになり、
例えば自身のバイクが壊れたとしたら
「このバイクの部品を交換できないだろうか、
出来れば、どこか中古のバイクがあれば、それを
取り外して使えないだろうか?」
とか、そのような生きた生活の中で、得た英語の
フレーズというのは、いつまでも心の中で
結晶化して、忘れないものだ。

日本人にとって、それはかなりのストレスを伴うことだ。

しかし、「必要は習得の母である」と、、、。

生きるための智慧にしろ、現場で実体験の中で、
それも苦悩の中で思いついた小さな悟りの積み重ねにより、
その人を大きくしていくような気がする。

放送の中で

「何処にも逃げ道などない。苦難の今を引き受け、
苦難の世俗を生き抜く覚悟がいる」

とも語られていた。

次に行きたいと思う。

清貧生活にトコトンこだわる大迦葉(だいかしょう)が
すべての執着を捨て去るために行うの乞食行だと説いている。
その大迦葉に対して維摩は、

「あなたはもしかしてら自分が立派な聖者になるために
乞食行を行っているのではないでしょうか。それは本当の
乞食行ではありません。すべては関係性の中で成立している
のだから、乞食行というのは施す側のものでもあるのです。
そのことに気づかなければ、すべては無駄になってしまいます」
と、、、。

「これは自分のものだ」という思いが強くなれば強いほど、
人の苦悩は大きくなる。
しかし、「施す」という行為を通じて
「握った手を離すトレーニング」を積んでいけば、執着が低減したり
調えたりできるという。
なるほどね〜。

さらに、人は専門分野などを学んで、専門家になったときに
見えなくなるものがあるという。

自分が秀でていると感じている領域にこそ落とし穴があり、
それを高く評価されると、人はどうしても
「自分の考え方、やり方こそ正しいのだ」と思い込み、
自分の作った枠組みを堅固にしてしまう。
維摩は、釈迦の高弟達を揺さぶり、自らの仏道を
再構築するように導いていると、、、。

なるほどね〜。

これって、あると思う。

例えば、どこかの大学教授や、何かの地位についてしまうと、
そのイメージにはまってしまうことってよくあると思う。

先生、先生と持ち上げれば、分からないことを
分からないといえなくなり、
物知りを装ってしまう。

たとえ専門分野でも、もし学ぶということを忘れてしまい、
自ら作り上げた虚像に自分の心が占領されてしまったら、
その後5年、10年でどうなるか。

いつしか、その人にもかげりが見えてくる。

かげりが見えてくれば、本人も焦りが出てきて、
その自ら作り上げた虚像に執着し、心の葛藤がうまれるであろう。

そうなれば、本来の自分を失ってしまうことに
つながり、身を滅ぼす源となる。

例えば、頭いいキャラに縛られて、学ぶ力を失ってしまった人。

学歴や地位に縛られ、チャレンジ精神を忘れてしまった人と
常にこの世を修行の場ととらえ、学ぶことを中心に
コツコツ生き抜いてきた人と、10年でかなり差がついてしまう。

常に自分を見つめ直し、他者を観察し続ける、
そして世間の噂話の世界だけで生きていくことの
もどかしさをしっかりと認識する。

次に戒律を守ることの大切さを説いている優波離に対して維摩は、

「優波離さま。ただ戒律を守れと人に説くだけでは意味がありません。
”自分というもの”を必死に守ろうとするから、人は誤った
考えや行動に走ってしまうのです。もともと守るべき
"自分というもの”など存在しないということがわかれば、
それほど必死にならなくてすむはずなのです。水面や鏡に
月が写っているのを見ると、あたかも水や鏡の中に
月が存在しているかのように感じるでしょう。しかし、実際には
水の中に月があるわけではなく、鏡の中に何かがあるわけでも
ないのです。この理を知る人こそ、仏法を会通した人なのです」
と、、、。

悩みの原因は、心の中の「過剰さ(煩悩)」という。

そして、過剰になればなるほど、自分という意識が強くなる。

それより、自分の存在というモノをトコトン突き詰めれば、
なんもない、空っぽだということを自覚すれば、
その過剰さというものが、和らぐのでは、、、。

釈迦が亡くなって56億7千万年後、
次のブッタとしてこの世に現れることを約束されている
弥勒菩薩に対して
「弥勒さま。あなたはお釈迦さまから、完全なる悟りを
開いてやがては仏になると約束されているそうですが、
それはおかしくありませんか。なぜなら、仏教では、
すべてのものはこの瞬間にしか実存しないと説いて
いるからです。すべてのモノが瞬間、瞬間で消え去って
いくとすれば、過去は何処にも存在しないことに
なるし、未来はいつまでも未来であって、現在には
ならないことになります。すべては瞬間、瞬間、
変化し続けていて、この一瞬の連鎖によって次の
一瞬が成立します。だから仏教では有(存在)と
時(時間)は不離であって、別々に成立することは
成り立たないのです。それを考えると、あなたが
お釈迦様と交わした約束は成り立たないということ
になってしまいますよね」

と、、、。

過去のことを悔やんでも、それはもう過去のことであり、
この世に存在しない。

未来のことに対して不安になっていても、それは
瞬間という「今」しかない現実において、
何の意味もない。

その瞬間をどう生きるか、それにより次の瞬間が決まる。

その連続が人生そのモノだ。

そしてその連続には、「因」があり、「果」がある。

すべてが、この瞬間をどう生きるかにかかっており、
その瞬間が次の瞬間に大きく関わってくる。

例えば、私の会社の入社5年目になるM君など、
入社当時、例えば「Aという原料を30%入れて、
Bを70%入れる。計算してみろ」と言っても、
なかなか出来なかった。

そして、私も仕事のあとに、彼と居残り、
何度も何度も説明したが、なかなか出来なかった。

頭から煙が出るほど、考え抜いた答えを見せられたが、
明らかに理解できていない。

しかし、幸い、彼には、「素直さ」と「愚直さ」を持ちあわしている。

まじめにコツコツ取り組み、今ではすっかりできるようになった。

もし彼があの時、逃げていたら、一生、簡単な計算も出来ない。

そうなれば、仕事にもかなり制限されることになる。

計算が出来ないということを素直にさらけ出し、
一生懸命取り組もうとするM君、そしてみんなに馬鹿にされ
責められても愚直に取り組もうとする姿には、
なかなか感動するところがある。

見た目のすごさというよりも、私は人間のすごさというのは、
学ぶ力のある人、、、。

それには、素直さがいるし、勇気と忍耐力がいる。

そして、その瞬間、瞬間を大事にし、コツコツやれる人。

そういう人というのは、「化ける」と思う。

毎日、毎日、なるべく前向きな言葉を発し、
それに沿って行動する。

その瞬間の積み重ねにより、どれほど自身が変われることか。

次に、心の共振現象についてだ。

例えば、あの本を読んで感動したとか、
あの演説には、心を打たれたとか、
何か感動ができるというものやはり人間力では
なかろうか。

何をいっても、上っ面だけで、心に響かない人っていると思う。

そういう人ってどういう人かというと、
維摩経のテキストブックにこんなことが、
書いてあった。

「このような共振現象は、心に「自分の都合」という
バリアを張っていると起こりません。もちろん、私たちは
普段「自分というモノ」を守るため、バリアを張って
暮らしています。でも、ずっとバリアを貼りっぱなしに
していると、次第に心身は錆びついてしまい、なかなか
共振現象が起こりにくくなるのではないでしょうか。
このバリアを解除する次空間こそが道場なんですね。
 維摩は慈悲とは言わずに、ここでは大悲という言葉を
使っています。慈悲も、身近な人々や関係者に向けて
起こす小慈悲や中慈悲もあれば、すべての衆生に向けて
起こす大慈悲があります。維摩が感じた痛みは。まことに
大きな慈悲に基いたものですね」
と、、、。

こういうことがいえると思う。

バリアばかり張っていれば、視野が狭まるし、自分という意識が
強くなりすぎる。勇気がもてずに守ってばかりでは、
狭い視野でただ同じところをグルグルまわっているだけ。

それより、勇気を持って、バリアを外してみたら、、、。

それはとてつもなく、その人にとっては勇気がいることである。

しかし、自ら自分をぐるぐる巻きにしていた何かを
解きほぐせば、案外、すがすがしい気持ちになり、周りに視界が
拡がる。

それには、怖れながらも、なるべく自分より、相手を、
周りを、共同体を、そして次の世代をとか、自分よりも
なるべく周りを優先して考えるように訓練する。

慈悲の心とは、実は自意識過剰な意識を他者に移す、
訓練でもあるのでは、なかろうか、、、。

私は、日本の思想体系とは、まさにそのことが
中心あると思う。

いろんな歴史を調べれば、この日本という国の
先人たちは、どれだけ身をささげて、社会に
貢献してきたことか。

その辺りを色々調べていると、自分の心のなかに、
とても共振現象が起こるというか、熱いものを感じる。

今年94歳になるうちの会社の会長さん。

終戦を22歳で迎え、会長の同級生の半分が、戦死した世代だ。

会長は、あくまでも、どんなことがあっても戦争反対の立場だが、
その会長が「日本人なら、一度、知覧に行って来い」
と言っていた。

特攻隊をどう見るか、人それぞれだが、その遺書、手紙を見ると、
胸が熱くなる。

あいつらは、洗脳されたとか、犬死だったという人もいるが、
そのようなとらえ方というのは、あまりにも熟慮にかける。

日本の歴史、民族性、社会のあり方、気候、風土、地理的条件などなど、
あらゆる角度から見て、自分より大事なモノがあるというの考えは、
自然にわいてくるだろうし、その先輩達もそうしてきた。

次の世代に何を残すか、この思想的なことも
非常に大事なように思う。

さらに維摩経について、もう少し続く、、、。



posted by hide at 19:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「維摩経」は、面白い!!NHK Eテレを見て。先人の教えを現代の社会で活かそう〜!!

先週終わってしまったが、NHKのEテレ「100分de名著」で放映中の
「維摩経」、これが素晴らしくいい。

4回放映のシリーズだが、思わず、本屋へ行って、
そのテキストブックを買ってしまった。

「維摩経」の説明については、詳しいことは、ネットで調べて
いただくとして、簡単に言えば、仏教において、出家者ではなく、
在家者としての道を選んだ人物らしい。この人の教えが、
日本の仏教界に大きな影響を与えた。

ではテキストブックの中から、いくつかの
教えを書き起こしたい。

「ここに一つの食器があったとしましょう。有名なブランドの
高価な食器だと聞けば、なんとなくそれを美しいモノのように
感じる人は多いでしょう。しかし、もしそれが大嫌いな人が
使った食器だとわかると、触れるのさえ疎ましい不浄なモノに
思えてきます。同じ食器でありながらもそんなふうに状況に
よって感じ方が変わるのは、浄・不浄という感覚が、自分という
フィルターによって生じたものだからです。
 自分というフィルターをものごとを見ていては、本質は
見えてきません。自分というフィルターを外すこと、つまり
「とらわれを捨てる」ことが、まずは大切なのです。このように、
何事にもとらわれずにものごとを見ることが、仏教でいう
「智慧」です。


これって、日常的にあることだと思う。

まったく、同じことを体験しても、同じことを見ても
その捉え方が人によって全く違う。

各々自身のフィルターがあり、その主観により、
いくら同じ環境に生きていても、まったくその世界観というのか、
なんというのか、違ってきてしまう。

他人からの善意を上手く受け取れる人というのは、
自身も善意をもって、人に接している人なのかもしれない。

いつも他人の噂話ばかり気にしている人は、
その世界観から離れられない。

つまり、幸福も不幸も、自分が作り出しているようなもの。

何かあるたびに、自分は不幸だ、不幸だと呟く人、、、。

同じことが起こっても、自分は運がついている、誰かが導いてくれている
と思う人と、その幸福感が違うし、周りの人はどちらの人に
寄っていくだろうか。

体全体から不幸なオーラを出している人に、
近寄りたいだろうか。

それに、まったく視野も違ってくる。

何か自分に降りかかってくることが、宿命だとすると、
その捉え方によって、まったくその後の人生が変わってくると思う。

さらに、先に進みたい。

智慧と慈悲の実践

文殊菩薩
「菩薩はどのようにして仏陀の悟りへと到達するのですか?」

維摩居士
「もし菩薩が自ら苦悩と罪に満ちた迷いの世界(非道)へと行き、
そこを生き抜くならば、これこそ悟りへの到達です」

維摩居士
「仏陀となる素質は何だとおみますか?」

文殊菩薩
「煩悩も、仏教以外の教えも、仏陀となる素質です。すでに悟りを
得た人は、それ以上悟りを求めることはしません。その人は、煩悩の
泥の中へとまみれることが仏道の実践になるのです。空中に種があっても
芽は出ませんが、泥土の中にあれば芽をふくのと同じです。大会の底に
潜らなければ海の底の宝が手に入らないように、煩悩の中を生きぬかなければ
智慧を獲得して実践することはできません」


毎日、毎日いろんなことが起こる。

さらに、何かを得ても、それでは満足できずに
次のモノを求めたがるのが人間の性、、、。

生きていくうえで、どうしても、悩み不安はなかなか解消されない。
それが人生であり、その中で、毎日、毎日、積み上げるように
学んでいくことこそ、人生そのものだと思う。

その学ぶというのも、自分がどのようなフィルターを持つかによって、
かなり変わってくし、素直さと勇気、そして忍耐力が必要になってくるであろう。

逆に智慧がだんだんとついてくれば、忍耐に対するその対象が変わってくるで
あろうし、智慧と忍耐というのは、常に相関関係にある。

「現場100回」、ある人のことばであるが、
何度も現場に足を運んで、よく観察して、実践しないと
その本質など、見えやしない。

それと同じ、、。
智慧だって活かしてなんぼである。

次に行きたい。

病気になった維摩は、見舞いに訪れた人に向かって
こう語ったという。

「みなさん、この私を見てどう感じますか。この身体は無常で、
無力で、確かなものではありません。刻々と衰えていき、頼りに
なりません。しかし、仏教の教えによって智慧を得た者は、
このような身体を頼りにすることはありません。
 私は、”自分というもの”を頼りにしてしまうと、貪りの心や
迷いを生み出してしまいます。そもそも私たちの体は四つの元素
(地・水・火・風)の集合体として成り立っていて、さまざまな
因縁によって、たまたま成立しているだけなのです。やがては
構成要素は朽ちていき、バラバラに分離してしまいます。
”単独で成立し、決して変化せず、何者にも関係しない存在”など、
この世にはないのです。っそいて、この集合したものの本質を
『空』と表現します。しかし仏となれば、もはや永遠の存在となるの
ですから、私たちはそれを願い求めなければなりません」
と、、、。

「仏教が説くように、自分という枠組みが強ければ強いほど、
我々の苦悩の強度は増すことになります。自分というものの濃度が
濃ければ濃いほど、苦悩の溝は深くなるのです」
と、、、。

よくよく周りを見てみると、例えば人間関係に苦悩している人、、、。

いくらアドバイスをしても、まったく受け付けない。

心が苦悩に占領されて、周りが見えない。

自意識過剰なくらい、自分というモノに意識が集中している。

江戸時代の鈴木正三は、
「我が身を思う念(自己保身)」が分別(煩悩)の本質である」
と言ったとか、、、。

では、その自分という実態があるのだろうか?

「そもそも私たちの体は四つの元素
(地・水・火・風)の集合体として成り立っていて、さまざまな
因縁によって、たまたま成立しているだけなのです。」
維摩経もしくは、仏教ではこのように説明している。

もう少し現在風に説明するならば、
大部分の人間の体というのは、そのほとんどは、
水であり空気中の二酸化炭素であり、
焼かれればその水と二酸化炭素に戻っていく。

生きているうちも、人間を構成している70%が水であり、その水が
汗や尿として、絶えず出たり、入ったりを繰り返す。

そして、人間の細胞とは、絶えず新陳代謝を繰り返し、
2年もすれば、すべての細胞が入れ替わっているという。

私の今、体の中にある水のほとんどが、もとは海の水であり、
絶えず、海と私の体を行ったり来たりしていることになる。

私の体の細胞を構成する炭素も、絶えず死んだり再生したりしているので、
空気中と私の体を行ったり来たりしている。

さらに、体の中にある60兆モノ細胞に対し、影響し合っているが
自立した生命体である100兆ほどの微生物が住み着いているという。

これらが、たまたま何かの縁で集まって、私の体というモノを
今、現在構成している。

体ではなく、その個人の人格にしてもそうだ。

ある精神科医が言っていたが
「人間とは、とても社会性がある動物で
著しく周りから影響を受けている」
と、、、。

確かに、オオカミに育てられた少年が、オオカミのような
習性を身に着けてしまう。

中国人は、中国人らしく、日本人は日本人らしく
育っていく。

私は、二十歳ぐらいまで、祖父母と寝起きを共にしていた
おじいさんおばあさん子だ。

歳を重ねるにつれ、その祖父母の影響を受けているような
気がする。

祖父母だけではない、父母、上司、恩師、友人、
さらにすでに亡くなっている文字を通じて、道元さん、親鸞さんなどの
影響も受けている。

もし、それらの人らに巡り合わせずにオオカミに育てられれば、
オオカミのようになっていたのであろう。

また、私に影響を受けた人も、そのまた両親がおられるし、
その人たちにも、両親がおられる。

つまり、長年続いてきた人間の意識の集合体により、
私という人格が作られていることになる。

これって、本当に「私」、、、?

ただ、有史以来、存続する人間の意識の集合体のほんの
一現象に過ぎない。

体も、本当に「私」なの、、、?

ただ、大きな水と二酸化炭素の循環の中に、体が存在するだけ
なのでは、、、。

そう思えば、「私」なんて何もないのでは、、、。

逆に言えば、海も、空気も私自身、、、。

つまり、自分というモノがあってないようなものだ。

自分なんて、すべて空っぽ、、、。

自分という意識(自我)を薄めれば、もしかすると煩悩も
薄まるのではなかろうか、、、。

放送の中で
「智慧と慈悲、これこそが『This is the 仏教』である」
というようなことを語っていた。

その智慧をつけるにも、ただ出家して、
世俗の世界を離れて追究するよりも、泥の中でしか
ハスの花は咲かない、つまり世俗の世界を生き抜くことこそ、
仏の教えを追及する真の道であると、維摩経は説いている。

放送の中で
「何処にも逃げ道などない。苦難の今を引き受け、
苦難の世俗を生き抜く覚悟がいる」

というようなことを言っていた。

そして、自分を忘れる為に、自分よりも大事なモノって
ないのだろうか。

それは、周りに尽くすこと。

家族であり、仲間であり、例えば次の世代であり、
公共心と社会性についても、維摩経が主張する大事なことである。

それが「慈悲」につながっているように思う。

自分を忘れる為に、周りに目を向ける。

そのために、周りに尽くすこと。

周りに意識を移すことが自我を忘れることであり、
煩悩を薄めることにつながる。

すべてがつながっているのであり、
ある人が言っていたが
「みんなは自分、自分はみんな」
ということ。

せっせと家族に奉仕する、社会に奉仕する、次の世代に奉仕する、
それが自分を忘れる一番の近道、「慈悲」の心であるのだろう。

放送の中でも、ある菩薩が、世の中汚いものだらけ、、、。

そんな中で、どのように仏の教えを実践するのか、、、。

というようなことを語られていたが、その世俗の中で、
生きてこそ真理が追究できるということ。

そのことを維摩経では強く主張している。

おもしろいね〜。

まだまだ、次に続く、、、。



posted by hide at 08:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月09日

「空」の思想とは、、、。よくよく考えれば、何もない空っぽの自分の本質、、、。

先月は、自分の誕生月。

私も、とうとう50代。

実感があるのか、ないのかと言われれば、
あるような、ないような、、、。

一つ言えることは、残りの人生、あと30年ほど、、、。

これがどれほど短く感じることか、、、。

ある人が言っていたが、
「30代より、40代、
40代より、50代、時間というモノが
ものすごいスピードで過ぎ去っていく」
と、、、。

確かにその通りだと思う。

自分の40代を振り返ると、あっという間であった。

たとえば、小学校の時の一ヵ月と、50代の一ヵ月というのは、
その体感時間というモノが、明らかに違う。

人生80年として、今50なら6割の人生が終わったということになるが、
実際、体感時間で言えば、どう考えてもそれ以上であろう。

ついこないだ、一ヵ月程度前ぐらいの感覚の正月から、
もう半年以上過ぎているという。

2017年というのが、もう半分終わったということ。

明らかに歳を重ねれば、重ねるほど、時間が過ぎる速度というモノが、
加速度がついて速くなる。

これが現実である。

そう思うと、今のところ時間からして、約6割の人生が終わったことになるが、
すでに8割以上終わったことになるのでは、、、。

そして、待ち受けているのは、「死」である。

これは何人たりとも避けることはできない。

では、現在50才ではあるが、残り少ない人生、
「終活」に入ってもいいんじゃないかな〜、とすら思う。

終活といっても、葬儀や墓のことを決めておくとか、
そういうのではなくて、人生の総仕上げだ。

ある人が言っていたが、
「人生って知恵と忍耐力をつけるためにある」
と、、、。

私は、人一倍いろんな体験もしたし、苦悩もした。

その中で、いろんな知恵もついてきたし、
昔にくらべれば、はるかに忍耐力もついてきた。

別に、特別地位やお金があるわけでもないが、
自分で言うのも何だが、なかなかいい感じに、
50代を迎えることができた。

その培った知恵や忍耐力をどのように使うのか?

あの栄華を極めた太閤殿下豊臣秀吉のの辞世
 
「「露とおち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢」

と、、、。

どんなに勲章をつけても、どんなに金銀財宝を貯め込んでも、
どんなに幸せな家族でも、最後には自分一人で死んでいかなくては
ならない。

50にもなると、いろんな人の葬儀に立ち会うことになる。

そして、最後に火葬場で焼かれ、骨だけの姿になってしまう。

大部分の人間の体というのは、そのほとんどは、
水であり空気中の二酸化炭素であり、
焼かれればその水と二酸化炭素に戻っていく。

生きているうちも、人間を構成している70%が水であり、その水が
汗や尿として、絶えず出たり、入ったりを繰り返す。

そして、人間の細胞とは、絶えず新陳代謝を繰り返し、
2年もすれば、すべての細胞が入れ替わっているという。

私の今、体の中にある水のほとんどが、もとは海の水であり、
絶えず、海と私の体を行ったり来たりしていることになる。

私の体の細胞を構成する炭素も、絶えず死んだり再生したりしているので、
空気中と私の体を行ったり来たりしている。

体ではなく、その個人の人格にしてもそうだ。

ある精神科医が言っていたが
「人間とは、とても社会性がある動物で
著しく周りから影響を受けている」
と、、、。

確かに、オオカミに育てられた少年が、オオカミのような
習性を身に着けてしまう。

中国人は、中国人らしく、日本人は日本人らしく
育っていく。

私は、二十歳ぐらいまで、祖父母と寝起きを共にしていた
おじいさんおばあさん子だ。

歳を重ねるにつれ、その祖父母の影響を受けているような
気がする。

祖父母だけではない、父母、上司、恩師、友人、
さらにすでに亡くなっている道元さん、親鸞さんなどの
影響も受けている。

もし、それらの人らに巡り合わせずにオオカミに育てられれば、
オオカミのようになっていたのであろう。

また、私に影響を受けた人も、そのまた両親がおられるし、
その人たちにも、両親がおられる。

つまり、長年続いてきた人間の意識の集合体により、
私という人格が作られていることになる。

これって、本当に「私」、、、?

ただ、有史以来、存続する人間の意識の集合体のほんの
一現象に過ぎない。

体も、本当に「私」なの、、、?

ただ、大きな水と二酸化炭素の循環の中に、体が存在するだけ
なのでは、、、。

そう思えば、「私」なんて何もないのでは、、、。

逆に言えば、海も、空気も私自身、、、。

つまり、自分というモノがあってないようなものだ。

自分なんて、すべて空っぽ、、、。

江戸時代の鈴木正三は、
「我が身を思う念(自己保身)」が分別(煩悩)の本質である」
と言ったとか、、、。

残りの人生、自身にこだわり続けるのか、
そうすればそうするほど、煩悩に縛られることになる。

あやふやな自身の評価を、他人の噂話にゆだねていては、
いつまでたっても、本当の幸福感というモノを得ることは
できやしない。

自分など何もない、空っぽ、そして世の中すべてが
つながっているということ、、、。

上手く言えないが、そのように思えた方のが、
幸せに生きれるような気がする。


posted by hide at 07:29| Comment(3) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月29日

「足るを知る」、「諸行無常」、自分を見つめ直すことって、持続可能な幸福感の始まりでは、、、。

 昨日、たまたま車の中で、ラジオを聞いていたら
登山家の野口健さんが面白いことを話していた。

野口さんに
「なぜ、山を登ろうとするんですか?」
という質問にたいして、

「山から帰ってきて、いつも思うことは、
あの風呂の感動。二カ月ほど、風呂には入れず、
じっくり使って楽しむ。それが一ヵ月ほど続くが、
それ以降は、その感動がなくなってしまう。
例えば、電気のありがたさ、シーツの上で寝るということの
あの柔らかさ、日本という国のありがたさ、その感動が
冷めたころ、また山に行きたくなる」
と、、、。

少し言葉は違うが、こんな内容のことを話されていた。

私も、野口さんほどではないが、同じような
経験がある。

ニュージーランドで四日間、山小屋を転々と泊まり歩きながら、
トレッキングをやったことがある。

もちろん、風呂にも入れないし、四日間分の水から、食糧から、
ガスとか、鍋とか、すべてのモノを背中に背負って、
山の中を歩き回った。

そこから、返ってきたときのあのシャワーの感動、、、、。

今でも忘れない。

そして、その山歩きの中で、あるアメリカ人が、
インスタントのコーヒーをくれた。

私は、毎日のようにコーヒーを飲むコーヒー党、、、。

しかし、なるべく荷物を軽くしなくてはならないので、
コーヒーはもっていかなかった。

私が飲んだコーヒーの中で、間違いなく、あの時の
インスタントコーヒーが最高のモノであった。

ある人の言葉であるが
「人間の快楽とは、落差である」
ということ。

毎日、毎日、まるで水を飲むかのように、
ビールを飲む人と、週に一回なり、
しっかりと汗をかいて仕事をした人が自分への
ご褒美として、飲むビールと、まったく価値が違ってくる。

以前は、たかだか一杯のビールを飲むために、
自転車で16kmほどの距離の温泉に行き、
その後プールで泳いで、温泉に入った後の
グラス一杯のビールを飲む。

なんか一気に飲むのがもったいなくて、チビチビ飲むのだが、
そのビールが体の中にしみ込んでいくようだった。

もしかしたら、ただ「もっと、もっと」でなく、
自制心があった方のが、快楽を上手く味わえるのでは
なかろうか、、、。

もし、あなたが船で遭難して、一ヵ月ほど無人島のようなところで
生活した後、帰還して、今、目の前にあるコーヒーって、とても
感動するのではなかろうか、、、。

そんな状況に遭遇したときに、いつもいがみ合っている人が
目の前に現れたときに、なんだかとても懐かしく、
いとおしくなるのでは、、、。

状況が変われば、自身の主観というモノも変わる、、、。

また、今、当たり前のことって、本当にあたりまえなのか、、、。

不平、不満で頭をパンパンにしているのでは、
もしかしたら、自分がいかに恵まれているかが
分からないのではなかろうか、、、。

いま日本では、ギャル曽根のようなタレントがもてはやされて
いるように、明らかに食べ物に満ち溢れた飽食の時代だ。

しかし、世界的に見て、飢餓で苦しんでる人が、どれだけいることか、、、。

時代的に見て、これほど豊かな時代が過去あっただろうか、、、、。

この時代、そしてこの日本に生まれたことが
とてつもなくラッキーであったことか、、、。

もっと、もっとでは、本当の幸せは手に入らないのでは、、、。

持続可能な幸福感っていうのは、味わえないのでは、、、、。

足るを知る心、当たり前など何一つない、諸行無常であること、
そのようなどこか冷静な心って大事なような気がする。

世の中、もっと豊かに、もっと便利にとはいうモノのの、
本当に幸せを味わっている人がどれほどいるのか、、、。

例えば、六本木ヒルズに住んで、一見豪華な生活をしているような人でも、
もしかしたら、不安や恐怖と隣合せなのでは、、、、。

ボクシング世界王者だった鬼塚選手の言葉だった。

少年の頃、世界チャンピオンはスーパーマンみたいな存在やと思ってきた。
俺にとっては神様に近い存在ですよね。凡人の俺が、そんな凄い場所に
辿りつくことができたら、いったいどんな凄い人間になれるんだろう。
そのことだけを励みにここまで頑張ってきました。
しかし、試合に勝ってはみたものの、あるはずのものが何もないんです。
「エッ、何なのこれ?なんで、何もないんや?」
「いや、次勝てばきっと何かが得られる」
そう信じて、次から次へと試合を積み重ねていきました。だけど何も残らない。
試合が終わった夜は、生き残れた実感と自分が探し求めたものが何もなかったと
いう寂しさで発狂しそうになりました。俺は常に素直に飛び跳ねる自分で
おりたいのに、充足感がないから、「何でや?」という思いばかりが
虚しく深まっていく。最後の試合までずっとその繰り返しでした。
  (『週刊文春』平成6年11月)


上へ行けば行くほど、競争が激しくなってくる。

やらなければ、やられてしまう。

そうなれば、常に不安や恐怖が心の中を占領してしまう。

これは、今では、上だけの話ではない。

ある長老の言葉であるが
「今では、競争、競争といって、人をだまくらかしたり、
利用したりが当たり前の時代になってしまった。
昔は、もっと信頼関係があり、助け合ったもんじゃよ〜」
と、、、。

激しすぎる競争というモノが、もしかしたら、
逆に社会を混乱させるのでは、、、。

今では、それが日本の企業だけではなく、中国や
東南アジアなどなど、世界的な競争社会に
なってしまった。

自由貿易、グローバル化、行き過ぎれば、
ほんの一握りの資本家以外、みんな疲れ切ってしまう。

その巨大な資本家たちも、果たして安住な暮らしを
楽しんでいるのだろうか、、、、。

上へ行けば上へ行くほど、競争が激しくなる。

いつ裏切られるか、いつ寝首をかかれるか、
不安や恐怖に飲み込まれる日々なのでは、、、。

江戸時代の鈴木正三は、「我が身を思う念(自己保身)」が分別(煩悩)の本質である」
と言ったとか、、、。

もし、自分が、六本木ヒルズの住人で、そこから破産し、
ホームレスにでもなったら、、、。

しかし、よくよく考えたら、自分もあと30年ほどで、
全てを捨てて、身一つであの世に旅立たねばならない。

やがて死んでいく我が身、、、。

これは決定的なことであり、誰もが避けて通れない。

そう思うなら、執着が薄まるのではなかろうか、、、

先ほどの「足るを知る」ということも
世の中「諸行無常」ということも、冷静にならなければ、
感じることができやしない。

執着が強ければ、冷静になれないし、本質が
見えやしない。

自分を見つめ直すことって、人生を楽しむ
唯一の方法のような気がする、、、。



posted by hide at 07:48| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月06日

「己」を溶かす勇気、これって大事なのかもしれない、、、。

 なぜ、怒るのか、、、?

なぜ、悩むのか、、、?

なぜ、自分を大きく見せたがるのか、、、?

なぜ、妬むのか、、、、?

その根本を突き詰めれば、誰でも傷つきたくないと思う
我が身を思う念(自己保身)である。

では、その自己を忘れることは出来ないだろうか、、、。

人間社会の中で、自他を分別し、所有物をはっきりさせなくては
生きていけない。

しかし、その所有物って、本当にあなただけのものなのか、、、。

そして、その根本を問えば、あなたとは本当にあなたなのか、、、?

狼に生まれた人間の子どもが、狼のような風習を身に付けてしまうという。

中国人は、中国人らしく、、、。

日本人は、日本人らしく、周りに常に気を使おうとする。

最近ふと思う。

自分は無くなった祖父母の影響を受けているようだ、、、。

祖父母だけでなく、恩師、上司、先輩、友人などなど、
今まで人生の中で出会った人々の影響を何層にも何層にもうけて、
今自分という人格が形成されている。

今の時代の人だけではない。

その人たちも、親があり、先祖があり、周りの人々から、
いろんな影響を何層にも何層にも受けている。

人間には、文字と言葉が存在する。

何百年前に生きた道元さんや親鸞さんの影響を多くの人が受けて
いることになる。

「人間は著しく周りから影響を受けている」
と、ある精神科医が言っていたが、それだけ社会性のある動物であり、
けっして一人では生きて行けれない。

むしろ、「自分」というのは、昔から続く大きな大きな人間の集団意識により
作り出せれるものであり、そしてそれが次の世代にも引き継がれていく。

つまり、次の世代にも、私が生き続けることになるのでは、、、。

自分って自分であって自分でないのでは、、、。

そんなややこしいことを言っても誰も相手にされやしない。

しかし、もし日常生活の中で、少しでも自我を離れ、
煩悩が薄まれば、それはそれで人生が楽しくなる。

西洋的な「個」主張する文化では、自分は自分、他人は他人というような
心理学になってしまう。

しかし、「自分もみんな、みんなも自分」というような
村社会の中で生きてきた日本人的な考えの方が、もしかしたら
煩悩が薄まるような気がする。

朝の連ドラの「ひよっこ」、とても面白いと思うのだが、
どうだろうか?

主人公であるみね子が、蒸発してしまった父親の代わりに
高校を卒業して集団就職として、東京で働くことを決めた。

そんなみね子に、みねこの叔父が
「みね子、もっと自由に生きていいんだよ〜」
と、、、。

みね子が
「自由って、学校でも言うけど、いったい何?
私は目の前のことを精一杯やることが好きだし、
それを不自由とは思わない。自由ってよくわかんね〜」
と、、、。

私自身の経験であるが、もっと若い独身の頃、
お金も時間も今とは比べモノにならないくらい自由があった。

今では、結婚し、兼業農家である私は、
土日はほとんど野良仕事、、、。

タバコもやらない、競馬もしない、ゴルフも行かない、
飲みにもあまり行かない、しかし不自由かといわれれば、
むしろ昔より自由を感じる。

若いときは、もっと、いろんなことにとらわれていたような気がする。

つまり、自由とは心の開放ではなかろうか、、、。

その心を解放すのは、自分という意識を薄めること、、、。

人生生きていくうえで、いろんなことに遭遇する。

子どもを育てていく上で、お金の問題、人間関係などなど
いろんな試練が起こる。

しかし、それらは本当の自由を手にするためのプログラムなのかも
しれない。

だれもが、いづれあの世に旅立たなくてはならない。

その時に、怨みつらみ、悲しみ、心が占領されていれば、
本当に天国へ昇華していけるのだろうか、、、。

浮遊霊として、深い煩悩を抱えながら、永遠にこの世をさまようことに
なるのではなかろうか、、、。

江戸時代の鈴木正三は、「我が身を思う念(自己保身)」が分別の本質であると言った。

世の中は、すべてのモノがつながっている。

そして、本当の自分など何もない。

大きな大きな集団意識の中のほんの一部分であり、
そのような意識の芽生えこそ、煩悩が薄まるのでは
なかろうか、、、。

それには「己を溶かす勇気」が大事なのかもしれない。


posted by hide at 07:48| Comment(5) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月22日

「楽しみとは、苦しみと苦しみの間にあるもの。苦しみとは、楽しみが古くなったもの」、、、。今日のなぜ生きる2よかった!

欲望って、どういうモノなのか?

例えば、喉がカラカラに乾いたときに飲むビールというモノは、
格別だ。

しかし、朝から飲む人もいる。

その人にとってのコップ一杯のビールというのは、
まるで水のようなもの。

同じものを飲んでも、まったくその状況によって、
そこから得られる快感というモノが違ってくる。

始めて、自転車に乗れた時の感動を覚えていますか?

始めて、バイクの免許を取って、ツーリングに行った時の感動を覚えていますか?

始めて、車の免許を取って、ドライブに行った時の感動を覚えていますか?

感動とは、一瞬である。

時が経てば、それが当たり前となり、感動などどこかへ消えてなくなり、
何かに対する不満、不安が心の中に渦巻く。

感動、楽しさ、快楽とは、苦しみと苦しみの谷間にあるもの。

欲には、切がなく、当たり前となった現実だけでは、
満足できなくなる。

「もっと上へ、もっと上へ」と、、、。

しかし、上へ行けば行くほど、競争が激しくなる。

やらなければやられてしまう。

多分、上を上り詰めたいという欲望よりも、
恐怖との戦いとなる。

ジュニアバンタム級世界チャンピオンになったボクシングの鬼塚勝也選手が
こんなことを語っていた。

 少年の頃、世界チャンピオンはスーパーマンみたいな存在やと思ってきた。
俺にとっては神様に近い存在ですよね。凡人の俺が、そんな凄い場所に
辿りつくことができたら、いったいどんな凄い人間になれるんだろう。
そのことだけを励みにここまで頑張ってきました。
しかし、試合に勝ってはみたものの、あるはずのものが何もないんです。
「エッ、何なのこれ?なんで、何もないんや?」
「いや、次勝てばきっと何かが得られる」
そう信じて、次から次へと試合を積み重ねていきました。だけど何も残らない。
試合が終わった夜は、生き残れた実感と自分が探し求めたものが何もなかったと
いう寂しさで発狂しそうになりました。俺は常に素直に飛び跳ねる自分で
おりたいのに、充足感がないから、「何でや?」という思いばかりが
虚しく深まっていく。最後の試合までずっとその繰り返しでした。
  (『週刊文春』平成6年11月)


世界の頂点を極めても「充足感」がない。

人間とは、いつになったら「満たされる」というような
感覚になるのであろうか。

到達した時点で一時の達成感、、、。
そして、そのあとの猛烈な恐怖と不安、、、。

「世界チャンピオンは、スーパーマン」、、、、。
「世界チャンピオンは、神さまに近い状態」、、、、。

そのような自分が抱いてたイメージとはかけはなれ、
充実感などなく、次なる恐怖と不安を抱えなくてはならい。

上へ上がって何をするのか?

ただ噂話の中の価値観だけでは、どう考えても、
苦しくなる。

それよりも持続可能な幸福感とは、何なのか?

どんな場面でも、どんな状況でも楽しめる自分を作るには、、、。




posted by hide at 07:48| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月17日

サダム・フセインの「大量破壊兵器」、、、。そしてアサドの「化学兵器」、、、。

アメリカの戦争とは、、、。

アメリカの正義とは、、、。

https://www.youtube.com/watch?v=Zub_W25PCS8


どうか、一度この動画をご覧下さい。
posted by hide at 05:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月09日

米国の暴挙、、、。アメリカは必ず煮詰まっていく、、、。

 単純な話し、アサド政権を支持するのか?、それともイスラム国を支持するのか?

これだけ、世界中でテロが活発化している中で、
地上戦で唯一イスラム国と戦っているアサド・シリア政府軍を攻撃するとは、、、。

単純に考えれば、誰でも分かる話、、、。

米国がテロリストたちを支援していることは、
もう公然とした事実、、、。

米国は、はるかに深刻な病魔に冒されているということが
読み取れる、、、。

戦争をしないと自国が持たない、、。

中東の覇権が怪しくなるということは、
張子の虎がくずれる、、、。

時代の大きな流れを見ていると、米国的なやりかたでは、
どう考えても、今後、煮詰まっていくであろう、、、。

それに、その時代に与えられる「運」というものが、
確実にある。

そして、衰退していく側には、確実に「不運」というものが、
与えられる。

プーチン氏いわく
「最後に勝つのは、理性だ」
と、、、。

今、多くの人が、理性を取り戻しつつあるのでは、、、。

posted by hide at 08:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月08日

幸せのパターン、、、。

 先日、家族で焼肉を食べに行った。

相変わらず、オヤジはそのほとんどが、
愛犬パンチの話、、、。

だいぶ認知症が進んでいるが、食事をしていても、
10分に一度ぐらい
「パンチに餌はやったか?」
と、聞いてくる。

これも、毎日、毎日のこと。

母は母で、日常のことを面白可笑しく話す、、、。

何度も聞いた話もあるが、大体落ちは見えているのであるが、
本人が気持ちよくはなしているので、ただ聞いている。

特にありふれた日常のことであるが、ふと考えてみれば、
10年後、このように家族で、食事に出かけることができるのだろうか?

オヤジは、その頃90歳になる。

オフクロにしても、その頃は80代中盤だ。

愛犬パンチも、今12才なので、10年後は、
この世にいないであろう。

今、このような日常のたわいもない話を家族とできる。

もしかしたら、とても幸せなことなのかもしれない。

家族がいる、健康な体、、、。

それだけで、十分おつりがくるぐらい幸せなのかもしれない。

実は、あるデーターによると、「ありがとう」という言葉をいう人ほど、
「幸福感」を感じているとのこと。

逆に、あれが足らないこれが足らない、不幸だ、不幸だと
常に言っている人というのは、幸福感というのは味わえないのかもしれない。

成功していないと幸せにはなれないのだろうか?

もしかしたら、世の中を見る、あなたのメガネのレンズを変えてみると、
まったく違って見えるのではなかろうか、、。

毎日、毎日自分を責め続ける人、、、。

他人との背競べのみに、執着する人、、、。

見栄、張ったり、、、その虚像って、けっこう家賃が高くない、、、?

「頭がいい」キャラでい続けるよりも、自分のことを馬鹿だと
思い込めば、行動範囲が広がるのでは、、、。

他人の噂話の中で生きていれば、どうしても虚像を作らなくてはならなくなる。

斎藤一人さんがこんなことを言っていた
「すごいやつは、昨日の自分と比較できる人。
ダメなやつは、すごい人と自分を比較する」
と、、、。

例えば、ライバルがいるとする。

そのライバルとの、競争心むき出しにしているよりも、
相手のすごいところを素直に認める。

そして、そこを自分に取り入れる。

その方のが、自分にとっては、メリットが高いのでは、、、。

ありのままの自分を受け入れる、、、。

他人の噂話に、自分を身を置いて、良いだの悪いだの言っていれば、
いつまでたっても、そこから抜け出せなくなる。

たとえば、散らかっていた自分の机の上の整理した、、、。

今日は、本をここまで読んだ、、、。

いつも挨拶する人に、今日はより明るく大きな声で言えることができた。

そんな、日常の小さなこと、自分の意識を集中する、昨日の自分と比較して、
少しだが成長したのではなかろうか。

そのようなことを10年、20年とやり続ければ、
まったく人生変わってくる。

誰が認めてくれるわけでもない。

しかし、あなた自身が認めて認めてやればいい。

等身大の自分でいれば、視界が広がる、感謝ができる。

ありのままの自分でいれば、他人と本音で話すことができる。

そうなれば、必ず「運」もついてくる。

今までの思考パターンを変えるということは、不安なことあり、
時には恐怖を感じる。

そんな時、役立つのが昔からの思考パターンである
心に神を持つこと。

つまり、信仰だ。

宗教なんて言うと引く人がいることは十分承知の上で語る。

有史以来、人間は何らかの神を持ってきた。

確かに、戦争の道具にされたり、金儲けの道具にされたことも多い。

しかし、全部を否定することももったいない。

不安に思ったとき、氏神さんがついている、
近くのお地蔵さんが守っていてくれている。

誰もわかってくれなくても、あなたをいつもかわいがってくれた
亡くなったおじいさん、おばあさんがあなたをいつも見ていてくれる。

高い月謝を払って、新興宗教に染まることもない。

身近な氏神さん、通勤途中にいつもこちらを見守っていてくれるお地蔵さん、
そして身近な親族、そんな方々の方が、より親近感がわき、
自分を守っていてくれると、感じるのではなかろうか。

常に不足しているモノに、意識を集中するのか、
それとも今あるモノに、ありがたみを感じるのか、

それによって、まったく違った見方ができる。

禅的な思想であるが、足るを知ることこそ、しあわせへの道、、、。

また、常に何かに、不安を抱いているよりも、浄土系の思想である、
「何かがあなたを守ってくれている、もうすべて任せてしまいなよ〜」
と、このような思想も幸せをもたらすのかもしれない。

否定され続けた宗教ではなるが、十分役に立てることもできる。

それらも含めて、あなた次第だ。


posted by hide at 07:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月03日

エジソンの名言「失敗ではない。うまくいかない方法を一万通り発見しただけだ」、、、。

エジソンの名言に、こんなモノがあるという

「失敗ではない。うまくいかない方法を一万通り発見しただけだ」
と、、、。

うちの94歳になる会長さん。

かなりの高齢であるが、今、一緒に実験の仕事をしている。

つい最近、あることにチャレンジして失敗してしまった。

その時の会長の一言
「失敗も非常い大事なんじゃよ。それでやれないということが分かるんだから」
と、同じようなことをいう。

このように実験に携わった人でなくても、けっこう成功者って
同じようなことをいう。

失敗って、ショックだよね〜。

また、みんなの批判を浴び、冷や汗モンだよね。

しかし、もし、それをやらなかった自分と、やった自分では
その後、どうなっていくのだろうか。

成功という果実ばかり味わっている人の将来とは、、、。

恥をかくことを恐れ、教科書通りのことしかできない人というのは、、、。

その時、その時というのは、人生において小さなことなのかもしれない。

しかし、それが10年、20年とたってしまったら、どうなるだろうか。

「やれないということが分かる」ということは、モノの分別がつくということ。

つまり、何かを判断するうえで、貴重な体験になるということ。

人間って、朝起きてから夜寝るまで1億回以上の判断をするという。

また人生において、大事なことを決断しなくてはならない時がある。

そんな時、周りの人は相談には乗ってくれるだろうが、
最終的には自分の決断しなくてはならない。

失敗から学ぶことって、とても多い。

本質を見極める力というのは、失敗から学ぶことの方が多い。

さあ〜、また、目の前の試練から逃げるのか。

決断を他人任せにするのか。

ある人が言っていたが、
「人生とは知恵と忍耐を学ぶためにある」
と、、、。

そのように、学ぶために神様が用意していくれた
プログラムがそれぞれに組んであるとのこと。

深い言葉だね〜。


posted by hide at 07:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする